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予備学生と少年兵

海軍 特攻隊には真珠湾攻撃などを行った特殊潜航艇や、人間魚雷回天、モーターボートによる特攻「震洋」(多くの学徒兵や海軍飛行予科練習生出身者を含む約2500名以上の戦死)、また沖縄に海上特攻で出撃した戦艦大和(2740名戦死)などがあるがこれらを含まず航空機(桜花を含む)による航空特攻のみを数えると2568名。

陸軍特攻隊には空挺部隊の特攻やマルレと言われた特攻モーターボート、戦車特攻があったが、これらを除く航空機による航空特攻だけ では1305名。

(「特別攻撃隊」「特別攻撃隊の記録海軍偏・陸軍編」から)

 

陸海軍を合わせると4千名弱が航空特攻で戦死。

その中で海軍は飛行予備学生・生徒と呼ばれた大学・専門学校卒業・卒業見込者と満14歳以上の飛行予科練習生(予科練)が主体であり、

陸軍は高等学校・専門学校の卒業生と大学の卒業生・在学生を対象とする特別操縦見習士官(特操)、および少年飛行兵(少飛、技術生徒は満15歳以上)が主体

 

陸海軍とも戦争が進むに従い従来、軍隊の士官を占める海軍兵学校・陸軍士官学校出身の戦死を大学・専門学校在学・卒業者から補充し、下士官(士官と兵の間)である少年兵と共に大量に特攻隊とした。航空兵は軍隊の中でも特に心身共優秀な者を厳選し、さらに厳しい訓練で操縦適正のないものを振り落としながら一人前に育て上げた。

 

敗戦が近づくに従い、飛行機も航空兵も不足し、飛行機は性能不良となり、航空兵は訓練期間が短縮するばかりで、十分に敵と空戦できないまま、1944年後半から1945年8月の終戦までは、ひとえに敵艦に体当たりすることだけを主眼に短期育成された。そのため米軍の特攻対策も進み敵艦に突入する前に撃ち落とされることも多くなった。

 

特攻戦死したのは最年少16歳から20代前半の若者が主体だった。彼らは死にたくなかった。しかし、国のため、家族のため、みずからの矜持のために命をかけた。

階級と出身(明治以来種々変更があった)

特攻隊員は中尉、少尉から下士官が中心、その前後もいる。

        海軍          陸軍

士官     大将、中将、少将

       大佐、中佐、少佐、    同左

       大尉、中尉、少尉

        士官候補生

准士官 飛行兵曹長(飛曹長)      准尉

下士官 上等飛行兵曹(上飛曹)     曹長

    一等飛行兵曹(一飛曹)     軍曹

    ニ等飛行兵曹(二飛曹)     伍長

兵   飛行兵長(飛長)        兵長

    上等飛行兵(上飛兵)      上等兵

    一等飛行兵(一飛兵)      一等兵

    ニ等飛行兵(二飛兵)      二等兵

 

 日本で最初の特攻隊となった関行男は

1938年(昭和13年)12月に旧制中学を経て海軍兵学校(江田島)に入学した(海兵70期)。兵学校4号(1年生)のときの写真。1941年11月3年で卒業(かつては最長4年制であったが戦争の拡大で徐々に短縮)海軍の中では士官として下士官・兵隊を命令・指揮するエリート中のエリートになることが約束されていた。65期から69期の入学倍率は20倍以上。同期の卒業は432名。兵学校全78期の卒業生総数が12,433名、平均約160名/年. 実質75期が1945年最後の卒業で、74期卒業は実に1000名を超えている。戦死者の増大で急激な養成が必要だった。

 

 

兵学校4号生徒時代

少尉候補生として戦艦「扶桑」乗組。1942年6月少尉。

1943年1月飛行科学生(39期)霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。6月海軍中尉任官。8月宇佐空で艦上爆撃機の実用機教程。1944年1月飛行教官就任、5月結婚、10月特攻戦死。

 

