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         ビルマ
1942年
3月5日 日本軍、ジャワ島バタビア(現ジャカルタ)を占領。
3月7日 東インドのオランダ軍降伏。
3月8日 日本軍、英委任統治領ニューギニア島ラエとサラモアに上陸、占領(東部ニューギニアの戦い)。ビルマ(現ミャンマー)ラングーン(現ヤンゴン)占領。
3月13日 アメリカ軍フィリピン司令官マッカーサー、フィリピンから逃亡。
4月5日-9日 日本軍、セイロン(現スリランカ)コロンボの英軍基地を空襲。セイロン沖海戦。
4月18日 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲(東京初空襲)。
5月1日 日本軍、ビルマ中部マンダレー占領。
5月3日 日本軍、ソロモン諸島ツラギ占領(MO作戦始まる)。
5月4日 日本軍、英領ビルマのアキャプ占領、ビルマ制圧完了。南方作戦完遂。
 
ビルマは19世紀以来イギリスが植民地支配していた。1941年の太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍援蔣ルートの遮断などを目的としてビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧した。
 
連合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蔣ルートの回復を主な目的として本格的反攻に転じた。日本軍はインパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、作戦は惨憺たる失敗に終わった。連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回する。
 

援蔣ルート)には以下があった。日本の参謀本部では1939年頃の各ルートの月間輸送量を次のように推定していた。

  1. 香港ほか中国沿岸からのルート(香港ルート):6,000トン 日本の香港占領で中止

  2. ソ連から新疆を経るルート(西北ルート):500トン    ソ連はドイツとの戦争で中止

  3. フランス領インドシナハノイからのルート(仏印ルート):15,000トン 日本の仏印占領で中止

  4. ビルマのラングーンからのルート(ビルマルート):10,000トン
     

援蒋ビルマルートは、新旧2つの陸路と1つの空路があり、当時イギリスが植民地支配していたビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)に陸揚げした物資をラシオシャン州北部の町)までイギリスが所有、運営していた鉄道で運び、そこからトラック雲南省昆明まで運ぶ輸送路(ビルマ公路Burma Road)が最初の陸路で、日本軍が全ビルマからイギリス軍を放逐し平定した1942年に遮断された後、イギリスとアメリカはインド東部からヒマラヤ山脈を越えての空路(ハンプ:The Hump)に切り替え支援を続けた。いわゆるハンプ越えと呼ばれるものを実施した。
しかし、空輸には限りがある上に、空輸中の事故も多発したため、アメリカが中心となって新しいビルマルートの建設を急ぎ、イギリス領インド帝国アッサム州レドから昆明まで至る新自動車道路(レド公路Ledo Road)が北ビルマの日本軍の撤退後の1945年1月に開通する。
 
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Japanese_Conquest_of_Burma_April-May_1942日本軍のビルマ中北部進攻と連合軍の退却経路のコピー.jpg
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1941年当時のビルマ人口は1600万人、内訳はビルマ族が1100万人、カレン族が150万人、シャン族が130万人、移住したインド人が200万人だった。首都ラングーン(現在のヤンゴン)は人口50万の近代都市。国民の多くは敬虔な仏教徒。僧侶は町の指導者を兼ね、多くの町ではパゴダ(仏塔)がランドマークとなっていた。寺院付属の学校は当時は全土で2万と言われ、識字率も高かった。

ビルマの気候は稲作に適している。当時は農業の機械化は遅れていたが、コメの年産は700万トンに達し、当時からコメの輸出国だった。日本軍は、フーコン河谷などの人口希薄な山間部を除けば、食糧調達を円滑に行うことができ、この点では日本兵が飢餓に苦しめられたニューギニアガダルカナルとは異なっていた。ただし戦争末期には、日本兵による食糧調達が半ば略奪の形となったことが、数多くの従軍記・回想録に書かれている。地下資源は、イナンジョンに当時イギリス領最大の油田があり、石油輸出も行われていた。モチタングステン)、ボードウィン)、バロック(雲母)、タヴォイタングステン)などの鉱山もあった。

ビルマに接する中国雲南省西部地方は、南北に縦走する標高3,000メートル以上の山脈が連なり、その間を深さ1,000メートルもの峡谷を形成する怒江(サルウィン川上流部の別名)、瀾滄江(メコン川上流部の別名)などの急流が流れている

