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​1944・1945年

米軍はサイパンからの日本本土空襲を可能にするため
ギルバート諸島→マーシャル諸島
      →マリアナ諸島(サイパン・グアム)
の占領を目指した。

11月20日伊175潜水艦により、マキン島西方にて米海軍護衛空母リスカム・ベイ撃沈
11月21日 - ギルバート諸島沖航空戦
11月21日 米軍、マキン島・タラワ島上陸(11月23日 日本軍玉砕)。                                                                                    11月22日-26日 エジプト・カイロで英米中首脳会談(カイロ会談)。11月23日ギルバート諸島のマキンの戦い、タラワの戦いにて日本海軍陸戦隊が玉砕(25日にかけて )                                                                   11月28日-12月1日 イラン・テヘランで英米ソ首脳会談(テヘラン会談)。12月5日 マーシャル諸島沖航空戦
             12月24日 - 徴兵年齢を1歳引き下げ、満19歳からとする

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図解太平洋戦争より

玉砕                                  
                          日本軍戦死   米軍戦死   米軍戦力
①43/5/29    アリューシャン列島アッツ島              2,371          600       11,000
②43/11/22  ギルバート諸島のマキン                         588          818         6,470
③43/11/23  ギルバート諸島のタラワ                      4,713       1,009       35,000
④44/2/3      マーシャル諸島のルオット島              2,540          195       20,104
⑤44/2/5         マーシャル諸島のクェゼリン環礁      4,130          177       21,342
⑥44/2/18       マーシャル諸島のエニウェトク環礁  3,335          262       10,367
⑦44/8/20       ニューギニア島西部ビアク島            10,000          471       30,000
⑧44/7/7        マリアナ諸島サイパン島                     30,000       3,551     127,000 (米空母15隻など500隻)
⑨44/8/3        マリアナ諸島テニアン島                       8,500         328        54,000
⑩44/8/11      マリアナ諸島グアム島                         18,500       2,124        55,000
⑪44/9/7        拉孟(ビルマ戦線)対中国軍               1,300       4,000       20,000
⑫44/9/13      騰越(ビルマ戦線)対中国軍               2,800       9,168       49,600
⑬44/9/19      パラオ諸島アンガウル島                       1,191          260       21,000
⑭44/11/24    ペリリュー島                                         10,022       2,336       54,000
⑮45/3/26      硫黄島                                                     19,000       6,821      111,308 (米軍戦傷者2万8千人、
                       米軍反撃依頼、日本軍より多かった唯一の戦い)

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「数字は証言する データーで見る太平洋戦争 るりとうわた」より

1944年            
             2月3日 日本軍、第二次アキャブ作戦開始。ビルマにおける日英戦闘
2月6日 クェゼリン島の日本軍玉砕。
2月17日 トラック島空襲 連合艦隊司令部をラバウルからトラック諸島へ移したが、そこも維持困難と見てパラオに移した。トラックの基地は激しい空襲で航空機270機、艦船40隻などを基地と共に喪失。


2月22日 エニウェトク環礁(ブラウン環礁)の日本軍玉砕。                        
             3月8日 日本軍、インパール作戦開始。牟田口廉也中将

 

3月31日 海軍乙事件(パラオの司令部も危うくなり、比ダバオに移動する。古賀峯一連合艦隊司令長官が悪天候で殉職。随伴した参謀長福留繁中将が古賀大将搭乗機とは別の搭乗機不時着によりフィリピンゲリラの捕虜となった事件。この事件の際に福留中将が保持していた日本軍の兵力などを含む最重要軍事機密文書がアメリカ軍に渡り、その後の戦況に影響。)


             4月17日 - 12月10日 大陸打通作戦(大陸から日本を空襲されることを避ける

             ために中国南北を通じて占領する作戦。しかし、サイパンを占領される

             と日本本土がほぼ全部空襲されることになり、無駄な作戦となった)

