日米の航空母艦
真珠湾攻撃時の日米保有艦艇数
日本 米国
空母 10 8
戦艦 10(大和、武蔵建造中) 17
巡洋艦 41 37
駆逐艦 111 171
潜水艦 64 112
戦争中に就役した米軍空母
正式空母 23隻
1942年12月31日就役 空母エセックス(Essex CV-9)から
1944年11月26日就役 空母Bon Homme(CV-31)まで
レキシントン級2隻 ヨークタウン級3隻 エセックス級18隻
全長(m) 270 230-251 250-271
速力(ノット/km) 33(61) 32.5(60.2) 32.7(60.6)
搭載機数 78 90 90-100
乗組員 2791 2217 2631
8in 連装砲 4
5in 単装砲 12 8 8
5in 連装砲 4
1.1in 4連装機関砲 4
12.7mm重機関銃 24
40mm機関砲 68
20mm機関砲 65
40mm機関砲、20mm機関砲はいずれも近接してきた航空機に相応の威力を発揮したが、特攻機に対してはしばしば接近を許して痛撃を浴びた。そのため威力不足と判定され、大戦後にほとんど取り外され、特攻機対策として新規開発されたMk 33 3インチ連装速射砲に換装されていった
当初、エセックス級は飛行甲板に装甲板を施す計画であったが、検討を重ねた結果、装甲板による重量増のデメリットが大きいという結論に至り、飛行甲板の装甲板化は見送られた。最も大きいデメリットは、艦載機の搭載機数が2/3以下程度に減ってしまうということであった。エセックス級の飛行甲板はわずか5mmの特殊処理鋼 (Special Treatment Steel)の鋼板に10cmのチーク材を張っただけのものであった
飛行甲板は脆弱であったが、第1甲板下の乗組員居住区や機関室などのバイタルパートの防御力は強化された。特に機関室についてはその上に当たる部分 (全長にして5分の3程度) に、第1甲板には64mm、機関室直上の第4甲板には38mmの特殊処理鋼装甲板が張られた。(第2甲板は13mm、第3甲板は6mmと比較的薄かった)また、舷側装甲には64 - 102mmの特殊処理鋼装甲板が張られ、バイタルパートのの対弾防御は高度1万フィート (3,048m) から投下された1,000ポンド (454kg) 爆弾を防ぎ、最上型の15.5cm砲を耐えることを目標とされた。これは、当時の空母が、航空機からの攻撃だけでなく、巡洋艦を主力とする偵察艦隊と共に行動し、日本の偵察艦隊である第二艦隊と交戦した際に、戦闘に巻き込まれる可能性があると考えられたためだった。これにより15.5cm砲弾に対しては10,300m以遠を安全圏とし、高度10,000フィートから投下された1,000ポンド爆弾を第1甲板装甲で防ぐことができるとされた。実戦においても、日本軍機の250kgや500kg爆弾によって装甲甲板下部のバイタルパートへの損害を受けたことは少なかった。
バイタルパートに損害を受けた例としては、以下の三例が挙げられる。「フランクリン」は1945年3月19日に日本機の爆撃で2発の爆弾が命中、格納庫内で爆発した爆弾が搭載中の艦載機、爆弾やティニー・ティムロケットを誘爆させた。誘爆による破片が第2・第3甲板をも貫通し居住区を損傷し、最深部の第4甲板に破孔を生じさせている。誘爆により第1甲板の装甲は広範囲で歪みを生じたものの、その下の重要区画の損害は大きくはなく、装甲板は十分な強度を示した。
同じ日に「ワスプ」も日本機の爆撃を受け、一発の爆弾が第3甲板にまで達して居住区で爆発した。
「バンカー・ヒル」も、間接的な原因で機関室にまで及ぶ被害を被っている。1945年5月11日に神風特別攻撃隊の突入を受けた際、破壊された艦載機から流れ出した航空燃料が炎と煙を伴いつつ、消火のため注入された海水の表層を伝って第4甲板下まで流れ込み、機関室の装甲ハッチの上に滞留した。その結果、黒煙が機関室に充満して機関員多数が一酸化炭素中毒で死亡した。この攻撃で「バンカー・ヒル」全体での死者は約400名にのぼったが、機関科の犠牲者が最も多かった