関がたどった兵学校→艦船勤務→飛行学生(霞ヶ浦航空隊約1年)→実用機訓練(戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機、陸上攻撃機、水上偵察機など) というのは海軍の航空戦闘部隊の指揮権を担う兵科士官の通常のコースであった。これは海軍予備学生や海軍飛行予科練修生の操縦者よりも養成期間が長かった。

海軍予科練習生(予科練)

隊長 関大尉の敷島隊

 中野 一飛曹 甲飛10期

 谷  一飛曹 甲飛10期

 永峰 飛長  丙飛15期

 大黒 上飛曹 丙飛17期

 が部下として突入戦死した。

海軍の航空兵養成制度の一つとして設けられ、高等小学校卒業で満14歳以上20歳未満教育期間3年(のち短縮)1930年志願者5,807名から79名が合格。後に乙飛(乙種飛行予科練と呼ばれる)

甲飛とは甲種飛行予科練習生(1937年から)、丙飛とは丙種飛行予科練習生(1940年から)で、総称「予科練」と呼ばれ、満14歳(時期により15歳以上)から霞ヶ浦海軍航空隊で教育・訓練を受けた。

甲飛10期は1942年4月1日入隊1097名。777名戦死。

乙飛16期は1941年5月1日入隊1237名。834名戦死。

丙飛15期は1942年12月1日入隊(特丙と合わせ)737名。494名戦死。

予科練出身の特攻戦死者は海軍特攻戦死者の62%。

兵学校出身の5%に比べて圧倒的に多い。関隊長の兵学校70期は航空科以外を含め卒業が432名しかいない。特攻隊は少年兵と学徒兵が主力だった。

飛行予備学生

海軍飛行科予備学生とは、大学令による大学の学部あるいは予科、高等学校高等科や専門学校を卒業した者、また採用の日までに卒業見込みの者(年齢十九歳以上、二十八歳未満)が志願し、採用されて、海軍の飛行機搭乗員(操縦・偵察)になった者のことである。

採用と同時に海軍兵籍に編入されて、海軍少尉候補生に準ずる身分となる。

海軍飛行科予備学生は、搭乗員の予備士官を養成するのが目的で、第一期から1941年の第八期までは、毎年一回採用され、各期とも50名以下で、8期までの合計は168名であった

1942年には、いっきょに四クラス(第9-12期の合計277名)が採用された。

そして第一期より十二期までの445名中、その58パーセソトの262名が戦死した。

さらに1943年には、ますます搭乗員が不足してきたので、できるだけ短期間に教育して、第一線に出さなければならなくなった。

そこで採用資格も、この年の九月に前記の学校、およぴ五月から官立専門学校に昇格した旧制師範学校卒業見込み以上とした。学業半ばであった。

 

そして、志願総数五万数千人のなかから、約一割の4726名が選ばれて、第13期に採用され、さらに14期3312名、第一期予備生徒1993名の大量採用どなったのである。

 

