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特攻隊 突入まで

​レイテ沖海戦 

米軍は日本本土攻撃前に沖縄、台湾、比島などを経由することを検討していた。

比島奪還は本土攻撃につながる重要な作戦であり、日本の重油供給シーレーンを断ち切ることになり日本にとっても死活を決する戦闘となった。

米軍はレイテ湾から比島攻略を始めた。10月20日米軍は戦艦ミッシシッピー、ウエストヴァージニア(真珠湾攻撃で沈没し、その後大修理改修で戦線復帰)、メリーランド他駆逐艦6隻による艦砲射撃と艦載機による空襲の援護のもと、約300隻の大部隊が上陸を開始した。

日本軍は中国大陸からも陸軍を補強すると共に、4艦隊を派遣してレイテ湾の米軍攻撃を図った。4艦隊には空母4(真珠湾攻撃にも参加した瑞鶴を含む)、戦艦9(含 大和、武蔵)その他を含め艦船の8割を挙げて出撃、これに対し、米軍の戦力は正規空母17、護衛空母18、戦艦12など圧倒的な戦力を出撃。海戦はルソン島北方海上からレイテ島西南のスル海まで400海里四方に及び「史上最大の海戦」とも称される。

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The four main actions in the Battle of Leyte Gulf:

Battle of the Sibuyan Sea    シブヤン海の戦い

Battle of Surigao Strait               スリガオ海峡の戦い

Battle of (or 'off') Cape Engaño  エンガノ岬の戦い

Battle off Samar.       サマール沖の戦い

Leyte Gulf is north of 2 and west of 4. The island of Leyte is west of the gulf.

10月22日栗田艦隊はレイテ湾突入を目指してブルネイを出撃しパラワン島沖バラワン水道を航行していた。比島西南のバラワン水道は米潜水艦のいる公算大であったが、燃料節約上やむを得ず、16ノットで進撃中、案の定、米潜水艦に見つかり、潜水艦は19ノットで先回りし夜明けを待っていた。23日早朝、対潜警戒に入り18ノットに上げて之の字航行を開始したところで潜水艦攻撃を受け 2列縦隊西側戦闘の旗艦重巡愛宕の右舷に魚雷4本命中、20分で沈没。栗田長官は駆逐艦岸波に救助された。東側3番艦の摩耶にも別の潜水艦の魚雷4本を受け4分間で沈没、さらに2本の魚雷が高雄に命中、大破し駆逐艦2隻の護衛を付けてブルネイに退避した。愛宕は旗艦だったので、戦艦大和を旗艦に変更し進撃を続けた。艦隊前方に出す駆逐艦がなかったことが対潜水艦の弱点になったことに加え、さらに2隻の駆逐艦を護衛に出さざるを得なくなった。

​シブヤン海海戦

次の日、10月24日シブヤン海に突入。米軍第3艦隊、第38任務部隊、第2群、第3群延べ264機の攻撃で戦艦武蔵が沈没、重巡妙高脱落、駆逐艦2隻離脱。戦艦大和も命中弾受けるもなお戦闘継続、レイテ湾へ向かった。

第一部隊(赤字は沈没)

第二部隊(第三戦隊司令部直率)

  • ​指揮官:鈴木義尾中将

  • 第三戦隊 戦艦(金剛・榛名)

  • 第七戦隊 重巡洋艦(熊野・鈴谷・利根・筑摩

  • 第十戦隊 軽巡洋艦(矢矧)

  • 第4駆逐隊 駆逐艦(満潮・朝雲・山雲野分

  • 第17駆逐隊 駆逐艦(浦風・磯風・浜風・雪風)

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1024px-IJN_ships_leave_Brunei_Bay第一遊撃部隊主

昭和19(1944)年10月22日、ブルネイからレイテ湾へ出撃する栗田艦隊。 (右から長門・武蔵・大和、高雄型重巡洋艦4隻(摩耶・鳥海・高雄・愛宕)・羽黒・妙高。

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左上:10月24日空襲を受ける第一部隊(奥に第二部隊)中央右より黒煙を上げる武蔵。その左急旋回中の大和と羽黒、右側上鳥海、下能代。後方2隻は駆逐艦浜波、藤波、沖波のいずれか