wikipedia
インディペンデンス級空母(軽空母)9隻
Independence CVL-22 1943/1/14
San Jacinto CVL30 1943/11/15
ボーグ級 45隻 34隻英国海軍へ
Altamaha (CVE-6) 1942/10/31 HMS Battler(D-18)
CVE-27から30なし
Winja (CVE-54) 1944/2/18Became HMS Reaper (D82)
サンガモン級 4隻
Sangamon (CVE-26) 39/11/4
Santee (CVE-29) 39/3/4
カサブランカ級 50隻
Casablance (CVE-55) 43/7/4 就役
Munda (CVE-104) 44/7/8
Commencement-Bay 級 16隻
Commencement-Bay(CVE-105) 44/11/27 就役
Mindoro (CVE-120) 1945/12/4 就役
合計146隻 内 特攻で沈没したのは2隻 (特攻以外で沈没したものあり)
ボーグ級 サンガモン級 カサブランカ級 C.Bay級
全長(m) 151 168.6 150-156 170
速力(ノット/km) 18(33) 19(35) 19(35) 19(35)
搭載機数 19-24 30 27 34
乗組員 646 680-1080 858 1066
設計母体 C3型貨物船 T2型油槽船 新設計 (T2型油槽船)
5in単装砲 2 2 1 2
40mm機関砲 8 14 16 36
20mm機銃 14 21 20 20
カサブランカ級
1942年にカイザー造船所社長ヘンリー・J・カイザーが提案した30隻建造のプランによる。当初、アメリカ海軍はさほど相手にはしていなかったが、フランクリン・ルーズベルト大統領の肝いりもあって、6月に入ってカイザー造船所に50隻の建造が発注された。カイザー造船所のドックおよび船台はもともとリバティ船建造用に建設されたものだったが、やがて戦車揚陸艦の建造も手がけ、最後にカサブランカ級の一括建造に取り掛かった。1943年7月8日に一番艦の「カサブランカ」が竣工してから、最終艦の「ムンダ」がちょうど一年後の1944年7月8日に竣工するまでの間、ほぼ一週間に1隻のペースで新造航空母艦が送り出された
日本の航空母艦
真珠湾攻撃 7隻
竣工 全長m 乗員 速力ノット 搭載機
赤城 1927/3/25 260 1630 31.2 91 1942/6/6沈没ミッドウエイ海戦221名戦死
加賀 1928/3/31 239 1270 27.5 60 1942/6/5沈没ミッドウイ海戦811名戦死
蒼龍 1937/12/29 227 1100 34.9 72 1942/6/5沈没ミッドウエイ海戦718名戦死
飛竜 1939/7/5 227 1103 34.3 73 1942/6/6沈没ミッドウエイ海戦417名戦死
瑞鳳 1940/12/27 205.5 977 28.3 30 1944/10/25沈没レイテ沖海戦216名戦死
翔鶴 1941/8/8 257.5 1660 34 77 1944/6/19沈没マリアナ沖海戦1227名戦死
瑞鶴 1941/9/25 257.5 1660 34 69 1944/10/25沈没レイテ沖海戦843名戦死
他に開戦時保有 1隻
龍驤 1933/5/9 180 916 29 48 1942/8/24沈没第二次ソロモン海戦121戦死
真珠湾攻撃以後竣工 5隻
雲龍 1944/8/6 227.3 1561 34.3 60 1944/12/19沈没済州島沖1241名戦死
大鳳 1944/3/7 260.6 2038 33.3 53 1944/6/19沈没マリアナ沖海戦潜水艦攻撃
信濃 1944/11/19 2400 27 1944/11/29沈没潮岬沖791名戦死
葛城 1944/10/15 227.4 1500 32 53 1946/1947解体
