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1932年から1937年
1931年 
9月18日 柳条湖事件(満州奉天近郊, 関東軍満鉄爆破 
           関東軍謀略 板垣征四郎、石原莞爾)

10月はじめ、関東軍参謀板垣征四郎大佐は、上海駐在陸軍部として特務機関の活動をしていた田中隆吉少佐に、満州を独立させるために上海でことを起こし、世界の注意をそらしてほしいと依頼。翌年1月18日、田中と「東洋のマタハリ」と言われた川島芳子の謀略によって、上海で日本の僧侶など5人が中国人に襲われ、これに対して日本人居留民が中国側と衝突。日本政府と軍部は陳謝と加害者処罰などを要求。上海市長は全て承認したにもかかわらず、28日海軍陸戦隊は中国第19路軍を襲撃し第一次上海事件が開始。

12月13日 政友会 犬養内閣・高橋是清大蔵大臣 

       金輸出再禁止 金本位制終了
       農業恐慌  積極財政

1932年

1月8日昭和天皇、関東軍の謀略を称賛する勅語を発し、関東軍の謀略と独断によって若槻内閣の不拡大方針を無視して展開した満州事変は国策となる。

  満州事変臨時軍事費2億7821万円(歳出予算の14.3%, 31年度一般会計陸軍軍事費1億6202万円)が満州事変終結まで毎年支出。→陸軍軍備拡張→海軍謀略(第二次上海事変)により予算獲得

1月28日日本軍の謀略により第一次上海事変始まる

  中国支配で、陸軍は華北と満州、海軍は華中・華南とすみわけ

2月2日伏見宮博恭親王軍令部長に就任(33年9月軍令部総長と改称)
海軍兵学校(ドイツ帝国)卒業、海軍大学校(ドイツ帝国)卒業(海軍兵学校(日本)18期相当)
日露戦争では連合艦隊旗艦三笠」分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う[注釈 1]艦長艦隊司令長官を務める。博恭王が海軍軍令最高位である海軍軍令部長に就任した[10]。同年5月27日[注釈 4]付で、元帥府に列せられ元帥(終身現役)。海軍軍令部は冠の「海軍」が外れて「軍令部」となり、海軍軍令部長も「軍令部総長」となる。これは陸軍の「参謀本部」「参謀総長」と対応させたもの。兵力量の決定権を海軍省から軍令部に移して軍令部の権限を大幅に強化し、海軍省の機能を制度上・人事上弱体化。太平洋戦争中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を得ることが不文律。晩年は病に悩みながら終戦1年後に死去。
 

満洲事変勃発直後の9月22日、上海で開催された反日大会で「上海抗日救国連合会」が組織され、

  1. 国民政府に対し、軍事動員して日本軍を駆逐し占領地を回復するよう要請する

  2. 総工会及び失業者で救国義勇軍を組織する

  3. 日本からの水害慰問品を返還する

  4. 対日経済関係を絶つ。違反者があれば撲殺する

ことを決議し、日本資本の紡績工場で就労拒否が拡大し退職者が続出した。9月24日に上海の荷役労働者3万5千人が、26日には郵便、水道、電気、紡績、皮革など約100の労働組合がストライキを敢行。租界には抗日ポスターが貼られ、学生や労働者による集会が頻繁に開催されて「打倒日本帝国主義」が叫ばれ、日本人通学児童への投石事件も相次ぎ、学校は授業短縮や休校を余儀なくされた。

第一次上海事変

満州事変の際に起こった日中間の局地戦争。世界の耳目を「満州国」の設立工作からそらし、中国の抗日運動を抑えるための謀略工作から発した。参謀本部付少佐田中隆吉(りゅうきち)らは、関東軍参謀大佐板垣征四郎らの依頼で中国人を買収し、1932年(昭和7)1月、日本人僧侶を襲撃・死傷させ、抗日運動の中心地上海に険悪な情勢をつくりだした。この事件は、中国側当局が日本の抗議要求をのんで落着したが、日本海軍は日本租界に陸戦隊を配備し、28日中国軍と衝突した。中国側の第十九路軍は抗日意識の高い精兵で、上海市街や北西郊外の水陸の地物を巧みに利用して陸戦隊を苦しめた。

 

2月、日本政府は陸軍3個師団余を動員、激戦を展開した。上海は各国の権益が交錯するため、英・米・仏3国の休戦勧告など国際的圧力もあり、国際連盟の介入を恐れた日本は、連盟総会直前の3月1日ようやく大場鎮(だいじょうちん)の堅陣を落とし、3日第十九路軍の退却で戦闘を中止した。5月に停戦協定が結ばれ、日本軍は撤退した。この間3月に「満州国」が発足し、謀略の意図はいちおう成功したが、中国の抗日意識や列強の対日警戒心を一挙に増大させる結果を招いた。廟行鎮(びょうこうちん)攻撃の際、破壊筒を持って突入した兵士が爆弾三勇士として国民的英雄とされ、また停戦交渉中の4月、朝鮮人独立運動家尹奉吉(いんほうきつ)の投弾で上海派遣軍司令官大将白川義則(しらかわよしのり)、中国公使重光葵(しげみつまもる)らが負傷(のち白川は死亡)するなど、内外に大きな波紋を与えた。コトバンクより


上海事変を知ったJPモルガンのトーマス・ラモントは森賢吾へ次のように書いている。「上海事変はすべてを変えました。日本に対して、何年もかかって築き上げられた好意は、数週間にして消失しました。」

上海は中国の最大の貿易港で、列強の中国支配の拠点であり、列強の権益が集中していた。列強はその

上海で日本が戦争をおこしたことに、満州の場合よりもいちだんと強く反発した。二月二日イギリス・アメリカ・フランスの三国駐日大使はそろって日本に戦闘停止を申し入れ、国際連盟理事会の「我方に対する空気の極端に悪化し居ることは空前と認められた」(佐藤尚武理事の報告)。列強の圧力と国際的孤立は対米英依存という日本の現実からいって到底無視しえないものであった。高橋是清蔵相は二月中旬、西園寺の秘書原田熊雄にたいして、「出兵が因で結局戦争にでもなるといふ場合に、英米におけるクレジットを阻止されてゐたら、全く手も足も出ないし、のみならず、列国から孤立すれば、やっとここまで仕上げて来た満蒙まですべて失ってしまふ結果に陥りはせんか、頗る憂慮に堪へないところだ。日本の財政も、来年の三月限りで到底続きはせん」と語った。国際連盟の勧告によって、三月下旬から日中両国および英・米・仏・伊の関係四か国による停戦会議が開始され、天長節爆弾事件が発生したものの、五月五日停戦協定が成立した。日本軍は死傷者3091名という犠牲をはらって、上海から撤兵した。十五年戦争より


戦闘開始後に日本人居留民の間で自警団が組織され、銃や刀で武装し検問が実施された。彼らは便衣隊狩りの名目で中国人住人を捕まえて陸戦隊に引き渡したり、自ら監禁・処刑するなどの行動に出た。
重光葵公使は2月2日付で芳沢謙吉外相に宛てて、「彼らの行動は、便衣隊に対する恐怖と共にあたかも大地震当時の自警団の朝鮮人に対する態度と同様なるものがあり、支那人に対して便衣隊の嫌疑をもって処刑せられたるもの数百に達するもののごとく、中には外国人も混入し居り将来の面倒なる事態を予想せしむ、ために支那人外国人は恐怖状態にあり」と書いている

2月2日伏見宮博恭親王軍令部長に就任(33年9月軍令部総長と改称)

3月1日関東軍、「満州国建国」を宣言

 各国の関心が上海に向かっている間に、板垣征四郎ら関東軍参謀は準備を進めて満州国健康宣言。

 国務院総理や各部の総長は建国に協力した旧軍閥系官僚や政治家がなったが、次長には日本人が付いて、実権を握った。満州国軍は日本人軍事顧問の統率下におかれ、実質的に植民地化された。

3月11日国際連盟臨時総会、「満州国家」不承認を決議

 

5月5日第一次上海事変の停戦協定成立

5月15日海軍青年将校ら「国家改造」をとなえて犬養毅首相(政友会)を暗殺(五・一五事件)