シブヤン海に入った栗田艦隊を攻撃したのは第3艦隊(司令官:ウイリアム・ハルゼー大将)第38任務部隊Task Force 38(司令官:マーク・A・ミッチャー中将)の第2,3,4群

​​

第2群(TASK GROUP 38.2)

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1026第一次攻撃 38.2イントレピッド、カボットから45機

1029武蔵に爆弾命中

        妙高に魚雷命中、単独後退、駆逐艦長波護衛

1156第二次攻撃38.2イントレピッドから33機

  武蔵爆弾2発、5発至近弾、魚雷3本命中、速力低下​

1319第三次攻撃38.3レキシントン、エセックスから83機

  第二部隊矢矧、第一部隊大和、武蔵を標的。武蔵被弾多数

第3群(TASK GROUP 38.3)

 

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第4群(TASK GROUP 38.4)

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1415第四次攻撃38.4空母フランクリン、エンタープライズから65機

  大和、長門を標的

1459第五次攻撃38.2から30機 武蔵左に傾斜し停止

1530栗田艦隊は一次反転するが、米軍攻撃が止み、再度、レイテ湾に向かって進撃、

ハルゼーは北方に小澤艦隊の前衛を発見し、栗田艦隊への攻撃を止め、北方に進撃を開始したのだ。

1935武蔵沈没、乗員2,400名、戦死、艦長猪口大佐を含む1039名。清霜約500名、浜風約830名を救助しコロンへ。排水量72000トン、舷側装甲41㎝、46センチ主砲9門。迎角45度で発砲すれば富士山の2倍の高さを飛んで41㎞に達した世界一の戦艦であったが、すでに空母による航空戦には時代遅れであった。しかし、もしレイテ湾に突入していたら艦砲射撃により米上陸軍に大きな損害を与えたはずである。

対空戦闘のために主砲からは三式弾という対空焼夷弾を発射した。合図のブザーが鳴ると高角機関銃の射手たちは適当な遮蔽物に避難しなければならないが、戦闘でブザーが聞こえなかったり、鳴らなかったりで、多くの者が海上に吹き飛ばされ、壁にたたきつけられ、四肢はもげ、内臓は飛び出し、階段からは滝のような血が流れた。

米空母プリンストン 彗星の攻撃で沈没

栗田艦隊を攻撃した38.3に対し、ルソン島の日本軍航空基地から50から60機が攻撃。

0938空母プリンストンが彗星の250㎏徹甲爆弾により、爆発(士官10名と兵員98名が戦死)。その爆発で救援に横付けした軽巡バーミンガムも損傷し、死者233名、負傷者426名。

​1750プリンストンは味方の魚雷で処分された。1361名が救出されたが、108名戦死。

これがレイテ沖海戦で特攻機以外の航空機による唯一の米艦艇損失。この後、敷島隊の初の特攻が開始される。特攻ではない彗星ただ一機の通常攻撃で空母を沈めたことを特攻隊は、どう受け止めただろうか?

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栗田艦隊がブルネイを出撃した7時間半後、西村艦隊も栗田艦隊とともにレイテ湾突入を計画し22日1530ブルネイを出撃していた。栗田艦隊はサマール沖から、西村艦隊はスリガオ海峡からレイテ湾に突入する予定であった。さらに台湾から出撃した志摩艦隊が西村艦隊とともに、スリガオ海峡から突入すべく進軍した。

西村艦隊は栗田艦隊の到着遅延により、スリガオ海峡を通過し、レイテ湾への単独突入を決める。命令は「25日黎明を期して突入」であった。

0130西村艦隊スリガオ海峡南口通過

2020「本隊は25日0400を期してドラグに突入する予定なり」と打電。

スリガオ海峡海戦

これを察知したオルデンドルフ少将第七艦隊第2群(戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻)は夜戦準備をし、比較にならない程の強力な戦力で西村艦隊をほぼ全滅させた(戦艦山城、扶桑、重巡最上、駆逐艦3隻)。旗艦山城は練習艦に使われており、扶桑とともに老朽艦であった。最上と駆逐艦は第一線級であったが、弱小艦隊であり、おとり艦隊といってもよかった。命令を受けた時から生還は期していなかったと言われる。