天城 1944/8/10 227.4 1571 34 47 1945/7/28被弾転覆
水上機母艦、潜水母艦、客船から改装 11隻
龍鳳 1942/11/30潜水母艦改装 215.7 989 26.2 31 1946/9/2呉にて解体
千歳 1943/12/15水上機母艦改装 192.5 965 29.4 計画30 1944/10/25沈没
レイテ沖海戦903名戦死
千代田 1943/12/15水上機母艦改装 192.5 1084 29.5 計画28 1944/10/25沈没
レイテ沖海戦総員戦死
祥鳳 1942/1/26潜水母艦改装 205.5 836 28.2 28 1942/5/7沈没
珊瑚海海戦631名戦死
隼鷹 1942/5/3 219.3 1187 25.5 53 1946解体
飛鷹 1942/7/31 219.3 1187 25.5 53 1944/6/20沈没マリアナ沖海戦
神鷹1943/12/15客船改装 198.3 834 21 33 1944/11/17沈没
済州島沖1165名戦死
海鷹 1943/11/23アルゼンチナ丸改装 166.5 587 23 24 1945/7/24触雷擱座
大鷹 1942/8/31春日丸改装 180.2 747 21 27 1944/10/10沈没ルソン島沖
雲鷹 1942/5/31八幡丸改装 180.2 747 21 27 1944/9/17沈没台湾沖1650戦死
沖鷹 1942/11/25新田丸改装 180.2 850 21 27 1943/12/4沈没八丈島沖
龍鳳 1942/11/30潜水母艦改装 215.7 785 26.2 31 1946解体
合計24隻 内20隻沈没
「空母バンカーヒルと二人のカミカゼ」 p73
戦争が始まった時、太平洋上の米空母はレキシントン、サラトガ、エンタープライズの三隻だけ、1921年巡洋戦艦として起工されたレキシントンはあとで飛行甲板を取り付け空母に改造された。サラトガも同様。
エセックス級空母は、太平洋の至るところで、アメリカ軍の支援や、補給活動を行った。
空母は、建造するのも困難だが、維持するのも極めて難しい。真珠湾攻撃時、日本の海軍は10隻の空母を保有していた。一方アメリカ軍が保有していたのは8隻。しかしその後、日本軍が15隻を建造する間に、アメリカ軍は100隻以上の空母の建造に成功する。そのうち17隻がエセックス級であった。新たに建造されたアメリカ軍の空母は、日本海軍の空母のほとんどを沈めた。エセックス級空母は、アメリカ軍の一方的な勝利の立役者となったのだ。太平洋戦争序盤、アメリカ海軍は、空母部隊を三つ編成するのも難しいという程度しか空母を所有していなかった。しかし沖縄戦に突入する頃になると、アメリカ軍は、多数の艦船から成る任務群をいくつも出動させていた。
IMG28 P138
水上艦の砲撃で大きな戦艦を沈めるのは困難だということも認識していた。戦艦は、水面より下の部分に穴が開かない限り、沈没することはないと考えられていたからだ。やがて立案者たちは、敵戦艦を沈める一番の方法は、空母から発艦した雷撃機の魚雷で攻撃することだという結論を出す。そして、アメリカ、日本双方で、空母から発艦が可能な雷撃機の開発が始まった。
だが、こうして製作されたアメリカの雷撃機の第一世代であるデバステーターは、信頼性、安全性に欠ける、欠陥兵器だった。その後グラマンが生み出した第二世代の雷撃機であるアベンジャーは、あらゆる面でデバステーターを上回り、艦載機の中では最も頑丈で生存性の高い航空機だと称賛されたが、それでも魚雷投下は、空母から行う戦闘任務の中で最も危険なもののままだった。
ミッドウェー海戦の反省 魚雷攻撃の困難さ
p138
ミッドウェ海戦には、六機のアベンジャーが投入された。新人パイロット(この任務の前日まで、陸地の見えない場所を飛んだ経験がなかった)が操縦するアベンジャーは、ミッドウェー島を飛び立つと、日本軍空母に対する攻撃の口火を切った。しかし、日本軍の直衛機がアベンジャーを圧倒し、六機のアベンジャーのうち五機が撃墜された。この結果を受けて、雷撃機の任務は、命がけの任務として認識されるようになる。