1940年3月、日本の大本営陸軍部は、参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐に対し、ビルマルート遮断の方策について研究するよう内示を与えた。鈴木はビルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目した。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成できるであろう。
鈴木は「南益世」の偽名を使ってラングーンに入り、タキン党員と接触した。そこで鈴木はオンサンたちがアモイに潜伏していることを知り、彼らを日本に招くことを決意する。オンサンたちはアモイの日本軍特務機関員によって発見され日本に到着した。これを契機に陸海軍は協力して対ビルマ工作を推進することを決定し、1941年2月1日、鈴木を機関長とする大本営直属のビルマ独立支援の謀略を担当する特務機関「南機関」が発足した。

日本陸軍南機関は、は、1940年(昭和15年)から翌年7月にかけて、アウンサンら30人のタキン党員を密かに亡命させた。
​1941年2月から6月までの間に、脱出したビルマ青年は予定の30名に達し、ビルマ青年アウンサンらは、南機関の支援を受けて、日本軍占領下の海南島で軍事訓練を開始した。南機関としては、訓練を施したゲリラ要員をビルマに帰国させて、ビルマ公路の遮断工作をさせる計画であった。1941年の夏頃に武装蜂起させるという計画を立てていた。
しかし1941年の夏には、ドイツ軍のソ連進攻や、日本の南部仏印進駐とこれに対するアメリカの対日石油禁輸など、国際情勢の緊迫の度は深まっていった。このような情勢下、ビルマでの武装蜂起の計画にも軍中央から待ったがかけられた。それまで大本営はビルマへの進攻は考えておらず、南機関の活動は南方作戦計画とは無関係に進められていた
1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発して日本とイギリスが戦争状態に陥ると、アウンサンらは、南機関とともにタイ領バンコクに拠点を移し、ビルマ独立義勇軍(BIA)の編成に着手した。12月28日に宣誓式が行われ、タイ在住のビルマ人約200人を主力とするビルマ独立義勇軍が結成された。南機関員や現地商社員の義勇兵など日本人74人も参加した。独自の階級制を敷き、軍司令官には南機関長の鈴木敬司大佐がビルマ名でボーモージョー大将を名乗って就任、アウンサン(階級は大佐)らは参謀などとされた。日本から支給された小火器で武装し、専用の軍服なども支給された。
ビルマ独立義勇軍は、1942年(昭和17年)1月3日から、ビルマ侵攻作戦に参加した。任務の重点は、戦闘よりも民衆工作に置かれた。ビルマ独立義勇軍は、占領地各地で志願兵を募って軍事訓練を施しつつ前進した。一部では敗走中のイギリス軍と交戦した。3月25日には、首都ラングーンで4500人による観兵式を行った。4月には日本人将兵が指揮系統から外れ、軍事顧問としての立場に退いた。ビルマ攻略戦終結時には、ビルマ独立義勇軍の総兵力は約2万7千人に激増していた。
1942年6月には、クリーク地帯での作戦用に、兵力30人の小規模な海軍が、ビルマ独立義勇軍の下に設置された。元イギリス海軍兵が主体だった。現在のミャンマー海軍の起源とされる。

1942年7月、ビルマ独立義勇軍は解散となり、3個大隊(2800人)からなるビルマ防衛軍(BDA)が創設された。ビルマ防衛軍は、自治政府の下ではなく日本軍の補助部隊としての地位にあり、第15軍兵備局に隷属した。アウンサンらに同情的だった南機関は、解散させられた。将来的には1万人程度の規模まで拡大することを予定し、日本軍指導下での幹部養成のため、ビルマ幹部候補生隊も設置された。幹部候補生隊の卒業生の一部は、日本の陸軍士官学校へと留学している(第1期生からは30人が陸士57期に編入)。
 
1943年(昭和18年)8月、日本の指導下で「ビルマ国」(首班:バー・モウ)が独立すると、ビルマ防衛軍は、その国軍であるビルマ国民軍(BNA)に移行した。軍事担当の官庁として国防省が置かれ、アウンサンが国防相に就任。後任の軍司令官にはネ・ウィン大佐が就くなど、国防省や軍の要職は独立義勇軍初期からの面々が占めた。