神風特別攻撃隊の士官戦没者数769名のなかで、飛行科予備学生、生徒出身者は652名であり、そのうち十三期飛行科予備学生が447名をもしめた

​「海軍飛行科予備学生よもやま物語」

「雲流る果てに」では下記となっている。

期   入隊年月日 入隊総員 戦没者 戦没者中特攻隊員

9      1942/1/15      38   24     1

10    1942/1/20     100   62    1

11    1942/9/30     121   70    4

12    1942/9/30      69    30    4

13    1943/9/30   5199  1617   448

14    1944/2/13   3323     411   163

予備生徒一1944/2/1     2197     165    37

15    1944/8/10,9/30 2836    22    0

予備生徒二1944/8/10,9/30   802      3    0

​「特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ」 p335IMG127

神風特攻隊の任務は、恐ろしく難しいものだった。谷田部のパイロットたちは、任務時に運ぶ予定の弾頭と同じくらいの重さのタンクやら丸太やらを零戦の腹に結びつけ、飛行訓練を行っていた。そんな状況で彼らは、アメリカ軍の偵察機の目を盗み、本来であれば搭載できない重さの爆弾を載せて短い滑走路から飛び立ち、戦闘空中哨戒機やらレーダー・ピケット駆逐艦やらの間を縫って海上を飛び続け、アメリカ艦隊の中心にたどり着かねばならなかったのだ。特攻隊員は、任務のすべての過程において、危険にさらされていた。基地には、昼夜を問わずアメリカ軍機からの攻撃が仕掛けられていたため、地上要員は、燃料を入れ、爆弾を取り付け、機体を離陸場所に運ぶという一連の作業を、大急ぎで行わなければならなかった。機体の準備が整ったら、すぐにパイロットが乗り込み、離陸する。編隊を組むために旋回をすることすらできなかった。

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敵空母を探して海上を飛びながら、隊列を組むのである。

日本軍が使っていた航法技術は、非常に初歩的なものだった。アメリカ軍のパイロットは、何度も繰り返し航法の訓練を行っていたが、日本軍が採用していたのは、目印を探し、特定の方位への飛行時間を計測し、それらを航空図に当てはめるという、最も基本的な方法である。頼りになるのは、目で見える限りの情報、そして何よりも、仲間たちの存在である。ひたすら仲間の後をついていっただけという者も多かっただろう。そういう場合、編隊飛行をすることが、極めて重要になる。しかし、編隊を組んで飛ぶというのは、経験を積んだアメリカ軍パイロットでも難しい。おそらくは小川も、ただ仲間たちの後について飛んでいたに違いない。私は、小川に詩を送った岩間氏に、神風特攻の過程で最も困難な点はどこだと思うか、尋ねてみた。すると岩間は、はっきりと答えた。「死ぬことです」岩間が最も恐れていたのは、最後の五〇〇メートルのことだった。神風の任務の最後に待ち受けているのが、制御が難しい急降下である。パイロットは、風、機速、揚力増加、目標速度、すべてを考慮して機体を制御しなければならないのだ。高角砲の弾幕で視界は悪く、爆弾の重さで機体を思うように制御できない。特攻機は、目標艦の何百という火砲から発射された銃砲弾や、その船を取り囲む戦艦、巡洋艦、駆逐艦、さらには空中哨戒機からも銃砲弾を浴びる。その問、パイロットの頭に浮かぶのは、自らの人生のこと、友人のこと、国のこと、そして何よりも母のこと。どうして彼らは操縦桿にしがみついていられるのだろう。どうして最後の瞬まで目をそらさずにいられるのだろう。アメリカ人の乗員の中には、衝突直前の特攻隊員と目が合ったと証言している者が、複数存在しているのだ。

零戦の機体は、驚くほど軽い。外板はアルミ製で非常に薄く、コックピット側の壁から手で押す第と、外側がぼこっと盛り上がるほどだ。乗っていても、自分の体と外界との間に、境界を感じない。横腹に五〇口径弾を撃ち込まれたら、ひとたまりもないだろう。この壊れやすい機体に乗っていても、守られているという気分にはなれない。だが、空対空戦闘での敏捷な動き、背後をとったら離れない能力は、この機体の軽さが生み出していた。旋回や上昇性能なら、どの戦闘機にも負けなかった。しかし、腹に五〇〇キロ爆弾を縛り付けてしまったら、速度と敏捷さという長所も消し飛び、零戦は、操縦の難しい、動きの遅い航空機に成り下がってしまう。敵艦に突入するのも、非常に難しくなる。

零戦のコックピットの左側には、昇降舵トリムタブ操作ハンドルがある。パイロットは突入前、このハンドルを操作する。小川もこのハンドルを回し、フラップの角度を変え、揚力を抑えて、機首を下に向けたはずだ。零戦は、突入の最終段階に至るまでは、一五度よりも浅い角度を保っていなければならない。そうしないと、速度が七五〇キロを越えて完全に操縦不能になってしまうのだ。

 

