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海上特攻

飛行機に乗ることを希望しながら、乗る飛行機も燃料もなく、訓練もできず、ボートに乗って突撃した学徒兵、少年兵もいた。

海軍 震洋(小型特攻ボート)

船体は量産を考慮し木製とし、エンジンにはトヨタのKC型トラック(4トン積み)

B型エンジンを強化した上で採用、速力は最低20ノット以上、爆装250㎏、他12㎝噴進砲2基、1,944年6月には量産開始。総生産数6,197隻。

終戦時には本土決戦に対する備えとして4,000隻近くが実戦配備についていた。

搭乗員は、他の特種兵器から転出となった搭乗員のほか、学徒兵海軍飛行予科練習生出身者を中心とした。彼らは機体が無いために余剰となった航空隊員だった。震洋の戦死者は2,500人以上である。ウイキペディア

「特別攻撃隊」(名簿有)によると震洋戦死者は

比島沖920名、沖縄沖159名、その他を含め1079名

p170「図解特攻のすべて」「ドキュメントカミカゼ」

​震洋

米軍のガダルカナル島への敵上陸をきっかけにソロモン諸島方面での戦いが始まると、戦争は島嶼争奪戦の様相を呈してきた。奪取した制空・制海権下に米軍は大規模な上陸船団を構成して押し寄せ、十分な砲爆撃を加えて日本軍を叩いたのち、上陸用舟艇に部隊を移乗、揚陸してくるようになった。そんな不利な情況下に、なんとか米軍の上陸を阻止しようと発案されたのが、体当たり専用のモーターボートだった。陸軍と海軍ではともに特攻用のモーターボートを開発した。海軍では水上特攻艇「震洋」と呼ばれる。「震洋」は艇の前部に爆弾を内蔵し、そのまま体当たりして爆発した。つまり、「震洋の攻撃」は死を意味した。

 

「震洋」の試作艇が完成したのは1944年5月だった。サイパン失陥後、特攻攻撃に小型ボートを使用するという決定はくだされていたが、特攻艇乗組員の募集がおこなわれたのは、九月ごろ以降のことであった。1944年8月、水上特攻艇を採用するとの決定がくだされたとき、日本海軍はそのテストを実施することさえなく、ただちに量産に移った。

海軍は八月末までに700隻を建造しており、その後毎月400隻を建造する予定であった。八月十五日に最初の要員が卒業し、八月末に300名、その後毎月400名の卒業が見込まれた

第十震洋隊は1944年9月20日、佐世保に近い川棚魚雷艇訓練所で、特攻艇三五隻をもって編成されたが、全艇出撃前、フィリピンで、米軍機の爆撃により破壊された。第十震洋隊につづいてわずか数日後に編成された第十二震洋隊の搭乗員たちは、いずれも最初は航空要員として教育されていた。

1944年10月横須賀市田浦の海軍水雷学校で教頭の宮崎俊男大佐が四〇〇名の練習員をまえにして、練習員たちは従来からの魚雷艇の要員としての訓練をつづけることもできるし、特攻艇や人間機雷「伏竜」を志願することができると訓示したときから、日本海軍の新しい特攻隊の編成が軌道に乗った。練習員の半数が新しい特攻隊のいずれかに志願した。

震洋は、その建造、取り扱いの軽便さと威力を買われて大増産に拍車がかけられた。約600隻を1945年9月までに整備し、米軍の本土上陸に備えようとしたのである。

また、「震洋」には改良型も存在した。初代の「震洋」一型は一人乗りだったが、これを大型化し二人乗りにした「震洋」五型が開発されていた。「震洋」は、フィリピンや沖縄などで実戦に参加している。

 

戦争末期になると、本土決戦に向けて九州、四国、関東地方などの沿岸部に無数の「震洋」の基地が造られたが、終戦を迎えたためにこれらの部隊は実戦に参加することはなかった。

陸軍  四式肉薄攻撃艇㋹マルレ

​全長5.6m、トヨタと日産の自動車用エンジン搭載、艇工部に250㎏または120㎏2個の爆雷装備。最初は特攻用ではない。最高速力24kt 約3,000隻生産。1943年(昭和18年)に募集を開始した船舶や航空関連の特別幹部候補生出身者たちが、主にマルレの操縦者に選ばれた。

攻撃方法は敵軍の上陸海面を予想して近くに洞窟などを利用した秘匿基地を作り、上陸船団が近くに来ると夜間に数十隻からなる攻撃隊で一斉に攻撃を仕掛け、体当たりもしくは至近への爆雷投下で艦艇もしくは輸送船を撃破するというものであった。指揮官の統一指揮の下で一斉出撃する計画だった。

陸軍水上特攻隊は1944年8月、瀬戸内海小豆島にあった陸軍船舶特別幹部候補生隊で秘密裏に編成された。敵艦船の舷側に爆雷を投下するように設計された陸軍水上特攻艇では、艇員たちに退避するチャンスをあたえていたが、それは表面だけのものであった。

秘密を最大限に維持するため、これらのボートは陸軍部内では"連絡艇"あるいは"㋹艇"として知られていた。宇品に陸軍の全水上特攻訓練部隊の司令部がおかれていた。新隊員は宇品から瀬戸内海の小さな島に移り、船舶工学の基礎を三カ月間勉強したが、そのうちあとニカ月間が特攻艇の訓練に当てられた。この初期訓練後に、一般隊員たちは江田島幸ノ浦に移って"連絡艇・の実地訓練を一カ月間受けた。幹部候補生たちは香川県豊浜町で四カ月間、基礎訓練を受けた。彼らはここで軍曹に進級したあと江田島に移り、そこで20日間、特攻艇訓練を受けた。特攻艇による訓練を受けていた期聞中、各隊員は新しい制服、軍刀、水筒、鉄かぶと、救命胴衣、認識票、水中爆発から体を保護するための幅20センチのバンドなどを支給された

外洋航行を意図していないモーターボートゆえに、各地に配備するには海上輸送に頼らなければならなかったが、大戦末期は既に日本近海を含め多方面で制海権を喪失していた為に輸送途中で海没したものも多い。初期に編成された30個戦隊のうち輸送途中に遭難したものが16個戦隊にも及び、第19戦隊に至っては生存者僅か7名という大損害を蒙った。第二次大戦終戦までに輸送中の損害で挺進戦隊員だけで戦死者317名、マルレの喪失1,300隻に達した。基地を管理する基地大隊や整備中隊も輸送中の損害が多く、マルレの実力が発揮できないことがあった。

戦果としては、若干の輸送船や小型艦艇を撃沈破したことがアメリカ軍の史料で確認できる。ただし、海軍の震洋も同水域で作戦していることもあり、いずれの戦果かは不明確な点も多い。

 

1945年(昭和20年)初旬以降のルソン島の戦いでは、1月9日から10日にかけての夜、リンガエン湾で海上挺進第12戦隊(戦隊長高橋功大尉以下78名)の40隻から70隻が出撃し、歩兵揚陸艇改装の支援艇「LCI(M)-974」「LCI(G)-365」を撃沈、駆逐艦2隻・戦車揚陸艦3隻・輸送船1隻を損傷させる戦果を挙げた。