 

西村艦隊

第三部隊(第二戦隊司令部直率)

  • ​司令官:西村祥治中将

  • 第二戦隊(山城・扶桑

  • 重巡 最上・駆逐艦 時雨   

  • 第4駆逐隊(満潮朝雲山雲

​​

 

 

 

 

 

 

 

西村中将は弱小艦隊を率いて夜戦に出た。一方オルデンドルフ中将は大艦隊をもって完全試合に出た。海峡入口に魚雷艇39、駆逐艦28を配して魚雷攻撃をかけ、その後、西村艦隊の前方にT字にさえぎる形で戦艦6、重巡4,軽巡2がならび、煙幕の後ろから大口径段300発、小口径弾4000発を浴びせた。

0340 「われ魚雷攻撃を受く。各艦はわれを顧みず前進し、敵を攻撃すべし」山城が発した最後の命令である。

志摩艦隊

西村艦隊に続いて海峡に突入するよていであった志摩艦隊は2時間遅れの3時に海峡に到達。

0320海峡入口で阿武隈が魚雷を受け落伍。那智を先頭に一列縦隊で進軍。那智は魚雷を発射し回頭したが、炎上している最上に衝突、艦首を折る。志摩艦隊はレイテ湾突入は必須でなかったため、煙幕を張って退却。一方オルデンドルフは再び志摩艦隊が攻撃してくることを恐れ、海峡出口を離れることができず、その後の栗田艦隊に幾分の貢献となった。

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第7艦隊第2群 Task Group 77.2

司令官:ジェシー・B・オルデンドルフ少将、旗艦:重巡洋艦ルイビル

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上 左から右

​戦艦ミシシッピBB41、  メリーランドBB46、  ウエストヴァージニアBB48、

​下 左から右

​戦艦ペンシルバニアBB38,    テネシーBB43    カリフォルニアBB44

1280px-Fuso_Surigao_Strait空襲を受ける扶桑、後方には重
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空襲を受ける扶桑、

後方は重巡最上

​西村艦隊に砲撃を加える米巡洋艦部隊(戦艦ペンシルバニから)

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エンガノ岬沖海戦

唯一空母を有し比島北東で囮として展開した小沢艦隊(空母瑞鶴、千代田、千歳、瑞鳳、戦艦伊勢、日向、軽巡6、駆逐艦5)もハルゼー将軍率いる米軍機、米水上部隊、潜水艦の攻撃で空母のすべてを失うなど大打撃を受けた

機動部隊本隊  (赤字は沈没)

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空母瑞鶴

真珠湾攻撃の最後の生き残り空母

 

 

 

 

 

 

千代田

千歳

​瑞鳳

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軍艦旗を降ろす瑞鶴

​退避行動中の千歳

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Leyte-chitose_class_under_attack (1)空襲を受

​退避行動中の瑞鳳

後方 空母瑞鳳

​手前 大淀

​黒煙を上げる瑞鳳

 

 

 

 

 

 

 

​三式弾を放つ戦艦伊勢

10月24日シブヤン海を進軍する栗田艦隊を、艦載機で攻撃した第38任務部隊の第2,3,4群は空母を有する小澤部隊発見の報を受け、栗田艦隊の攻撃を止め、小澤艦隊に向かって北上を開始した。ハルゼーは栗田艦隊には壊滅的打撃を与え、すでに敵ではないと誤った。しかし栗田艦隊はまだ戦艦4,重巡6,軽巡2,駆逐艦11からなく強力な艦隊であった。

Ozawa's force was not located until 16:40 on 24 October. Three groups of Mitscher's TF 38—was overwhelmingly stronger than the Japanese Northern Force. Between them, these groups had

five large fleet carriers (IntrepidFranklinLexingtonEnterprise, and Essex),

five light carriers (IndependenceBelleau WoodLangleyCabot, and San Jacinto),

six modern battleships (AlabamaIowaMassachusettsNew JerseySouth Dakota, and Washington),

eight cruisers (two heavy and six light),

and more than 40 destroyers.