                        
             5月25日 日本軍、洛陽占領。
6月15日 米軍、サイパン上陸(サイパンの戦い。7月7日日本軍玉砕、在住日本人1万人死亡)。

6月19日 マリアナ沖海戦。
既に多くの戦力を失っていた日本海軍はいわば最後の決戦としてマリアナ諸島もしくはカロリン諸島として準備したが、海軍乙事件(3月31日参謀長福留繁中将が搭乗機の不時着によりフィリピンゲリラの捕虜により日本軍の兵力などが米軍に渡った)ため、米軍は十分な準備ができた。
日本軍は旗艦大鳳以下空母3隻と搭載機400機を失い、西太平洋の制海権と制空権を喪失。
        日本軍            
航空母艦   9(沈没3、中破1,小破3)    
  大鳳翔鶴瑞鶴、隼鷹飛鷹   小型空母:龍鳳  瑞鳳千歳千代田

戦艦     5(小破1)           
  長門 大和武蔵、金剛榛名
重巡洋艦    11(小破1)            
  妙高羽黒、最上、愛宕高雄鳥海摩耶、熊野鈴谷利根筑摩
軽巡洋艦   2               
駆逐艦     20               
艦載機     (395)                
基地航空機     (50)

司令長官:小沢治三郎中将、栗田健男中将

米軍 空母15(小破2)

ホーネットIIヨークタウンII 軽空母:ベロー・ウッドバターン

バンカーヒルワスプII 軽空母:モントレーカボットエンタープライズ、レキシントンII 軽空母:プリンストンサン・ジャシントエセックス 軽空母:カウペンスラングレー

 戦艦 7(小破2)

ワシントン、アイオワニュージャージーサウス・ダコタ、インディアナ、アラバマ、ノース・カロライナ

重巡8(小破2)

ボストン、キャンベラ、ボルチモア 、インディアナポリス、 ニューオーリンズ、ミネアポリス、サンフランシスコ

軽巡12

駆逐艦67

艦載機(130)

司令長官:レイモンド・A・スプルーアンス大将

連合軍からは「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」と揶揄される結果になった。

日本軍は戦闘機の航続距離の長さを生かして遠方から攻撃をかけ、その後戦艦で攻撃することを目指したが(アウトレンジ戦法と称した)パイロットの低い熟練度や遠距離でかえって索敵や帰還が困難となりまた米軍の新規の対空レーダーとVT信管(直撃しなくても目標の30メートル以内で爆発する対空砲火により、米軍に多数が撃墜されることになった。

大本営発表(6月23日15時30分)

我が連合艦隊の一部は、6月19日「マリアナ」諸島西方海面に於て三群よりなる敵機動部隊を捕捉、先制攻撃を行ひ、爾後戦闘は翌20日に及び其の間敵航空母艦5隻、戦艦1隻以上を撃沈破、敵機100機以上を撃墜せるも決定的打撃を与ふるに至らず 我方航空母艦1隻、附属油槽船2隻及び飛行機50機を失へり

図解太平洋戦争_0013.jpg


7月4日 日本軍、インパール作戦を中止。
7月7日 - 日本のサイパン守備隊が玉砕(米軍B29日本全土空襲可能)​   
​   2万人いた住民も犠牲。バンザイクリフからは8千人から1万2千人
   とも言われる人々が投身した。
   
ミッドウェー海戦で敗戦した真珠湾攻撃以来歴戦の南雲中将も自決
   敗戦まで1年強
            7月18日 東條英機内閣総辞職。
            7月22日 小磯国昭内閣成立。
7月24日 - アメリカ、テニアン上陸
8月2日 テニアン島の日本軍玉砕。(テニアンの戦い)
8月11日 グアム島の日本軍玉砕。(グアムの戦い)
9月11日 米軍、ペリリュー島上陸。(ペリリューの戦い)
10月10日 米軍、沖縄、台湾を空襲(十・十空襲)。
10月12日 台湾沖航空戦10月20日
比島の戦い(敗戦まで10カ月)​  
米軍、フィリピン・レイテ島に上陸(レイテ島の戦い)。  
10月23日 レイテ沖海戦始まる。
10月24日 戦艦武蔵沈没(シブヤン海)。
               10月25日 大村大空襲
10月25日 空母瑞鶴を旗艦とする日本機動部隊が全滅。神風特別攻撃隊、レイテ沖海戦で初出撃。
               11月10日 汪兆銘、名古屋で病死。
               11月10日 日本軍、桂林、柳州占領。
               11月29日 空母信濃撃沈。
               12月7日 東南海地震が発生し、家屋倒壊と津波で1223名が死亡。
                 情報統制によってほとんど報道されず。
               12月10日 日本軍、大陸打通作戦を完了。
12月26日 礼号作戦(ミンドロ島沖海戦)

