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15年戦争
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真珠湾攻撃以降
日米空母の動き
日本軍の真珠湾攻撃で沈んだ米戦艦8隻のうち6隻は後に引き揚げられ修理され復帰しており、最終的にアメリカ軍が失った戦艦は、アリゾナとオクラホマの2隻であった[カリフォルニアとウエストヴァージニアは修理に時間かかり戦闘に復帰できなかった]。太平洋戦争中この時以外でアメリカ戦艦の喪失はない。空母エンタープライズとレキシントンは真珠湾外で航空機輸送任務に従事していたため無傷であり、残る空母のサラトガ・ホーネット・ヨークタウン・ワスプ・レンジャーは西海岸または大西洋配置されていた。
空母エンタープライズ
真珠湾攻撃の12月7日(日付時刻はエンタープライズ艦内で使用されていた時間)の日曜日の朝の時点でエンタープライズはハワイ西方約320kmの地点にいた。6時15分にSBD艦上爆撃機2機が、続いて6時17分に残りの第6偵察飛行隊(VS-6)のSBD16機全機がフォード島へ向け発艦した。8時20分に先行した2機のSBDがエワ上空で日本軍機の攻撃を受け、応戦、その後8時35分にフォード島飛行場へ2機とも着陸した。10分後の8時45分に残りのVS-6が真珠湾に到着し、こちらも日本軍機から攻撃を受けた。こちらでは5機のSBDが撃墜された。だが反対にこのSBD編隊に攻撃を仕掛けた加賀と蒼龍所属の零戦が各1機ずつ撃墜されている。なお、加賀所属の撃墜されたこの零戦が、太平洋戦争における空戦で撃墜された最初の零戦である。燃料補給のため翌日の18時に、灯火管制下の真珠湾に帰投した。補給作業は暗闇の中であったが8時間で終わり、12月9日3時にハワイ近海の哨戒任務のため真珠湾を出港した。
伊70は日本時間9日午後7時に「米空母らしきもの真珠湾に入港」と報告したあと、消息不明となった。また日本時間12月10日朝、伊6はオアフ島東方哨区で空母と重巡洋艦2隻を発見し「〇四一〇大巡二隻及「レキシントン」見ユ「オアフ」島東水道針路六〇度 速力二〇節 本国ニ引揚グルモノノ如シ」と報告した。伊6が見たのは空母レキシントンではなく、エンタープライズであった。伊6の報告により伊25が急行したが、浮上航行中に米軍機に発見され、何度も対潜爆撃を受ける羽目になった。伊25はアメリカ本土攻撃のため、ハワイ地区を離れていった。
空母レキシントン
レキシントン以下の第12任務部隊は真珠湾攻撃の時は、ミッドウェイ島の南東約420浬(約640km)地点にあり、同島に向けて航行中だった
レキシントンは海兵隊航空機輸送任務を中止、直ちに日本艦隊捜索のため偵察機を発艦させたが南雲機動部隊と遭遇する機会はなく、13日(日本時間14日)に真珠湾へ戻った。1942年(昭和17年)1月11日(日本時間1月12日午後2時40分)、日本の潜水艦伊6の雷撃により姉妹艦サラトガ (USS Saratoga, CV-3) が損傷した。損傷修理と大改装のためサラトガは本土に回航され、約5ヶ月間も戦線を離脱した。なお日本はレキシントンを撃沈したと錯覚する。いずれにせよ、これで暫く米軍機動部隊は太平洋で行動できないとの判断から真珠湾攻撃に出た南雲機動部隊(第一航空艦隊)は東南アジアからインド洋方面の南方作戦などに転用された。
マーシャル・ギルバート諸島機動空襲
1942年(昭和17年)2月1日にアメリカ海軍の空母機動部隊が行った、マーシャル諸島およびギルバート諸島の日本軍に対する航空攻撃である。緒戦で打撃を受けたアメリカ海軍が、使用可能な空母を活用して一撃離脱を仕掛けた。同様の機動空襲の最初の事例であり、太平洋戦争におけるアメリカ海軍の最初の積極的作戦行動であった。日本は戦前からマーシャル諸島を委任統治し、ギルバート諸島も開戦直後に無血占領していた。
指揮官:ウィリアム・ハルゼー中将 空母「エンタープライズ」(旗艦)
指揮官:フランク・J・フレッチャー少将 空母「ヨークタウン」(旗艦)
日本側は、第六艦隊と第六根拠地隊の潜水艦9隻を出撃させて追撃を試みたが、いずれも敵艦を発見できなかった。また南洋部隊(第四艦隊)麾下の第六戦隊(司令官:五藤存知少将)所属重巡4隻にも東進を命じたが、いずれも補足できなかった。トラック島からは空母「赤城」「加賀」「瑞鶴」基幹の南雲機動部隊主力や、24航戦主力を緊急派遣したが、こちらも敵捕捉に至らなかった。第六潜水艦隊のその後の進撃については
その後に繰り返されたウェーク島空襲(2月14日)やニューギニア沖海戦(2月20日)などの機動空襲、さらに実際に本土が襲われたドーリットル空襲(4月18日)でもアメリカ空母を取り逃がしてしまう。このことが、アメリカ空母の捕捉を目的としたミッドウェー攻略作戦の発案
空母サラトガ(USS Saratoga, CV-3)