特攻隊員は、空母への突入を最優先するよう指示されていた。日本の記録によると、空母の中でも特に狙うべき目標として指示されていたのは、中央部甲板端のサイドエレベーターだった。次に望ましいとされたのは、前部、後部のエレベーターだ。日本軍は、これらのどこかを破壊することができれば、少なくともしばらくは、空母を食い止めることができるはずだと考えていた。特攻隊のパイロットにとって、技術上の最大の難関は、高速飛行の結果生じる強力な揚力への対処である。四五度程度の角度で降下すると、機首が持ち上がってくるのだ。パイロットたちは、機首を下に向け続けることの難しさについて、繰り返し言い聞かされていた。しかし、速度が増して、最後の瞬間に機体が浮いてしまい、目標を逃してしまうパイロットも多かった。反対に、機首を上げるのがまにあわないこともあった。目標を見つけた特攻隊員は、鹿屋基地に無線を入れて、最後の報告をした。そして、急降下を始めると同時に、無線のキーを押し続ける。すると、基地内でもとりわけ熱心な人々は受信機の前に集まり、カウントダウンを始める。無線が途切れることなく入り続ければ、基地内の人々にも、仲間が海水面まで到達したということーそしておそらくは攻撃に成功したであろうことが分かる。特攻隊員が最も恐れていたのは、最後の瞬問に無意識に目をつぶってしまい、目標を逃して、無意味に海に墜落することだった。

急降下というのは、一般的に思われているよりも難しい。日本軍には耐Gスーツが存在しなかったので、大きなGがかかったパイロットは、ブラックアウトしてしまうことも多かった。しかも、小川を始め、若き特攻隊員たちが急降下の訓練をしたのは、わずか二~三日間だけだった。訓練では、四機の零戦で編隊を組んで空中に昇る。高度三〇〇〇メートル程度までたどり着くと、一機ずつ短い間隔で、滑走路に広げられた丁字型の白いカンバスを目がけて降下。およそ五〇〇メートルに達したら、操縦桿を全力で引き戻し、巨大なGの力を抑えて、再び浮上。これを、何度も繰り返す。飛行技術を身に付けるという意味もあったが、実際にアメリカ艦隊に突入するとき、機械的に体が動くように、身にしみこませるための訓練でもあった。特攻隊員は最後、六〇度の角度で急降下する。これは、零戦の能力を越えた急角度である。降下を開始すると、マイナスGがかかり、パイロットの体はコックピットの座席から浮き上がる。そんな中で操縦桿をコントロールするのは、非常に難しい。機首を下げておくためには、より強い圧力が必要になるのだ。降下を続けて、限界点で操縦桿を引く。このときは、強く引き過ぎてGがかかりすぎないよう注意が必要だ。ただし、死の降下から逃れられる程度には、強く引かなければならない。機首が上がり始めると、パイロットは、プラスGの力、普段地球上で感じている重力の数倍のGを経験することになる。脳の血流量は減少。中には、訓練中にブラックアウトして操縦不能に陥る者もいた。そういったパイロットは、友人たちの目の前で墜落し、任務に先駆けて散る。つまり、残酷にも、全パイロットに対して、訓練の目的を思い出させることになるのだ。

 

特攻隊員は、最後の急降下に入ると、爆弾を作動可能な状態にする。そして、機首を四五度から六〇度にまで下げ、五五〇キロ以上の速度を出す。翼は振動し始め、強い揚力がかかり始める。機首は持ち上がり始める。機首を下げ続けることができなければ、特攻機は目標を飛び越えてしまうし、機首を下げ過ぎると、目標の手前に落ちてしまう。また、目標である空母が、特攻機に向けて発砲し続けながら、高速で移動をしているということも、忘れてはならない。

 

零戦は、許容速度を越えると、制御不可能になる。脆弱な機体は、強風と強いGにより、降下途中でバラバラに分解してしまう可能性もある。速度が上がり始めると、翼は激しく振動する。もしパイロットがフラップを調整しようとしても、突如増加した抗力のせいで、制御不能になってしまうだろう。補助翼の意味もほとんどなくなる。左右への動きも、墜落の原因となりうる

