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15年戦争
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インド
F機関と機関長 藤原岩市
1941年10月、駐バンコク大使館武官室勤務として開戦に先駆けてタイに入った藤原は、南方軍参謀を兼ねる特務機関の長として、心理戦を行った。陸軍中野学校の出身者を中心に、若干十名程度、増強を受けても三十人ぐらいの部下だけで、藤原はかなり幅広い任務を与えられた。
F機関と機関長 藤原岩市の最も大きな功績は、インド国民軍の創設である。当時タイに潜伏していた亡命インド人のグループと接触して、彼らを仲介役として藤原は英印軍兵士の懐柔を図った。
藤原は、降伏したインド人兵士をイギリスやオーストラリアの兵士たちから切り離して集め、通訳を通して彼等の民族心に訴える演説を行った。この演説は(日本についての歴史的評価がどうであれ)インド史の一つのトピックである(w:The Farrer Park address)。
インド国民軍は最終的に5万人規模となった。期待以上に大きくなったインド国民軍は、一少佐の手に余るものであり、F機関を発展解消して岩畔豪雄を長とする岩畔機関を作った。日本軍とインド国民軍の間で、またインド国民軍の内部で、トラブルが頻発し、インド国民軍のトップを誰にするかで大問題となった。彼らをまとめられる人物としてインド人の推挙に従いスバス・チャンドラ・ボースを呼び寄せることになるが、インド国民軍初期の統率者であったモーハン・シンは任を解かれて怒り、藤原は彼を宥めなければならなかった。
大東亜会議
1943年(昭和18年)11月5日 - 11月6日に東京で開催されたアジア地域の首脳会議。同年5月31日に御前会議で決定された大東亜政略指導大綱に基づき開催された。
会議開催に先立ち日本によるビルマの独立承認(8月1日)、フィリピンの独立承認(10月14日)が行われている。ただし、これらの独立はこれまでこれらの地を植民地支配していた連合国からは「傀儡政権」とも評されており、その他のマレーやボルネオ等は、大綱において帝国領とされ、独立はさせられなかった。また、独立を承認した諸国の完全な民心把握及び実効支配には至っておらず、特にまだアメリカ領フィリピン植民地軍(米比軍)残党が残っていたフィリピン第二共和国では、アメリカからの援助を受けた米比軍残党による抗日ゲリラ(ユサッフェゲリラ)が跋扈するようになるほか、大戦末期になるとビルマ国の国軍であるビルマ国民軍が連合国側に寝返ることとなった。
会議参加国
大東亜会議当時に、日本の同盟国もしくは日本が旧宗主国を放逐した後に独立した各国が参加した。なおこの内インドはオブザーバーとして参加した。
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日本:東條英機内閣総理大臣
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中国:汪兆銘行政院長
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満洲:張景恵国務総理大臣
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フィリピン:ホセ・ラウレル大統領
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ビルマ:バー・モウ内閣総理大臣
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タイ:ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)
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インド:この時点では本土がまだイギリスの植民地支配下にあったインドからは、日本と協力しインド全土のイギリス(イギリス領インド帝国)からの完全独立を目指していた亡命政権である自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースが参加した。ラース・ビハーリー・ボースもオブザーバーとして出席したが、オブザーバーとなったのは日本がインドを大東亜共栄圏に組み込まないという意思を明確にしていたからである。
また、イギリスの植民地であったマラヤや、オランダの植民地であったインドネシアは会議当時は日本軍の占領下であったものの、大東亜政略指導大綱において帝国領とすることとされ、独立検討の対象ですらなかった。仏領インドシナは日本と友好関係にあるフランスのヴィシー政権の植民地のままであったため同様に参加していない