しかし、ビルマの独立が名目的であったことに不満を持つ軍幹部が多く、密かに抗日組織が軍内部に構成されていった。ビルマ防衛軍時代の1942年末にはすでに反日的傾向が表れていたが、その後、「独立」してビルマ国民軍となってから反日傾向は顕著となった。インパール作戦の失敗でビルマ戦線での日本軍の劣勢が明らかになった1944年(昭和19年)8月には、アウンサンらも加わった抗日組織「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL)が、ビルマ共産党などと協力して結成された。カレン族などの少数民族もこれに加わり、連合国側との連絡も密かに始まった。イギリス軍は、特務機関136部隊en:Force 136)を通じて工作を行った。
ビルマ国民軍は、インド国民軍のように自ら進んで戦列に加わることはなかった。日本政府からの戦闘への協力要請は遅くまでなかった。1945年(昭和20年)1月に軍事顧問部長に桜井徳太郎少将が着任すると、イラワジ会戦の戦況が悪化する中、ビルマ国民軍の前線投入がついに発案された。検討の結果、3個大隊3000人の派遣軍を遊撃戦や後方支援用として出動させることになり、3月17日にラングーンで出陣式を行った。このほか、桜井少将は、大規模な民兵の整備などを構想していた。
出陣式を終えたビルマ国民軍であったが、すでに抗日軍事蜂起を決意していた。これ以前に、メイクテーラ駐屯の第5歩兵大隊は、イギリス軍が接近した1945年2月28日には大隊長に率いられて集団脱走しており、3月8日には北部の一部の部隊が公然と反乱を開始していた。

3月27日、アウンサンは、全軍へ、バー・モウ政権に対する反乱を命じ、ビルマ国民軍は日本軍への全面攻撃を開始した。なお、アウンサンは、指導を受けた日本人軍事顧問の殺傷は避けるよう指示していたが、徹底されなかった。
1945年5月、交渉の末に連合国軍の指揮下に入った旧ビルマ国民軍は、ビルマ愛国軍(PBF)と改称した。
6月15日にラングーンで行われた戦勝パレードにも参加した。
8月の日本軍との停戦成立後、ビルマ愛国軍はもともと連合国側だったカレン族部隊などと統合された。旧ビルマ国民軍兵士からは5個大隊が編成された。再編後の軍に残れなかった旧ビルマ国民軍将兵の多くは、アウンサンの指導下で民兵である人民義勇軍として温存された。1948年ビルマ連邦独立後、内戦を経て、ネ・ウィン中将ら旧ビルマ国民軍将校が政権を掌握する。そのため、ビルマ国民軍の流れは、軍事政権下のミャンマー軍に受け継がれている。



1941年12月8日、日本はアメリカ、イギリスへ宣戦布告し太平洋戦争が開始された。開戦と同時に、第33師団および第55師団を基幹とする日本軍第15軍タイへ進駐し、ビルマ進攻作戦に着手した。まず宇野支隊(歩兵第143連隊の一部)がビルマ領最南端のビクトリアポイント(現在のコートーン)を12月15日に占領した。
南機関も第15軍指揮下に移り、バンコクでタイ在住のビルマ人の募兵を開始した。12月28日、「ビルマ独立義勇軍」(Burma Independence Army, BIA)が宣誓式を行い、誕生を宣言した。
タイ・ビルマ国境は十分な道路もない険しい山脈だったが、第15軍はあえて山脈を越える作戦を取った。沖支隊(歩兵第112連隊の一部)は1942年1月4日に国境を越えてタボイ(現在のダウェイ)へ向かい、第15軍主力は1月20日に国境を越えてモールメン(現在のモーラミャイン)へ向かった。BIAも日本軍に同行し、道案内や宣撫工作に協力した。日本軍は山越えのため十分な補給物資を持っていなかったが、BIAとビルマ国民の協力により、給養には不自由せずに行動できた。さらにビルマの青年たちは次々とBIAへ身を投じた。
モールメンを含むテナセリウム(現在のタニンダーリ管区)を守るイギリス軍は英印軍第17インド師団だった。しかしこの部隊は準備不足で、日本軍の急襲を受けて退却に移り、2月22日、アーチボルド・ウェーヴェルは逃げ遅れた友軍を置き去りにしたままシッタン川の橋梁を爆破した。日本軍はサルウィン川とシッタン川を渡って進撃し、3月8日首都ラングーン(ヤンゴン、現在の首都はネピドー)を占領した。