学徒出陣

第二次世界大戦終盤の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳(1944年10月以降は19歳)以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させた。日本国内の学生だけでなく、当時日本国籍であった台湾人朝鮮人満州国や日本軍占領地、日系二世の学生も対象とされた。

出身別特攻戦死者

海軍特攻隊戦死者  2.557名

               海軍兵学校、海軍機関学校 出身  120名         5%

    飛行予備学生・生徒 出身      651名    25% 

    予科練 出身           1582名 62%    

              その他(准士官・下士官出身など)   204名  8%

 

海軍のその他には操縦練習生・偵察練習生を含む。これは海兵出身で下士官兵の内部選抜。当初、下士官パイロットの養成コースはこれのみ。草創期に坂田三郎(敵機64機撃墜16歳で四等水兵、戦艦霧島・秦名の砲手から38期操縦練習生)などのエースパイロット(5機以上の撃墜王)を含む優秀なパイロットを輩出した。坂田著「大空のサムライ」によると数千名の応募者から合格したのは40名。そのうち操縦練習生を卒業できたのは25名。

 陸軍特攻戦死者 1,305名

    陸軍航空士官学校・士官学校出身  152名 11%

     特別操縦見習士官(特操)出身    311名 23% 

    少年飛行兵(少飛)出身      418名 30%

     幹部候補生             110名        8%

    航空機乗員養成所 出身      182名 14%

    その他(不明を含む)       132名 14%

    (少年飛行兵以下は下士官)

 

陸軍で最初に特攻隊万朶隊隊長となったのは岩本大尉。陸軍士官学校53期。万朶隊で士官操縦者はそれ以外には、園田中尉(陸士55期)安藤中尉(56期)川島中尉(56期)

万朶隊は士官が全員特攻前に死亡したため、士官なしで出撃した。通例は士官が隊長となり、その突入命令に従って士官を先頭に全軍突撃する。

陸軍曹長 田中逸夫  昭和12の徴集兵 士官全滅し隊長となった
同    生田留夫  不明(田中曹長機に同乗、通信手)
陸軍軍曹 久保昌昭  少飛10期
陸軍伍長 佐々木友次 仙台乗員養成所(逓信省所轄、実態は陸軍航空兵養成)

   佐々木は援護の隼が帰還し突入したと報告したが、誤りで後日帰還

 

万朶隊に(出撃できなかったが)4名もの陸軍士官学校出身者がいたように、陸軍の特攻戦死者の中で士官の比率は11%と海軍5%より高い。一方、少飛(少年飛行兵)の比率が30%と最も高く、特操(高等学校・専門学校の卒業生と大学在学・卒業生)が23%と、海軍同様、特攻の主体は少年飛行兵と在学・卒業学生であった。

陸軍士官学校とは一八七四年に設置された職業軍人(指揮官)を養成する学校。一九二〇年に予科が設置され、ここを二年で卒業すると本科(歩兵、工兵、航空兵など)と配属先(連隊)が決められ、本科では個別の軍事技術が教えられた。入学資格は旧制の中学四年程度の学力とされ、学歴は問わず、かつ官費だったので、多額の学費を必要とする一般大学と比べ、地方都市の中小地主や軍人の子弟が多かったといわれている。毎年二〇~三〇倍の志願者があり、ここを卒業すると二〇歳くらいで将校(少尉)になった。一九三四年入校の四九期から、朝鮮人も日本人と同じように試験に合格すると入校できるようになり、累計で一二五人の朝鮮人卒業生がいた。