 

また、1月31日にナスグブ方面で海上挺進第15戦隊の第2中隊が、駆潜艇「PC-1129」を撃沈している。

 

沖縄戦では海上挺進第26戦隊が4月7日に駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」と他3隻を撃破、第28戦隊が4月27日に駆逐艦「ハッチンス」撃破、ロケット砲艦1撃破の戦果を挙げている。ウイキペディア

「特別攻撃隊」によると陸軍海上挺進戦隊戦死者は

比島で103名、沖縄で142名、その他を含め263名となっている。

p172「図解特攻のすべて」

陸軍が開発したものは「マルレ」と呼ばれた。「震洋」は艇の前部に爆弾を内蔵し、そのまま体当たりして爆発した。対する「マルレ」は後部に爆雷を積み、目標の手前でUターンして投下した。爆雷は衝突の衝撃か手動で投下することができた。つまり、攻撃は死の「震洋」と違って、「マルレ」は爆雷を投下してから帰投することが可能で、当初はそれを考えて開発されていた。しかし「マルレ」も後に体当たり戦法に改められた。

 

マルレの設計は1944年5月中旬からはじめられ、7月11日、いくつかの改修を施して採用された。甲一号型と呼ばれるモデルは、爆雷を固定する艇尾の金具は、乗組員が手動で操作するか、特攻艇が衝突することで外れるようになっていた。「マルレ」による特攻隊、海上挺身戦隊の編成は八月はじめに着手された。

 

海上挺身戦隊の初陣は、1945年1月9日だった。この日、米軍はルソン島リンガエン湾に上陸を開始した。同夜から翌10日未明、高橋攻大尉の指揮する第12戦隊が特攻を行った。攻撃に参加した「マルレ」は40隻とも70隻ともいわれ、LST(戦車揚陸艦)、輸送船、駆逐艦などに肉薄攻撃、体当たりを行った。そして6隻を沈没させ、2隻を大破、8隻に損傷を与えるという戦果を挙げたが、生き残った隊員はわずかに二名だけだったという。

 

1月31日夜、米第11空挺師団の一部隊が、マニラ湾南方のナスグブ沖で上陸準備をしていた。そこへ、第15戦隊第二中隊の上野義現中尉が指揮する「マルレ」が襲いかかった。しかし、十分に警戒していた米軍は移動中の「マルレ」を発見、先制攻撃をかけた。戦隊はバラバラになりながらも上陸部隊に食らいつき、駆潜艇PCI129に体当たりしてこれを撃沈している。

「ドキュメントカミカゼ」

70隻の特攻艇は九項目の指示をあたえられた。第一群は船団の後方深く突進することになっていた。第二群と第三群は船団を左右両側から包囲することになっていた。特攻艇が目標を見つけたときは、目標の左舷側から接近して、敵船から三メートルのところで停止して、爆雷を投下することになっていた。特攻艇が敵の小型ボート、機銃、その他の防御兵器により攻撃されない場合には、爆雷を投下したのち全速力(30ノット)で退避しても差し支えなかった。だが、敵兵を殺すチャンスに恵まれたら、できるだけ多くの敵兵を殺さねばならないと指示されていた。いかなる状況に立ちいたろうとも、虜囚の辱めを受けることは、特攻艇員全員に許されていなかった。「手榴弾は米鬼を殺傷するのに立派な効果を持っている」ので、目標艦船の乗組員たちにたいして手榴弾が投げつけられることになっていた。捕獲されそうになった特攻艇は、手榴弾によって沈めなければならない。緊急事態が生じた場合、特攻艇は爆雷を保持しているロープを切断すると同時に、目標艦船に体当たりしなければならなかった。

 

1月10日午前2時をちょっとすぎたころ、6隻の特攻艇(いずれも日産エンジン装備)からなる小グループが、リンガエン湾西側のスアル付近の秘匿基地から姿をあらわして、米軍輸送船団めざして静かに接近していった。この6隻は、同じ時刻に出撃した70隻の特攻艇群の一部であった〔これらは高橋功大尉に指揮された海上挺身隊第十二戦隊の舟艇であった〕。これら六隻は敵に探知されることなく、米軍艦船が投錨している泊地に到着した。

 前日、兵士を揚陸したLST925号は停泊中、10日午前3時37分、同艦の見張員が二隻の小型ボートが接近してきているのを認めた。同艦はただちに発砲して一隻を撃破し、「六名の乗組員全員を殺した」。どんな状況のもとでも、六名が一隻の水上特攻艇に潜りこむことはできないので、LST925号の手柄話はある程度割り引いて聞かなければならない。だが、同艦の発砲が他艦船への警報となった。この停泊地全域にいた艦船の乗組員たちは各自の砲や銃にとびついた。

 二番艇は砲火により阻止されることなく、特攻艇教範に記述されているとおりの格好で突進してLST925号に到達し、爆雷を投下したあど全速力で退避した。二番艇が十分安全な距離まで退避したと善、、爆雷が爆発して、このLSTの舷側に破孔をあけた。LSTの砲員が射撃しつづけ、この特攻艇は沈没した。LST925号の戦闘報告によると、同艦の銃砲は敵兵全員(六名?)を殺すまで発砲しつづけたという。

LST1028号はこの警報を聞き、暗闇のなかで燃えあがっている特攻艇一隻を含め射撃花火を眺めていたとき、何かが一発命中して、それによりガソリン・タンクが吹き飛ばされた。西方約250メートルに投錨中のLST925号に魚雷が命中したとの印象を受けた。1028号は、錨をあげて救助に出かけたが、大型航洋曳船がやってきて救助に当たったので、1028号は救助作業を同曳船に譲って引きさがった。

 1028号が投錨した直後、同艦は一キロほど離れたところにいる小型ボート一隻を認めた。そのボートはそれから駆逐艦の影にかくれてみえなくなり、ふたたび姿をあらわしときには、1028号からわずか300メートルのところま婆近していた。同艦の大砲はただち発砲したが、ボートに命中させるのに十分なほど俯角をかけることができなかった。ボートは同艦の舷側にどしんとぶつかると、よろけて後退し、それから左舷の舷側にくっつくようにして艦首のほうに進んでいった。

 

LST1028号の戦闘報告には、このときの状況がこう記述されている。

「ボートが前部船倉ハッチとほぼ同じくらいの位置まで達したとき、すさまじい爆発のため船体が振動し、物体や何トンもの水が艦橋を越えて空中高く吹きあげられたときボートも本艦の左舷で水面からかなり持ちあげられた。艦内にいたほとんど全員が烈しく甲板に叩きつけられた。なかには隔壁、機銃囲い、そのほかの物体に叩きつけられて重傷を負ったものもあった。われわれは艦橋のなかで叩きつけられた……本艦の損害は大きい。電灯は消え、電源は断たれ、両舷の主機械が故障した。誰も彼もがぼーっとして、なかばヒステリー状態になっていた。約14名の負傷者は真っ暗な士官室に運ばれた。救難用」CI(歩兵揚陸艇)と曳船がついに本艦を海岸まで曳航した」