   ロンドン海軍軍縮条約1930年は民政党の浜口雄幸内閣。会議の首席全権は元首相の若槻礼次郎。海軍の要求は対米英比70%、これが69.7%。これを軍令部長の加藤寛治らが統帥権干犯として攻撃。これに政友会の犬養、鳩山一郎、森格つとむ等が、浜口内閣打倒に利用。立憲政治・議会政治にみずから攻撃、立憲政治・議会政治を葬ることになる。浜口雄幸は東京駅で右翼に狙撃され、犬養自身も統帥権を御旗にする海軍青年将校グルーブに暗殺される。

   1918年政友会の原敬以来の政党内閣制の終焉=軍部による専横政治の始まり

 

齋藤実まこと(海軍出身

総理大臣であった犬養毅海軍将校らによって殺害された五・一五事件のあとの第30代内閣総理大臣として、陸軍関東軍による前年からの満州事変など混迷した政局に対処し、満州国を認めなかった国際連盟を脱退しながらも、2年1か月という当時としては長い政権を保ったが、帝人事件での政府批判の高まりにより内閣総辞職した。その後内大臣となって、直後に二・二六事件で暗殺された。

9月15日日満議定書調印  満州国承認

   中国国民政府の蒋介石、東北政権の権力者張学良は、不抵抗主義なるも

   満州各地の軍隊や民衆は自発的に抗日義勇軍を組織(反満抗日闘争)

   関東軍発表で約21万人が反満抗日軍、1935年1月にはほとんど掃討される。

9月16日日本軍による平頂山虐殺事件発生

   抗日遼寧民衆自営軍が満鉄経営の撫順炭鉱事務所を襲撃。日本側独立守備隊が平頂山の村民すべて、3000余を殺害、焼却、埋めた。

10月張作霖爆殺事件のスイッチを押した東宮鉄男が石原莞爾の命で考案した農業に従事しながら治安維持、辺境防衛にあたる屯田兵制度である第一次武装移民団、在郷軍人492人、佳木斯ジャムスに入植  

10月2日 リットン報告書

   関東軍の自衛的、合法的な軍事行動ではない、「満州国」は民族独立運動によって建国されたとは認められない。今後については、日本を中心とする列強の共同管理下に満州を置くことを提案。


インフレ政策・公債発行・為替下落・賃金カット・大量輸出

1933年

2月11日第一次武装移民団先遣団150人、永豊鎮に入植、弥栄村と命名

2月23日5月31日熱河作戦

日本は軍閥張学良から内モンゴル熱河省を勝ち取り、それを新しく設立された満州国に併合し、その南の国境は万里の長城に迄拡大。

2月24日国際連盟総会、リットン報告書を採択、賛成42,反対日本、棄権シャム。日本代表松岡洋右抗議の退席。2月25日付東京朝日新聞「総会、勧告書を採択しわが代表堂々退場す」松岡洋右は熱狂的に帰国歓迎されたが、その後、外務大臣となり三国同盟、日ソ不可侵条約締結など戦争に導く。

3月27日日本政府、国際連盟脱退を通告、天皇も国際連盟脱退の詔勅を下す

 

5月31日 タンクー塘沽停戦協定(国民政府との停戦、満州事変区切り)→華北分離工作

​  満州国が成立したのに、関東軍の領土拡大の野望は終わらなかった。

7月25日第二次武装移民団455人、七虎力に入植、千振村と命名

   既存の中国農民の農地や武器収奪

9月18日中国共産党による東北人民革命軍第一軍(師長楊靖宇)成立→第11軍までの東北抗日連軍へ

   満州北部に韓国独立軍、南部に朝鮮革命軍が組織。金日成も祖国光復会を指導。​

10月、軍令部長を「軍令部総長」という名称に変更。これは、陸軍の参謀総長は天皇を輔翼する帝国全軍の参謀総長と位置づけられ、戦時に設定される大本営において、陸海軍の大作戦を計画するとされてきたことに対抗しての名称変更であった。

海軍はまたその直後に海軍省と軍令部の関係も改正した。それは、軍令部が天皇に直属する機関であるので、「統帥権独立」により、軍政機関として海軍省がもっていた艦隊・軍隊の編制大権も軍令機関たる軍令部の統帥大権にふくまれるという拡大解釈をして、軍令部が海軍省にたいして圧倒的優位をもつようにしたのである。具体的にいえば、海軍大臣が平時に保有していた軍隊指揮権が削られ、もっぱら軍令部総長の下におかれるようになり、軍令部総長は、各艦隊や鎮守府司令長官、各要港部の司令官にたいして年度作戦計画を直接指示できるようになった。また、海軍の年度作戦計画も、もっぱら軍令部の第一部(作戦)だけで立案し、天皇に奉呈する前に海軍大臣に商議するという従来の慣行も捨てられ、海相がもつ部内統制力は大幅に縮小されることになった。さらに、軍令部は「統帥権」を輔弼して、政府・議会の統制を受けることなく、独自に軍政・軍令の活動をできるようにした

10月 「長征」開始

   蒋介石国民政府は中華ソビエト共和国の領域拡大に対抗し、「安内攘外」を掲げて、ソビエト地域の撲滅5次にわたる「囲剿いそう」を行った。10月からの囲剿はあ100万の大軍で総攻撃、追い詰められた共産党中央委員会とソビエト政府関係者は1934年10月瑞金を放棄、江西省を脱出、紅軍主力10万を率いて、1935年10月12,000キロを踏破し、陜西省にたどりついたが、10万の部隊は1万になっていた。

延安を中心にした陜北(陜​西省北部)ソビエト政権が成立。

​ 1936年、この陜北(陜​西省北部)ソビエト政権を囲剿することを、蒋介石は張学良に命じた。しかし、共産党との合作を考えていた張学良はみずから飛行機を操縦して延安に飛び、教会で周恩来と面会。5月の二回目の会談で、国共合作合意。12月陜北ソビエト政権に対する囲剿が進まないことに業を煮やした蒋介石は自ら西安に乗り込んだ。張学良は蒋介石を監禁、国共合作に同意させた。(西安事件)


1934年

1月20日 - 富士写真フイルム設立(大日本セルロイドの写真部門が分社独立)

3月1日 - 満州国にて帝政実施。執政溥儀が皇帝となる。

7月3日 - 齋藤内閣が帝人事件により総辞職

7月4日 - 元老西園寺公望が後継首班を推す重臣会議開催(後継内閣決定の先例)

7月8日 - 岡田啓介内閣発足

8月19日 - 独国民投票によりヒトラー総統という地位が承認される( - 1945年)

10月1日 - 陸軍省がパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」を配布、社会主義国家創立を提唱

10月15日 - 中国工農紅軍が瑞金を脱出し長征を開始 -36

11月2日 - ベーブ・ルースら17名が米大リーグ選抜チームとして来日 (〜12月1日)

12月29日 - 日本が米国にワシントン海軍軍縮条約の単独破棄を通告。

無条約時代(ワシントン条約破棄、ロンドン会議脱退) 艦隊派加藤寛治>条約派

1935年

6月10日梅津美治郎・何応欽協定調印、日本の華北分離工作推進

9月 東条英機 関東憲兵司令官兼関東局警務部長に就任 東北抗日連軍と共産党の撲滅推進

 

8月1日中国共産党8.1宣言

1935年7月、コミンテルンは第7回大会を開催して、従来の方針を大きく変更し、「反ファシズム人民戦線」を提唱した。それまで打倒の対象としていたブルジョワ民主主義勢力とも、ファシズムを倒すために同盟しよう、という呼びかけであった。中国については1935年8月1日付けで「一切の救国、救民の組織が連合して、統一国防政策を樹立しよう」という宣言が、モスクワにいた中国共産党の王明によって発せられた。この人民戦線戦術はスペインフランスでの実行されたことを受けて、コミンテルンで採用された方針であり、中国での象徴が「八・一宣言」であった。
 八・一宣言の正式名は「抗日救国のために全同胞に告げる書」で、中国共産党中央と瑞金 の中華ソヴィエト共和国政府の連名で出されていたが、実際の起草と伝達を担当したのはモスクワのコミンテルンに駐在した中国共産党代表団(王明など)

12月9日北平学連の学生、日本の華北分離工作に反対して大規模デモ(一二・九運動)

おりから日本軍による満州国建設に続く中国侵略がさらに露骨になり、1935年には華北分離工作が進められていた。しかし南京にあった国民政府蔣介石政権は、共産党との内戦を優先し、日本軍にはほとんど抗戦しない姿勢をとり、傀儡政権である冀東防共自治政府の設立を認めるなど、屈辱的な妥協を重ねていた。そのため、国民の怒りが強まり、同1935年12月には北京の学生を中心に十二・九学生運動が始まり、中国共産党もその指導にあたった。
 中国共産党は、1934年10月に国民政府軍に拠点の瑞金を追われ、いわゆる長征を開始していた。その途次、19351月の遵義会議において中国の独自路線を主張する毛沢東が主導権を握ったが、この段階ではまだソ連留学から帰国したコミンテルンに忠実な勢力も残っていたので、この八・一宣言も正式な文書として発表された。こうして「日本帝国主義打倒」、「内戦を停止せよ」との声が強まるなか、中国共産党の主導権を握った毛沢東は、抗日民族統一戦線の結成に同意した。

関東軍、満州国に接する華北の支配着手。中国内で華北が第二の満州になる危機感醸成。35年5月「義勇軍行進曲」が作られ、現在の中華人民共和国国歌となる。

来Qǐlái!! 不愿Búyuàn做zuò奴隶núlì的de人们rénmen!!