決して開催国の日本の思惑通りに予定調和的に会議が行われたわけではなく、タイ王国代表ワンワイタヤーコーンが、その演説の中で大東亜共同宣言案への修正提案が拒絶されたことに対する婉曲な批判を行い、またフィリピン大統領ホセ・ラウレルが、元オランダの植民地であったインドネシア代表のスカルノらが会議に参加できなかったことへの不満を述べている。また、タイの首相・プレーク・ピブーンソンクラームは連合国との将来的な関係回復を見据えて欠席した。
大東亜会議
インパール作戦
インパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦)
ビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された、援蔣ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。作戦に参加したほとんどの日本兵が死亡したため、現在では「史上最悪の作戦」と言われている。当作戦を始め、ビルマで命を落とした日本軍将兵の数は16万人におよぶ
通俗的には、牟田口廉也中将の強硬な主張により決行された作戦として知られる。兵站に難があり、撤退時に特に多くの犠牲を出したことから、「無謀な作戦」「無為無策の戦術」の代名詞としてしばしば引用される
1943年
2月2日 スターリングラードのドイツ軍降伏
2月1日-7日 日本軍、ガダルカナル島撤退。
7月29日 日本軍キスカ島から撤退(キスカ島撤退作戦)。
7月4日 - 史上最大の戦車戦、クルスク会戦以降ドイツ軍は東部戦線で攻勢にでられなくなる
9月3日- 連合国軍がイタリア半島上陸開始(イタリア侵攻、ベイタウン作戦)
9月4日- イタリアが連合国と休戦協定締結(イタリアの降伏)
10月21日 東京・明治神宮外苑にて出陣学徒壮行式開催(学徒出陣のはじまり)。
11月5日 東京で大東亜会議を開催、大東亜共同宣言を発表。
11月22日 - ルーズベルト・チャーチル・蒋介石の米英中三国首脳によるカイロ会談開催(11月27日まで)
1944年
3月8日 日本軍、インパール作戦開始。
6月15日 サイパンの戦い。7月7日日本軍玉砕、在住日本人1万人死亡
6月16日 八幡空襲。米軍、中国大陸から北九州への初空襲。
6月19日 マリアナ沖海戦。日本軍は旗艦大鳳以下空母3隻と搭載機400機を失い、西太平洋の制海権と制空権を喪失。
7月4日 日本軍、インパール作戦を中止
5月上旬時点での日本軍参加兵力は、第15軍の下記3個師団で計49,600人、その他軍直轄部隊など36,000人の総兵力約85,000人であった。7月までの総兵力は、約90000人と見られる。ただし、チンドウィン川を渡河したのは2/3の約60,000人に限られ、残りの人員は後方に残っていた。
インパール作戦には、イギリス支配下のインド独立運動を支援することによってインド内部を混乱させ、イギリスをはじめとする連合国軍の後方戦略をかく乱する目的が含まれていたことから、インド国民軍6,000人も作戦に投入された。
長距離の遠征作戦では後方からの補給が重要であるところ、当時の第15軍は自動車輜重23個中隊、駄馬輜重12個中隊の輜重戦力を持っており、その輸送力は損耗や稼働率の低下を考慮しなかった場合、57,000トンキロ程度であった。しかしながら実際に必要とされる補給量は第15軍全体において56万トンキロ程度と推計され、到底及ぶものではなかった。
連合軍は第14軍第4軍団(英印軍3個師団基幹)を中心に、約15万人がこの地域に配備されており、オード・ウィンゲート准将のコマンド旅団が、ビルマ地域の日本軍の脆弱な補給線の破壊活動の分析を行い、また、暗号解析などにより1944年2月頃までに日本軍が3方向より侵攻する攻撃計画の全容を把握していた。そこで第14軍司令官ウィリアム・スリム中将など連合軍司令部では、重火器装備を揃えた上で、空輸作戦による補給体制を確立する一方、英印軍部隊をインパールまで後退させつつ防御戦闘を行うことで後方兵站部隊の脆弱な日本軍を疲弊させ、その進出限界点(攻撃の限界点)であるインパール平原で一気に反攻に移る作戦を固めていた。
もっとも、ウィンゲート旅団参謀長だったデリク・タラク少将は、上記のインパールまでの後退が第14軍の作戦通りだったとする多数説には懐疑的である。タラクによれば、1944年2月末時点でも確固たる作戦計画がなかったのが実情だったという。
