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15年戦争
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インド洋セイロン沖海戦
インド洋作戦は太平洋戦争緒戦において、日本海軍が水上艦艇、潜水艦、航空部隊の三兵力をもって、インド洋セイロン島のイギリス軍兵力を撃滅しようとした作戦。
当時、日本陸軍の南方における陸上作戦は順調で、第十五軍は首都ラグーンを占領していたが、今後、全ビルマ制圧作戦を進めるためには、海路からの軍需品輸送が必要となっていた。しかし、イギリス海軍はセイロン島に商港コロンボと軍港トリンコマリーとを持っており、マレー、シンガボールを失っても、ここを拠点として日本の海路輸送を妨害してくることが予想された。そこで海上交通保護のため北部スマトラ島とアンダマン諸島を占領して航空基地を建設するとともに、セイロン島の二大拠点とイギリス東洋艦隊に打撃を与えておく必要が生じた。
1942年(昭和17年)3月9日の時点で日本軍はジャワ島を攻略し(蘭印作戦)、南方資源地帯占領は想定より早く進行、第一段作戦(南方作戦)はバターン半島攻略とビルマ方面をのぞき最終段階を迎えていた。 しかし続く第二段作戦は、セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略し、ドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側と、オーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側(特に軍令部)とが対立し、最終目標が決まってなかった。
インド洋に展開するイギリス海軍は当初、空母2隻、戦艦2隻、重巡洋艦3隻をはじめ、軽巡、駆逐艦も行動しており、沿岸の基地には約300機の航空機が配備していたが、マレー、シンガポールを奪った日本軍がさらに西進することを懸念して、空母1隻、戦艦3隻を増派していた。1941年12月のマレー沖海戦で東洋艦隊旗艦の戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈され、極東の最重要拠点シンガポールも失陥したため、東洋艦隊をインド洋セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ基地並びにトリンコマリー軍港にまで退避させていた。インド洋に展開する空母インドミタブル、戦艦リヴェンジ、ロイヤル・サブリンに加え、空母フォーミダブル、戦艦ラミリーズ、レゾリューション、ウォースパイト等を増派した。これで英国東洋艦隊は、戦艦5隻と空母3隻を基幹とする大艦隊となった
1942年
3月5日 日本軍、ジャワ島バタビア(現ジャカルタ)を占領。
3月7日 東インドのオランダ軍降伏。
3月8日 日本軍、英委任統治領ニューギニア島ラエとサラモアに上陸、占領(東部ニューギニアの戦い)。ビルマ(現ミャンマー)ラングーン(現ヤンゴン)占領。
3月13日 アメリカ軍フィリピン司令官マッカーサー、フィリピンから逃亡。
4月5日-9日 日本軍、セイロン(現スリランカ)コロンボの英軍基地を空襲。セイロン沖海戦。
4月18日 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲(東京初空襲)。
5月1日 日本軍、ビルマ中部マンダレー占領。
5月3日 日本軍、ソロモン諸島ツラギ占領(MO作戦始まる)。
5月4日 日本軍、英領ビルマのアキャプ占領、ビルマ制圧完了。南方作戦完遂。
5月7日-8日 米領フィリピン・コレヒドール島の米軍降伏。珊瑚海海戦(日本軍、ポートモレスビー攻略作戦を放棄)。
5月10日 日本軍、ミンダナオ島を占領。
5月29日 日本軍の特殊潜航艇、マダガスカル島のディエゴ・スアレスのイギリス軍基地を攻撃(マダガスカルの戦い)。
5月31日 日本軍の特殊潜航艇、オーストラリアのシドニーのイギリス軍艦艇を攻撃(特殊潜航艇によるシドニー港攻撃)。