立ち上がれ!奴隷となることを願わぬ人々よ
把Bǎ我们wǒmen的de血肉xuèròu,, 筑成zhùchéng我们wǒmen新的xīnde长城chángchéng!!

われわれの血と肉で新しい長城を築き上げよう
中华Zhōnghuá民族Mínzú到dào了liao最zuì危险的wēixiǎnde时候shíhòu,,

中華民族は存亡の危機に迫られている

(中略)

冒着Màozhe敌人dírén的de炮火pàohuǒ,, 前进qiánjìn!!敵の砲火に向かって進め!
 

中国共産党8.1宣言
第一次上海事変
塘沽停戦
五・一五事件
義勇軍行進曲
熱河作戦
満州国建国宣言
長征

華北分離工作

二・二六事件より一年前の1935年、関東軍と支那駐屯軍は、当時「北支自治工作」と称したが、華北を国民政府から分離して日本の支配下におくために、偉偲政権を樹立する工作を開始した。

 

支那駐屯軍は、義和団戦争に勝利した連合八力国が、清朝を脅迫して、1901年の北京議定書において、北京公使館所在区域内および北京と海港のある天津をつなぐ交通線および特定地域内に、居留民保護の名目で、列国の軍隊の駐留を認めさせた。駐屯権をえた各国は、兵数と守備担任区域について協定し、日本軍1571人、アメリカ軍1227人、フランス軍1823人、イタリア軍328人がそれぞれ割り当てられた。日本はその軍隊を、清国駐屯軍として発足させたが、辛亥革命後の1913年に支那駐屯軍と改称し、司令部を天津においた。1935年五月には、北京と天津にあわせて1771人の守備隊が駐屯していた。

華北分離工作の目的は、関東軍司令部の「北支間題について」(1935年)という文書に「北支に存する鉄、石炭、棉花、塩等の資源開発に依りて日満北支の自給自足を強化せしむる」と書かれていたように、華北の豊富な資源を獲得し、日本と満州の経済圏をさらに華北をふくめて拡大することであった。当時、日本軍当局が考えた「北支那」「北支」つまり華北とは、河北省を中心に察恰爾・山東・山西・繧遠省の五省をさした。日本は華北を「第二の満州国」化する構想を考えた。

華北分離工作
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​日中戦争全史より

日本は、対中国謀略者として知られる土肥原賢二奉天特務機関長が中心となって、
1935年2月25日、通州に殷汝耕を委員長とする翼東防共自治委員会(後に翼東防共自治政府と改称、翼は河北省の別称)を設立した。殷汝耕は漸江省出身で日本に留学、早稲田大学政経学部を卒業、日本人の妻をもつ親日政治家であったが、戦後、国民政府により国賊として処刑された(土肥原賢二も東京裁判において、A級戦争犯罪人として死刑に処せられた)。「現地に於ける北支処理の主宰者は実質的にも支那駐屯軍とす」と陸軍次官からの指示(1935年11月26日)にあるように、翼東防共自治委員会は日本の傀儡政権であった。

戦前の日本は厳格な治安維持法体制下にあり、天皇制に反対する共産主義思想を徹底的に弾圧するとともに、国民にたいして、ロシア革命は皇帝家族を処刑した暴力革命であり、ソ連は階級思想によって反革命とみなした者は容赦なく粛清して恐怖政治をおこなっている、共産主義は悪であり、危険思想であるという思想教育を徹底しておこなった。またソ連はコミンテルン(共産主義インターナショナル)を通じて、世界に暴力革命を広めようとしているなどと恐怖心を煽る報道、教育をおこなった。赤色(アカ)は共産党や社会主義国家がシンボルとして赤旗を用いたことなどに由来する。このため、天皇制の日本においては、反共・反ソ意識が国民の骨の髄まで浸透するほどに根強いものになった。それがエスカレートして、一般国民は、天皇制や日本の政治体制に同調しないで、懐疑的・批判的な人たちにたいして「アカ」というレッテルをはって忌避した。
 
日本は張学良政権を「ソ連の走狗、英米の傀儡」とレッテルをはって、満州事変を日本国民に正当化しようとした。また、共産党が組織した東北抗日連軍のゲリラも「共匪kyouhi」と蔑称した。「翼東防共自治政府」は、ソ連がモンゴル人民共和国を衛星国家にして日本の〃生命線〃である満蒙を包囲、「満州国」では東北抗日連軍をはじめとして満州共産党の活動が浸透、さらに中国国内でも共産党が抗日運動を組織して影響力を拡大しているので、そうした共産党勢力の浸透を防ぐという意味である。後に日中戦争がはじまると、ソ連の蒋介石政府援助を「ソ連の中国赤化政策」と称し、蒋介石政府を「赤魔ソ連の手先」と声高に叫ぶようになる。

1935年12月18日、国民政府は翼東防共自治委員会に対抗して、北京(国民政府時代は首都が南京であったので北平といった。)に宋哲元を委員長とする翼察政務委員会(察は察恰爾省を指す)を設立させた.

 
宋哲元は国民革命軍中央の直系ではなく、傍系の国民革命軍第二九軍長として、河北省とチャハル(察恰爾)省に勢力基盤をもっていた軍人である。翼察政務委員会は、蒋介石の巧妙な対日妥協策によるもので、国民政府からは自立して河北省・チャハル省・北京・天津を支配下においた地方政権であった。蔣介石は当時、「安内攘外」政策をとってかたので、傍系の地方軍閥を日本軍の矢面にたたせたのである。
「安内攘外」政策とは、まず「安内」すなわち、中国国内の敵対する革命政権である中国共産党のソビエト政権の撲滅を優先して全力を投入し、それが成功したあとに「攘外」すなわち、日本の侵略軍と戦って追い出すことに傾注する、という戦略であった。
そのため、日本の支那駐屯軍当局が華北分離工作のために、交渉あるいは対抗する相手は国民政府ではなく、宋哲元の翼察政務委員会となった。宋哲元は日本側の要求にたいし、経済権益などで小粛な譲歩をしながら、「華北自治」「共同防共」などの重要要求には交渉回避や引き延ばし政策をとった。
翼東防共自治政府は名前のとおり「満州国」と隣接する河北省の東部を支配領域とし、翼察政務季員会は名前のとおり、河北省から内蒙古のチャハル省を支配領域としたので、河北省に二つの政権が並存するかたちになった。この二つの政権を利用して、日本の資本・企業の華北進出が促進され、1935年12月には、華北・華中の経済開発機関として、満鉄の全額出資による興中公司(社長十河信二、戦後第四代国鉄総裁)が設立された。
1936年1月22日、日本政府は、「自治の区域を北支五省(河北・チャハル・山東・山西・緩遠)を目途とするも……先ず翼察二省(河北・チャハル)および平津(北平・天津)二市の自治の完成を期すという「北支処理要綱」を決定した。それは、華北五省を国民政府から分離させる方針を決定し、まずは翼察政務委員会の支配領域から実行するために、宋哲元をとおして「指導」するというものであった。
日本政府の決定をうけて、東洋紡・鐘紡などが華北に工場を新設したのをはじめ、日本企業がなだれをうって華北に進出した。日本は翼東防共自治政府に、国民政府の定める関税率の七分の一から四分の一の低率の輸入税を設定させ、翼東特殊貿易と称した。実態は密貿易である。密貿易で持ち込まれた安価な日本商品が大量に、華北だけでなく上海など華中にまで進出するようになり、中国の民族産業に大きな打撃を与えた。さらに翼東は日本人によるヘロインを中心とする麻薬の密造・密輸・密売の舞台となった。

