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​米本土を爆撃した男

「アメリカ本土を爆撃した男」

​倉田耕一著 2018/5/25

伊号第二十五潜水艦

日本海軍が20隻建造した巡潜乙型潜水艦(伊十五型潜水艦)の6番艦。

航続距離 水上:16ktで14,000海里(約26,000km) 

                   横浜-サンフランシスコ 往復直線距離 約16,000km

乗員94名

兵装 40口径14cm単装砲1門 25mm機銃連装1基2挺
   53cm魚雷発射管 艦首6門 九五式魚雷17本

航空機 零式小型水上偵察機1機(呉式1号4型射出機1基)

1941/10/15 就役 1943/10/24 亡失認定

1941/11 横須賀出向 真珠湾攻撃に参加

1942/1 まで米国西海岸沿岸にて通商破壊作戦に参加

1942/2/8-4/4 オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、サモアの偵察

1942/5/11-7/17 アラスカ、オレゴン沖で哨戒

6/22フォートスティーブンス陸軍基地を後部主砲で17発砲撃、米英戦争以来130年ぶりのアメリカ合衆国本土の米軍基地艦砲射撃となった。

1942/8/15横須賀出航 

9/9かねての作戦に従いブランコ岬沖から零式水上偵察機を射出、同機は山林地帯に焼夷弾2発を投下し火災の発生を確認したが、前夜大雨が降っていたため大火事にはならなかった。4/15ドーリットルによる東京などへの空襲に対する報復が目的で、広大な森林地帯に大火災を発生させることが目的であった。9/29第二回目の焼夷弾2発投下実施。やはり火災を発生させることはできなかったが、アメリカ合衆国が爆撃された唯一の例となった。    

10/24横須賀に帰還するまで、ソ連潜水艦を撃沈するなどいくつかの戦果を挙げた。

​その後南方にて作戦従事、バヌアツ沖で米潜水艦による爆雷攻撃で沈没したとみられる。

I-26_Japanese_submarine.jpg

​伊25から零式水上偵察機で発進したのは藤田信雄飛行兵曹長である。

オーストラリアシドニーメルボルンホバートの港を、続いてニュージーランドウェリントンオークランドの港を偵察。フィジー、サモアでも飛んだ。それらの任務からその腕を見込まれ米本土爆撃の命令を受けた。過去の経験と米国が襲撃に備えていることを承知しており、日本に帰還できることはないとの覚悟であった。偵察機は二人乗りで相棒の奥田二兵曹とは帰還できなくなった時の暗号破棄、飛行機処分、自決方法を打ち合わせていた。航空母艦に比べて小さい潜水艦を、敵地に侵入攻撃してから落ち合う地点に戻り見つけるということは至難の業であり、潜水艦が米軍の攻撃を避けるため潜航すれば万事休すとなる。

Fujita&Glen.jpg

​1943年9月から藤田は鹿島海軍航空隊に着任、航空隊付教官となった。終戦直前に特別攻撃隊に志願し第二河和海軍航空隊へ異動。しかし出撃直前に終戦となった。

零式水上偵察機(零水偵)による特攻の記録は1943年4月5月に見られる。

4月29日指宿基地出撃2230 琴平水心隊 爆装80㎏ 宅間空 5機

5月4日指宿基地出撃0530 第一魁隊 爆装80㎏ 北浦空 6機  

                  他 94水偵 北浦空12機

         同0600 琴平水心隊 爆装80㎏ 2機 宅間空

                  他 94水偵 宅間空 20機

全員予備学生と予科練出身者​

Kawanishi_E7K_seaplane九四式二号水上偵察機.jpg

94式水上偵察機(94水偵)複葉機の特攻

 

1962年(昭和37年)5月20日、都内の料亭に呼び出され、池田勇人首相と大平正芳内閣官房長官に面会し、その場でアメリカ政府が藤田を探していることを告げられ、アメリカへ行けと命じられ、しかも日本政府は、この渡米を一切関知しないと告げられた。藤田は渡米すれば戦犯扱いされることも覚悟したが、タイムライフの記者が米国はきっと歓迎するとの説得に応じ、爆撃の時にも持参した日本刀を自決のために携帯して渡米した。

思いがけず、アメリカで大歓迎を受けた藤田は、持っていた刀を友情の印として爆撃地点に近いブルッキングズ市に贈った。

藤田は1985年(昭和60年)にブルッキングスの3人の女子学生を日本に招待した。ブルッキングズ・ハーバー高校の生徒が日本に滞在している際、藤田はロナルド・レーガン大統領よりメッセージを受け取った。「藤田信雄元海軍中尉殿、貴殿の行為と惜しみない友情にアメリカ国民を代表して感謝の意をささげます。さらに私は、貴殿の立派で、また勇敢の行為を讃え、ホワイトハウスに掲揚されていた合衆国国旗を送ります。ロナルド・レーガン」藤田は戦後会社経営をしていたが、後継者に任せた後、会社が倒産、やむなく昔の部下が経営する会社に就職し、つつましい生活をおくりながら、アメリカ人学生を招待するための貯金をしていた。

その後藤田はブルッキングス訪問を行い交流を深め、1997年(平成9年)9月30日に85歳で死去した。死去した日に、ブルッキングスから藤田を名誉市民にするため代表が訪れた。

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