魚雷を投下して目標に命中させるには、様々な制約があった。魚雷投下の高度が高すぎたり、飛行速度が速すぎたりすると、雷道が安定しない。投下の瞬間に機体がぶれると、魚雷の進路が曲がってしまう。魚雷内部の姿勢制御装置が上手く作動せず、ぐるぐると螺旋を描きながら沈んでしまうこともあった。しかし、魚雷投下任務の過程で最も困難だったのは、目標上空まで編隊を組んで飛ぶことだ。先頭のパイロットには、航程を間違えずに飛ぶという使命がある。しかも、魚雷が誤作動を起こさな
いように、低空を低速で真っ直ぐに飛ばなければならない。雷撃隊は、まるでアヒルのように、一列になって飛ぶのだ。ミッドウェー海戦に参加した雷撃隊の生還率は
神風特攻隊と同じくらい低かった。第八雷撃隊の搭乗員合計三〇人のうち、生還したのはジョージ・ゲイのみ。他の雷撃隊も、同じような結果だった。
このミッドウェーでの悲劇を受けて、アメリカ軍は、この後の雷撃機による攻撃計画の規模を縮小することを決断。海軍は、デバステーターを戦闘任務から引退させ、
アベンジャーに移行することを決めた。当時、アメリカ軍の魚雷が技術的な問題を抱えているということを指摘する報道はなかった。しかしパイロットたちは、自らの経験から、たとえ「完壁な投下」をしたとしても、つまり、海面から六〇メートルの位置を時速三三〇キロでまっすぐに飛びながら投下したとしても(何百という対空砲に狙われながらこんなことをするのは、ほとんど自殺行為である)、魚雷の多くは不発に終わるということを知っていた。しかも、爆発するかどうかは、実際に投下してみないと分からない。ミッドウェーでの悲劇以降、雷撃機には、魚雷の投下よりも、近接航空支援などの戦闘機や爆撃機と同じような任務が与えられることが多くなった。しかしラバウル攻撃の際、アル・ターンブルは、雷撃機での魚雷投下を命じられた。
ターンブルの魚雷は、まっすぐ正確に投下された。ターンブルは、急いでその場を離れつつ、自ら投下した魚雷が白く細い線を描きながら目標に向かう様子を確認した。そのときに撮影された航空写真にも、日本軍の艦船に向かって海中を進む魚雷がはつきりと写っている。しかし爆発はしなかった。問題は、複雑な姿勢制御装置と起爆装置にあるようだった。
魚雷投下後、パイロットがその場に留まって爆発を見届けることは、ほとんどなかった。なにしろ、戦争序盤は高射砲の攻撃が激しかったし、日本軍には、アベンジャーよりもはるかに敏捷な零戦があるのだ。アメリカ軍のパイロットたちは、いつも背後に零戦の気配を感じていた。
ただ、アメリカ軍の魚雷は信頼性に欠けたが、グラマンが生み出したアベンジャーという雷撃機は、海軍機の中でも最も用途の広い軍用機として非常に重宝された。通常、搭乗するのは、パイロットが一人、レーダーを操作する通信員が一人、五〇口径機関銃を使う後部銃手が一人である。この機関銃は機体背面の電気駆動式の砲塔に備え付けられていた。日本軍のものよりも可動範囲が広く、作動速度も速かったため、素早く狙いを定めることが可能であった。アベンジャーは、1700馬力のエンジンを装備し、長い航続距離を誇り、機銃、ロケット弾、さらには2000ポンド(910キロ)までの爆弾を搭載することができた。もともとは2200ポンド(1000キロ)の魚雷一本を投下するために設計された機体だが、爆弾倉に備え付けられていたシャックルが、様々な兵器の運搬を可能にした。このシャックルは、一つにつき、一発の爆弾、もしくは一発の爆弾の一部を支えられる。アベンジャーの爆弾倉は、100ポンド(45キロ)爆弾なら二一発、500ポンド(230キロ)爆弾なら四発まで格納することができた。汎用爆弾・徹甲爆弾、チラシを入れたプロパガンダ爆弾、砂を入れた訓練用爆弾、新開発の恐ろしい威力を持つナパーム弾。用途を問わず、どのような爆弾でも運ぶことができる。潜水艦を目がけて、500ポンドの爆雷を四発投下することも可能だ。アベンジャーは、強力なエンジンを搭載した、頼もしい軍用機であった。