アメリカとしては、ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、蔣介石政府の戦争からの脱落を防ぎ、100万の日本軍支那派遣軍を中国大陸に釘付けにさせ、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻勢を行えないような状況を作ることが必要だった。蔣介石政府への軍事援助は、1941年3月以降は「レンドリース法」に基づいて行われるようになった。さらにアメリカは、志願兵という形を取って、クレア・リー・シェンノートが指揮する航空部隊「フライング・タイガース」をビルマへ進出させた。アメリカ政府はジョセフ・スティルウェル陸軍中将を中国へ派遣した。スティルウェルは中国で駐在武官として勤務した経験が長く、事情に通じ中国語も堪能だった。蔣介石はビルマルート確保のために遠征軍を送ったが、アメリカ政府は遠征軍をスティルウェルの統一指揮下に置くよう要求し、蔣介石も実質上の指揮権を留保しつつこれに同意した。中国軍はビルマ中北部に到着し、ウィリアム・スリム中将が指揮を引き継いだビルマ軍団、シェンノートの率いるフライング・タイガースとあわせて体勢を整えた。

日本軍では、シンガポール攻略が予想以上に順調に進展したことから兵力に余裕が生じていた。そこでビルマ全域の攻略を推進することとし、第18師団第56師団をラングーンへ増援した。両軍の戦闘は各地で激戦となった。
だが4月29日に第56師団がラシオ(現在のラーショー)を占領して中国軍の退路を遮断し、5月1日に第18師団がマンダレーを占領すると、連合軍は次第に崩れ始めた。第56師団はビルマ・中国国境を越えて雲南省に入り、5月5日怒江の線まで到達した。中国軍は怒江にかかるビルマルートの命脈「恵通橋」を自ら爆破した。
連合軍は総退却に移った。中国軍の大部分は雲南へ、孫立人をはじめとする一部はスティルウェルと共にフーコン河谷を経てインドのアッサム州へ脱出した。スリムのイギリス軍とビルマ総督レジナルド・ドーマン=スミスチンドウィン川を渡りインパール方向へ退却した。5月中旬からビルマは雨季に入り、連合軍の退却は困難をきわめた。将兵は疲労と飢餓とに倒れ、多くの犠牲者と捕虜が残された。5月末までに日本軍はビルマ全域を制圧した。

援蔣ルートは実はもうひとつ残っていた。アッサム州のチンスキヤ飛行場からヒマラヤ山脈を越えて昆明へ至る「ハンプ越え」(The Hump)と呼ばれる空輸ルートである。危険性が高く、輸送量は月量5,000トンが限度だったが、人と物資の往来は続けられ中国軍は戦力を蓄えていった。

日本軍は撤退した連合軍に更なる打撃を与えるために、イギリス領インド帝国の要衝カルカッタ(現インドコルカタ)への爆撃を12月から実施した。カルカッタへの爆撃は1944年の12月まで複数回行われた。

開戦時には日本軍はビルマの全面占領までは意図しておらず、第15軍は軍政部を持っていなかった。那須義雄大佐を長とする軍政部が設置されたのはラングーン占領後である。5月13日、マンダレー北方のモゴク監獄から脱出していたバー・モウが日本軍憲兵隊によって発見された。これまでオンサン(アウンサン)もビルマの指導者としてバー・モウを推奨していたこともあって、8月1日、バー・モウを行政府長官兼内務部長官としてビルマ中央行政府が設立され、長官任命式が行われた。
BIAはビルマ作戦が終了した時点で23,000人に膨張していた。規律は弛緩し、部隊への給養も問題となっていたためBIAは解散された。選抜した人員をもって「ビルマ防衛軍」(BDA)が設立された。
日本軍は戦勝後のビルマ独立を予定し、ビルマ国民の軍政への協力を要求する一方で、批判的な民族主義者や若いタキン党員の政治参加は抑圧した。
 