冀東防共自治政府
翼察政務委員会
齋藤隆夫粛軍演説
二・二六事件
西安事件


独 再軍備宣言

1936年
スペイン内戦

1939年まで第二共和政期のスペインで発生した内戦マヌエル・アサーニャ率いる左派人民戦線政府(共和国派、ロイヤリスト派)と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦メキシコが支援し、欧米市民知識人らも数多く義勇軍として参戦、フランコをファシズム陣営のドイツイタリアポルトガルが支持・直接参戦した。

1月共産党の指導する東北抗日連軍成立(東北人民革命軍を改称)
2月26日皇道派の青年将校による二・二六事件
(皇道派、帝国陸軍内に存在した派閥北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での国家改造(昭和維新・尊王討奸)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向、青年将校が約1400人の兵力を率いて、高橋是清大蔵大臣、齊藤実内大臣、陸軍教育総監を暗殺、首相官邸・陸軍省・警視庁などを占領しクーデターを試みたが、昭和天皇は激怒し鎮圧を明治、鎮圧。決起部隊は軍法会議で17人に死刑、北一輝、西田悦なども死刑。統制派台頭)
2月27日 - 東京市戒厳令布告(〜7月16日
2月29日 岡田啓介内閣総辞職
   二・二六事件の反乱部隊に原隊復帰勧告(「兵ニ告グ」)が出され、5時間で帰順。
軍部主流となった統制派は、軍部威圧効果を最大限に利用して、日本国内の英米協調的ないし自由主義的勢力を屈服させ、軍部強権体制を確立した。
いっぽう、海軍は、二・二六事件で殺害された斎藤実内大臣、重傷を負った鈴木貫太郎侍従長さらに殺害されたと伝えられた岡田啓介首相がともに海軍軍人であったので、はげしく憤慨し、軍令部総長伏見宮博恭王のもとに断固鎮圧の方針をとり、横須賀から陸戦隊を呼び寄せ、連合艦隊を東京へ急行させるなどした。その海軍は、事件が国内政治にたいしてもった軍部威圧効果を利用して、海軍軍備の大拡張を推進した。
事件によって倒れた岡田啓介内閣に代わった広田弘毅内閣は、組閣のときから軍部の圧力のもとにおかれ、ほとんど軍部の影響を強く受けた。加えてこのとき、陸海軍大臣・次官は現役の軍人が就任するという現役制が復活させられたので、首相や内閣が軍部の意向に反した場合は、陸相、海相を引き上げたり、任命しなかったりすることで、軍部が内閣の死命を制することになった。



3月9日 - 広田弘毅(外務省出身, 東京裁判で死刑)内閣成立
4月17日広田内閣 陸軍要求どおり支那駐屯軍 1771人から5774人に増員、盧溝橋事件に繋がる
5月7日 齋藤隆夫粛軍演説
寺内寿一陸軍大臣に対する質問演説。「革新」の実体の曖昧さを突き、広田内閣の国政改革の大要の質問を行った後、軍部革正(粛軍)を軍部に強く要請すると同時に議会軽視の傾きのあった軍部への批判演説である。

苟も立憲政治家たる者は、国民を背景として正々堂々と民衆の前に立って、国家の為に公明正大なる所の政治上の争を為すべきである。裏面に策動して不穏の陰謀を企てるが如きは、立憲政治家として許すべからざることである。況や政治圏外にある所の軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、是は政治家の恥辱であり堕落であり、(ここで拍手)又実に卑怯千万の振舞であるのである。
斎藤の演説は、軍部批判にとどまらず、軍部に擦り寄っていく政治家に対しても、強烈な批判を浴びせている。

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5月18日広田弘毅内閣、軍部大臣現役制を復活、軍部強権政治体制確立
    広義国防国家=総力戦体制、軍事偏重 

8月7日首・外・蔵・陸・海の五相会議、南北併進の「国策の基準」を決定
             それまではソ連を仮想敵国とした北進論に対米英の南進を加えた。
8月11日ハルビン近郊平房に関東軍防疫給水部本部(七三一部隊)設置
9月3日広西省北海で日本人が殺害される(北海事件)、海軍渡洋爆撃準備
9月23日上海で出雲水兵射殺事件発生、海軍日中戦争発動態勢をとる。陸軍反対で実現せず。
9月25日帝国在郷軍人会令公布
11月25日日独防共協定成立
​11月27日1937年度予算閣議 海軍6億8200万円、陸軍7億2800万円合計で全予算の歳出の46.4%
12月12日張学良、西安で蒋介石を監禁、国共内戦停止と一致抗日を要求(西安事件)
​  南京国民政府の蒋介石は政権樹立すると第一次国共合作から共産党の弾圧に転じた。華中・華南の中華ソビエト政権は陜西省北部に追い詰められた。蒋介石は張学良にとどめを刺す任務を与えた。しかし、張学良は共産党の周恩来らと秘密裡に停戦合意を結んだ。任務遂行の督促に西安にきた蒋介石を張学良は監禁、国民党と共産党が一致して抗日戦争を戦うことを迫った。

熱河省 まるぞう備忘録.webp

「まるぞう備忘録」より

日中戦争全史より
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盧溝橋事件
第二次上海事件
トラウトマン和平工作
1937

3月1日東条英機、関東軍参謀長に任命され、満州における治安粛清作戦を展開→反満抗日武装闘争壊滅

7月7日北京郊外の盧溝橋で日中両軍の衝突事件偶発発生(盧溝橋事件)、日中戦争始まる

中華民国北京北平)西南15kmの盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件。夜、豊台に駐屯していた支那駐屯軍歩兵第一聯隊第三大隊第八中隊が盧溝橋近辺で夜間演習中に実弾を撃ち込まれ、兵士が一名行方不明となり、行方不明の兵士は発見されたが、散発的に射撃があり、翌朝、第三大隊は牟田口連隊長に許可を得て、中国軍が駐屯する宛平県城を攻撃した。その後、小規模の戦闘はあったが、9日には事実上の停戦。(牟田口は太平洋戦争末期インパール作戦を指揮して、大量の餓死者を出した)

参謀総長の閑院宮載仁親王は、天皇の軍隊の象徴としてのお飾り的存在であり、さらに七三歳の高齢で、ほとんど実権はなかった。代わって参謀本部を統括すべき立場にあった参謀次長の今井清中将は病臥中で、その任務を遂行することはできなかった(1538年1月に死去).参謀本部第三情報部長渡久勇中将も病臥中であった(1939年1月死去).支那駐屯軍の最高指揮官であった支那駐屯軍司令田代皖一中将も、重態で、盧溝橋事件発生直後の七月一六日に死去した。健康であった陸軍大臣杉山元大将は、「厠のドア」といわれたように、周囲の勢力になびく軍人であった。

このようなガバナンスの欠如した陸軍中央において、盧溝橋事件を機に強大な兵力で一撃を加えれば中国は屈服し、華北分離の長年の懸案が一挙に解決するという「中国一撃論」を主張する拡大派が急速に勢力を強めた。その中心は、参謀本部作戦課長の武藤章大佐で、盧溝橋事件にたいして、不拡大派の柴山兼四郎陸軍省軍務局軍務課長が「厄介なことが起こったね」と言ったのにたいして、「ゆかいなことが起こったね」と言ったという有名なエピソードがある。武藤は斬殺された永田鉄山軍務局長の子分と目され、二・二六事件を利用して「勝ち組」となった統制派のリーダー格になっていた。彼は同じ「一撃論者」の陸軍省軍務局軍事課長田中新一大佐らと組んで、中堅幹部を中心とする拡大派の多数派工作に成功した。

ガバナンスの欠如した陸軍中央で、日本軍の作戦指導の事実上の最高責任は、参謀本部第一(作戦)部長石原莞爾少将が負うことになった。石原は対ソ戦を第一義とし、中国の民族意識の成長と国共合作による抗日勢力の成長をそれなりに認識していたので、不拡大・現地解決の方針をかためるために努力し、閑院宮総長の同意を得て、七月八日午後六時四〇分、支那駐屯軍司令官宛に、参謀総長の増示として、「事件の拡大を防止する為、更に進んで兵力を行使することを避くべし」と発令した。