満載時のアベンジャーを飛ばすためには、飛行甲板の長さが足りないこともあった。カタパルトを使うという方法もあるが、ゼネラルモーターズ製のTBMの場合は、翼部に離陸補助ロケット(JATO)タンクを設置するという道もあった。JATOタンクに満載されたロケット燃料の推進力を借りることで、短い飛行甲板からでも発艦速度に達することが可能になるのだ。ちなみに発艦後、機体を軽くするためにタンクは投棄される。
また、アベンジャーは、左右の翼の下から五インチロケット弾を発射することもできた。これは、バンカーヒルで最大の五インチ砲弾と同じ程度の破壊力を持っていた。
アベンジャーに搭載可能な燃料は約300ガロン(200リットル)(翼の予備タンクを使えば、もう少し多くを運ぶことも可能)。高度や積載量にもよるが、連続飛行可能時間は五時間程度。
アメリカの人種問題取り組みは黒人の奴隷解放と言われるリンカーンの政策が始まりだろう。その後、1950年代から1960年代にかけてマーチンルーサーキングなどによる公民権運動を経て、黒人に対する差別はやっと認められなくなった。それでも、尚、人種問題は残っておりアメリカの大きな問題である。
驚くべきことに、太平洋戦争中はまだ、歴然たる差別が米軍の中にも残っていた。
「特攻 バンカーヒルと二人のカミカゼ」には、次のように書かれている。
第三章人種問題
艦内の決まりきった仕事も、もはや気晴らしにはならなかった。戦闘が近いというストレスや不安のせいで、乗員の間の衝突や仲たがいが増加し、緊張感が高まっていた。あらゆる行動、言葉、ふるまい、ときには視線までもが対立を生んだ。乗員たちはそれぞれの方法でストレスに対処していた。トム・マーティンは階下の黒人給仕たちと殴り合いをした。酒を飲む者もいれば、読書をする者もいた。信仰に救いを求める者もいた。危険が目前に迫る中、アメリカ海軍の抱えていた矛盾のすべてが表面化していた。海軍のヒエラルキーを守りつつ長い航海を続けるというのは、非常に難しいことである。パイロットとその搭乗員、サイツ艦長指揮下の将校とミッチャー中将指揮下の将校、乗員とその上官、所属の異なる乗員同士。その関係は複雑だった。海軍には、ほとんどすべての事例についての規則があったが、見ず知らずの男たち(しかも彼らが自分の命を預かっているのだ)に囲まれて、いつ終わるとも知れない危険に満ちた任務をこなす方法というのは、それぞれが考え出すしかなかった。
将校への不服従は重罪であり、従わなかった者には様々な罰が与えられた。最も軽い罰は、食事としてパンと水しか与えられないというものである。より重い罪を犯した者は、半餓死状態に追いやられた上に、ひりひりと肌にしみる塩水を浴びせられ、独房に監禁された。開戦当時、海軍の将校の多くは米海軍兵学校、通称「アナポリス」の出身者であった。アナポリス出身者は、何から何まで規則に従って動いていた。しかし、戦争の進展とともに海軍は急激に拡大する。それに伴い、多くの予備兵が将校になり、志願からわずか90日間の将校訓練しか行っていない、いわゆる「ナインティ・デイ・ワンダー」も将校として採用されるようになった。こういった将校たちが、海軍を変えた。将校の過半数を、生涯軍人として生きる気ではない者が占めたのは、このときがはじめてである。彼らは海軍に、それまでの軍人とは著しく異なる価値観と規範を持ち込んだ。これらの予備兵や徴集兵は海軍の規律を緩め、アナポリス出身者が大切にしてきた規則や伝統を馬鹿にした。
しかしそれでも、将校と下士官兵の間の壁が壊されることはなかった。海軍では、将校と下士官兵との間の親交を全面的に禁止していた。アル・ターンブルはこれを、数ある無意味な規則の中でも、最も愚かなものだと思っていた。見知らぬパイロットよりも、よく知っているパイロットと行う任務の方がうまくいく。同乗員のこともよく知りたい。ターンブルは、そう思っていた。ジョージ・ゲルダーマン、ジャック・ヴァインセックを始め、雷撃機の通信員、銃手たちは皆、下士官兵であった。ターンブルと彼らが狭い機体の中で共に戦った時間は、何百時間にもおよぶ。