泰緬鉄道
タイ・ビルマ国境のテナセリム丘陵英語版)北部のビラウクタウン英語版)サブレンジには、イギリスによる鎖国政策のため、鉄道はおろか満足な道路も整備されていなかった。日本軍は補給ルート確保を目的として山脈を越える全長約400キロの鉄道を計画し、建設工事は1942年6月から開始された。工事の指揮は鉄道第5連隊および第9連隊が取り、作業員として捕虜62,000人、募集で集まったタイ人数万人、ビルマ人18万人、マレー人8万人、蘭印人4万人が参加した。日本軍は人海戦術による突貫工事を要求し、雨季の間も強引に工事を進めた。作業現場ではコレラが流行し、約半数とも言われる大量の死者を出した。こうした犠牲のうえに、鉄道は1943年10月に開通した。
 
南機関
アウンサン
ビルマ独立義勇軍
米国軍事援助
中国軍
バー・モウ
泰緬鉄道
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1942年から1943年の乾季、英国インド軍の一部3,200名は7個縦隊に分かれインパール方面からビルマ北部へ進入した。各縦隊はアラカン山脈を越え、チンドウィン川を渡り、情報を収集しつつ鉄道や橋梁を爆破、一部はさらにイラワジ川を渡河し中国国境近くまで進出した。日本軍は、アラカン山脈とチンドウィン川を防壁とするという構想が覆され衝撃を受けた。特に掃討作戦に奔走させられた第18師団長牟田口廉也中将は、イギリス軍の拠点インパールを攻略せねばビルマの防衛は成り立たないという認識を持つに至り、インパール作戦を構想し始める。
 

1942年
          6月5-7日ミッドウェー海戦​
          12月31日大本営、ガダルカナル島からの撤退決定

1943年
2月10日 - 3月下旬 日本軍、ビルマで英軍と交戦。英国の北部ビルマ奪還を目的。日本軍勝利。                               
  第一次アキャブ(現在のシットウエー、ミャンマー西岸)作戦開始(三一号作戦)。
1944年 2月3日 日本軍、第二次アキャブ作戦開始。
          2月6日 クェゼリン島の日本軍玉砕。
          2月17日 トラック島空襲
          2月22日 エニウェトク環礁(ブラウン環礁)の日本軍玉砕。
2月26日 日本軍、第二次アキャブ作戦を中止。
3月8日 日本軍、インパール作戦開始。
          4月17日 - 12月10日 大陸打通作戦
          5月25日 日本軍、洛陽占領。
          6月15日 米軍、サイパン上陸(サイパンの戦い。7月7日日本軍玉砕、
                        在住日本人1万人死亡)。
          6月19日 マリアナ沖海戦。日本軍は旗艦大鳳以下空母3隻と搭載機400機を失い、
              西太平洋の制海権と制空権を喪失。
7月4日 日本軍、インパール作戦を中止。
          7月7日 - 日本のサイパン守備隊が玉砕(米軍B29日本全土空襲可能)​   
​  敗戦まで1年強

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インパール作戦へ

米英軍の反撃 と インパール作戦  1944・1945年

1943年1月、カサブランカ会談が開かれ、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相は、同年11月頃からのビルマにおける本格的反攻に合意した。イギリス陸軍は戦力を回復しつつあり、空軍は日本軍に対する航空優勢を確立していた。イギリス軍はインパール方面および南西沿岸部から、米中連合軍はフーコン河谷および雲南方面からの反攻を計画していた。
だがビルマに関するイギリスとアメリカの戦略には根本的な不一致があった。イギリスにとってビルマの失陥は、資源供給地であるイギリス領インド帝国への直接の脅威であり、さらには日本とドイツ・イタリアとの連携をも可能にさせるものだった。またイギリスの対日反攻の目標はマレーシンガポール香港の奪回であり、その前段階としてラングーンの奪回が必要だった。一方アメリカにとっては、アジアへの経済的依存は限定的だった。アメリカの関心は、援蔣ルートを回復し、中国を連合国につなぎとめることに向けられていた。

8月、指揮統一を目的として東南アジア連合軍司令部が創設された。総司令官にはイギリス王族で海軍中将のルイス・マウントバッテン伯爵が就任した。チャーチルははじめ43歳という伯爵の若さを懸念していたが、経験豊かなヘンリー・パウノル陸軍中将が参謀長として補佐することになった。アメリカ側からはスティルウェルが副総司令官に就任した。司令部はインド・ビルマに加えて東南アジア全域を統括するとされ、戦略全般はワシントン米英連合参謀本部が立案し、ロンドンのイギリス参謀総長会議を通じて伝達すると決定された。