The air groups of the ten U.S. carriers present contained 600–1,000 aircraft.

10月25日 直掩用戦闘機(瑞鶴13機、千歳2機、千代田3機)を除き、練度不十分なため戦力にならない艦載機を陸上に退避させた。直掩機は17機を撃墜と報告した。

 

0815第一次攻撃隊180機

小沢艦隊は当初の目論見よりさらに北で米偵察機に見つかり米機動部隊をレイテ湾から遠ざけることができ、ハルゼーは栗田艦隊攻撃に参加できなくなった。

この時「艦隊は北方に誘致され、敵艦上機来襲、われと交戦中なり」と打電するが、サマール島沖で米護送空母群と戦闘中の栗田艦隊には届かなかった。もしこれが届いていたなら、その後の栗田中将の重大な決意を左右したかもしれない。​

0958第二次攻撃 10時過ぎ、小澤艦隊を攻撃するハルゼー大将に太平洋艦隊長官のニミッツ大将から「第38任務部隊はどこか」と電報。本来ハルゼーはレイテ湾近くで日本艦隊を待ち受ける任務だったのに、小澤の囮艦隊につられて北上していた。

ハルゼーは第34任務部隊と第38任務部隊第2群を率いてレイテ島沖に引き返した。

上空を守る直掩機はこの時点で9機。空母には着艦できず、燃料を使い果たし11時過ぎに海上に着水。

1258第三次攻撃 瑞鶴沈没(戦死843名救助された866名も救助した駆逐艦初月が沈没し全員戦死)瑞鳳沈没(945名救助)1647千代田沈没

1726第四次攻撃 多摩、潜水艦攻撃で沈没

1907駆逐艦初月、米重巡2、米軽巡2、米駆逐艦9、合計13隻と単独交戦、魚雷発射体制をとり、米軍に回避行動をとらせる。さらに単独交戦継続するが2059ついに沈

​サマール沖海戦

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レイテ湾への進撃を継続していた栗田艦隊はシブヤン海で米軍第38任務部隊の空襲で多数の損傷を負いながらも、38任務部隊が小澤艦隊囮に向かって北上、栗田艦隊への攻撃を中止したため、その妨害を受けずに、レイテ湾手前のサマール島沖まで到達。米軍が上陸した攻撃目標のレイテ湾は目と鼻の先となった。

24日1400 スリガオ海峡に向かった西村艦隊の重巡最上から飛び立った偵察機は、この日栗田艦隊が受けた唯一の敵情報告をもたらしていた。「レイテ湾の南部海面に戦艦4隻、巡洋艦2隻あり。ドラグ上陸点沖に輸送船約80隻。スリガオ海峡に駆逐艦4隻、小艇十数隻。レイテ湾東南部沿岸に駆逐艦12隻および航空母艦12隻あり」これはキンケードの第七艦隊で実際は戦艦6,重巡6,駆逐艦など合わせて32,魚雷艇39であったが、高高度の偵察機としては、優れた報告であった。

 予定より6時間も遅れたため、25日0220西村艦隊はレイテ突入、敵艦発見の無電を受ける。0520には志摩艦隊が戦場に到達したが、圧倒的な米軍の反撃に会い第二戦隊全滅、志摩艦隊離脱が報告され、その後連絡は途絶えた。

サマール島沖に到達した栗田艦隊は0630軽巡矢矧が水平線上のマストを発見、

クリフトン・スプレイグ少将の第7任務部隊第4群第3集団(コードネーム”タッフィー3”)であった。これは開戦史上、水上部隊が空母群と視認距離で接触した唯一のケースとなった。

​栗田艦隊将兵はこの空母群が昨日さんざんにたたかれた機動部隊と思い、反撃戦の好機と喜んだ。

第7艦隊第77任務部隊(Task Force 77)
第4群(Task Group 77.4)​ 護衛空母部隊

                             

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第四群の任務はレイテ島に上陸した米陸軍地上部隊を航空支援することであった。

​第一、第二集団がさらに南方に位置していた。(後述)