3月8日、第15軍隷下3個師団を主力とする日本軍は、予定通りインパール攻略作戦を開始した。日本軍は1個師団を要衝ディマプルとインパールの結節点であるコヒマに進撃させ、残りの2個師団が東、南東、南の3方向よりインパールを目指した。しかし作戦が順調であったのはごく初期のみで、ジャングル地帯での作戦は困難を極めた。 牟田口が補給不足打開として考案した、牛・山羊・羊・水牛に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言ういわゆる「ジンギスカン作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落し、たちまち破綻した。所々にある狭く急な坂では重砲などは分解し人力で運ぶ必要があり兵士らは消耗していった。また3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、爆撃にさらされた家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの物資が散逸した。このため糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、各師団とも前線に展開したころには戦闘力を大きく消耗する結果を招いた。物資が欠乏した各師団は相次いで補給を求めたが、牟田口の第15軍司令部は「これから送るから進撃せよ」「糧は敵に求めよ」と電文を返していたとされる。
連合軍は、この頃までに確保しつつあったビルマでの制空権を存分に活用して対応した。米英両軍のC-47を中心とする輸送機を動員して大量の人員や物資をインパールまで空輸したため、陸路で遮断されていたにもかかわらず補給線は辛うじて確保されていた。
第15師団は4月7日にインパールの北15kmのカングラトンビまで到達し、第33師団は5月20日にインパールの南15kmのレッドヒルまで到達したが、連合軍の激しい反撃を受けこれ以上の進撃はできなかった。雨季が始まり、補給線が伸びきる中で、空陸からイギリス軍の強力な反攻が始まると、前線では補給を断たれて飢える兵が続出。極度の飢えから駄馬や牽牛にまで手をつけるに至るも、死者・餓死者が大量に発生する事態に陥った。また、飢えや戦傷で衰弱した日本兵は、マラリアに感染する者が続出し、作戦続行が困難となった。機械化が立ち遅れて機動力が脆弱な日本軍には、年間降水量が9,000mmにも達するアラカン山系で雨季の戦闘行動は、著しい損耗を強いるものであった。しかし、牟田口は4月29日の天長節までにインパールを陥落させることにこだわった。
現状を正確に認識して、部隊の自壊を危惧した第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将は、「作戦継続困難」と判断して、たびたび撤退を進言する。しかし、牟田口はこれを拒絶し、作戦継続を厳命した。そのため双方の対立は次第に激化し、5月末、ついに佐藤は部下を集めて次のように告げた。
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余は第三十一師団の将兵を救わんとする。
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余は第十五軍を救わんとする。
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軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす。
さらに司令部に対しては「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」(原文のふり仮名はカタカナ)と返電し、6月1日、兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却、そこにも弾薬・食糧が全く無かったため、独断で更にフミネまで後退した。これは陸軍刑法第42条に反し、師団長と言う陸軍の要職にある者が、司令部の命に抗命した日本陸軍初の抗命事件である。これが牟田口の逆鱗に触れて師団長を更迭されたが、もとより佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったと言う。また、第33師団長柳田元三陸軍中将が、同様の進言をするものの牟田口は拒絶。これもまた牟田口の逆鱗に触れ、第15師団長山内正文陸軍中将と共に、相次いで更迭される事態となった。天皇によって任命される親補職である師団長(中将)が、現場の一司令官(中将)によって罷免されることは、本来ならば有り得ない事であり、天皇の任免権を侵すものであったが、後日、この人事が問題となることはなかった。三師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った。
7月3日、作戦中止が正式に決定。投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力はわずか1万2千人に減少していた。しかし、実情は傷病者の撤収作業にあたると言え、戦闘部隊を消耗し実質的な戦力は皆無で、事実上の壊走だった。