その頃アメリカの中国戦略をめぐってはスティルウェルシェンノートとが対立していた。フライング・タイガース司令官から昇格してアメリカ陸軍航空軍第14空軍司令官となり、中国空軍を指導していたシェンノートは、中国戦線に戦力を集中すれば制空権確保は可能であると主張した。戦力をビルマへ割くのを渋っていた蔣介石もこれを支持した。しかし、中国戦線での日本軍航空部隊との戦いはシェンノートの主張するようには進展しなかった。
一方スティルウェルは、ハンプ越えだけでは輸送量に限界があるとして、北部の上ビルマを日本軍から奪回し、インドのアッサム州レドから国境を越えてカチン州に入り、フーコン河谷からミイトキーナナンカンに至る「Stillwell Road」と、ナンカンから龍陵を経由し昆明へと至るビルマ公路を接続した、「レド公路」を早期に打通すべきと主張した。スティルウェルは、中国兵にアメリカ式の武装と訓練とを施して中国国内で30個師団、インドで数個師団を編成してビルマ北部奪回作戦に投入し、その後さらに中国軍全体を再建するという長期的な構想を持っていた。

日本軍もビルマの戦力を増強していた。それまでの第15軍の4個師団体勢では戦力不足であるため、1943年3月27日、河辺正三中将を方面軍司令官として「ビルマ方面軍」を創設し、その下に第15軍(軍司令官:牟田口廉也中将)を置いた。さらに1944年1月15日ビルマ南部担当の第28軍(軍司令官:桜井省三中将)を、4月8日ビルマ北部担当の第33軍(軍司令官:本多政材中将)を編成し、戦力は最大時で10個師団・3個旅団・1個飛行師団を数えるまでとなった。しかし広大なビルマを防衛することはそれでもなお困難だった。第15軍司令官牟田口中将は、連合軍の機先を制すべくインパール方面で攻勢をとり、その間アキャブ(現在のシットウェ)、フーコン河谷、雲南方面では最小限の兵力で持久するという戦略を主張した。
1943年10月30日、中国軍新編第1軍がフーコン河谷ニンビン(現在の Ningbyen)の日本軍陣地を攻撃した。スティルウェルの構想する「レド公路」打通作戦の第一歩だった。連合軍の本格的反攻が開始されたのである。

インパール作戦
第33師団は1944年3月8日に、第15師団第31師団は3月15日に作戦を発起し、インパールとコヒマへ向けて前進した。作戦は順調に進むかに見えたが、この地域を守備していたイギリス第4軍団の後退は予定の行動だった。インパール周辺まで後退し、日本軍の補給線が伸びきったところを叩くのがイギリス第14軍司令官ウィリアム・スリム中将の作戦だったのである。
3月29日、第15師団の一部が、インパールへの唯一の地上連絡線であるコヒマ・インパール道を遮断した。4月5日、宮崎繁三郎少将の率いる歩兵第58連隊がコヒマへ突入した。だがイギリス第33軍団が反撃に移り、コヒマをめぐる戦いは長期化した。南からの第33師団の前進もイギリス軍の防衛線に阻まれていた。日本軍はイギリス第4軍団をインパールで包囲したものの、イギリス軍は補給物資を空輸して持ちこたえた。
第33師団長柳田元三中将は作戦中止を意見具申したが、牟田口は柳田を罷免した。第15師団長山内正文中将は健康を害して後送された。やがて雨季が訪れた。日本軍の前線部隊は作戦開始以来満足な補給を受けておらず、弾薬は尽き飢餓に瀕していた。第31師団長佐藤幸徳中将はたびたび軍司令部へ補給を要請するが、牟田口は空約束を繰り返すのみで、やがて両者が交わす電報は感情的な内容に変わっていった。激怒した佐藤は6月1日に独断で師団主力を撤退させた。
作戦成功の望みがなくなったにも関わらず、牟田口は攻撃命令を出し続けた。第33師団は、新しい師団長田中信男中将の指揮の下、インパール南側の防衛線ビシェンプールへの肉弾攻撃を繰り返すが、死傷者の山を築いた。
撤退した第31師団の最後尾を務めた宮崎繁三郎少将は、歩兵第58連隊を率い、インパール救出を目指すイギリス第33軍団の前進を巧みな戦術で遅らせ続けた。だが6月22日、ついにイギリス第4軍団と第33軍団がコヒマ・インパール道上で握手した。
7月3日日本軍は作戦中止を正式に決定した。将兵は豪雨の中、傷つき疲れ果て、飢えと病に苦しみながら、泥濘に覆われた山道を退却していった。退却路に沿って死体が続く有様は「白骨街道」と呼ばれた。
インパール作戦は、イギリス軍側の損害17,587名に対し、日本軍は参加兵力約85,600名のうち30,000名が戦死・戦病死し、20,000名の戦病者が後送された。インパール作戦の失敗はビルマ方面軍の戦力を決定的に低下させた。また、作戦にはインド国民軍7,000名が参加し、占領地の行政は自由インド仮政府に一任すると協定されていたが、作戦の失敗により雲散霧消した。
抗命事件を起こした佐藤は精神錯乱として扱われ軍法会議への起訴は見送られた。ビルマ方面軍司令官河辺正三中将、参謀長中永太郎中将、第15軍司令官牟田口廉也中将らは解任。

