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太平洋戦争」という戦争の名称は、戦後すぐ、日本を占領中の連合軍最高司令部GHQの指示で使われるようになった。GHQはプレス・コードなどでそれまで日本で戦時中使われていた「大東亜戦争」の使用を新聞で避けるように指令し、1945年12月15日の神道指令では軍国主義・国家主義を連想させるとして「大東亜戦争」呼称の使用を公文書において禁止した(のち失効)。

米国にとって日本との戦争は、太平洋が主たる戦場であったので、「太平洋戦争」という呼称が正確な表現であろうが、日本にとっては太平洋は米国との主戦場のみを指す言葉で、実はアフリカ東岸のマダガスカルまで潜水艦で攻撃し、アメリカ西岸を潜水艦の砲撃や潜水艦搭載の攻撃機で爆撃を行ったほか、オーストラリアも爆撃し、太平洋北部のアリューシャン列島まで攻撃した。太平洋のいくつもの島々からフィリピン、沖縄では激烈な戦闘が行われ、日本本土も原子爆弾を含む広範囲で激烈な爆撃を受けた。また、米国が参戦する前から、日本は中国と戦っていてこの日中戦争がそもそも米国その他の国との戦争に結びついた。アフリカ東岸から中国本土や東南アジアの戦闘を「太平洋戦争」という呼称に含むのは少し無理がある。

GHQはアメリカ主導であったので、アメリカの西の主戦場であった太平洋を名称としThe Pacific Warとした。

wikipediaによるとThe Pacific War, sometimes called the Asia–Pacific War,was the theater(戦域) of World War II that was fought in Asia, the Pacific Ocean, the Indian Ocean, and Oceania. It was geographically the largest theater of the war, including the vast Pacific Ocean theater, the South West Pacific theater, the Second Sino-Japanese War, and the Soviet–Japanese War.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本では開戦直後の1941年(昭和16)12月12日、閣議決定に基づき内閣情報局は「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大東亞新秩序建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味に非ず」と発表され、戦争目的はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定した。

 しかし、日本の戦争目的については、「自存自衛」とするもの、また「自存自衛」「大東亜新秩序形成」の二本立て、また「大東亜新秩序形成」のみが戦争目的とするものの間で当時見解が分かれていた。「自存自衛」を目的と考えていたものにはこの発表に異論があった。

1938年11月3日、日本の第一次近衛文麿内閣(1937.6~39.1)は中国国民政府内の親日派(反蔣介石派)との提携を進めるため、この年1月に出した第一次声明「国民政府を相手とせず」を撤回し、第二次声明を出した。その中では、日中戦争の目的は、東亜(東アジア)に永遠平和を確保できる新秩序「東亜新秩序」の建設にあるとしたうえで、中国の国民政府が従来の方針(共産党の国共合作)を捨ててこの新秩序建設に参加することを拒否しない、ということが骨子であった。つまり、従来の中国国民政府を無視する策を改め、東亜新秩序の建設という大義名分により交渉を再開する姿勢を示したものであり、ここでいう東亜とは日本、満洲、朝鮮、日本の東アジアのことであった。

 この第二次声明「東亜新秩序」の背景は、当時日本軍は広州・武漢などを攻略したものの、重慶に遷った蔣介石の国民政府軍を追いつめることが出来ず、日中戦争の終結をどうはかるか苦慮していたことが挙げられる。日本軍は局面を打開するためにひそかに国民政府の反蒋介石勢力である汪兆銘(汪精衛)と接触し、重慶政府の分裂を図っていた。この声明はそれへの呼び水の意味をもっていた。同年12月、重慶を脱出した国民党の汪兆銘が、ハノイに到着すると、近衛内閣は第三次声明「善隣友好、共同防共、経済提携」を和平交渉の三原則とすることを発表して中国に新政権が成立することを促し、汪兆銘は抗日戦を中止することを日本に伝えた。汪兆銘は日本政府の期待を受けて1940年3月30日、南京国民政府を樹立、日本政府はこれを正統な政府と認め、和平交渉を進めていくこととなった。
 しかし、重慶政府は米英の援蔣ルートによる支援を受けて各地で抵抗し、共産党軍もそれに呼応して抗日戦を継続、南京国民政府への国民的支持は広がらなかった。さらに近衛内閣は軍部との関係を悪化させ、近衛自身も政策遂行に限界を感じて1939年1月に総辞職し、代わって平沼騏一郎内閣が成立。

また第2次近衛内閣(1940.7~41.7)では「大東亜新秩序」が表明されるがそれは東亜新秩序を拡張したもので、大東亜共栄圏の構想のもととなった。 「世界史の窓」より