太平洋戦争の開戦時から参加して生き残った航空母艦3隻のうちの1隻(他の2隻は「エンタープライズ」と「レンジャー」)
1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃時はサンディエゴで整備中だったが、太平洋に空母は「レキシントン」と「エンタープライズ」しかいなかったため、急遽ウェーク島救援のために出動し、12月15日、真珠湾を経由してウェーク島に向かった。しかし、ウェーク島が日本軍の制空権下にあり日本軍が上陸したことが判明し、12月22日にウェーク島救援は中止された。翌日、ウェーク島の守備隊は降伏した。
1942年1月12日、「サラトガ」は「エンタープライズ」と合流するためハワイを出港したが、日本海軍の「伊号第六潜水艦(伊6)」(稲葉通宗艦長)に雷撃され米本土で修理された。
1942年7月7日、アメリカ軍はソロモン諸島方面で反撃の準備のため、「サラトガ」は真珠湾を出港してフィジーに展開し、8月にガダルカナル島攻防戦が始まった。「サラトガ」の搭載機は第二次ソロモン海戦で日本海軍の空母「龍驤」を撃沈するが、哨戒中またも潜水艦の雷撃を受けた。31日に「伊号第二十六潜水艦」(横田稔艦長)が放った魚雷で行動不能に陥り、重巡洋艦「ミネアポリス」に曳航され、トンガのトンガタプ島へ退避した。
1945年2月21日、「サラトガ」は硫黄島の夜間防空と父島への夜間攻撃のため、駆逐艦3隻を伴って機動部隊を離れた際、日本海軍第二御盾隊による特攻で衝突4機と爆弾2発を受けて大破した。死者・行方不明者あわせて123人、負傷者192人に達した。
日本の空母
1941年(昭和16年)12月8日、南雲機動部隊・第一航空艦隊は真珠湾を攻撃した。
第一航空戦隊:赤城・加賀
第二航空戦隊:飛龍・蒼龍
第四航空戦隊:龍驤・祥鳳
第五航空戦隊:翔鶴・瑞鶴(※MO作戦参加のため1942年4月16日に南洋部隊に転出)
同時期、南洋部隊(指揮官:井上成美第四艦隊司令長官)はウェーク島の攻略に苦戦していた。12月10日第一次攻略作戦失敗(太平洋戦争緒戦における日本側唯一の敗北)。連合艦隊は阿部弘毅中将(第八戦隊司令官)指揮下の分遣隊(第八戦隊重巡洋艦〈利根・筑摩〉、第二航空戦隊〈蒼龍・飛龍〉、第17駆逐隊1小隊〈浦風・谷風〉)を12月16日以降南洋部隊の指揮下に入れ、ウェーク島攻略戦に協力させた(ウェーク島の戦い23日上陸成功し米軍降伏)。機動部隊本隊は先に内地へ帰投した。ウェーク島陥落後、分遣隊は機動部隊に復帰して内地に帰投。
1942年(昭和17年)1月下旬、空母4隻(赤城・加賀・瑞鶴・翔鶴)で南洋部隊(第四艦隊基幹)のラバウルおよびカビエン攻略を支援する(ラバウル攻撃)。1942年1月23日、第四艦隊を基幹とする南洋部隊は、ニューブリテン島のラバウルとニューアイルランド島のカビエンを占領した(ラバウル空襲)。南洋部隊はラバウルの航空基地化を促進した。ラバウル占領後、南洋部隊はニューブリテン島各地を占領して航空基地を設営し、またニューギニア島東部の連合軍飛行場に空襲を行った。
2月のダーウィン空襲(参加空母は赤城・加賀・蒼龍・飛龍)、3月のジャワ海掃討戦を成功させる。
3月下旬、パラオで座礁事故を起こした「加賀」はスラウェシ島スターリング湾から内地へ帰投した。一方、五航戦が同地に進出し、空母5隻(赤城・蒼龍・飛龍・瑞鶴・翔鶴)を基幹としてインド洋に進出し、インド洋作戦に参加した。セイロン沖海戦で、一航艦は5日のコロンボ空襲中に現れた巡洋艦2隻を撃沈、9日のトリンコマリー空襲では、周囲に空母がいて新たな敵の出現は確実と判断した一航艦は、母艦に飛行隊の約半数を控置するように計画を変更し、現れた空母「ハーミーズ」を撃沈する。英軍の二大拠点であるコロンボ、トリンコマリーに大打撃を与えた。4月下旬、南雲機動部隊はインド洋から内地に帰還した。機動部隊は開戦以来五ヵ月におよぶ作戦行動を終えて内地に帰投したばかりで、休養と整備が必要であった。
第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)はポートモレスビー攻略に伴うMO作戦に参加のため、南洋部隊(指揮官:井上成美第四艦隊司令長官)に編入された。当初、派遣される空母は加賀だったが、南洋部隊より空母増勢の要請があり五航戦に変更となった(他に第五戦隊、第7駆逐隊、第27駆逐隊を増援)。5月上旬にポートモレスビー作戦を実施したあと、五航戦は6月のミッドウェー作戦には一航艦に戻って参加する予定だった。5月7日-8日の珊瑚海海戦において、日本側は軽空母祥鳳が沈没、翔鶴が大破、瑞鶴も航空隊の被害甚大で、翔鶴の修理と航空隊の再建には三ヶ月が必要と見込まれた。連合軍側は空母レキシントンが沈没、ヨークタウンが損傷した。
5月12日、連合艦隊命令作第14号により、ミッドウェー作戦とアリューシャン作戦の詳細な作戦要領が下令された。
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