1945年 
1月6日 - アメリカ、ルソン島攻略のためリンガエン湾に上陸開始
1月6日 - 8月15日 ルソン島の戦い
                  1月13日 三河地震が発生し、家屋倒壊と津波で2306名が死亡。
                   情報統制により、ほとんど報道されず。
1月18日 - 日本、本土決戦を決定
            1月24日 イギリス海軍、スマトラの製油施設を空襲(メリディアン作戦)。
            2月 クリミア半島ヤルタで英米ソ首脳会談(ヤルタ会談)。
連合国の主要3カ国首脳の会談。第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの分割統治、ポーランド人民共和国国境策定、エストニアラトビアリトアニアバルト三国の処遇などの東ヨーロッパ諸国の戦後処理が取り決められた。
秘密協定も結ばれた。
協定内容

ソ連、米国、英国の三大国指導者はドイツが降伏し、かつ欧州戦争が終結した後二か月または三か月を経てソ連がつぎの条件により連合国に味方して対日戦争に参加すべきことを協定した。

  1. 外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持されること。

  2. 1904年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシアの旧権利はつぎの通りに回復されること。

    • 樺太の南部及びこれに隣接する一切の島嶼はソ連に返還されること。

    • 大連商港におけるソ連の優先的利益を擁護し同港を国際化すること。またソ連の海軍基地として、旅順口租借権を回復すること。

    • 東清鉄道及び大連に出口を供与する南満州鉄道はソ中合弁会社の設立によって共同で運営されること。ただしソ連の優先的利益は保障され、また中華民国は満州における完全なる主権を保有するものとする。

  3. 千島列島はソ連に引き渡されること。

前記の外蒙古ならびに港湾及び鉄道に関する協定は蔣介石総帥の同意を要するものとする。米大統領はスターリン元帥からの通知があれば右同意を得るための措置を執るものとする。


(注1)1904年とは日露戦争を指す。
(注2)1956年に、共和党のアイゼンハワー政権は「(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、アメリカ合衆国連邦政府の公式文書ではなく無効である」との国務省が公式声明を発出している。また、アメリカ合衆国上院は、1951年のサンフランシスコ講和条約批准を承認する際、決議において「この承認は、合衆国としてヤルタ協定に含まれている、ソ連に有利な規定の承認を意味しない」との宣言を行っている。


1946年2月11日に極東密約(ヤルタ協定)が公開された。しかし、それより以前に、ロンドンの暫定ポーランド政府のリビコフスキー諜報員からスウェーデン ストックホルム公使館付武官、小野寺信少将を通じて、ドイツ降伏から約3ヶ月後にソ連が日ソ中立条約を破棄、対日参戦するとの情報を日本に打電している。陸軍中枢はその情報を信じず、アメリカとの和平の仲介をソ連に期待し続けた。



2月10日 北号作戦
2月18日 - 3月22日 硫黄島の戦い(敗戦まで6カ月)
​     
栗林忠道中将は、アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった。この五十代の“サムライ”は天皇によって指名され、絶賛され、豊富な戦闘経験と革新的な思考と鋼鉄の意志を持ち合わせていた。これはアメリカ軍に対する栗林の唯一の戦闘となったが、栗林はアメリカでの軍務経験から将来の対戦相手について多くを学んでいた。さらに重要なことに、彼はアメリカ軍の硫黄島への侵攻を撃退しようとする以前の日本軍の試みの結果を、瞬きを一つもしない目で評価することができた。英雄的な誇張を排除し、栗林はタラワからテニアンへの日本軍の失敗の特徴であった「水際防御」戦術と「イチかバチかのバンザイ突撃」を評価することはほとんどなかった。現実主義者の栗林は、日本軍の枯渇した艦隊や空軍から多くの援助が期待できないことを知っていた。自分がとれる最高の戦術は、最近のビアクとペリリューの防御戦術のパターンに沿って、縦深防御で硫黄島の地形を最大に活用すべきと結論づけた。栗林は「水際配置・水際撃滅主義」、「バンザイ突撃」の戦術を避け、代わりに、アメリカ軍に士気喪失させ、作戦を放棄させるため、消耗戦、神経戦、長期持久戦を行った。— アメリカ海兵隊公式戦史