それなのに、会話をすることすら許さないというのは、愚かな上に危険なことだとターンブルは考えていた。パイロットと同乗員は、互いを信頼してあらゆる任務に向かい、緊急事態のときには力を合わせて乗り切らなければならない。ターンブルは、同乗員について知れば知るほど効率的に仕事をこなすことができるし、一致団結して緊急事態に対処するためには、お互いを知らなければならないと感じていた。自分たちはチームなのだ。目標にたどり着き、攻撃し、帰還するためには、三人が協力しなければならない。特に、不時着水をしたり、機内から脱出したり、敵地から脱出したり、損傷した機体で飛び続けたりする際には、結束することが不可欠だ。ターンブルは定期的に、同乗員にも機体のチェックを手伝わせ、その際に、緊急事態への対応について話し合っていた。対空砲が当たったときにはどうするか。どこかが制御不能になったときに人はどうするか。無線が通じなくなったときにはどうするか。不時着水時の対応についても、誰がどの役割を果たすかという点まで、詳細に決めていた。
ときには、話題が脇道へそれることもあった。故郷での生活はどのようなものだったか、戦争が終わったら何をするかといったことも語り合った。しかし海軍の規則では、こういった個人的な交流も、すべて禁じられていたのだ。ターンブルは、同乗員たちと談笑しながらアベンジャーから降りることもあった。そんなとき、艦橋を見上げてみると、決まって将校たちが彼を見つめていた。彼ら職業軍人たちは、同乗員と話しているターンブルを見ると、スワンソン少佐のところへ行くように命じた。スワンソンはターンブルを部屋に招き入れると、「甲板で同乗員と会話をするとは何ごとだ」と責めた。しかしターンブルは、甘んじて呼び出しに応じた。同乗員と会話をしていなかったパイロットの多くは、既に戦死していたからだ。
将校たちは、下士官兵とは全く異なる扱いを受けていた。使用するトイレにも、あからさまな違いがあった。将校用のトイレは、数名に一つの割合で用意されていた。自分たちのトイレを清掃する必要もない。彼らに代わって、黒人給仕が掃除するのだ。カーマイケル機関長のように、個人用のトイレを与えられている者さえいた。それ以外の兵士用のトイレは、不潔な上に、プライバシーなど皆無の場所だった。乗員のほとんどは、艦の中央に位置するトイレを使用していた。このトイレには、艦首側と艦尾側に一つずつ出入口があった。両方の壁際にはベンチが一台ずつ設置されていて、その下の溝を海水が流れている。艦首側から海水を取り入れ、パイプを通して艦内を運び、艦尾側から下水を排出するという仕組みだ。四六時中、何十人もの男たちが互いに顔を見合わせ、このベンチに座っていた。男たちはずらりと並び、それぞれ屈辱に耐えながら用を足す。艦内で発行される新聞、『ザモニュメント』を読んでいる者もいた。アル・スカーレットが笑いながら聞かせてくれた話では、最も艦首側に座っている男が新聞に火をつけて溝に流すという悪ふざけをすることもあったと言う。用足しの最中の男たちは、尻を火であぶられ、次々に飛び上がるのだ。
戦争中、進んで仲間と親しくなろうとするパイロットは少なかった。海軍は、互いのために死を厭わず戦う兵士を作ろうとしていた。そのための訓練を受けた男たちが親しくなると、親しい者を失う苦しみにも耐えなければいけなくなってしまうので、海軍の訓練と配備のシステムは、親密な友情を築くことを積極的に阻むようになっていた。ターンブルは、共に飛んでいるパイロットたちの経歴をほとんど知らなかった。J・A・チェリーブロッサムがシカゴのニッカーボッカーホテルの最上階を占めるペントハウスで執事にかしづかれて生活していたということも、同じくシカゴ出身のジョ二一アリーはシカゴでも特に治安の悪いスラムの地下室に住んでいたということも知らなかった。エドワード・P・スタック少尉が莫大な財産の相続人だということを知っている者も、ほとんどいなかった。だから、お互いの背景が話題に上ることはめったにない。