日の出30分後、スプラーグ少将は哨戒機から日本軍艦隊が30ノットで接近中と報告を受け、3分後には日本戦艦の特徴であるパゴダマストを見張り員が確認した。

戦艦4隻、巡洋艦7隻、駆逐艦11隻の栗田艦隊接近はスプラーグにとって信じられなかった。ハルゼーの第38任務部隊がサンベルナルジノ海峡を守って、栗田艦隊はサマール沖まで来るはずがなかったのだ。しかしハルゼーは小澤艦隊囮に向かって北上したため、その妨害を受けずに、栗田艦隊はレイテ湾に接近した。

0658第一戦隊(戦艦 大和、長門)米護衛空母群にたいして砲撃開始、

0701第三戦隊(戦艦 榛名、金剛)が砲撃開始、

0703第五戦隊(重巡洋艦 鳥海、羽黒)第七戦隊(重巡洋艦 熊野、鈴谷、筑摩、利根)敵艦隊に突入開始 第二水雷戦隊(軽巡洋艦 能代、他7隻)第十戦隊(軽巡洋艦 矢矧、他4隻)進撃

米護衛空母の艦種コードはCVEであるが Combustible燃えやすい, Vulnerable壊れやすい, Expendable消耗品と自嘲的に揶揄され、通称「ジープ空母」とも言われた。正規空母の270m 30,000tonに比べ 150m, 8,000ton程度であった。旗艦ファンショーベイの兵装は5インチ砲一基、あとは40mm機関砲16基のみ、搭載機28機。

護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツの兵装は5インチ砲2基、機銃の他3連装魚雷発射管のみ。栗田艦隊を前にして、煙幕を張り、他の空母部隊や第7艦隊に救援を要請しながらスコールの中に逃げるしかなかった。

米軍は日本軍の砲撃を回避しつつ30分余りで艦載機約100機を発艦、これらは栗田艦隊を攻撃後米軍が占領したレイテ島の飛行場に着陸、燃料弾薬を補給して引き返し栗田艦隊を攻撃した。

タッフィー3は東に煙幕を張りながら逃走、スコールに逃げ込む。

最先頭を進む第七戦隊旗艦熊野は同時刻に煙幕から飛び出した敵艦艇を発見し砲撃、これは駆逐艦ジョンストンで、同艦は砲撃を受けると反撃をしながら接近し魚雷10本を発射する、このうちの1本が熊野に命中、同艦は艦首を切断し速力が14ノットに低下、隊列から落伍した。一方のジョンストンも直後に戦艦部隊から複数発の砲弾を浴び後部罐室及び機械室が破壊されるが運よくスコールが来て難を逃れた。

0740ミンダナオ島のダバオから出撃した朝日隊の上野敬一一飛曹と菊水隊の加藤豊文一飛曹の内のいずれか一機がサンティーめざして急降下してきた。こうして特攻隊の攻撃が始まった。

一方、弱小なる米護衛空母群も勇敢に戦った。​

駆逐艦ホーエルは戦艦金剛に向かって突進、金剛も応戦し7時25分に艦橋に命中弾を受ける。ホエールはそれでもひるまず7時27分に4本の魚雷を発射、金剛は7時33分にその魚雷を発見し回避している。ホエールはその後も被弾し続け罐室や砲が破壊されたが、それでもひるまず突進し7時55分に残りの魚雷を重巡羽黒に向けて発射、羽黒は7時57分にこれを回避している。駆逐艦ヒーアマンはホエールに後続して接近、7時54分に羽黒に対して魚雷攻撃をかけるが回避され、逆に羽黒から集中砲撃を浴びる、更に遠方より金剛、榛名、大和、長門が接近してくるのが望見され、ヒーアマンは8時に残りの魚雷を榛名に放ってのち退避した。

被雷落伍した熊野に替わり鈴谷が先頭に立った。しかし同艦もまもなく敵機の襲撃に遭い左舷後部に至近弾を受ける。これにより左舷の推進軸の1つが使用不能となり速力が23ノットに低下、鈴谷も隊列から落伍した。