日本軍の当初の予定では機動部隊のスターリング湾からの出撃は3月21日、セイロン島攻撃は4月1日であった。しかし、第五航空戦隊の日本本土からスターリング湾への進出が遅れ、セイロン島攻撃日は4月5日となっていた。3月26日、スラウェシ島(セレベス島)南東岸スターリング湾(Staring-baai)から出撃した南雲機動部隊は、オンバイ海峡を通過しジャワ島の南方からインド洋に入った。
イギリス軍は日本軍の暗号を解読し3月22日には4月1日に日本軍がセイロン島を攻撃する予定であることを知った。
イギリス艦隊はセイロン島の南で行動し日本軍を待った。
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A部隊(サマヴィル中将):戦艦「ウォースパイト」、空母「インドミタブル」、「フォーミダブル」、重巡洋艦「コーンウォール」、軽巡洋艦「エメラルド」、「エンタープライズ」、駆逐艦6隻
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B部隊(アルガノン・ウィリス中将):第3戦艦戦隊(戦艦「レゾリューション」、「ラミリーズ」、「ロイヤル・サヴリン」、「リヴェンジ」)、空母「ハーミーズ」、軽巡洋艦「カレドン」、「ドラゴン」、「ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク」、駆逐艦8隻
4月1日には修理を中断して出撃した重巡洋艦「ドーセットシャー」がA部隊に合流した。しかし日本軍の作戦延期で会敵でず、2日、艦隊主力をアッドゥ環礁へ待避させることにした。「ドーセットシャー」は修理再開のため、「コーンウォール」はオーストラリア行き船団の護衛にあたるため、ともにコロンボへ向かった。また、「ハーミース」と駆逐艦「ヴァンパイア」はマダガスカル島攻略準備のためトリンコマリーへ向かった。
1942年(昭和17年)4月5日朝、南雲機動部隊はコロンボ南方200海里に進出し、淵田美津雄中佐を指揮官とする第一攻撃隊(艦攻54、艦爆38、零戦36)でコロンボを空襲した。艦攻は800キロ爆弾を搭載。各艦(赤城〈艦攻17、零戦9〉、蒼龍〈艦攻18、零戦9〉、飛龍〈艦攻18、零戦9〉、瑞鶴〈艦爆19、零戦9〉、翔鶴〈艦爆19〉)から攻撃隊が発進した。二航戦(蒼龍、飛龍)の艦爆、五航戦(瑞鶴、翔鶴)の艦攻と零戦は、逃げ出してきた艦艇の攻撃や、イギリス空母が出現した時に備えて飛行甲板上で待機した。
午前11時18分、地上軍事施設には甚大な損害を与えたが、湾内の艦船に対する爆撃効果は十分ではないと判断した攻撃隊総指揮官淵田中佐は、「第二次攻撃を準備され度」と連絡した。 淵田の報告を受けた南雲長官は1152(日本時間)に、各空母で雷装(魚雷装備)で待機させていた攻撃隊を爆装(爆弾装備)に転換し、第一次攻撃隊収容後にただちに発艦するように命じた。
しかし、13時に「利根」の九四式水上偵察機機動部隊西方で巡洋艦らしきものを発見し、「敵巡洋艦らしきもの二隻見ゆ」と報告した。南雲長官は利根・筑摩から索敵機を発進させるとともに、爆装(爆弾装備)を命じた攻撃隊を再び雷装(魚雷装備)させるように命じた。
13時50分、阿武隈水偵から駆逐艦2隻発見の報告が入る。また、同機は他の敵は存在しないとも報告。これにより、先の報告の巡洋艦は駆逐艦を誤認したものではないかとの疑いが生じた。 このとき先任参謀大石保中佐は、駆逐艦ならばそれよりコロンボで打ち漏らした商船群への攻撃を優先すべきと主張した。これに対し、航空参謀源田実中佐は駆逐艦であろうと海上武力の撃滅を優先すべきと主張し、南雲長官は源田案を採用した。