彼らが話すのは、飛行のこと、敵のこと、艦での生活のことばかりだった。任務外の時問も、ほとんどは、次の任務に備えて航法や燃料の問題点を解決したり、過去の任務についての報告書を書いたり、これからどこに向かうのか、どうやってそこにたどり着くのか、どうやって帰還するのか(陸上機と違って、空母艦載機のパイロットたちの「着陸場所」は、任務の間に、一五〇マイル圏内のどこかへ移動している可能性があったのだ)を話し合ったりすることに充てられていた。ときには、運動をすることも、手紙の返事を書くこともあった。手紙が届いたときには、祖国に残してきた恋人の話をすることもあったが、やはり大抵の話題は、航空機の操縦や艦内での仕事のことだった。ハーレクイン小説のような『フォーエバー・アンバー』(あるパイロットの言葉を借りれば、「頭の中はセックスのことばかり」な著者が書いた小説)の回し読みをすることはあったが、セックスについて具体的な話をすることは、ほとんどなかった。バンカーヒルの艦内で働く乗員の大半は、敵機を見たことがなかった。そんな彼らは、毎日空の上で敵機と戦い、銃弾で穴だらけになった機体で帰還するか飛び立ったまま帰らぬ人となることもある飛行将校たちを尊敬していた。
バンカーヒルのパイロットの多くは艦内の小さな区画から出ようとしなかったし、パイロット以外の乗員も、自分の部署にあてがわれた区画から離れようとはしなかった。食堂も寝台もアイスクリームショップも、部署ごとに用意されたものを利用していたので、他の部署の人々と関わる機会など、ほとんどなかった。だが、ターンブルは違った。彼は常に好奇心に満ちていた。見せびらかすように堂々と、下士官兵たちと親交を持とうとした。バンカーヒルの将校の中で最も頻繁に規則を破ったのは、おそらくターンブルだろう。
バンカーヒルの乗員の一人であるフィリピン系アメリカ人のジョー・ギルブエナは、カリフォルニアで育ち、海軍に志願した。彼は、海軍内が人種によって完全に隔離されていて、自分は差別を受ける側にいると知り、ひどくショックを受けた。ギルブエナはバージニアの訓練所に送られたが、南部の人々は彼の扱いに悩んだ。白人の兵舎に入れるわけにはいかないが、黒人の兵舎に入れることもできない。検討の結果、彼は一人だけ別の兵舎に入れられることになった。やがてギルブエナは給仕に転任され、他のフィリピン人たちと一緒にミッチャー中将に仕えることになる。バンカーヒルでは、黒人とともに生活をした。トイレも食事も、黒人用のものを使う。ギルブエナは、他のみんなも一緒なら黒人たちと生活をすることに異存はなかった。彼が嫌ったのは、バンカーヒル上の人種主義が生み出した、人種というフィルターだった。ミッチャー中将は、自分に仕えているフィリピン人たちに、アイランド内の「司令官専用区域」にある小さな食料庫で眠ることを許した。ギルブエナがほぼ一日二四時間を過ごしている艦隊指揮所の近くの部屋だ。一方、黒人給仕に与えられていたのは、装甲甲板下の部屋である。
バンカーヒルは、まるでかつての南アフリカのようだった。黒人と白人の区域が分かれていて、フィリピン人は、南アフリカのインド人と同じように、どちらとも隔離され、その問にいたのである。特にひどい差別を受けていたのは、アフリカ系アメリカ人だ。下士官兵だからという理由で将校には近づけず、黒人だからという理由で他の人々からも隔離されていた。彼らの寝床は、完全に他とは隔たった場所にあった。また、黒人に対しては、規則とは関係なく、彼らの上官が独断で懲罰を与えていた。あるとき、一人の黒人給仕が通路でビーズ・ポップを罵った。それを見ていたこの黒人給仕の上官が、ポップに言った。「この件は私が何とかする」次にポップが見たとき、彼を罵った黒人給仕の顔はひどい有様になっていた。彼の上官は、ボルトとナットを入れた靴下で、彼の顔を殴ったのだ。就役当時のバンカーヒルに乗っていたのは、主に東部マサチューセッツ州の出身者だった。その頃は、皆が協調して上手くやっていた。しかし、一九四五年にブレマートンを発つ頃になると、経験豊かな乗員の多くは他の新しい空母に移っていた。