ミイトキーナ飛行場
ビルマ北部では5月17日、ガラハッド部隊を中心とする空挺部隊と地上部隊がミイトキーナ(現在のミッチーナー)郊外の飛行場を急襲し奪取した。ミイトキーナはビルマ北部最大の要衝であり、インド・中国間の空輸ルートの中継点でもあった。守備兵力は丸山房安大佐の指揮する歩兵第114連隊だったが、各地に兵力を派遣し、手元の兵力はわずかだった。
この危急に第56師団から増援部隊を率いてかけつけた水上源蔵少将に対して、第33軍作戦参謀辻政信大佐は、「水上少将はミイトキーナを死守すべし」という個人宛の死守命令を送った。ミイトキーナでは、ガラハッド部隊と中国軍新編第1軍および新編第6軍の攻撃を、水上と丸山の指揮する日本軍が迎え撃ち激闘が展開された。だが日本軍は限界に達し、8月2日、水上は生き残った将兵に脱出を命じた後、死守命令違反の責任を取って自決した。
ミイトキーナ飛行場の占領で、従来の危険なハンプ越えのルートは大きく改善された。攻防戦の最中にも、輸送量は7月には25,000トンという実績を示した。8月2日、スティルウェルは大将へ昇進した。

拉孟は、ビルマルートが怒江を横切る「恵通橋」の近くの陣地である。陣地は標高2,000メートルの山上に位置し、深さ1,000メートルの怒江の峡谷を隔てて中国軍と向かい合う最前線だった。日本軍は歩兵第113連隊を守備隊とし陣地設備を強化していた。6月2日、中国軍が拉孟を包囲したとき、連隊長松井秀治大佐は出撃中だった。金光恵次郎少佐以下1,270名の守備隊は、41,000名の中国軍の攻撃をたびたび撃退した。だが9月7日、木下正巳中尉と兵2名を報告のため脱出させた後、拉孟守備隊は玉砕した。

騰越は、連隊長蔵重康美大佐の指揮する歩兵第148連隊が守備していた。騰越は中世式の城郭都市であり、周囲を高地に囲まれ、近代戦の戦場としては守備の難しい地勢だった。騰越周辺での戦闘は6月27日に開始された。守備兵力は2,025名、攻囲する中国軍は49,600名だった。蔵重は8月13日に戦死し、大田正人大尉が代わって指揮を取った。8月下旬以降城壁は破壊され市街戦が展開された。守備隊は9月13日に玉砕した。

ミイトキーナ、拉孟、騰越を攻略した米中連合軍は、補充ののち進撃を再開した。雲南遠征軍は11月初旬に龍陵を攻略、ビルマ領内へ兵を進めた。インド遠征軍は12月15日にバーモを攻略した。第33軍は「15対1」の兵力差となるなか、持久戦を続けた。

12月から3月28日にかけてイラワジ会戦。ラングーン目指して南進してくる英軍を止めるために日本軍がイラワジ河で迎え撃った。インパール作戦の失敗で戦力を失った日本軍はラングーンまで撤退して守るという意見もあったが、ビルマ方面軍田中新一方面軍参謀長(太平洋戦争開戦時、参謀本部第一課長で開戦を強硬主張)の強硬意見で中部イラワジ河で対戦したが、敗北。