2月21日、日本軍は航空機による反撃を開始し、千葉県香取航空基地から出撃した第六〇一海軍航空隊の爆撃機「彗星」12機、攻撃機「天山」8機、直掩の零式艦上戦闘機12機の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊による攻撃が行われた。この特攻は日本本土から初めて出撃したもので、八丈島基地で燃料を補給した後に硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入した。同隊突入前に、千葉県木更津第七五二海軍航空隊の一式陸攻2機が欺瞞隊として硫黄島上空に到達、錫箔をまいてレーダーを攪乱した。第六〇一海軍航空隊は航空母艦飛行隊として訓練されていた精鋭であり、わずか32機であったにも関わらず、護衛空母「ビスマーク・シー」を撃沈、正規空母「サラトガ」に5発の命中弾を与えて大破させた他、「キーオカック」(防潜網輸送船) も大破させ、護衛空母「ルンガ・ポイント」とLST-477 を損傷させる.




            3月 イラン・トルコが対日宣戦布告。
              トルコでは市民が宣戦布告に反対してデモ。
3月3日 米軍、マニラ占領。
3月9日 - 日本、明号作戦開始
3月11日 - フランスの植民地支配からの独立のため、ベトナム帝国樹立
3月12日 - フランスの植民地支配からの独立のため、カンボジア王国樹立
㋂17日- 日本の硫黄島守備隊が玉砕
3月18-21日 九州沖航空戦
3月26日- 日本、天号作戦開始- アメリカが慶良間諸島に上陸 
3月27日- イギリス、ビルマ占領

沖縄戦(敗戦まで5カ月)
沖縄守備日本軍兵力約11万6千人
 沖縄守備軍(第32軍1944年3月創設)約8万6千人
 地元沖縄の学徒兵約2万人
 海軍約1万人
米軍兵員約54万8千人
 艦艇約1500隻

4月1日 - 6月23日 沖縄戦
4月1日 米軍、本島南西部、飛行場のある読谷村、嘉手納町に上陸
4月5日 ソ連、日本に対して翌年期限切れとなる日ソ中立条約を延長しないと通達。小磯国昭内閣が総辞職。
             4月6日 菊水作戦発令
             4月7日 戦艦大和沈没(坊ノ岬沖海戦)。 鈴木貫太郎内閣成立。
    特攻隊も1895機出撃した。(米国戦略爆撃調査団)
             4月8日- ラオス王国樹立
             4月12日 アメリカ大統領のルーズベルト大統領急逝、
             後継に副大統領ハリー・S・トルーマンが就任。
4月12日 日本軍攻勢に出るも敗退
19-20日 米軍総攻撃
5月4日  日本軍も総攻撃に出るも全滅部隊続出し、中止
30日 軍司令部を首里から摩文仁に移動、数万の県民も日本軍と行動を共にし、米軍砲撃に会う。
6月4日 日本海軍部隊は鏡水に上陸した米軍と交戦。
   「沖縄県民、かく戦えり」と県民の献身的な戦いぶりを伝える電報を最後に全滅した。
原文    
発 沖縄根拠地隊司令官大田 實
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
 文中の□部分は不明
  
6月18日 高等女学校生徒543人からなる従軍衛生班ひめゆり部隊の内、
     看護学生27人が米軍急襲で全滅。

           5月16日- この大戦最後の水上戦闘ペナン沖海戦
             5月15日- 日本によるフランス領インドシナ政府解体(明号作戦)
             5月24日 - 日本、義号作戦開始6月10日 土浦海軍航空隊空襲
6月11日 - 沖縄の国吉にて大規模な陸戦
             6月19日 - アメリカ軍機約240機が福岡大空襲
6月21日 - アメリカ、沖縄を占領6月23日 - 沖縄における日本軍の組織的な戦闘終結
 日本側戦死者 18万8136人
正規軍    6万5908人
防衛隊    2万8228人
戦闘協力者  5万5246人
一般島民   3万8754人 沖縄出身者合計12万人内9万人が民間人。            
当時沖縄人口約49万人、4人に1人が戦死
米軍死者・行方不明 2万195人 (西部戦線最大の戦いバルジ作戦の1万9千人を上回る)
戦傷者5万5162人戦闘外傷病者2万6211人を加えると投入兵力の39%の損害
駆逐艦16隻その他艦艇、航空機、戦車喪失・損傷多数イギリス軍死者85人