7時50分、護衛空母カリニン・ベイが立て続けに被弾する(恐らく榛名の砲撃によるもの)。7時54分、東方に進む戦艦大和は接近する6本の魚雷を発見し左に転舵して回避する。ところが6本の魚雷は低速で大和は右舷に4本、左舷に2本の魚雷にはさまれた状態となり主戦場から離れていってしまう。0804進撃再開。

7時59分、スコールから脱した金剛は右12度に敵空母を発見、8時2分に砲撃を開始する。同じくその前方をいく第七戦隊の筑摩と利根も同じ敵空母に対して8時5分より砲撃を開始した。この空母は護衛空母ガンビア・ベイであった。

 

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煙幕を張って、日本軍から逃走する米駆逐艦群






煙幕を張る空母ガンビアベイと護衛艦










左 ガンビアベイ

​右 利根




ガンビアベイと筑摩(右後方)









迎撃機の発艦キトカンベイ

後方
​日本軍の砲撃にさらされるホワイトプレインズ







 

8時30分頃榛名は再び第3集団の追撃を開始した。金剛はガンビア・ベイへの砲撃中の8時40分、榛名が見つけた第2集団を発見、艦載機を発艦させている状況を視認する。
8時30分、羽黒を雷撃して退避する駆逐艦ホエールDD533は大和・矢矧・能代から集中砲撃を受け8時55分に沈没した。戦死253名、生存者89名。8時40分、ガンビア・ベイの艦橋と機関部に命中弾があり、同艦は遂に停止した。
8時50分、ヒューグ艦長は総員退艦を下令、ガンビア・ベイは9時10分に沈没した。戦死者133名
同じ頃護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツDE413も命中弾を受けその後も連続して命中弾を受ける。9時10分に総員退艦が下令され10時5分に沈没した。89名戦死生存者120名
1010駆逐艦ジョンストンDD557、矢矧ほかによって撃沈。
この間にも米軍の空襲継続。
1230鈴谷沈没。生存者415名
 
鳥海 落伍、駆逐艦藤波救援。  熊野 退却
2140藤波によって鳥海雷撃処分。藤波は座礁した早霜の救援に向かうも米軍空襲で轟沈。
鳥海、藤波とも全員戦死
筑摩 落伍、駆逐艦野分救援。筑摩沈没、野分雷撃で沈没、戦死272名
1056栗田艦隊は戦闘で分散した艦船を集結させ、レイテ湾への進撃再開。

護衛空母はファンショウ・ベイが20cm砲弾4発被弾、カリニン・ベイが20cm砲弾13発、キトカン・ベイホワイト・プレインズが至近弾を受けて損傷. 第3集団の戦死者は約1200人、負傷者は800人、飛行機の損失は100機であった。

栗田艦隊は米軍が上陸し多数の米艦艇や補給艦などが停泊するレイテ湾目前で米護衛空母群に打撃を与え続けたが、0910突如戦闘で混乱していた艦隊に集合命令、1226「敵機動部隊が北東にあるとの情報に基づき、これを求め決戦」すべくレイテ突入を止め、反転した。

​米軍の空襲が続き損傷も増えるが、栗田艦隊は敵機動部隊を見つけられず28日ブルネイに入港。

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第7艦隊第77任務部隊(Task Force 77)
第4群(Task Group 77.4)

第三集団は栗田艦隊と交戦したが、第二集団は約30海里南西に当たるレイテ湾入口沖にいた。

 

​第一集団は南方約70海里にいた。

護衛空母部隊

司令官:トーマス・L・スプレイグ少将 (Thomas L. Sprague) 旗艦:護衛空母サンガモン

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石油事情

・1939年12月、米国航空用ガソリン製造設備、 製造権の対日輸出禁止。

・1940年8月、航空機用燃料の西半球以外への 全面禁輸。

・1941年7月、日本の対米資産を凍結。8月 「石油禁輸」

当時の日本の石油輸入依存度は92%、81%が米国からの輸入。

この事態で、1941年6月海軍が作成した石油に関する研究では

需戦争3年目で 海軍、陸軍、民間あわせて600万キロリットルが必要。

一方、石油輸入はゼロとして、国内生産は45万キロリッ トル。

これを補う対策として、人造 石油70万、ソ連などからの輸入10万、備蓄取り崩し105 万を加えても合計230万キロリットル。370万キロリットル不足。

 