 

中型歩兵揚陸艇974号は海岸までたどりつけなかった。特攻艇一隻が同艇の左舷後部のあたりに急に接近してきて、舷側にピタリと寄り添った。一瞬停止したのち、左舷真横の方向に逃げ去った。約四秒後に爆雷が爆発した。爆発により操舵室が破壊され、マストが倒れた。一五分後、974号は沈没した。

 

■大混乱で同士討ち

 暗闇の泊地のなかを四〇隻の特攻ボートが走りまわっているので、神経過敏となった砲員たちはやたらに射ちまくって、しばしば米軍艦船を射撃した。駆逐艦「ロイツァ」は僚艦から十字砲火を集中されているのに気づいた。「ロイツァ」が一隻の特攻艇を射撃していたあいだに、ある戦車揚陸艦が同艦めがけて発砲し、乗組員六名を負傷させた。一隻の輸送船がボートを降ろして、哨戒に当たらせた。敵味方のボートを識別することが不可能だったので、この輸送船の発砲により、ボートで哨戒中の同船の士官一名が殺され、乗組員三名が負傷した。

一隻の特攻艇が輸送船「ウォー・ホーク」に体当たりし、陸兵二〇名と水兵三名を殺し、舷側に直径約四メートルの穴をあけた。別の特攻艇は軍艦を攻撃しないようにとの司令に背いて、駆逐艦「ロビンソン」を撃沈しようとした。この特攻艇は「ロビンソン」に定められた方法で接近したのち、命ぜられたとおり爆雷を投下して避退していった。爆雷の破裂により「ロビンソン」の船体は激しいショックを受け、ソーナー機器が一時的に故障したけれども船体には全然被害はなかった。

夜が明けても、輸送船泊地では警報騒ぎはやまなかった。輸送船の見張員が、波問に浮かんでいる特攻隊員の生き残りを見つけて、彼らは潜水工作兵により攻撃されつつあるのだとの誤った結論をくだした。同様に神経過敏となっていた砲手が、海上に浮いている識別不明のあらゆる物体箱」丸太、海草を射撃した。未明の攻撃で生き残った日本兵のなかの、不運な連中に砲火を浴びせたことはいうまでもない。

輸送駆逐艦「ベルナップ」は一連の気違いじみた電報を発信した。

0946  海中で奇妙な物体を見つけた。

1000 二人乗りの日本潜水艦一隻もしくは浅深度潜水要具をつけた日本兵を発見した。

1012  背中に爆薬を縛りつけた、より多くの日本兵が海中にいるのを認めた。

この段階で「ベルナップ」はボートを派遣して確認させたところ、筏のうえに日本兵の生き残り二名が乗っているのを発見した。日本兵はかねて教えられていたとおり接近するボートを手榴弾で阻止しようとした。ボートの艇員たちは筏のうえの生き残り日本兵を射殺した。駆逐艦「ウィリアム・D・ポーター」もこの話を取りあげて、背中に爆薬をくくりつけた特攻兵士が海面を泳いでおり、彼らのなかには箱に身を隠しながら、奇襲攻撃しようとしたものもあったと報告した。幸いにも、不幸な日本兵の生き残りが全員死亡したわけではなかった。捕虜となった二名の生き残りが、水上特攻にかんするこの物語をうまく説明してくれた。

これから一カ月後、長さ約五メートルの特攻艇三〇隻ばかりが、マニラ湾の入口を横断して停泊中の上陸支援艇群を攻撃した。上陸支援艇(LCS)には機銃とロケットが装備されていた。この日、これよりさき駆逐艦「カニンガム」が、震洋艇一隻を砲撃により粉砕した。残りの震洋艇はマニラ湾の湾口にうまく到達して、上陸支援艇三隻を撃沈した。さらに上陸支援艇一隻が大損害をこうむったので、同艇は海岸にのしあげねばならなかった。上陸支援艇(LCS)26号副長のウォルター・シャーウッド・スミス中尉が艇から500メートルほど離れたところを旋回していた震洋艇隊が、それから最高速力で突進してくるのを認めた。「わが艇の銃砲はずーっと射撃しつづけていたが、われわれはそれらの震洋艇を阻止することができなかった。一隻がわが艇の後部に衝突したが爆発しなかった。つぎの震洋艇が一番艇にすぐ続いて突進してきて爆発し、恐るべき破壊力を発揮した」。LCS26号は四分間で沈没した。

「すべての特攻で損害を受けた艦船」ウイキペディア

  Hit or sunk by Shinyo or Maru-Ni manned demolition boat 

9-Jan-45 USS LST-1028   Landing ship tank リンガエン湾   16°20'N, 120°10'E

9-Jan-45 USS LST-925     Landing ship tank           16°20'N, 120°10'E

9-Jan-45 USS War Hawk (AP-168) Personnel Transport Ship        16°20'N, 120°10'E

10-Jan-45 USS LCI(G)-365    Landing craft, infantry (gun boat) sunk 16°06'N, 120°14'E

10-Jan-45 USS LCI(M)-974   Landing craft, infantry (mortar)     sunk 16°06'N, 120°14'E

10-Jan-45 USS LST-610   Landing ship tank           16°20'N, 120°10'E

10-Jan-45 USS Robinson (DD-562)   Destroyer                              16°06'N, 120°14'E

10-Jan-45 USS War Hawk (AP-168)  Personnel Transport Ship   16°06'N, 120°14'E

31-Jan-45 USS PC-1129      Coastal Patrol Craft            14°05'N, 120°30'E

16-Feb-45 USS LCS(L)(3)-26  Landing craft, support, large (Rocket)At the entrance to Mariveles harbor マニラ湾 sunk

16-Feb-45 USS LCS(L)(3)-27  Landing craft, support, large (Rocket)At the entrance to Mariveles harbor

16-Feb-45 USS LCS(L)(3)-49  Landing craft, support, large (Rocket)At the entrance to Mariveles harbor

16-Feb-45 USS LCS(L)(3)-7    Landing craft, support, large (Rocket)At the entrance to Mariveles harbor

「図解特攻のすべて」

フィリピンの戦いが峠を越えると、戦場は沖縄に移った。沖縄南部の糸満付近にあった第26戦隊は、4月7日、10日、15日、26日、27日と嘉手納沖などへ出撃した。

7日夜の攻撃では駆逐艦「チャールス・J・バッジャー」に肉薄攻撃して大破させた。具志頭には第28戦隊が配置されていた。同戦隊は4月27日夜から28日未明に中城湾の米艦隊を襲った。このときの戦闘では駆逐艦「ハッチンズ」への攻撃に成功した。爆雷はスクリューと機関を傷つけ、終戦まで使用不能とするダメージを与えた。