しかし、同じこの八日に武藤作戦課長と田中軍事課長との間で、内地から三個師団と航空隊一八個中隊を急派する案について意見が一致。武藤・田中らの策動が功を奏して、九日に参謀本部と陸軍省の関係部課の間で作成された「北支時局処理要領」は、内地軍と関東軍・朝鮮軍を華北に派兵して「平津(北京・天津)地方」に限定して同地方を安定確保するというもので、石原部長の不拡大方針に対抗するものであった。そして、陸軍中央において華北への兵力増派論が大勢を制し、7月10日には陸軍省と参謀本部の問で、関東軍二個旅団・朝鮮軍一個師団・内地軍三個師団と航空隊の華北への派兵案がまとめられ、石原も同意させられたのである。この派兵案は、盧溝橋事件に乗じて、強大な兵力で中国軍に一撃を与え、前章で述べた華北分離工作を達成し、河北・チャハル両省を「第二の溝州国」としようとするものであった。

石原作戦部長が自分の不拡大方針に対抗した部下の武藤作戦課長を批判したのにたいして、武藤が

 「何をおっしゃるのですか、私はあなたが満州事変でやったのと同じことをやっているだけですよ」と反論すると、石原は何も言えなかったというエピソードがある。

現地で停戦協定が成立しているにも拘らず、近衛内閣は、中国側の「計画的」な武力抗日に対しては、日本は「満州国」および華北の治安維持のため、そして中国に反省を促すため「重大決意」をもって華北に派兵する、という強硬な政府声明を発表したのである。「北支事変」と命名した近衛内閣の「重大決意」の声明によって、盧溝橋事件は、局地の軍事衝突事件から本格的な日中間の戦争へと拡大することになった。

7月10日陸軍中央、華北派兵案を決定、石原莞爾作戦部長も同意

7月11日盧溝橋事件について現地日中両軍による停戦協定成立

近衛文麿内閣、華北派兵を決定し「重大決意声明」発表、事態を「北支事変」と命名

7月12日海軍軍令部「対支作戦計画内案」策定

7月15日中国共産党中央、「国共合作を公布するの宣言」を国民党へ送り、国民党政府打倒の革命運動のとりやめ、ソビエト政権の取り消し、紅軍の呼称の取り消しを約束

7月17日盧山で開かれた国民政府の国防会議に周恩来を代表とする中国共産党代表団が招かれ、国共合作について協議した。蒋介石はこの日、盧山に招集された全国の学者や各界の指導者一五八人を前にして、「盧溝橋事件により、日本にたいして和平か戦争か最後の関頭(分かれ目)にいたった」

   1937年の国民政府軍は満州事変時とは比べものにならないほど、近代的な軍備.編制、装備をもち、訓練された国防軍に成長していた。もはや、日本軍部の拡大派.強硬派が見くびったような「一撃」で屈服する軍隊ではなかった。蒋介石は、いずれ日本との全面戦争を展開することに備えて、満州事変以後の六年間、国力を傾注して、近代的な国防軍の建設に努めた。蒋介石は「空軍が国を救う」をスローガンに掲げて、空軍の兵力と防空力の強化につとめ、日中戦争直前の段階で、中国空軍の部隊は、合計33の中隊・大隊を有し、所有飛行機は大小600余機、発着可能な飛行場は全国で262カ所もあったことにあらわれていた。国民政府の中央軍が、ドイツ式の軍備・装備をもち、ドイツの軍事顧問団によってドイツ陸軍式に訓練された近代的な軍隊であったことは、後述する第二次上海事変において証明される。

七月二八日早朝から、支那駐屯軍は、中国の第二九軍にたいする総攻撃を開始、従来の駐屯軍の兵力のほかに、満州・朝鮮から増援された兵力、航空兵団の主力をあわせた圧倒的な兵力で、二九日までに北京・天津と永定河西岸地区をすべて占領。「北支事変」の呼称通り、ここまでの戦場は北支に限定していた。

7月12日の段階では、陸軍参謀本部と政府は、「北支事変」として、戦闘を北京ー天津地域に限定して考えており、実際にこの地域で日中両軍が本格的な戦闘を開始するのは七月下旬になってからであった。しかし、海軍軍令部は当初からこの第一段作戦をこえて、第二段作戦、すなわち中国沿岸海上封鎖、中国海軍艦船への攻撃、杭州・南昌・南京への渡洋爆撃など、戦線を一挙に華中・華南へ拡大する「支那事変」の準備を開始した。

7月29日翼東防共自治政府所在地の通州で日本軍機が冀東防共政府の兵舎を中国第二九軍兵舎と誤爆、激怒した中国保安隊の反乱による通州事件発生

7月30日天皇は近衛首相にたいして「永定河(盧溝橋の河)東北地区を平定すれば、軍事をやめてよろしいのではないか」と意見を述べ、近衛も「速やかに時局収拾を図ります」と答。天皇はさらに、八月五日に首相にたいして、六日には軍令部総長にたいして、一〇日には参謀総長にたいして、それぞれ外交解決による時局収拾策を望む意向を伝える

7月31日蒋介石、「全軍の将兵に告げる書」を発表、軍民一致の抗戦を呼びかける

8月7日「日華停戦条件」決定(外・陸・海相が花押)

   関東軍と支那駐屯軍が強行した華北分離工作により拡大した権益を大筋において清算し、日本は「満州国」の維持を最重要の条件としたことにおいて、日本側の大きな譲歩が提示。和平工作の使者には、在華日本紡績同業会総務理事の船津辰一郎が抜擢された。船津は天津・上海・奉天などの領事館の外交官を長く務め、卓越した中国語と温厚な人柄で、中国の政界・財界に多くの知友をもっていた。

8月9日船津辰一郎(在華日本紡績同業会総務理事)と高宗武(国民政府外交部亜州司長)による和平・停戦交渉開始。

 

一方、海軍は横須賀海軍陸戦隊を旅順に待機、木更津航空隊は長崎大村基地から、鹿屋航空隊は台湾台北基地から渡洋爆撃の出撃態勢を整えていた。

​和平交渉が成立を恐れた現地海軍の謀略で、上海海軍特別陸戦隊隊長大山勇夫は大河内伝七少将から

「お国のために死んでくれ、家族のことは面倒をみる」「こちらからは攻撃するな」と口頭命令。

大山中尉は遺髪、「断」と書かれた絵はがきを準備し、8月8日「自戒」と題した決意が日記に書かれている。8月9日中尉は通常私服、拳銃携行で行われる視察に、単独で軍服、軍刀、拳銃携行で出かけた。中尉の車は二つの検問所を強行突破、虹橋飛行場へ向かった。飛行場ゲートや飛行場の保安隊は銃撃し、中尉と運転していた水兵は即死した。(大山事件)

『東京朝日新聞』(1937年8月10日)は、「帝国海軍中尉・上海で射殺さる」「暴戻!鬼畜の保安隊大挙包囲して乱射運転員の水兵も拉致」という大見出しで一面全紙をつかって大きく報道。中見出しには「支那の不誠意度し難し 戦時的配置を強化」「共同租界のテロ帝国軍人に挑戦 憂慮の事態保し難し」「陸戦隊出動・非常警戒」「上海・死の街」「斎藤水兵も殺害上海市長、謝意を表明」「引揚後の権益侵害海軍・容赦せず支那側態度を凝視」など、謀略の影もなく、反撃の様相を伝える。また『読売新聞』(1937年8月2日夕刊も「滅多斬して所持品掠奪 惨虐目を蔽う現場宛然血に狂う鬼畜の所業」と大山事件発生直後に現場に行った記者の目撃談を大きく報道した。日本国民は憤激し、報復が叫ばれた。

これを口実に、海軍は上海の中国軍を攻撃した。日本軍はふたたび苦戦に陥ったが、同月陸軍2個師団を派遣、全面的な戦争を展開した。以後、中国国民政府も対日抗戦に傾き、8年の長期に及ぶ日中戦争に発展してゆく。海軍が陸軍と共同で日中戦争を遂行するため、和平工作を破綻させる謀略。