そして、新たにバンカーヒルに乗り込んだ者の多くは、南部出身だった。砲員のジム.スペンスは、黒人と接する機会がほとんどない環境で育った。アメリカの東海岸、マサチューセッツ州レビアにある彼の出身高校には、黒人の生徒は一人しかいなかった。南部の黒人たちがどのような生活を送っているかなど、考えたこともなかった。神風特攻隊との戦いが続き、艦内の緊張が高まると、黒人給仕と白人乗員との間でいさかいが起こることがあったため、黒人が隊列を組んで白人の前を通らなければならない乗員交代の際には、憲兵が目を光らせていた。将校たちの生活のあれやこれやを世話するのが、給仕の仕事だった。シーツを整え、部屋を掃除し、洗濯物を片付けて、軽食を用意する。食事の支度をするときには、白い制服をつけていた。ミッチャーのような特に地位の高い将校には、個人的な用事をすべて請け負う、黒人やフィリピン人の乗員が付いていた。戦闘中、給仕たちは弾薬の運搬を担当し、飛行甲板に繋がる危険な区画を通って弾薬を運んだ。バンカーヒルが攻撃を受けているとき、実弾だらけのこの区画は、最も危険な場所と化す。給仕たちは一番の危険にさらされていたのだ。
黒人たちは、ジム・スペンスたちが使う二〇ミリ機銃の弾倉に、銃弾を装填するという仕事も課されていた。装填し終えたら、それを抱えて、居住区を突っ切ってエレベーターに乗り、飛行甲板まで運ばなければならない。爆弾ですら、居住区経由で運ぶことがあったのだ。特に急ぎのときには、飛行甲板に届いたらすぐに爆弾倉に釣ることができるよう、弾薬員が居住区で爆弾に信管を取り付けていた。居住区で爆弾の準備をしているときに総員配置命令が出ると、大慌てで爆弾を外へ運び出さなければならなかった。パンカーヒルは、「不沈」と言っても過言ではないほど頑丈な空母だが、このような艦内の爆弾が爆発しやすい状態にあるときにひどい打撃を受けるようなことがあれば、次々と誘爆が起きて、沈没しかねなかった。
アラミダでの飛行訓練の後、雷撃隊には二人の給仕が付いた。部屋の清掃、シーツのプレス、寝台の用意、服の洗濯などは、彼らが担当した。そして、待機室の外でサンドウィッチなどの軽食を用意していたのが、マンソンである。パイロットと給仕は、何カ月間も共に危険にさらされていた。パイロットが給仕たちと個人的な話をすることは厳しく禁じられていたが、パイロットの多くは、この規則を破っていた。ターンブルはマンソンと親しくなった。マンソンは雷撃隊の待機室のすぐ隣で軽食バーを開いていた。ターンブルがマンソンのバーに果物やサンドウィッチを食べに訪れるたび、二人はアメリカでの生活や家族のことを語り合った。アラミダやバンカーヒルでの苦しい生活の中で、二人は親交を深めた。ターンブルが出撃するとき、マンソンは必ず飛行甲板の左のキャットウォークヘ出て、できる限り機体に近づいた。ターンブルが飛び立つ直前、マンソンは彼に敬礼をする。ターンブルも彼に手を振る。マンソンは毎晩ターンブルのために祈った。そしてターンブルに、自分の父母も母国で彼のために祈っていると伝えた。当時マンソンは、まだ一五歳か一六歳だった。海軍は、給仕として乗せる黒人の年齢については、見て見ぬふりをすることが多かったのだ。雷撃隊が、バンカーヒルに乗艦するため、サンデイエゴからアラミダヘ飛行することになったとき、絵を描くことが得意なマンソンは、パイロット一人ひとりのために女性像をデザインし、それぞれの航空機の機首に描いた。「戦闘中にもパイロットたちを導いてくれるように」という願いを込めた、なまめかしい女性像だ。彼は、ターンブルの航空機に描いた女性のことを、「公爵夫人」と呼んだ。
マンソンは、船倉近くに追いやられている虐げられた給仕の一員ではなく、航空団の一員でありたいと願っていたため、待機室のとなりの小さな調理室で寝泊まりしていた。その結果、パイロットたちからも特別な親近感を持って迎えられた。しかし、それでも本当の意味で受け入れられることはなく、結局はすべてから疎外された生活を送ることになるのだった。