5月3日は第32軍の総攻撃が行われた。地上の戦闘に呼応して、ほとんどのマルレ隊が出撃した。このあとも海上挺身戦隊は断続的に出撃を繰り返した。

五月中旬に第28戦隊の六隻が嘉手納沖に。23日には同戦隊の九隻が嘉手納、那覇沖に出撃した。

5月27日には第27戦隊第一中隊が、生き残っていたすベての「マルレ」で米艦隊に向かっていった。これが陸軍海上挺身戦隊最後の出撃となった。

28-Mar-45  USS LCI(G)-588             Landing craft, infantry (gun boat) Off Okinawa

1-Apr-45  USS Vammen (DE-644) Destroyer escort         沖縄西方  26°18'N, 127°29'E

4-Apr-45  USS LCI-82                    Landing craft infantry     Off Okinawa

8-Apr-45  USS Charles J. Badger (DD-657) Destroyer                   26°18'N, 127°39'E, off Okinawa

9-Apr-45  USS Starr (AKA-67)      Attack cargo ship (Built as a Type C2-S-AJ3 ship)      26°20'N, 127°44'E

15-Apr-45   USS YMS-331                Motor minesweeper      26°15'N, 127°36'E

28-Apr-45   SS Bozeman Victory"Victory"  cargo ship   In Nago Bay

3 May 1945 USS Carina (AK-74) ex "Liberty" ship S.S. David Davis   26°13'N, 127°50'E

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人間魚雷「回天」

1944年7月に2機の試作機が完成し、11月20日のウルシー環礁奇襲で初めて実戦に投入された。終戦までに420基が生産された。

回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造し、特攻兵器としたものである。九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は55km/hで23キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。

回天が実戦に投入された当初は、港に停泊している艦船への攻撃、すなわち泊地攻撃が行われた。最初の攻撃(玄作戦)で給油艦ミシシネワが撃沈されたのをはじめ、発進20基のうち撃沈2隻(ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻の戦果が挙げられている。

しかし、米軍がこまめに防潜網を展開するようになり、泊地攻撃が難しくなってからは、回天による攻撃は水上航行中の船を目標とする作戦に変更された。この結果、搭乗員には動いている標的を狙うこととなり、潜望鏡測定による困難な計算と操艇が要求された。

回天の母体である九三式三型魚雷は長時間水中におくことに適しておらず、仮に母艦が目標を捉え、回天を発進させたとしても水圧で回天内部の燃焼室と気筒が故障しており、エンジンが点火されず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでスクリューが回り出す「冷走」状態に陥ることがあった。この場合、回天の速力や射程距離は大幅に低下し、また搭乗員による修理はほぼ不可能であったため、出撃を果たしながら戦果を得ることなく終わる回天が多く出る原因となった。また最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかったため、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。当然のことながら敵前での浮上は非常に危険が伴う。回天と母潜水艦は伝声管を通じて連絡が可能だったが、一度交通筒に注水すると、浮上しない限り回天搭乗員は母潜水艦に戻れなかった。また、エンジンから発生する一酸化炭素や、高オクタン価のガソリンの四エチル鉛などで内部の空気が汚染され、搭乗員がガス中毒を起こす危険があることが分かっていたが、これらに対して根本的な対策はとられなかった 。

潜水艦は潜れば潜るほど爆雷に対して強くなるが、回天の耐圧深度は最大でも80メートルであったため、回天の母艦となる伊号潜水艦はそれ以上は深く潜行する場合は回天を破損する覚悟が必要であり、敵に発見された場合も水中機動に重大な制約を受けた。そのためアメリカ側の対潜戦術、兵器の発達とあいまって出撃した潜水艦16隻(のべ32回)のうち8隻が撃沈されている。

p168「図解特攻の全て」

人間魚雷「回天」は「〇六兵器」という仮称で1944年2月末から試作が始まり、同年七月初め三基の試作機が完成した。母体となるのは93式61センチ酸素魚雷である。座席部分に潜望鏡が取り付けられており、潜航、浮上、変針、変速ができ、自動で一定の深度・速力で直進することが可能だった。そして頭部には一・六トンのTNT炸薬を積んでいた。「回天」は、潜水艦から発進してうまく敵艦に命中できれば、大型艦でも一発で沈めることができたが、搭乗員の脱出装置はどこにもなく、「回天」が潜水艦を発進することは、すなわち搭乗員の死を意味することであった。その後、正式に採用された「〇六兵器」は、祖国を起死回生させようとの意味から「回天」と名付けられ、量産体制に入った。

 

昭和十九年九目徳山湾の大津島に回天特別攻撃基地が設置され、指揮官には伊四十一潜艦長だった板倉光馬少佐が就任した。

十月下旬、「回天特別攻撃隊菊水隊」が編成され、指揮官には第一五潜水隊司令揚田清猪大佐が就いた。

そして十一月五日、連合艦隊司令長官は「西カロリン方面在泊中の敵機動部隊を捕捉『回天』を以て挺身奇襲す」「攻撃期日十一月二十日頃」と玄作戦を発令した。

三日後の十一月八日、「回天」を搭載した三隻の潜水艦は西カロリン諸島に向けて、訓練基地である大津島を出撃したのだった。

十一月二十日、回天隊はウルシー泊地を攻撃。この初めての「回天」攻撃で空母二隻、戦艦三隻撃沈という成果が判定されたが、実際の戦果は油槽船「ミシシネワ」撃沈だけであった。しかし、この回天攻撃は米軍に大きな驚異を与えた。菊水隊によるウルシー泊地攻撃の戦果によって、回天による攻撃は有効であると認められた。

 

そこで、十二月八日、さらに大規模な攻撃作戦である第二次玄作戦の実施が決定した。潜水艦六隻によって編成された部隊は「金剛隊」と命名された。作戦目的はカロリン諸島、マリアナ諸島、ブラウン、アドミラルチi、フンボルト方面の米前進拠点を奇襲攻撃することだった。六隻の潜水艦は、各艦四基の「回天」を搭載し、十二月二十一日から相次いで呉を出発、予定攻撃地区に向かった。

 

昭和二十年一月十二日、金剛隊による回天作戦は予走どおり行われた。日本側の戦果報告をまとめてみると、特空母一隻、大型輸送船九隻、輸送船一隻、巡洋艦一隻、有力艦船六隻合計一八隻轟撃沈したとされている。しかし、戦後の調査によれば該当する記録はない。その後、千早隊、神武隊、多々良隊が編成され泊地攻撃のために出撃したが、どの作戦も成功しなかった。そこで、今までの泊地攻撃から、洋上の艦船攻撃に方針を変更することになり、回天特別攻撃隊天武隊が編成された。天武隊は沖縄とマリアナ諸島の中問海域に出撃し、洋上で活動することになった。

 

四月二十七日、伊三六潜は米輸送船団と遭遇し、四基の回天を発進させ三隻を撃沈。伊四七潜も五月上旬に空母を含む多くの艦船を回天攻撃によって撃沈した。回天による洋上攻撃は報告上は大成果を上げたことになっているが、戦後の調査によれると該当する成果はない。その後も.回天特別攻撃隊は振武隊、轟隊、多聞隊が編成され、主に沖縄方面に出撃し、多くの搭乗員が回天とともに戦死した。