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少年兵

 特攻戦死者の中で最年少は16歳で、18歳以下が207人(海軍178人、陸軍29人)いたとされている。


戦前の日本では、このようなことが問題視されることはなく、子どもを軍人として教育する公的な機関、陸軍の場合はエリートを養成する陸軍幼年学校があり、陸軍戦車学校では少年戦車兵が養成され、操縦者や通信手を養成する陸軍少年飛行兵学校(少飛)があった。
少飛の採用年限は14歳以上17歳未満で、基礎教育一年、地上準備教育一年、基本操縦一年、戦技教育など六ヶ月、合計三年六ヶ月の教育で操縦者が育成された。
従来、東京だけだった少飛は、1942年に滋賀県に、1943年に大分県に新設され、年間8000人の子どもが教育されることになり、さらに同年、東条英機の航空大拡充によって、教育課程を半分に短縮する制度(乙種)がつくられた。この速成制度は1943年4月入校の一四期乙種からで、特攻戦死した最後のクラスは一五期乙種(1943年10月入校)であった。
小学校(国民学校)を卒業して、すぐに少飛に入校すると一四歳で軍人になるわけだが、この年代の子どもたちは、皇国史観による教育と戦争という時代の影響を全身に受けて、「立派な軍人になって、手柄をたて、立派に戦死する」ことと、「大空への憧れ」をかなえることが結びついていた。

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5月27日出撃と思われる。万世基地より出撃、九九式襲撃機(複座)。

第72振武隊 少飛15期6名(写真以外に 久永正人伍長)

      指揮官 航空士官 佐藤睦男中尉 新井一夫軍曹

 

第72振武隊 陸軍伍長 荒木幸雄の父親宛遺書

最后の便り致します
其後御元気の事と思ひます
幸雄も栄ある任務をおび
本日出発致します。
必ず大戦果を挙げます
桜咲く九段で会う日を待って居ります
どうぞ御身体を大切に
弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら

5月27日 第七十二振武隊 万世より九九式襲撃機で発進

航士56 佐藤睦男 中尉

印10 新井一夫  軍曹

少飛15 荒木幸雄 伍長

少飛15 千田孝正 伍長

少飛15 高橋要  伍長

少飛15 高橋峯好 伍長

少飛15 早川勉  伍長

少飛15 久永正人 伍長

同じ日第431振武隊 九七式戦闘機で少飛14期5名が知覧基地より出撃

この中には朝鮮半島出身の平岡賢哉(李賢載 イヒョンジェ)伍長を含む

少飛14 紺野孝  伍長

少飛14 鮭川林三 伍長

少飛14 橋ノロ勇 伍長

少飛14 平岡賢哉 伍長

米軍記録では九九式襲撃機(米軍ニックネームVal)が駆逐艦Braine(DD-630)に2機突入。特攻機2機は命中し同艦は大破し66名戦死、78名負傷。この日は4月1日に米軍が沖縄本島に上陸して、すでに2ヶ月近い。特攻作戦は4月6日の海軍菊水1号作戦/陸軍第一次航空総攻撃に始まってこの日は菊水8号作戦/第九次航空総攻撃であり、まとまった航空攻撃は6月22日が最終。6月23日に沖縄における日本軍の組織的抵抗は終わる。

 

Damage to USS Braine (DD-630)

At 0744 on 27 May 1945, BRAINE was attacked by Japanese "Val" suicide planes while on Picket Station No. 5 off Okinawa. One plane carrying a 550 pound bomb crashed into No. 2 handling room from ahead. The bomb detonated in wardroom. The bridge was seriously damaged and No. 2 handling room was ablaze. Almost simultaneously a second plane carrying a bomb crashed into sick bay. The bomb exploded in the uptake for No. 3 boiler. The after stack was blown clear of the ship and the superstructure from the galley to the torpedo workshop was demolished. Serious fire raged in sick bay. Sixty six were dead, 78 wounded.