退却戦に入っても日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患した者は、次々と脱落していった。退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様から「白骨街道」と呼ばれた。イギリス軍の機動兵力で後退路はしばしば寸断される中、力尽きた戦友の白骨が後続部隊の道しるべになることすらあった。伝染病にかかった餓死者の遺体や動けなくなった敗残兵は、集団感染を恐れたイギリス軍が、生死を問わずガソリンをかけて焼却した他、日本軍も動けなくなった兵士を安楽死させる“後尾収容班”が編成された。また負傷者の野戦収容所では治療が困難となっており、助かる見込みのない者に乾パンと手榴弾や小銃弾を渡して自決を迫り、出来ない者は射殺するなどしている。
本作戦は7月1日に中止。
日本軍の作戦参加人数および損耗は明確な資料がなく明らかではないが、『陸戦史集』によれば、昭和19年5月中旬、当時の大本営参謀、徳永八郎中佐がビルマ方面軍戦況視察中、インダンギーの第15軍司令部を訪ねた時の死傷発生表を入手し、この表から逆算し、当時の参加兵力は第16師団15,804名、第31師団16,666名、第33師団17,068名、軍直属部隊36,000名、計86,538名である。その後インパール作戦に増強された人員を加算すれば、少なく見て9万人を超えると鑑定される。
大日本帝国陸軍の損害は、『戦史叢書』によれば、戦死者が第15軍の主力3個師団で計1万1,400人、戦病死者が7,800人、行方不明者1,100人以上(計20,300人以上)にのぼり、そのほか第15師団だけで3,700人の戦病者が発生した。
第33師団においては、田中師団長の6月30日の日記には、第33師団の戦死傷7,000、戦病5,000、計12,000名と記され、すなわち師団兵力の70%を失っていた。インド国民軍も、参加兵力6,000人のうち、チンドウィン川まで到達できたのは2,600人(要入院患者2,000人)で、その後に戦死400人、餓死および戦病死1,500人の損害を受けて壊滅した。また、イギリス軍のスリムは、日本軍の兵力11万5,000人、戦死者6万5,000人としている。
8月30日、牟田口軍司令官と河辺方面軍司令官はそろって解任され、東京へ呼び戻された。インパール作戦の失敗後、大日本帝国陸軍はビルマ方面軍の高級指揮官・参謀長らの敗戦責任を問い、そのほとんどを更迭した。牟田口第15軍司令官も軍司令官を解任され、予備役に編入される懲罰人事を受けた。
ガンディー
1914年に第一次世界大戦が起こると、イギリスは将来の自治を約束して、植民地統治下のインド人に協力を求めた。ガンディーはこの約束を信じ、インド人へイギリス植民地軍への志願を呼びかける運動を行った。しかし戦争がイギリスの勝利に終わっても、自治の拡大は、インド人が期待したほどの速度では進行しなかった。
スワデーシー(「自分の国」の意で、国産品愛用運動)の要求と、ローラット法発布に対する抗議のために集まった非武装の市民を、グルカ族およびイスラーム教徒からなるインド軍部隊が無差別に射撃して数百人を虐殺した「アムリットサル事件」が発生した。この一連のインド帝国政府の態度は、ガンディーに「イギリスへの協力は独立へとつながらない」という信念を抱かせるようになった。
第一次世界大戦後は、独立運動をするインド国民会議に加わり、不服従運動で世界的に知られるようになる。またイギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行った。よく知られている「インドの糸車を廻すガンディー」の写真には、こうした背景がある。
ガンディー
第一次世界大戦後、イギリスとの同盟が解消された日本は、満州・中国問題などでイギリスやアメリカ合衆国と対立。イギリスからの独立運動を行っていたラース・ビハーリー・ボースやA.M.ナイルの亡命を受け入れ、その後「欧米帝国主義国の植民地からの解放」を掲げ、1941年12月に英米との間で開戦した(太平洋戦争)。
日本軍は瞬く間に香港やマレー半島、ビルマなどの東南アジア一帯のイギリス植民地から、イギリス軍やオーストラリア軍を駆逐した。インド国民会議派元議長でインド国外でイギリスに対する独立闘争を続けていたスバス・チャンドラ・ボースやビハーリー・ボース、ナイルなどの独立運動家は、日本の支援を受けてインド国民軍を組織し、インドの外側から軍事的にイギリスに揺さぶりをかけようとした。しかしインド国内、つまりイギリスの植民地に留まっていたガンディーは、この様な動きに連携することはなかった。