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KaitenMission潜水艦の甲板上に搭載された回天.jpg

九三式魚雷

 

酸素魚雷は熱走式で圧縮空気に替えて純酸素を使用したものである。これにより排気ガスの成分はほぼ炭酸ガスと水蒸気のみとなる。蒸気は言うに及ばず炭酸ガスも海水によく溶けるため、酸素魚雷は雷跡をほぼ引かないという、電気式に準じる隠密性が特徴である。また、通常の熱走式よりも燃焼効率が大きく向上したことで速力(雷速)・航続力もさらにパワーアップした。純酸素の使用で多くの利点が得られることは広く知られていたが、激しい燃焼反応のため機関始動時などに容易に爆発するという技術上の問題点が立ちふさがっていた。そうした中、日本は1933年、世界に先駆け酸素魚雷の開発に成功。以降、大戦を通じて唯一の酸素魚雷運用国となった。実用化にこぎつけたのは日本以外ではイギリスのみであった。そのイギリスも、純酸素ではなく、酸素を増加した、空気魚雷と酸素魚雷の中間のようなものである。世界最高水準の魚雷であった。

九三式魚雷一型(艦艇用)

  • 全長 : 900 cm

  • 直径 : 61 cm

  • 重量 : 2,700 kg

  • 射程 : 36 kt で 40,000 m、48 kt で 20,000 m

  • 弾頭重量 : 490 kg(=TNT588kg)

 

21" Mark IX(艦艇用、イギリス)

  • 全長 : 7.277 m

  • 直径 : 53.3 cm

  • 重量 : 1,693 kg

  • 射程 : Mark IX、35 kt で 13,700 m、41 kt で 10,050 m

  • 弾頭重量 : 327kg TNT : later Torpex 365 kg

 

Mk 15(艦艇用、アメリカ)9700

  • 全長 : 7.315 m

  • 直径 : 53.3 cm

  • 重量 : 1,742 kg

  • 射程 : Mod 3、26.5 kt で 12,800 m、33.5 kt で 8,200 m、45 kt で 4,100 m

  • 弾頭重量 : TNT 363 kg or HBX 373 kg

 

 

回天では、ジャイロスコープの回転は圧縮空気駆動から電動になり、その回転速度は20,000回転に改善された。九三式魚雷の炸薬量は480kgである。これは長門型戦艦の装備した16インチ主砲の1t砲弾に匹敵する炸薬量だったが、回天ではこの炸薬量は3倍以上の1.55tに増加された。九三式魚雷1発の破壊力は、アメリカ艦隊型軍艦を沈没あるいは大破させるに十分な威力を戦歴で示している。一方、アメリカ海軍は大戦終盤の1945年6月、洋上攻撃を受けたイ367潜から発進した振武隊の回天1基が駆逐艦に命中したことを認めたが、九三式魚雷の3倍以上の炸裂火薬量をもつ回天の確実な命中を受けたにもかかわらず沈まなかったと主張した。

九三式魚雷は長さ9.61mだが、回天では14.75mに延長された。九三式魚雷の重量は約3tだが、回天では8.3tに増加した。九三式魚雷は水深20mの耐圧があれば十分だったが、回天は潜水艦の外部に搭載されるため、水深80m(潜水艦の深度限界の100mに近い)まで耐えるよう補強された。九三式魚雷は、最大速度52ノットで射程22,000mだが、回天は速度30ノット (55.6km/h) で航続距離23km、速度10ノット (18.5km/h) で航続距離78kmに変更された。回天は水面直下かつ低速での安定した走行性能をもつよう改善された。これは誘導を搭乗者による潜望鏡からのきわめて狭い視界によったためである。

wikidepia

「図説特攻」

隊名  潜水艦・  搭載-発進 基地出撃日 作戦海域

 

菊水隊 伊36潜・  4基一1基  1944.11  ウルシー北泊地

   少尉 今西太一 京都 慶應大3 生年大8

     USS Mississinewa (AO-59)Fleet oiler沈没 20-Nov-1944 10°06'N, 139°43'E, Ulithi

 

菊水隊 ※伊37潜・ 4基一1基   同上  パラオ・コスソル水道

菊水隊 伊47潜・  4基一4基   同上  ウルシー南泊地

金剛隊 伊56潜・  4基一0基  1944.12  アドミラルティ泊地

金剛隊 伊47潜・   4基一4基  1944.12  ホーランジアワンボルト湾

金剛隊 伊36潜・  4基一3基  1944.12  ウルシー南泊地

金剛隊 伊53潜・  4基一4基   同上  パラオ・コスソル水道

金剛隊 伊58潜・  4基一4基   同上  グアム・アブラ港

 中尉  石川誠三 茨城  海兵72      大12

 中尉  工藤義彦 大分  大分高商3   大12

 二飛曹 森稔   北海道 甲飛13   大15

 二飛曹 三枝直  山梨  甲飛13   大15

     USS LCI(L)-600Landing craft, infantry (large) 12-Jan-1945 Ulithi

金剛隊 ※伊48潜・ 4基一4基  1945.1   ウルシー南泊              中尉  吉本健太郎 山口  海兵72    大13

 中尉  豊住和寿  熊本  海機53    大12

 少尉  塚本太郎  茨城  慶應大4  大12

 二飛曹 井芹勝見  熊本  志16     大12

 

     USS Mazama (AE-9)Ammunition ship 12-Jan-1945 Ulithi

千早隊 ※伊368潜・ 5基一5基  1945.2.17  硫黄島海域

千早隊 ※伊370潜・ 5基一5基   同上   同上

千早隊 伊44潜・  4基一0基  1945.2.21  同上

神武隊 伊58潜・  4基一0基  1945.3     硫黄島海域作戦変更

神武隊 伊36潜・  4基一0基   同上   同上

多々良隊 伊47潜・ 6基一0基  1945.3   沖縄海域

多々良隊 ※伊56潜・6基一6基  1945.3   沖縄海域

多々良隊 伊58潜・ 4基一0基   同上   同上

多々良隊 ※伊44潜・4基一4基  1945.4    同上

天武隊 伊47潜・  6基一4基  1945.4.20  沖縄東方海域

天武隊 伊36潜・  6基一4基  1945.4   沖縄東方海域

振武隊 伊367潜・   5基一2基  1945.5   沖縄東方海域

轟隊  ※伊361潜・  5基一5基  1945.5   沖縄南東方海域

轟隊  伊363潜・   5基一0基  1945.5   沖縄一ウルシー線上

轟隊  伊36潜・  6基一3基  1945.6.4  マリァナ東方海域

轟隊  ※伊165潜・  2基一2基  1945.6   マリアナ東方海域

多聞隊 伊53潜・  6基一4基  1945.7.14  沖縄一フィリピン線上

USS Underhill (DE-682)Destroyer escort沈没 24-Jul-1945 1515 off Luzon, 19°20'N, 126°42'E