大山大尉の死後、母親、兄家族に対しては金銭を含め、手厚く表彰、補償された。

8月10日海軍軍令部、「大山事件対処方針」「時局処理方策」決定

8月13日海軍陸戦隊と中国軍との間で戦闘開始、第二次上海事始まる→全面戦争へ

 

近衛文麿内閣、陸軍の上海派兵決定

​第一次上海事変の時は総攻撃から3日で決着したが、第二次では中国軍陣地は堅固で上陸しようとする端から戦死者が出た。戦は3か月続き、日本軍死傷者は4万1千人。

​10月末になっても勝敗つかず。→ 11月第10軍、及び華北から第16師団が広州湾に上陸

8月14日中国空軍機、第三艦隊旗艦出雲と上海特別陸戦隊本部を爆撃

   海軍鹿屋航空部隊台北を発進、台風の荒天をおして杭州、広徳を渡洋爆撃

8月15日近衛内閣、暴支贋懲ぼうしようちょう(暴戻なる支那軍を贋懲=横暴なる中国軍を懲らしめる)の「帝国声明」発表

  海軍木更津航空隊長崎の大村基地を発進、中国の首都南京を渡洋爆撃

  海軍鹿屋航空隊台北を発進、南昌を渡洋爆撃(日本軍機の被害多発のため以後、夜間の渡洋爆撃)

  爆撃機を守る航続距離の長い戦闘機の開発(のちのゼロ戦)に繋がる

  日本のメディアは「全機帰還」(実際には木更津航空隊4機, 空母加賀航空戦隊10機撃墜)など

  大戦果と報道。→ 不拡大方針放棄

  陸軍、上海派遣軍(司令官松井石根)の「編組」を決定

    正式な「編制」という用語を避け、戦争不拡大方針であることの現れ

    松井石根

上海派遣軍司令官に任命されたのは、当時満五九歳で、すでに予備役になっていた陸軍最長老の大将の松井石根であった。松井は、陸軍士官学校の第九期の卒業で、同期からは陸軍大将が五人も輩出した。松井石根・荒木貞夫・真崎甚三郎・本庄繁・阿部信行の五人で、荒木は陸軍大臣に就任して男爵、真崎は教育総監、本庄繁は関東軍司令官、侍従武官長を歴任して男爵、阿部はのちにであるが、内閣総理大臣になり、翼賛政治会総裁・朝鮮総督を歴任する。松井は陸軍士官学校を二番で卒業し、陸軍大学校を首席で卒業して秀才といわれたにもかかわらず、同期の四人の大将のように軍中央のトップの職位に登りつめることなく、中風を患って、五人の同期生のなかで一番早くに現役を退いて予備役となっていた。

ところが突然の日中戦争の開始で、陸軍には現役大将が不足し、さらに前年の二・二六事件鎮圧後の"粛軍"の影響で荒木や真崎らを任命することはできなかった。そこで松井に「白羽の矢」があたったのである。松井が、軍功をあげて爵位を獲得する最後のチャンスの到来と思ったことは容易に

想像できる。

上海派遣軍司令官の松井石根大将に与えられた任務は「上海派遣軍司令官は、海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、上海ならびに北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護すべし」と限定されたものであった。しかし、松井はこの命令を守るつもりは最初からなかった。八月一八日の参謀本部首脳(次長.総務部長.第一.第二部長)との会合において、松井は「国民政府存在するかぎり解決できず…蒋(蒋介石)下野、国民政府没落せざるべからず……だいたい南京を目標としてこのさい断固として敢行すべし、その方法はだいたい五、六師団とし、宣戦布告し堂々とやるを可とす……かく短時日に南京を攻略す..:..(蒋介石は)南京を攻略せば下野すべし」とまで述べた。松井も武藤章らの拡大派と同じに安易な一撃論」に立ち、日本軍の「最高司令官」として南京を攻略して国民政府を打倒し、「満州国政府」と同様な新政府を樹立することを考えていたのである。

これにたいして石原莞爾第一部長(柳条湖事件、満州事変の時は関東軍で満蒙占領立案、実行)は「個人としては永びけば全体の形勢に危ういものと考えあり」

と懸念を表明し、不拡大派であった参謀次長多田駿中将も「南京攻略戦の着想は……具体的に研究すれば、困難ますます加わる」と腕曲に反対しただけだった。

軍人としては高齢で中風の持病をもち、しかも上海のような国際大都市の攻防をめぐる航空部隊まで投入した近代戦・陣地戦を作戦指揮した経験がまったくない松井石根のような軍人を、ただ陸軍最高位の大将という理由で任命したことは、日本の軍隊が年功序列の官僚組織であったことの証左である。この欠陥が、後述する南京大虐殺事件(南京事件と略称)を引き起こすことになる。

南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。

8月21日中ソ不可侵条約調印→ソ連から戦闘機を中心とする軍事援助供与

8月22日国民政府軍事委員会、紅軍を国民政府の国民革命軍第八路軍に改編(総司令朱徳)→第二次国共合作

8月24日近衛内閣、「国民精神総動員実施要綱」決定

9月2日近衛内閣、「北支事変」を「支那事変」と呼称することを決定

 

9月4日第七二回帝国議会衆議院開院式において昭和天皇、「対支宣戦布告」に代わる勅語を発する。

「中華民国深く帝国の真意を解せず、みだりに事をかまえ、ついに今次の事変を見るにいたる。

朕これを憾うらみとす。今や朕が軍人は百艱を排してその忠勇をいたしつつあり。これ一に中華民国の反省を促してすみやかに東亜の平和を確立せんとするにほかならず。

朕は帝国臣民が今日の時局に鑑み、忠誠公に奉じ、和協心を一にして賛襄さんじょうもって所期の目的を達成せんことを望む」

 

船津和平工作に奔走した外務省東亜局長の石射猪太郎は「暴支贋懲国民大会、芝公園にあり。アベコベの世の中である」と日記(九月二日)に書いて、中国に軍事暴力をふるう日本が抵抗する中国を「暴戻なる(荒々しく人道にはずれている)支那」と糾弾しているさまを「アベコベ」であると非難した。

9月4-8日第72回帝国議会臨時開催

海軍臨時軍事費 約4億円 陸軍約14億円 予備費を含め合計20億円 無条件可決

​ 陸軍は8月末で、中国派兵数は43万人(戦闘員29万人、後方人員約14万人)馬13万頭

軍事費増大に対して増税では賄いきれず、国債が発行され、一時の便法として日銀による国債引き受けが高橋是清蔵相のもと始まったのである。

 

 軍事費の増大によって財政規模は拡大し続けた。1935(昭和10)年の予算編成では、高橋蔵相は軍事費削減につながる国債の減額を主張し軍部と対立し、1936(昭和11)の2・26事件の標的となって暗殺された。

日本政府は一般会計とは別に戦争財政を管理するために1937(昭和12)年9月に臨時軍事費特別会計を設置した。臨時軍事費特別会計は戦争の開始から終結までの期間が1会計年度とした。つまり複数年度のわたる予算編成であった。その結果、1937(昭和12)年度から始まって1945(昭和20)年の終戦までの間、一度も決算がなされなかったのである。

 

 予算額は1937(昭和12)年度の約20億円から1944(昭和19)年度は約735億円へと増加した。その財源は税収ではなく、そのほとんどが公債によって捻出された。その公債の発行も、戦費の捻出のためならば議会の協賛を必要としなかった。国債は本来、将来の税収を担保に議会の承認の上で発行するべきものである。

ワシントン海軍軍縮条約を破棄し(1934年12月)、第二次ロンドン海軍軍縮条約からも脱退(1936年1月)していたので「ワシントン体制」といわれた両軍縮による制限を受けず軍備を急速拡大した。

9月9日

「尽忠報国精神を振起して」「挙国聖戦に立ち向かう」ために国民精神総動員を実施する旨の内閣告諭を全国官庁へ訓令した。ついで、11日、国民精神総動員運動を発足させ、日比谷公会堂で政府主催の国民精神総動員大演説会が開かれ、おりからの暴風雨をついて会場につめかけた5000人の聴衆を前に近衛首相は、「時局に処する国民精神の覚悟」と題する大演説をおこなった。