ただし、日本軍がイギリスやアメリカ、オランダをはじめとする連合国軍を撃破し続け、インド洋でイギリス海軍に打撃を与えてインドに迫った1942年初頭から1943年中盤の時期には、日本との連携を模索する姿勢を見せていたことが指摘されている。実際に1942年には、日本軍のインドへの接近に慌てたイギリスが「インドをイギリス連邦内自治領として認める」という条件でインド人の懐柔を図った。イギリスの魂胆を見抜いたガンディーはこれを拒否し、民衆は「クイット・インディア」(Quit India、つまり「インドから出ていけ」)を掲げ、その結果2年間投獄されることとなった。
しかし、同時にガンディーは「すべての日本人に」と題された声明を発表し、「欧米帝国主義国の植民地からの解放」を掲げつつも、強権的かつ人種差別を明確に掲げるナチス・ドイツやファシスト政権下のイタリアと組み、覇権主義的な行動を見せつつある日本の姿勢に対する疑問を明らかにし、「もしもあなたがたの国に行くことを許されるならば、あなたがたの国へ行って、中国に対し、世界に対し、したがつてまたあなたがた自身に対して行っている暴行をやめるように懇願しましょう。そのために私の健康が、いや生命が損なわれても意に介しません」と日本に対して呼びかけている。
なおガンディーはこれ以前から日本の中国侵略に極めて批判的であり、1939年にハリジャン紙に掲載された日本の生活協同組合運動指導者である賀川豊彦との対談でも「あなたがた日本人はすばらしいこともなしとげたし、また日本人から、私たちは多くのことを学ばなければなりません。ところが、今日のように中国を併呑したり、そのほかぞっとするような恐ろしいことをやっていることを、どのように理解したらいいでしょうか」と批難している。
1942年
2月4日
中国戦区連合軍総司令官に就任した蒋介石は、宋美齢夫人とともに、ビルマ、インド訪問に出発した。総司令官として最初の外国訪問である。
南方および太平洋方面を主戦場とする太平洋戦争の勃発により、中国戦場の地位が低下した。支那派遣軍から有力な陸上ならびに航空兵力の南方転用が実施され、中国戦線はいわば「支作戦正面」の性格を帯びるにいたった。しかし一方、太平洋戦争の勃発により中国にとっては、日本軍のビルマ方面からの進撃によるビルマ援蔣ルートの遮断、同方面からする昆明、重慶への脅威という新たな局面が登場してぎた。中国側から言えば従来の日本軍の東からの攻撃に加えて、西、つまりビルマ側からの進攻を警戒しなければならなくなったのである。
蔣介石夫妻のインド・ビルマ訪問の目的は二つで、ビルマ作戦の折衝とインドにおけるイギリス本国と国民会議派の対立の調整である。独立を求める国民会議派に日本の支援と扇動が強化されるのは明らかで、中国としてはビルマルート防衛には英印間の混乱を回避させる必要があった。蒋が昆明に帰ったのが二月二十日であるから、二週間を超える訪問となった。その間二月十五日、シンガポールの陥落を蒋はインドで知った。
蒋は各地でインド、ビルマのイギリス総督はじめ軍首脳と会見する一方、イギリスの反対を押し切って国民会議派ガンジー、ネルー、イスラム教指導者ジンナーなどと会談した。蒋はイギリス側には自治の実行を迫り国民会議派の首脳には段階的な独立達成を勧告したが、いずれも応ぜず工作は失敗に終った。しかし蒋がかねてから国民会議派の反英運動に理解をもっていることは知られていたので、蒋の訪印はインドの民衆とくに学生の熱烈な歓迎を受けた
1945年8月15日に日本が降伏し、第二次世界大戦が終結した。イギリスは戦勝国となったが、日独との戦いで国力は衰退し、本国から遠く離れている上に独立運動が根強く続けられてきたインドを植民地として支配し続けることはもはや困難であった。
さらにはチャンドラ・ボースやラース・ビハーリー・ボース、A.M.ナイルらが設立したインド国民軍の一員として、これを支援した日本軍とともにイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍などと戦ったインド人将官が、イギリス植民地政府により「反逆罪」として裁判にかけられることとなった。これに対してガンジーは「インドのために戦った彼らを救わなければならない」と、インド国民へ独立運動の号令を発した。
この運動をきっかけに再びインド全体へ独立運動が広がり、これに耐えることができなくなったイギリスはインドの独立を受け入れた。
1947年8月15日、デリーの赤い城にてジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立した(その後1950年には共和制に移行し、イギリス連邦内の共和国となった)。
なお、ガンディーの「ヒンドゥーとイスラームが融合したインド」との思い通りにはいかず、最終的にイスラーム教国家のパキスタンとの分離独立となった。
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