  勝山淳中尉 海兵73 大13      ウイキペディ

多聞隊 伊58潜・  6基一5基  1945.7    パラオー沖縄線上

 中尉  伴修二  岡山 麻布獣医3   大12

 一飛曹 小森一之 富山 甲飛13   大15

 少尉  水井淑夫 兵庫 九州大4    大11

 一飛曹 中井昭  京都 甲飛13   昭1

 一飛曹 林義明  新潟 甲飛13   大15

多聞隊 伊47潜・  6機一0基  1945.7    沖縄東方海域

震武隊 伊367潜・  5基一2or3基 1945.5.5  沖縄一グァム線上

多聞隊 伊366潜・   5基一3基  1945.8.1  沖縄一サイパン線上

 中尉  成瀬謙治 愛知 海兵73  大12

 一飛曹 上西徳英 福岡 甲飛13  大15

 一飛曹 佐野元  京都 甲飛13  昭1

USS Earl V. Johnson (DE-702)Destroyer escort 損傷 4-Aug-1945  20°17'N, 128°07

  伊53潜水艦?wikipedia

1945/8/11パラオ北方で回天3基発進 8/18呉に帰港とも

多聞隊 伊363潜・   5基一0基  1945.8.8  沖縄一日本海

神州隊 伊159潜・   2基一0基  1945.8   日本海、作戦中止   

※出撃中に撃沈された潜水艦

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USS Mississinewa AO59

ウイキペディア p174「図解特攻のすべて」

甲標的

魚雷2本を艦首に装備し、鉛蓄電池によって行動する小型の潜航艇であったが、後に発電用のディーゼルエンジンを装備し、ディーゼル・エレクトリック方式となった。開発当初は洋上襲撃を企図して設計されたが、後に潜水艦甲板に搭載し、水中から発進して港湾泊地内部に侵入し、艦船を攻撃するよう戦術が転換された。

特殊潜航艇 甲標的といえば1944年12月8日の真珠湾作戦で5隻10名が真珠湾に潜入。戦果不明ないし戦果無しともいわれるが、5隻とも侵入し、1隻は攻撃成功したという研究もある(ウイキペディ)5隻とも未帰還、1隻は座礁。

1942年5月31日、甲先遣支隊によるマダガスカル島のディエゴスワレス攻撃が行われた。日本時間の午前零時、港口から一〇浬(約一八キロ)の地点から甲標的は発進し、魚雷を発射。英戦艦「ラミリーズ」を大破、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティを撃沈した。

 

また、甲先遣支隊がディエゴ・スアレス港の英艦を攻撃したのと同じ五月三十一日、東方先遣支隊もオーストラリアのシドニi港に甲標的を発進させていた。この日、シドニー港には日本との珊瑚海海戦から帰投した米重巡「シカゴ」、駆逐艦「パーキンズ」「ドビン」、豪重巡「キャンベラ」、仮装巡洋艦「カニンブラ」(英)「ウエストラリァ」(豪)など多数が停泊していた。甲標的はそれらの艦艇に魚雷攻撃を行う予定だった。しかし、一隻はシドニー港への潜入には成功したが、防潜網に引っかかってしまい、自爆した。

もう一隻の甲標的は零時三十分過ぎにシドニー港内のブラッドレー岬付近に浮上し、二本の魚雷を発射した。目標は「シカゴ」だった。しかし最初の魚雷は「シカゴ」を大きくはずれ、オランダの旧式潜水艦と宿泊艦「クタバル」の底を通過して岸壁に当たって爆発した。爆風は「クタバル」を襲い、木造の同船は水中から突き上げられて真っ二つに砕け散り、寝ていた水兵のうち一九人が死に、オランダの旧式潜水艦も大損害を受けていた。もう一発は不発のまま浜辺に乗り上げていた。魚雷を発射し終わった甲標的は帰投しようと努力していた形跡がある。だが、「シカゴ」の砲撃によって沈められてしまった。

しかし、その大胆不敵な作戦行動と勇敢さはオーストラリア軍に讃えられた。

1942年11月28日サボ島沖21浬地点付近で、伊16潜水艦は外弘志少尉、井熊新作二等兵曹を乗せた甲標的を発進。0816、ルンガ岬北東2700m地点付近で、搭載艇が米貨物輸送艦アルチバ(USS Alchiba, AK-23)を発見し雷撃。同艦を撃破。

 USS Alchiba, AK23  was anchored off Lunga Point at 0616 on 28 November, when two torpedoes from Japanese Ko-hyoteki class midget submarine Ha-10 (launched from submarine I-16) exploded on the vessel's port side. At that time, her No. 2 hold was loaded with drums of aviation gasoline and ammunition, and the resulting explosion shot flames 150 feet in the air. The commanding officer, James Shepherd Freeman, ordered the ship to weigh anchor and run upon the beach. This action undoubtedly saved the ship. Hungry flames raged in the ship for over five days before weary fire fighting parties finally brought them under control. 

November 7, shortly before 0930, lookouts in Lansdowne, anchored near USS Majaba AG43, spotted the periscope of HA-11 ( Imperial Japanese Navy) followed by two torpedo wakes. One torpedo, which apparently passed under Lansdowne, hit the beach but failed to explode. The other curved toward Majaba and exploded against her starboard side amidships, destroying her engine room and boilers. She settled and listed slightly but did not sink.

武装は、先端部に魚雷を2本装備している。この魚雷は開戦からソロモン諸島の戦いガダルカナル島)までは直径45cmの九七式酸素魚雷を用いた。射程5,000m、雷速50ノットである。それ以降は直径45センチの二式魚雷または九一式魚雷であった。射程は3900m、雷速は39ノットである。ただし酸素魚雷より電気駆動の魚雷は整備性に優れた。両方とも炸薬量は350kgであり、甲標的の火力は攻撃機2機分に相当する。魚雷は発射管に収められており空気を注入して射出する。このため魚雷を撃ち出すと1トン近い浮力が発生し、艦首が跳ね上がり、海面へ飛び出した。のみならずこの不安定な挙動のために魚雷も偏った方向へ撃ち出され、狙った方向へ進まないという事態が起こった。甲標的の挙動が収まるまでには30秒を要するが、不安定な状態で再発射しても正確な方向に魚雷は向かわない。そこで魚雷を連続発射し、散布の中に敵艦を入れる公算射法は行えず、単発発射を行うほかなかった。敵艦に対する最適発射距離は800mとされた。

甲標的は攻撃の前提となる索敵能力も乏しく、電波兵器もソナーも持たないため、外界をさぐる手段としては長さ約3mの特眼鏡が一本のみであった。甲標的母艦「千代田」艦長の原田覚大佐は、露長高1mで15kmを視認できうるとした。大型マストをもつ戦艦などはより遠くから視認できうるが、30km程度が限界であった。波浪の中、常に揺れる狭い視界で索敵を行うのは非常に困難だった。また発見しても敵艦の進行方向、速度などの諸元を割り出して魚雷発射の方位、タイミングを算定するのが艇長の暗算のみという状況であり、命中率は非常に低くなった。