「抗日の激するところ、いまや国を挙げて赤化勢力の奴隷たらんとする現状に立ちいたった。ことここにいたっては、ただに日本の安全の見地からのみに止まらず、広くは正義人道のため、特に東洋百年の大計のためにこれに一大鉄槌を加えて直ちに抗日勢力のよってもって立つ根源を破壊し、徹底的に実物教育によりてその戦意を喪失せしめ、しかる後において支那の健全分子に活路をあたえ、これと手を握って俯仰ふぎょう天地に愧じざる東洋平和の恒久的組織を確立するの必要に迫られてきた。(中略)

この日本国民の歴史的大事業を、我らの時代において解決するということは、むしろ今日生をうけた我ら同時代の国民の光栄であり、我々は喜んでこの任務を遂行するべきであると思う」

「赤化勢力の奴隷」というのは、日本の全面的な対中国戦争開始にたいして、既述のように、藷介石国民党政府が共産党と第二次国共合作をおこない、ソ連と中ソ不可侵条約を結んだことを指しているが、抗日政策を推進している蒋介石政府を打倒して、傀儡の反共親日政権を樹立することまでにおわせた。

9月19日海軍航空隊、上海公大飛行場を基地として第一次南京爆撃を決行(9月25日まで第11次にわたり南京爆撃) 戦闘機護衛の爆撃開始。中国戦闘機48機撃墜。日本戦闘機撃墜十数機。飛行場爆撃で制空権確保。

9月23日蒋介石、共産党の合法的地位を承認する談話を発表(第二次国共合作成立)-1945 抗日民族統一戦線

9月28日国際連盟総会、「都市爆撃に対する国際連盟の非難決議」を全会一致で採択

海軍航空隊の南京渡洋爆撃は、日本軍機の被害を避けるために、昼間から夜間爆撃それも高高度からの爆弾投下に変更したために、軍事目標をそれて、一般市民の犠牲が多発した。そのため、8月29日には、在南京のアメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの五力国外交代表は・駐日アメリカ大使をとおして、日本政府にたいして、以下のように爆撃行為の停止要求を提出した。

 

8月26日夜、南京市の地域に行われ大規模な爆撃は、明らかに非戦闘員である外国人および中国人の生命や財産に対する危険を無視したものであった。それにともない、当外交代表は、いかなる国の政治的首都、とりわけ戦争状態にない国の首都に対する爆撃に対して、人間性と国際的礼譲についての配慮を必要とするような抑制について、日本側当局に適当な配慮を促すべきである。(中略)

自分たちの公務を妨害を受けることなく遂行できる疑う余地のない権利、通常の人間の諸権利、およぴこれらの友好関係にかんがみて、五力国代表は爆撃行為の停止を要求する。爆撃は、かかげられた軍事目標にもかかわらず、現実的には教育や財産の無差別の破壊、および民間人の死傷、苦痛に満ちた死につながる。

 

長谷川清第三艦隊司令長官は、先の南京空襲作戦の開始にともない、南京駐在の列国外交機関・各国居留民にたいする通告文ならびに南京市民にたいする警告文を発表した。

通告文(9月19日付)

我が海軍航空隊は、9月21日正午以後、南京市および付近における支那軍ならびに作戦および軍事行動に関係あるいっさいの施設に対し、爆弾その他の加害手段を加えることあるべし。

(中略)

第三艦隊長官においては南京市および付近に在住する友好国官憲および国民に対し、自発的に適宜安全地域に避難の措置をとられんことを強調せざるを得ず。

国際法にのっとった対中国宣戦布告をしていない日本が、首都南京への空爆宣言をしたことは、世

 界を刺激し日本に対する国際世論をにわかに悪化させた。南京には、アメリヵ伝道団各派が創立運営する学校や病院、教会施設が集中しており、南京渡洋爆撃においてすでに、それらの施設が爆撃を受けていた。第三艦隊司令長官の避難勧告は、日本軍がそれらのミッション施設を爆撃して、アメリカ人を南京から追い出そうとするものだと、大きな反発を引きおこした。

日本の海軍機による南京その他の都市爆撃による民間人の殺害について、アメリカにおいては八月、九月の早い段階から報道されて国民の非難を呼び起こした。上海戦において、日本軍機が共同租界へ

と避難する数千人の市民の群れに爆弾を投下した光景や、日本軍に家を焼き出され、さらに爆弾や砲弾の犠牲にされた膨大な民間人の惨状が、報道写真やニュース映画.雑誌.パンフレット類をとおしてアメリカ人に知られるようになり、非戦闘員を巻き込んだ日本軍の攻撃にたいする非難の声が上がりはじめていた。南京空襲の惨状も、南京で取材中であった新聞記者やニュース映画のカメラマンなどによって世界に報道された。

 

日本海軍機による無防備都市の爆撃、および日本の中国侵略を非難する世界の世論がたかまるなかで、イギリスは第一八回国際連盟総会に日本の行動を非難する決議案を上程した。九月二七日イギリス代表は、連盟の日中紛争諮問委員会において「現在中国において行われつつある無防備都市への空襲に対する英国政府の深い恐怖を記録にとどめ、かつこのような行動を委員会がきっぱりとした言葉で非難すること」を要求する提案をして可決された。「都市爆撃に対する国際連盟の非難決議」は翌二八日の国際連盟総会において、全会一致で採択された。

 

「日本航空機による支那における無防備都市の空中爆撃の問題を緊急考慮し、かかる爆撃の結果として、多数の子女をふくむ無辜の人民に与えられる生命の損害に対し、深甚なる弔意を表し、世界をして恐怖と義憤の念を生ぜしめたるかかる行動に対しては、何等弁明の余地なきことを宣言し、ここに右行動を厳粛に非難す」

 

アメリカは国際連盟に加盟はしていなかったが、国際連盟総会における「都市爆撃に対する国際連盟の非難決議」などをうけて、アメリカのルーズベルト大統領は10月5日、シカゴにおいて有名な「隔離演説」をおこなった。

「宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子を含む一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼らは、平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」

11月日独防共協定にイタリア参加、日独伊三国防共協定となる

11月3日アメリカ、イギリスの提案により、日本の九力国条約違反を問うブリュッセル会議開催

   当時の国際連盟にも、不戦条約にも、国際法に違反する国にたいする制裁規定とそれを執行するための国際機関についての定めがなかった。そのため、当時の日本のように、軍事制裁や経済制裁のような物理的圧力がないかぎり、国際法の条理や国際的道義に従おうとしない国にたいしては無力な側面があった。しかも、この段階では、アメリカ・イギリス・フランスの列強は、対日戦争のリスクをおかしてまで、対日軍事制裁や経済封鎖などの共同干渉を実行する決意はもたなかった。結局、ブリュッセル会議は15日の本会議において、「各国代表は条約の規定を無視する日本に対し共同態度を採ることを考慮する」という日本の国際法違反を非難する宣言を採択したものの、中国代表が希望した具体的な対日制裁措置は決定せずに、24日に閉会した。日本の政府・軍部首脳がもっとも恐れた、アメリカの主導による対日経済制裁の決定は回避された。

11月5日第10軍(司令官柳川平助)杭州湾に上陸、上海戦の中国軍の背後をつく

トラウトマン駐華ドイツ大使、日本の和平条件を蒋介石に伝える(トラウトマン和平工作)

 

  広田外相から駐日ドイツ大使ディルクセンにたいして、ドイツが日中和平工作を斡旋してくれるよう申し入れ。当時ドイツは、アメリカ・日本についで中国の外国貿易中第三位を占めるなど、中国との経済関係をつよめ、さらには武器輸出や軍事顧問団の派遣などによって軍事関係も強めつつあり、中国市場が戦争で撹乱されるのを好まなかった。さらに世界的な対ソ防共戦略からして、日本と中国が長期の戦争で消耗しあうこともおそれた。そのため、ドイツ外務省の意向をうけた駐華ドイツ大使トラウトマンは、積極的に日中和平工作に乗り出した。トラウトマンは蒋介石にたいしてさきの「支那事変対処要綱」にもとづく日本政府の和平条件をつたえた。船津和平工作の「日華停戦条件」にそうものであったが、このとき蒋介石は、ブリュッセル会議で対日制裁が決まることを期待して、日本側の提案は、同会議の結果が判明するまでは、とくに考慮に値しないと答えて交渉は進展しなかった。

11月7日上海派遣軍と第10軍を合わせ中支那方面軍編成(司令官松井石根は当初から南京攻略、蒋介石政府打倒、親日政権擁立を考えていた。参謀副長 武藤章は統制派、拡大派リーダー「中国一撃論」の正しさを証明しようとしていた)