そこで連合国に宣戦布告し、オランダ領や英領の南方植民地 を占領して石油を得る手段が考えられた。これで250万キロ リットルを補って、不足量は120万キロリットル。これなら、 さらなる備蓄取り崩しを加えて、何とかなると考えられた。  

 

しかし、今度は南方からの石油輸送に使う船舶の問題が起こ る。

当時の保有船舶は610万トン。民需用・陸海軍用に必要 な船舶量は合計620万トン。第一次大戦のデータから、戦時 喪失率を約10%の60万トン/年とすると、これは毎年の造 船能力で埋め合わせできる範囲である。

 開戦1週間後の1941年12月16日、第18師団 川口支隊は、ボルネオ島北西部のミリ油田、セリア油田、ルト ン製油所を制圧した。英守備隊は油田・製油所を破壊・炎上さ せたが、上陸部隊は直ちに鎮火作業を行い、設備の修復に取り かかった。復興されたルトン港からタンカー橘丸が、原油6千 キロリットルを積み込み、内地に到着したのは、翌年3月22 日であった。

 

1942年1月11日、海軍の落下傘部隊がセレベス 島メナドに、2月14日には陸軍の落下傘部隊がスマトラ島パ レンバンに降下して、それぞれの油田地帯を制圧した。

  油田地帯占領とともに、日本から7千人にのぼる石油技術者 が施設の復旧と操業のための要員として送られた。また占領後 のインドネシアの軍政を担当した今村均中将は、現地人を愛護 する方針を徹底したため、民衆も日本軍の製油施設の復旧に全 面的に協力した。

 

こうして南方石油の生産は順調に回復した。開戦前の1940年の原油生産高は年産1033万キロリットルであっ たが、占領1年目の1942年こそ年産412万キロリッ トルと落ち込んだものの、2年目には788万キロリットルと 回復した。  開戦時の見込みでは、南方石油は3年目でようやく250万 キロリットルだったので、それを大幅に超えるどころか、日本 全体の需要量600万キロリットルを十二分にまかなえる量が 生産された。

しかし、ここで米軍は「日本の通商路を抑え息の根をとめる」 戦略を展開する。それは潜水艦によって、日本のタンカー、お よびその他の輸送船を攻撃する事であった。  開戦時に米軍が太平洋に投入していた潜水艦は51隻であっ たが、1942年9月には118隻、1943年88月には140隻と増強。この時点で、米海軍作戦 部長E・J・キング大将は「潜水艦の最優先攻撃目標は日本の タンカー」と命令している。  同時に、電池魚雷、潜水艦・機雷探知用FMソナー、対艦船 ・航空機用マイクロ波SJレーダーなどの新兵器が開発・搭載 され、また大西洋でのドイツのUボートとの戦いに教訓を得た 集団包囲攻撃(狼群戦法)の導入によって、米潜水艦の攻撃能 力は飛躍的に強化された。

 さらに決定的だったのは、日本海軍の暗号が米海軍に解読さ れており、輸送船団の出発時刻、港湾名、会合地点、船団編成 などが筒抜けになっていたことである。そのため、米海軍の潜 水艦隊は会合地点に先回りして輸送船団を待ち受け、集団で包 囲して「狼群戦法」による殲滅攻撃を行った。制海権と制空権 が米国に奪われると、航空機による輸送船団攻撃も始められた。

 海上輸送に対する米軍の集中攻撃により、日本が戦争中に失っ た500トン以上の商船は約2300隻、840万トンに上っ た。開戦時の船舶は610万トンと戦争中の建造344万トン の大半が海の藻屑となった。喪失商船の60%が潜水艦、30 %が航空機、5%が機雷によって沈められている。  海上輸送に従事した商船の乗組員約7万1千人のうち、3万 5千人が死亡している。商船乗組員の死亡率は49%と、軍人 死亡率19%の2.6倍に達した。

 

 1943年の南方石油生産788万キロリットルのう ち、日本に輸送されたのは230万キロリットルだったが、翌 1944年には79万キロリットルに落ち込み、1945年にはほ ぼゼロとなった。

http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog513.html

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