1945年1月27日、雲南遠征軍とインド遠征軍はついにレド公路上で握手した。ラングーン陥落から2年半、ビルマルート遮断は終わりを告げたのである。物資を満載したトラック群は昆明へと向かっていった。

3月27日、ビルマ国民軍11,000名はアウンサンの指揮のもと、AFPFLの旗を掲げ、日本軍に対して銃口を向けた。日本軍は背後からも攻撃を受けることになったのである。

4月23日ビルマ方面軍司令部木村平太郎司令官以下少数の幹部は寺内南方軍司令官のラングンーンを守れという命令に反し、航空機でタイ方面に撤退。民間日本人、将兵を見捨てた。陸軍大将に昇進
(A級戦犯で絞首刑, 第3次近衛内閣・東条内閣で東条陸軍大臣の次官の責任)

5月2日英軍ラングーンを奪回

イラワジ川西部で英軍と激戦中の第28軍は孤立し、半数以上が戦死。
7月20日敗退を続け、追撃する英軍に加え病気と飢えと戦いながら第28軍はタイ方面にわたるシッタン川に到達、雨季最盛期で水嵩の増すシッタン川を待ち構える英軍と交戦しながら突破。第28軍は34,000名をもってペグー山系に入ったが、シッタン川を突破できた者は15,000名に過ぎなかった。こうして第28軍が敵中突破を大きな犠牲を払いつつ成功させた頃、8月15日の終戦が訪れた。​

ビルマ戦役に参加した日本軍将兵は30万3千人。18万5千人戦死。帰還11万8千人。

そのうち悲惨を極めたインパール作戦に使われた兵力8万6千人、戦死2万4~5千人(図解太平洋戦争)
ビルマ戦線での甚大な犠牲はインパール作戦だけではなかった。

賠償
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図解太平洋戦争より

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勝利したイギリスとアメリカはそれぞれの目的を達成したが、最終的にはイギリスはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失った。ビルマは1948年に独立を達成した。


 

1943年以降、ビルマ全土に対する連合軍の爆撃が激化し、ビルマ国民も被害を受けた。爆撃は生産活動を阻み、交通通信を途絶させた。流通の停滞とともに農民は自家消費分の農作物しか生産しなくなり、次第に食糧不足が顕著になっていった。

ビルマの僧侶は、日本軍が自分たちを宣撫工作に利用しようとすることに憤った。日本式の仏教とビルマの上座部仏教とは大きく異なっていた。妻帯したり従軍したりする日本の僧侶など、ビルマの僧侶からすれば想像を絶した。ビルマ仏教の教えからみれば天皇崇拝や戦死者の慰霊祭は邪教であった。コレラ天然痘の予防接種運動に動員されるのも嫌った。注射針を通じて女の体に触れさせられるからである。
日本軍とバー・モウ政権の関係も決して良好とは言えず、4月25日に南方軍ビルマ方面軍参謀副長・磯村武亮の示唆を受けた参謀部情報班所属の浅井得一によるバー・モウ暗殺未遂事件が発生した。
 

賠償
ビルマ連邦(現ミャンマー)とインドネシアはサンフランシスコ平和条約の締約国ではなかったが、1954年と1958年にそれぞれ別途にサンフランシスコ平和条約に準じる平和条約を結んで賠償を受け取った。二国間協定による賠償を受け取った国々はフィリピン、ベトナム、ビルマ、インドネシアの4カ国。
ビルマ 720億円 ( 2億ドル相当)の生産物と役務   
​  日本とビルマ連邦との間の平和条約      1955年11月5日。
 
「占領した連合国に対する賠償」を受けた国々のように、第二次世界大戦中に現在の領土に相当する地域を日本軍に侵攻され占領された国々に対する準賠償(つまり占領した連合国に対する賠償に準じる賠償)は、以下の8カ国に供与された。ラオス、カンボジア、ビルマ、シンガポール、マレーシア、ミクロネシア、ベトナム、統一後ベトナム

ビルマへは「日本国とビルマ連邦との間の経済及び技術協力に関する協定」1963年3月29日504億円。(終了時473億円)
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