    派遣軍と第10軍を一時統一指揮するだけのもので、通常の方面軍司令部が備えている兵器部・経理部・法務部(法務官が軍法会議により兵士の軍刑法違反を取り締まる)を備えていなかった。南京事件の日本軍軍紀紊乱放任の原因か。さらに食料運搬、補給、宿営施設設置などの兵站旗艦も整備せず、南京攻略は本来、不可能で、参謀本部も上海戦で決着をつけることを明示していた。

11月15日第10軍幕僚会議、独断で中国軍の南京追撃を決定→参謀本部は命令違反だと打電

 上海戦:中国軍兵力70万人(全国の三分の一)戦死者25万人前後

     日本軍投入兵力19万人、戦死者9115人(戦傷者43,672人)

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11月20日日本の政府・軍部、大本営を設置、別に大本営政府連絡会議設置

大本営とは、陸海軍の最高司令官である天皇の総司令部という意味で、戦時に際して設ける最高統帥機関であり、参謀本部.陸軍省・軍令部・海軍省の最高首脳が出席した。日本は日中戦争を国際法上の戦争でないとして対外的に戦争宣言をせず、「支那事変」と称してきたので、「事変」においても大本営が設置できると軍令を改正したうえで、宮中に設定したのである。

大本営の設置は、本格的な戦時指導体制の構築を意味した。

大本営は日清戦争のときに当初参謀本部内に設けられ、のち宮中さらに広島に移ったが、日露戦争のときは宮中に設けられた。その後、第一次世界大戦やシベリア出兵、満州事変においても設けられなかった。それが、盧溝橋事件以後、なし崩し的に拡大してきた日中戦争にたいして、天皇が大本営御前会議に臨席して、作戦指導に直接関与するようになったのである。大本営はその後、逐次権限と機構を拡大し、アジア太平洋戦争の準備、開戦、戦争指導などにおいて、決定的に重要な役割を果たした。

国民政府、重慶への首都移転を宣布

11月24日ブリュッセル会議閉幕、日本の国際法違反を非難決議するも、対日経済制裁決定は回避

11月下旬中支那方面軍、独断専行により、南京攻略戦発動

大本営の正式の命令もないまま、参謀本部の統制に反するかたちで、中支那方面軍が独断専行で発動した南京攻略作戦であったが、日本の大新聞は同作戦に便乗して、大規模な報道陣を前線へ派遣し、従軍記者に少なからぬ犠牲者を出しながらも、「南京城に日章旗が翻る日はいつか」「どこの郷土部

隊が南京城一番乗りを果たすか」などの報道合戦を繰りひろげた。国民は、「いつ南京は陥落するか」「南京城一番乗りの誉れの部隊はどこか」などと、南京城に迫る日本軍部隊の報道に注目し、興奮するようになった。その結果、大新聞は一挙に購買数を増大させた。南京へ進撃する皇軍(天皇の軍隊)の連戦連勝の華々しい捷報が、連日報道されるなかで、国民の戦勝・祝賀ムードが煽られた。

12月1日大本営、南京攻略を下令

   近代戦において、大部隊は前線部隊と後方の兵姑部隊とに分かれ、前線の戦闘部隊は後方の兵姑部からの食糧・弾薬その他の軍事物資の補給をうけながら進軍していく。

ところが、中支那方面軍の独断専行でおこなった南京攻略戦ではこの作戦常識が無視された。同軍司令部そのものが兵姑部を統括する機関を持たず、各師団の兵姑部は最初から貧弱だった。また、上海派遣軍も、もともと上海周辺だけを戦場に想定して派遣された部隊であったので、長距離(上海-南京約300km) を移動、進軍する作戦に備えた軍装備、輸送部隊もなかった。それにもかかわらず、前線部隊は「南京一番乗り」を煽られ、補給を無視した強行軍を余儀なくされたのである。

中支那方面軍は糧秣(食糧と軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。

日本軍はこれを「糧食を敵中に求む」「糧食は敵による」戦法と称したが、現実には通過地域の住民から食糧を奪って食べることであったから、戦時国際法に違反した略奪行為であった。各部隊の兵士たちは兵士たちで、進軍の先々で、畑の農作物の略奪、家畜の殺害、農家の貯蔵食糧の略奪などして毎日の食べ物を捜さなければならなかった。石川達三『生きている兵隊』(中公文庫)には加害者にならざるを得なかった日本人将兵と、被害者中国人の過酷な経験が実際のルポに基づいて書かれている。

12月2日蒋介石、トラウトマン駐華ドイツ大使に対日和平交渉受諾を談話

12月4日中支那方面軍の前線部隊、南京防衛陣地(南京戦区)突入、南京大虐殺事件(南京事件)を起こす12月10日日本軍、南京城市を総攻撃

12月12日日本軍、南京城内に突入

いまだ占領ならない12月11日、新聞の報道合戦で誤報『読売新聞』(12月11日)は、「感激の十日、首都を占領光華門、脇坂部隊誉れの一番乗り前線一斉に突入市街戦展開」という大見出しで報じた。こうした大新聞の誤報をうけて、11日の夜、国会議事堂にイルミネーションが点じられ、東京をはじめ全国で南京陥落を祝賀する提灯行列がおこなわれた。朝日新聞社は、南京陥落に合わせて「皇軍大捷の歌」を懸賞募集し、12月10日に募集を締め切ったところ、東京と大阪の各本社合わせて35991編の応募。12月13日の昼には、読売新聞社主催で「南京陥落戦勝祝賀大会」が後楽園スタジアムで開催され、10万人が集まって君が代を大合唱した。翌14日には全国の小中学校は休校とし、政府.官庁・教育界の肝いりで全国で旗行列、提灯行列が繰り広げられ、東京では市民40万人が繰りだして、皇居の周囲を提灯行列で埋めつくした。昭和天皇より南京占領を喜ぶ「御言葉」が下賜。

 

12月13日日本軍、南京城内完全占領

12月14-17日残敵掃蕩作戦開始(17日に南京入城式開催ー上海派遣軍司令官 朝香宮も参加のため徹底的な掃蕩が行われた。南京城内外で掃討作戦展開中の師団長たちから時期尚早であるという反対もあったが、松井司令官が決定)

「上海時代」松元重治によると12月18日陸海軍合同慰霊祭があり、慰霊祭の直後、松井岩根司令官が次のように参列者一同に演説したとある。

「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、一挙にして、皇威を墜してしまった」という叱責のことばだ。しかも、老将軍は泣きながらも、凛として将兵らを叱っている。「何たることを、おまえたちは、してくれたのか。皇軍として、あるまじきことではないか。おまえたちは、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に、絶対に無辜の民を虐げてはならぬ。それが、また戦病没者への供養となるであろう」云々と、切々たる訓戒のことばであった。

海軍航空隊、アメリカの砲艦パナイ号を撃沈(パナイ号事件)

12月12日揚子江上において、日本海軍機がアメリカ合衆国アジア艦隊河川砲艦パナイ」を攻撃して沈没させ護衛されていたスタンダードオイル社のタンカー3隻を破壊し、さらにその際に機銃掃射を行ったとされる事件。事件発生時、第三艦隊司令部の伝達不備からパナイの最終避難位置情報が伝達されておらず、現地航空隊は南京付近に第三国艦船が存在することを知らなかった。そのため大本営海軍部の公表は、パナイを中国船舶と誤認したのはやむを得なかったとし、日本陸軍への誤爆を含むあくまで誤爆事故だったと釈明したが、アメリカでは日本海軍機による故意爆撃であるという認識が定着していた。パナイ号は日本軍の南京爆撃激化に伴い、南京米国大使館が一時閉鎖し、パナイ号に臨時大使館分室を置いていた。水兵二人が死亡、同乗のイタリア人記者死亡、その他死傷者発生。故意爆撃か誤認爆撃かの決着は見なかったが、いずれにしても事件から約2週間後に日本政府からの陳謝がアメリカ政府に受け入れられ、事態は概ね収束した。しかし、米国ではRemember The PANAY!というスローガンの元、日本商品ボイコットが起きたり、おりから発生した南京事件も大々的に報道され、日本への中国侵略批判と抗日中国への支援運動が開始された。

 

12月14日北支那方面軍の工作による中華民国臨時政府(行政委員長王克敏)北京に成立

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