            
             6月26日 国際連合発足(加盟50カ国)。
7月16日 アメリカが原子爆弾の実験に成功し、マンハッタン計画完成
7月25日 米国、原爆使用を決定し投下命令を下す。
           7月26日 ドイツのポツダムで英米ソ首脳が会談しポツダム宣言を発表。
             日本政府は、これを黙殺。
8月6日 広島に原爆(ウラニウム爆弾)投下 午前8時15分
     9~16万6千人が2~4か月以内に死亡 (当時の広島推定人口35万人)
     原爆死没者名簿32万8929人(2021年8月、被爆後遺症での死者を含む)

8月8日 日ソ中立条約を破棄し、ソ連対日宣戦布告、満州国と朝鮮半島に侵攻。(ソ連対日参戦)
              条約破棄通告後1年間は有効と規定されていたので、条約違反


8月8日-9日 大湊空襲 
8月9日 釜石艦砲射撃
8月9日- ソ連、満州に侵攻(ソ連対日参戦)    
   長崎に原爆投下(プルトニウム爆弾)午前11時
      約7万4千人が死亡、当時の長崎推定人口24万人
      原爆死没者名簿18万9163人(2021年8月、被爆後遺症での死者を含む)

8月10日- 御前会議にて昭和天皇による降伏の聖断が行われる
8月10日 日本、連合国にポツダム宣言受諾を打電により通告。
8月11日 - ソ連、南樺太へ侵攻、樺太の戦い
8月14日 終戦の詔が出される。中立国にポツダム宣言受諾を通告。中ソ友好同盟条約締結。
8月14日- 大本営、攻勢の停止を命じる- ソ連と中華民国が中ソ友好同盟条約を締結- 葛根廟事件
8月15日 正午 日本国民へ玉音放送(終戦の詔)。南方軍これに抗議し戦闘続行。鈴木貫太郎内閣総辞職。
8月16日 ソ連軍、南樺太に侵攻開始(28日占領)。大本営、停戦命令を出す。
8月17日 東久邇宮稔彦王内閣成立。天皇、停戦の勅旨。連合国の許可を得て皇族をサイゴン・シンガポール・南京・北京・新京に派遣し、勅旨を伝える。インドネシアにて独立戦争勃発、元日本軍義勇兵約3000名が戦う。
8月18日 インドのチャンドラ・ボース、台湾で飛行機事故死。
8月18日- 日本の敗戦を受け、満州国崩壊
8月18日 ソ連軍、千島列島の占守島に侵攻。
8月19日 フィリピン・ルソン島の日本軍部隊、停戦命令を受領。関東軍とソ連極東軍が停戦交渉開始。神州不滅特別攻撃隊、ソ連軍へ最後の出撃。
8月19日 - 日本の敗戦を受け、蒙古自治邦政府崩壊
8月21日 占守島の日ソ両軍、停戦する
8月22日 小笠原丸撃沈。
8月23日 - スターリン、日本兵捕虜のシベリア抑留を命じる
8月25日 ソ連軍、千島列島の松輪島を占領。
8月26日 満州での戦闘が終わる。
8月28日 ソ連軍、択捉島を占領
8月29日 ソ連軍、千島列島のウルップ島を占領
8月29日 米軍第一陣150名が横浜に上陸。
8月30日 連合国軍最高司令官マッカーサー、厚木飛行場に到着。
9月1日 ソ連軍、国後島・歯舞群島を占領。
9月2日 日本の降伏文書調印が米戦艦ミズーリ号においてなされ、太平洋戦争が法的に終結。
9月3日 ソ連・中国にとっての対日勝利の日。ルソン島の日本軍降伏。
9月5日 ソ連軍、色丹島を占領。ソ連軍が北方四島の占領を完了。関東軍首脳部がハバロフスクへ移動、後に57万人がシベリア抑留となる。
9月9日、支那派遣軍総司令官岡村寧次が降伏文書に南京で署名した。
10月15日 本土の日本軍、武装解除完了。

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図解太平洋戦争より

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