Parador
このパラドールはサンフランシスコ修道院であった。修道院はアルハンブラ宮殿がムーア人のスルタンからイサベラ女王に移譲された後に建てられた。今はスペイン国立ホテルParadorの一つである。
小さな庭が隣接し、そこにイサベラ女王の墓碑が残る。
LA REINA
ISABELLA CATOLICA
ESTUVO AQUI SEPLTADA
DESDE MDIV’ SU ESPOSO
EL REY FERNANDO DESE
MDX VI
TRANSLADADOS SUS RESTOS A
LA CAPILLA REAL EN MDXXI
カトリック女王
イサベラは
ここに埋葬された
1504年死去以後 彼女の夫
フェルナンド国王は
1516年に死去
その望みにより彼らの遺骸は
1521年王室礼拝堂に移された
イサベラはイスラム国家を倒してキリスト教によるレコンキスタを成立したが、彼女の時代、スペインは統一されておらず、彼女はカスティーラ国の女王であり、夫フェルナンドはアラゴン=カタルーニャ王国の王であった。1492年、グラナダでアルハンブラ宮殿を居城とする最後のスルタンを降伏させるが、アルハンブラ宮殿の美しさから破壊することなく、そこに住み、1504年11月に死去。
遺言により「私の体はグラナダのアルハンブラ宮殿にあるサンフランシスコ修道院に埋葬すること。装飾のない質素な墓とする。しかし、王が他の部分、または別の教会または修道院に埋葬することを望むなら、そこに移されて一緒に埋葬されることを望み、そのようにすることを命ずる」とした。
グラナダの王室礼拝堂は1507年から建設が始まり、1517年に完成する。フェルナンド王は1516年に死去。二人の遺骸は1521年に礼拝堂に移送され現在に至る。
実は、イサベラが亡くなる直前の1504年9月に彼らはグラナダに遺骸を埋葬するように宣言していた。
First we ordain that in the Cathedral of the city of Granada it made an honest chapel in which are, when the will of Our Lord be, our bodies buried. This chapel will be called Of the Kings under the invocation of Saint John the Baptist and Saint John the Evangelist.
今、パラドールに見るイサベラの墓標は彼女が望んだ最初の、つつましやかな墓を想いださせる。
グラナダ市内にあるイサベラ女王とコロンブスの碑。
アジアには当時、東回りでアフリカを経由して到達しようとしていたが、地球が丸いという説を信じたコロンブスは東向きで行けばアジアに到達し、距離も近いと信じた。そして、黄金の国ジパングに到達し、大儲けすることを夢見たが、その航海には莫大な援助が必要だった。スペインだけでなくポルトガルやフランスでも、援助を頼んだがすべて断られた。
イサベラはこの話に興味を覚え、グラナダを攻め落とした1492年、3回目にコロンブスにあったとき、国土回復も終わり、夫フェルナンド王を説得した。が、コロンブスは既に諦めてフランスに向けて出発した後だった。女王の使いが15キロほど先のピノス・プエンテ村の橋の上で追いついて、吉報を伝えた。
そしてついにコロンブスは大西洋を渡って、アメリカに到達する。かれは死ぬまでそこがアジアだと思っていた。スペイン、ポルトガルによる植民地政策がここから始まり、近代史に突入していく。