 

 

5月27日は日本海海戦の記念日で海軍記念日であった。特攻戦死者、海軍34名、陸軍13名うち11名が荒木伍長以下第72振武隊を含む少年兵。(「ドキュメント神風」によるとこの日、175機が特攻に飛び立ったとある)

また海軍戦死者34名のうち32名は練習機「白菊」(250kg爆弾2発装着、航続距離を稼ぐため燃料タンクを増槽し時速180kmしか出ず、あまりに遅いため護衛の戦闘機は白菊離陸15分後に離陸、白菊を追い越して敵機と交戦した)による特攻であった。白菊隊の出身は海兵1名、予科練18名、飛行予備学生・生徒12名、予備練習生1名。脆弱な練習機による特攻には強硬な反対もあったが、結局実行された。驚くべきことに戦果もあった。別途記載する。

 

 

 

 第6航空軍編成担当参謀倉澤忠少佐は飛行機、操縦士、特攻隊委員の管理を行っていた。陸軍士官学校から航空士官学校1期生として卒業した生え抜きの陸軍航空士官である。倉澤は特攻から帰還した操縦士を収容、軟禁する「振武寮」の管理もしていた。

 

倉澤に2003年3月から7月にかけて林えいだい氏がインタビュー。その中で当時86歳の倉澤が語っている。(「振武寮」p255)

「途中で命が惜しくなってね。そういうのがいっぱい帰ってきている。そういうものたちも収容したのが振武寮です。結果的に隔離所になるわけですよ」

振武寮は福岡の司令部に隣接し、周囲には鉄条網が張り巡らされ、銃を持った衛兵が入り口に立っていた。

「軍人のクズがよく飯を食えるな。おまえたち、命が惜しくて帰ってきたんだろう。そんなに死ぬのが嫌か」、「卑怯者。死んだ連中に申し訳ないと思わないか」と罵倒、竹刀で滅多打ちにした。

特攻基地を飛び立った者に対して、その日をもって死亡、二階級特進の手続きをとっており、帰還してくる隊員たちに対して、帰還してきたことを伏せるよう箝口令を敷いていた。命が惜しくて帰ったものもいるかもしれない。しかし、出撃後、飛行機の不調や敵艦を発見できずに突入せず帰還した特攻隊員の思いが書かれている。

 

少年飛行兵についても、インタビューで語っている。

「十二、三歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。あまり、教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、その代わり小遣いをやって、うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃうんですよ」

 86歳になって本音が出たのか?航空兵になってすぐに事故で目を負傷し、地上勤務になった経歴も影響したか?

 

 

 

少年兵の中に台湾出身者がいる。

泉川正宏伍長 劉志宏、1923年台湾新竹生まれ少年飛行兵11期

1944年12月14日百式重爆でフィリピン・クラーク基地から菊水隊47名出撃の一人

百式重爆撃機は搭乗員8名の爆撃機

米軍損害記録なし

 

戦死しなかったっが戦後、国民党が台湾に逃げてきた時に政治犯となった。台湾出身の元少年兵。その後陸軍航空士官学校を経て、特攻兵として訓練中に終戦。「台湾・少年航空兵 大空と白色テロの青春期」

アメリカでは、太平洋戦争開始後、ルーズベルト大統領が飛行機年産五万機、パイロット養成年間二万名の計画を実行に移していた。これに対して日本では、航空士官学校五十六期生が、十八年五月に卒業して、士官候補生となったが総数六二七名にすぎず、他に年間二六〇〇名を採用した少年飛行兵を加えてもアメリカとの差は大きかった。飛行機の生産と操縦者の養成には桁違いの開きがあった上に、双方を酷使し、消耗品として使い捨てにしたのだ。

米軍パイロットの場合 

How the US Navy Trained its Pilots in WWII – the Bar for Entry was High
https://www.warhistoryonline.com/world-war-ii/how-the-us-navy-trained-its-pilots-in-wwii-the-bar-for-entry-was-high.html

The first step in preparing pilots was to pick the best men for the job.
During the late 1930s, the Navy shifted from producing a small number of superb pilots to producing a larger number of excellent ones. Even with the slight slackening in the demands placed on Navy pilots, the bar for entry was kept high. All potential pilots had to complete at least two years of college, to prove their intelligence and provide them with a decent level of education. They had to be between 18 and 26 years old, ensuring young, healthy candidates with a long career potential. They also had to be unmarried.

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