特眼鏡が短く、露頂深度でのトリム維持が困難でもあり、司令塔を露出しやすかった。波浪の大きい外洋では50トン程度の小型の艇体が上下し、一定の深度を保ちにくかった。したがって攻撃のために特眼鏡を使用する深さまで浮上すると(露頂)、発見されて攻撃を受けるという事態が生じた。真珠湾攻撃ではこの状態の甲標的が複数発見、撃沈された。

海龍(潜水艇特殊潜航艇 

建造数224隻 19.2t 17.3m 乗員2名 45cm 外装式魚雷2本、または爆装600㎏ 水中10ノット

蛟竜(潜水艦)甲標的を大型化し行動力不足を改善、計画1945年4から6月110隻、7月から9月430隻、10月以降1000隻。45㎝魚雷発射管2本

ガタルカナル戦まで九七式魚雷(雷速50kt, 射程5000m)炸薬量390kg

以後は二式、航空用九一式魚雷(雷速39kt 射程3900m) 炸薬量390kg

乗員5名(通信員を含む)

伏龍ふくりゅう(人間機雷)

潜水具を着用した兵士が浅い海底に立って待ち構え、棒付き機雷を敵の上陸用舟艇に接触させ爆破するという特攻戦法

ゴム服に潜水兜を被り、背中に酸素瓶2本を背負い、吸収缶を胸に提げ、腹に鉛のバンド、足には鉛を仕込んだ草鞋(ワラジ)を履いた。潜水兜にはガラス窓が付いているが、足下しか見えず視界は悪く、総重量は68kgにも及んだ。2ヶ月の短期間で、訓練用の航空機やその燃料が枯渇しつつあった海軍飛行予科練習生(予科練)の生徒数に見合う3,000セットが調達される予定であった。

待機限界水深は、棒機雷の柄が2メートルの場合は約4メートル以内、柄が5メートルの場合は7メートル以内。待機可能時間は約5時間。武装は炸薬量15キロの成形弾頭である五式撃雷(通称・棒機雷)。刺突機雷の五式撃雷は敵の舟艇が隊員の頭上を通過しない限り有効な一撃は与えられず、機雷が爆発すれば、水を伝わる爆圧で隊員はほぼ確実に死ぬものだった。

潜水缶は伏龍の最大の欠陥部分であった。これは長時間の潜水を可能にするために考案された、半循環式の酸素供給機であった。呼気に含まれる二酸化炭素を、苛性ソーダを利用した吸収缶で除去、再び吸入する方式である。吸収缶には潜水艦用のものが転用された。実験では5時間という長時間の潜水を実現し、他の潜水具に見られる呼気からの気泡を生じないという利点があった。しかし、鼻で吸気して口から排気するよう教育されていたが、実際には3、4回呼吸すると炭酸ガス中毒で失神しやすかった上、吸収缶が破れたり蛇管が外れたりして呼吸回路に海水が入ると、吸収缶の水酸化ナトリウムは海水に溶解し、大きな溶解熱のために高温となった強アルカリ性の海水が潜水兜内に噴出し肺を焼くという、重大な欠陥があった。訓練中に横須賀だけで10名の殉職者を出している。

伏龍の作戦では遊泳は考えられておらず、隊員は足の鉛を重しとして、海底を歩いて移動することになっていた。個々の隊員は水中で方向を探る方法を持たないため、あらかじめ作戦海面の海底に縄を張っておき、これを伝いながら沖合に向かって展開する予定であった。海岸からの距離は縄の結び目の数で測られた。訓練では指導・救助用の小舟に命綱を経由したモールス信号で「海底到着」といった簡単な連絡ができたが[5]、仮に実戦投入されていれば陸上や他の隊員との通信手段はなかった。海中にいったん展開すると、陣地変換はほとんど不可能であった。

海中では視界も悪く動きも鈍くなるため、上陸用舟艇に向かって移動するのは事実上不可能であった。五式撃雷は長い柄を持っていたが、水の抵抗のある海中では自由にこれを振り回すこともできず、当初5mも長さがあったものが2mに切り詰められた。また棒機雷の炸薬量では、舟艇を直撃しないと被害を与えることはできなかったが、数メートル離れたところを通過しても刺突することは不可能で、隊員の直上を上陸用舟艇がたまたま通りかかった場合以外に攻撃のチャンスは無かった。しかも、部隊の展開密度を上げると棒機雷が炸裂した時の爆圧で、近くの隊員まで巻き添えになるどころか次々と誘爆してしまう問題点があった。そもそも、海中での爆発による強烈な水圧は隊員に致命的なダメージをもたらすため、上陸に先立つ準備砲撃が付近の海中に落ちただけで、伏龍部隊の大部分は駆逐されてしまったであろう。兵士を避難させるコンクリート製防御坑の計画はあったものの、終戦までに防御坑が構築されることはなかった。

隊員の多くは、教育中止で本土決戦に向けて防空壕を掘っていた10代後半の予科練出身者。部隊の展開時期は10月末を目標にしていたが、途中で終戦をむかえたため、伏龍が実戦に投入されることはなかった。

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p177「図解特攻のすべて」

B29へ体当たり

乗員11名((Pilot, Co-pilot, Bombardier, Flight Engineer, Navigator, Radio Operator, Radar Observer, Right Gunner, Left Gunner, Central Fire Control, Tail Gunner)

 

専門の航空機関士を置く初めての機体にもなった。B-17までの従来の軍用機は操縦席の計器盤をエンジン関係の計器が埋め尽くしており、パイロットは操縦と共にそれらの計器類を監視しなければならなかったが、B-29ではそれらが全て航空機関士の前に置かれ、パイロットは操縦に専念

 

全長   30.2m

全幅 43m

全高   8.5m

重量 戦闘離陸最大 61t

速力 最速575km/h  巡航350km/h

飛行距離 9000km

Service ceiling  9710m

武装 8 or 10 x 12.7mm Browning M2/ANs in remote-copntrolled turrets

            2 x 0.50 BMG    1 x 20mm M2 cannon in tail position

爆弾 9100kg ~2300kg (飛行高度と距離による)

従来の飛行機では高空で機内の気圧・気温が低下するため酸素マスクの装備、防寒着の着用が必要だが、B-29は高度9,000 mで高度2,400 m相当の気圧に維持

爆弾槽を開閉する必要から、B-29では機体前部の操縦室と機体後部の機関砲座を与圧室とし、その間を直径85 ㎝の管でつなぎ、搭乗員はこの管を通って前後を移動した。被弾に備えて酸素ボンベも設置された。機内冷暖房も完備され、搭乗員は通常の飛行服のみで搭乗していた

機体は軽量ながら強靭な装甲板に覆われて防御力も高かった。日本軍の戦闘機や対空砲火で無数の弾痕や高射砲の破片痕が開き、中にはそれが機体上部から下部に達するような大穴であったり、尾翼の大半が破壊されたりしても、マリアナ諸島の飛行場まで自力で帰還するものもあった。

