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最初の神風特攻隊 海軍大尉関行雄
1944年10月28日、
「海軍大尉、関行雄を隊長とする神風特別攻撃隊敷島隊は10月25日に米軍艦に体当たり攻撃し、航空母艦1隻撃沈、同1隻炎上撃破、巡洋艦1隻轟沈した」と当時の海軍省は公表した。
新聞各紙は翌日、一面トップでこれを報じ、
「日本人のみの敢行しうる至誠の華」
「一億必死必中の新たなる決意を以て続かねばならない」
「機上の神々」などと褒めたたえた。
関行雄は最初の神風特攻隊隊長として発表された。
1921年8月29日生まれ、1938年12月海軍兵学校入学17歳(70期)、
1941年20歳卒業、1944年10月25日戦死 23歳。
この写真は兵学校4回生の時と大尉任官時。


兵学校卒業の3年後、1944年10月25日、戦死23歳
同年5月26日に結婚していた。結婚3か月後に台湾に赴任。
横浜航空隊の波止場から飛行艇での赴任で、妻満里子も見送りに来た。ところが、予定の飛行艇の調子が悪く、欠航となり、満里子は手をたたいて喜んだという。
翌日、関は出発、台湾赴任後、ヒィリピンに転属し特攻に出たため、二人はその後会うことはなかった。
父は戦前病死していた。
戦後、特攻隊は軍事国家の片棒を担いだということで、戦中、尊敬の的であったのと全く逆の扱いを受けた。行雄が戦死したとき多くの弔問客の相手で忙しがった母は戦後、生活にも苦労し5年目に学校の用務員室で亡くなった。行男の墓をつくるために大事に預けておいた弔慰金は、敗戦で価値を失い墓地を手に入れることもできなくなった。墓とは別に、りっぱな慰霊碑が建ち、慰霊祭が行わるるようになったが、「神風特別攻撃隊」の名付け親である源田実が来ると聞いてから、母は参列しなくなったという。
「親一人、子一人」「長男」「妻子持ち」を特攻隊員に選ぶことは避けたといわれるが行雄は「母一人」の「長男」で「新婚の若妻」がいた。
その後の特攻隊員の中には幼い子供の父親もいる。

フィリピン配属まもなく突然、出頭命令があり、階下の士官室へ行ってみると、副長の玉井浅一と参謀の猪口力平から250キロ爆弾を装着した零戦の編隊を指揮し、レイテ方面のアメリカ機動部隊めがけて体当たりする攻撃隊の隊長を打診された。
すぐには答が出ない。まだ赴任早々。もともと艦爆乗りであり、零戦そのものに馴れていないし、その編隊を指揮したこともない。その上、数日前から下痢続きで衰弱し、休んでいるところを、深夜起こされ、呼び出されてのいきなりの発令。とっさに「はい」とは答えられない。
この後の答えはいくつか伝わる。
「ぜひやらせてください」と答えた。
「一晩考えさせて下さい」と答え、ひとまず粗末な寝室へと戻った。そして、最も有り得るのは
念押しされて無造作に「承知しました」と答えた。
(「敷島隊の五人」「指揮官たちの特攻」など)
10月20日、同盟通信社の記者で海軍報道班員の小野田に、マバラカット西飛行場の傍を流れるバンバン川の畔で、関は次のように語った。
報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾、関の特攻ゼロ戦が装備したのは250キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。
関は艦爆が専門だった。特攻は空母を撃沈できるとは最初は考えておらず、飛行甲板に命中して一週間ていど使用不能にすることが目標だった。艦爆乗りとしては体当たりなどしなくても目標を遂行できる自信があった。
艦上爆撃機(艦爆):航空母艦から運用でき、急降下爆撃能力を持つ爆撃機。艦船に対して攻撃を行う場合、目標が常に機動することからその精度が重視され、低空から肉迫して行う雷撃と、急降下爆撃とが主な攻撃手段となる。雷撃に求められる機体の性能は重い魚雷を搭載する能力である。急降下爆撃用の機体に求められる性能は急降下時の加速を抑えるエアブレーキの装備と、急激な機体の引き起こしに耐えられる運動性能と機体強度である。両者は要求性能が著しく異なり、第二次世界大戦前までは同一機による両立が難しかった。このためそれぞれ専用の機体とせざるを得ず、魚雷攻撃を行う機種を艦上雷撃機(日本海軍においては攻撃機)とした
神風特別攻撃隊 敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊
隊名は本居宣長の詩から取られた。
敷島の 大和心をひと問はば 朝日に匂(にお)ふ山桜花