1941年12月8日真珠湾攻撃・マレー作戦開始から1945年8月15日終戦の詔(乃至9月2日の降伏文書調印)までの戦争は太平洋の戦闘を中心とする戦争であったが、中国を含むアジアでの戦闘も継続しており、太平洋だけが戦闘地域ではない。アジア大陸以外の、太平洋、インド洋、オセアニアを含む広大な地域で戦闘があり、「太平洋戦争」はこの一部である。また、「太平洋戦争」は1931年9月柳条湖事件に始まる日中戦争に直結しており、「太平洋戦争」の間も、「日中戦争」は継続していた。「15年戦争」と呼べばすべての地域を包括できるし、切り離すことが難しい「1931年からの日中戦争」と「1945年で終了した太平洋戦争」を含むこともできる。

1931年9月18日の柳条湖事件に始まる日中戦争(不戦条約に参加していたこともあり宣戦布告もなく日本は日支事変と呼んだ)は、真珠湾とマレー半島を攻撃した1941年12月8日から1945年8月15日の終戦までの太平洋戦争勃発の原因であり、また蒋介石を援助する援蒋ルートの遮断を目的としたインドシナやビルマの戦闘、米軍のB29による中国からの本土爆撃阻止を目的とした中国での戦闘など、日中戦争と太平洋戦争は一続きの戦争であり、また密接に重なる部分がある。

1945年8月終戦時、日本軍は海外に約335万人が駐屯し、そのうち54%が中国・満州(中国112万人、満州67万人)、太平洋戦線に94万人28%、千島・樺太・朝鮮・台湾に62万人18%で、大陸から多くの兵隊が南洋方面に移送された後でも全軍の半数以上が中国・満州で戦っていた。

米国は中国に多大な援助を与え、ごく少数の米国軍人も中国大陸で中国軍に協力したが、米国にとっての日本との戦争は真珠湾に始まり、太平洋の島々から沖縄、広島、長崎で終わる「太平洋戦争」であった。

また、日本は開戦の第一の目的をインドネシア(当時オランダ領)の石油を占領することにしたが、同時に、アジアの植民地を開放し「大東亜新秩序を建設」するという大義名分も付け加えた。それは一部実行されたものの、独立を認めなかったり、戦闘や占領政策の実施において植民地に対して大きな物的人的損害を与えたという大義に背く面があったため、「大東亜戦争」という名称を使うことも適当でない。その最たる例は朝鮮民族の要求する独立自決を認めず自ら植民地を開放しなかったことであり、中国の独立性を最初から最後まで疎外したことも、「大東亜」の大義に対する自己矛盾であろう。

1943年(昭和18年)5月31日の御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」ではフィリピンを独立させるとあるが、日本が占領する直前米国が既に独立を認めていた。イギリス領マラヤ、オランダ領東インド(蘭印)は日本領に編入することとなっていた(但し、蘭印については、1944年(昭和19年)9月7日の小磯声明で将来的な独立を約束した)。この「大東亜政略指導大綱」にはこれらの地域を日本領とする理由が「重要資源ノ供給源」とするためと明確に謳われており(第二要領 六 其他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通定ム(イ)原文「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発竝ニ民心ノ把握ニ努ム)、しかもこれについては「当分発表セス」とされていた。西欧の植民地主義国からアジアの植民地を開放するという大東亜共栄圏の理想から遠い。

1943年(昭和18年)7月1日の厚生省研究所人口民族部(現・国立社会保障・人口問題研究所)が作成した報告書では、日本人はアジア諸民族の家長として「永遠に」アジアを統治する使命があるとも記されている。

イギリス領マラヤの一部だったシンガポールは、昭南特別市と改称された。もし独立させるならなぜ日本名に変えたのか?その意思がなかったと取られて止むない。

それでも一般兵士や将校の中には「植民地解放のための戦い」を信じ、植民地解放のために行動し、戦闘に加わった人達がいた。また、韓国併合に反対したり、満州中国からの撤退を早くから主張した人もいた。

これが実行されていたなら戦争が避けられたかもしれない。一方、敗戦がなかったなら全体主義で自由のない日本はそのまま残ったかもしれない。あるいは戦争の悲劇を回避し、時間はかかったかもしれないが、自由で国民の権利をしっかり守る国に成長できたかもしれない。

​過去の失敗に学び、いかにそれをくり返さないか、難しくとも、我々の責任で次の世代のために考え行動しなければならない・

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各国戦争記念日

このHPは、広くウイキペディアを参照・引用させていただいております。
15年戦争 日中戦争 太平洋戦争

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