軽量化のために多用されたマグネシウム合金の可燃性が強いため、重篤な火災となることも多かった。

当時のアメリカの最先端の電子装備が配備され、航法や爆撃任務に最大限活用された。初期型では、長距離航法としてLORAN地上系電波航法が用いられた。高高度爆撃と飛行に使用されたレーダーの80センチアンテナは2つの爆弾倉の間に設けられた半球状のレーダー・ドーム内に設置され夜間爆撃用に使用される。一部の機体に設置されたより高度な「イーグル」爆撃照準・航法用レーダーは、機体下部に吊り下げられた翼状のケースに収納。SCR-718レーダー高度計は爆撃のための詳細な高度測定と地形マッピングに使用された。またその計測データは偏流計のデータと合わされて、対地速度と針路を計算するのにも使用された。

B-29では与圧室の採用により通常の爆撃機のように人が乗り込んで直接操作する方式の銃座は設置できないため、射手が集中火器管制を行って機銃を遠隔操作する方式をとった。B-29は5ヵ所(胴体上面の前後部、下面の前後部、尾部)に火器を備え、上部および下部銃塔には連装のAN-M2 12.7ミリ機関銃、尾部には同様のAN-M2 12.7ミリ連装機関銃に加えてAN-M1 20ミリ機関砲 1門が装備された。装備はその後何度も改変されたが、銃塔を制御する照準装置は5ヵ所に設置され、4ヵ所は専任の射手が、もう1ヵ所は機体前方に配置されている爆撃手が兼任で担当した。

照準器には、弾着点とそれを囲むレチクルと呼ばれるオレンジ色の点々の丸い円が写しだされ、射手は敵機の翼幅を照準器で手動でその数字に設定し、敵機が見えると右手にある距離ノブによって照準器を始動させ、照準器内で敵機を弾着点とそれを囲むレチクルの丸い円に入れるように操作する。このレチクルは距離ノブの操作により丸い円の直径が変化して距離が測れるため、敵機が近づくと距離と同時に弾着点を捉え続けているので、敵が射程に入り次第親指で発射ボタンを押して射撃するだけでよかった。

照準器と銃塔の動きは同期するが、目標への方位角や仰角などの機銃の発射する弾の弾道計算を含むすべての計算は、床下に収められ装甲で保護された重量57㎏のアナログ・コンピューター5台よって行なわれるため、それまで非常に高い練度を必要とした見越し射撃が誰でも可能となり、従来の爆撃機搭載防御火器よりも命中率が驚異的に向上した。

サイパンなどマリアナ諸島に進出した米陸軍のB29重爆撃機が、東京を初空襲したのは1944年11月24日だった。この東京初空襲に対して本土防衛の陸軍航空部隊は一斉に出撃した。すでにこの日を予期して、帝都防衛を担う飛行第十師団は「震天制空隊」の編成を命じていた。B29への体当たり特攻隊である。本土防空の任務は基本的には日本陸軍が担っていたのである。東京・成増の飛行第四十七戦隊でも戦闘機「鍾埴」12機からなる富士見隊という特攻隊が出撃した。この日の特攻では見田義雄伍長が体当たりに成功して戦死した。対B29特攻の戦死第一号である。

 

日本の戦闘機は、空冷エンジンの機体が圧倒的に多く、高高度性能が劣る日本軍戦闘機は、当初高高度精密爆撃を主戦術としていたB-29の迎撃に大変苦労をしていた。本土防空戦でに主力機の1機となった二式戦闘機「鍾馗」は、武装や防弾鋼板から燃料タンクの防弾ゴムに至るまで不要な部品を取り除いても、B-29の通常の来襲高度と同水準の10,500mまでしか上昇できなかった。一瞬のうちに接敵するため照準が困難で、一度攻撃に失敗すると上昇姿勢となるため急速に失速し、B-29の銃座から恰好の目標となってしまうこと、またうまく離脱できても、高高度でのB-29と鍾馗の速度差から再度の攻撃が困難であったという。B-29を苦しめたジェット気流が迎撃側の日本軍戦闘機にも障害となり、東京に来襲するB-29を迎撃する場合、B-29は伊豆半島あたりから北上してそののちに東に針路を変えてジェット気流に乗って加速してきたが、迎え撃つ日本軍戦闘機は高度8,000mまで上昇するとジェット気流に逆行する形となり、フルスロットルでも気流に押し流されて対地速度が殆どゼロの凧のように浮いているだけの状態になった。このような状況下ではいくら熟練搭乗員でも、八王子ぐらいでB-29を捕捉して1撃を加え、反復して東京上空で2撃目、そして爆撃を終えて帰投しているところを銚子上空で3撃目を加えるのがやっとであった。ウイキペディ

気温は1000メートル上昇するごとに六度下がるから、地上が二〇度でも零下四〇度の極寒になる。搭乗員は電熱服を着て飛び立ったのである。

 

しかし、B29の迎撃は、もちろん戦闘機の体当たりだけに任せていたわけではなかった。高射砲部隊も多数が配備されていた。しかし、その砲弾はせいぜい7000~8000メートルまでが有効射高だった。一万メートル上空のB29に到達する一五センチ高射砲(射高20,000m)はわずか二門しか生産できなかった。その後、米軍が高高度精密爆撃から低高度に変更すると、B29の損傷も増大した。

下記写真は​「写真太平洋戦争 丸5 特攻」より

ウイキペディによると

データーは種々あり、異なるが、

 

B29 乗員報告による特攻を受けた機数は

 出撃機数 3,592機(特攻を受けた作戦の機数のみ) 特攻による損失機数 111機

 

米国戦略爆撃調査団統計では

 延べ出撃機数 33,401機 総損失機数 485機 投下爆弾 147,576トン

 戦死搭乗員 3,041名

第20空軍1944年6月5日以降

作戦数 380 戦闘出撃機数 31,387 投下爆弾・機雷171,600トン

戦闘損失数 494 搭乗員戦死 576名 搭乗員行方不明 2,406名

尚米軍は確実な撃墜以外は未知(ないし未確認)lost to unknown reasons / causesとする

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陸軍 航空隊    ウィキペディア

氏名・階級   所属  B-29撃墜数  備考

樫出勇中尉   第4戦隊  26機  B-29撃墜数トップ、ノモンハン事件でも7機撃墜

木村定光少尉   第4戦隊  22機  1945年7月14日戦死

伊藤藤太郎大尉 第5戦隊  17機  B-29、20機撃破

白井長雄大尉  第244戦隊 11機  F6Fヘルキャット2機撃墜

海軍航空隊についても、夜間戦闘機「月光」に搭乗した第三〇二海軍航空隊所属の遠藤幸男大尉がB-29撃墜破数16機[151][328]、うち撃墜は8機を記録して「B-29撃墜王」などと呼ばれた。横須賀航空隊所属の黒鳥四朗少尉も一晩で5機を撃墜するなど、合計で6機を撃墜している。

2回もB-29への体当たりを成功させて撃墜し生還した板垣政雄軍曹や中野松美伍長、三式戦闘機「飛燕」の主翼をB-29に尾翼に当てて破壊撃墜しながら、自らは片翼で生還した四宮徹中尉など、B-29を体当たり撃墜しながら生還したケースもある。

​B29への体当たりは、その直後にパラシュート脱出することもあり生還者がいた。

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