山口多聞少将から「攻撃隊発進の要ありと認む」と赤城へ意見具申があった。 機動部隊司令部は爆装準備が整っていた急降下爆撃隊53機(赤城17、蒼龍18、飛龍18)を、そのまま発艦させた。攻撃隊は14時49分から15時3分にかけて各艦から発進した。この頃、触接に向かっていた「利根」の零式水偵から敵巡洋艦2隻発見の報告が届いた。艦種を確認せよとの指示に対しては15時56分に「敵巡洋艦はケント型なり、敵巡洋艦附近に敵を認めず」と報告した。これを受けて、南雲中将は第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)に対して「艦攻および艦爆約半数をもって攻撃せよ」と命じ、第五航空戦隊の原少将は出撃時刻を17時とした。 イギリス東洋艦隊主力と合流するため南下していたイギリス巡洋艦2隻は、江草隆繁少佐率いる九九式艦爆53機の急降下爆撃により、約30分ほどで撃沈された。 17時には南雲機動部隊より第二次攻撃隊(前述)が発進する予定だったが、巡洋艦の撃沈報告と偵察機から「敵巡洋艦の南西方向50海里に進出するも敵を見ず」との情報があったことにより、発進は取りやめとなった。南雲機動部隊は南東に退避した。
5日から8日にかけて日英双方が互いを捜したが接触はなかった。
8日15時17分、英軍カタリナがセイロン島東方400マイルに日本艦隊を認めた。トリンコマリー、またはマドラス空襲の可能性は明らかであったためトリンコマリー在泊の艦船に退避が命じられ、空母「ハーミーズ」、駆逐艦「ヴァンパイア」、機雷敷設艦「Teviot Bank」、コルベット「ホリホック」、汽船「British Sergeant 」、補助艦隊の「Pearleaf」および「Athelstane」がトリンコマリーより出港した。
9日午前9時(日本時間)、南雲機動部隊は、トリンコマリーの東方海上約200海里から第一次攻撃隊(艦攻91、零戦41)を発進させた。攻撃隊は1000頃からセイロン島北部のトリンコマリーへの空襲を開始した。
10時55分、榛名水偵から南方海域に空母一隻と駆逐艦三隻を発見した報告があった。午前11時43分、高橋少佐指揮の第二次攻撃隊(艦爆85機〈赤城17、蒼龍18、飛龍18、瑞鶴14、翔鶴18〉、零戦6機〈蒼龍3、飛龍3〉)が発艦して、13時30分にハーミーズ以下を発見した。 ハーミーズとオーストラリアの駆逐艦ヴァンパイアは逃走を試みたが、間もなく艦爆隊に発見され撃沈された。ほかに、「ホリホック」、「British Sergeant」、「Athelstane」も撃沈された。
まだ投弾していなかった機は周囲の艦船を目標とし、豪駆逐艦バンパイア、哨戒艇ホーリー、商船2隻(タンカー)を撃沈。
この間、イギリス空軍のブレニム爆撃機(第11中隊のブリストル・ブレンハイム双発爆撃機)9機が南雲機動部隊を奇襲した。このとき日本側ではトリンコマリー攻撃から第一次攻撃隊が帰還しており、これも「ハーミーズ」攻撃に向かわせるべく補給をし、攻撃機に魚雷を積んでいる最中で、イギリス軍機に全く気付いていなかった。イギリス空軍機は南雲機動部隊旗艦赤城を狙って編隊爆撃を行い、投下された爆弾は挟叉したものの命中しなかった。
「図解 太平洋戦争」より
南雲機動部隊の活躍は、ベンガル沖での馬来部隊(第一南遣艦隊基幹)の作戦の助けにもなった。馬来部隊はアンダマン諸島・ニコバル諸島の占領作戦を終えたあと、ビルマのラングーンに対する輸送作戦を実施していた。 同時期、馬来部隊指揮官小沢治三郎海軍中将(第一南遣艦隊司令長官、旗艦「鳥海」)は南雲機動部隊のインド洋進出に呼応し]、ベンガル湾機動作戦を開始した。 馬来部隊の作戦目的はインド洋→ベンガル湾→カルカッタに至る通商路を攻撃する事で、ビルマ方面の連合軍を牽制し、アンダマン諸島への反攻企図を阻止することにあった。
機動部隊(北方隊、中央隊、南方隊)は4月6日より作戦を開始した。各隊は、通商破壊作戦とインド本土に対する空襲を敢行した。一連の作戦で、日本軍記録23隻を撃沈した。このうち4月6日は航行中の商船を次々と攻撃し、21隻・137,000トン撃沈、その他8隻大破という大戦果を挙げている。
コロンボ基地並びにトリンコマリー軍港を破壊された東洋艦隊はセイロン島、アッドゥ環礁のいずれも危険と判断、A部隊をボンベイに、B部隊を船団護衛のためアフリカ東岸モンバサのキリンディニ港に向かわせた。さらにインド洋東側での展開を断念し、アフリカ東岸のマダガスカル島まで退避した。 インド洋作戦は第一段作戦(南方作戦)に付随した最後の作戦にあたった。以後、日本海軍は第二段作戦として短期決戦と米豪遮断作戦を並行して推し進め、インド洋方面では海軍による大規模攻勢は行われることはなかった。
その後インド洋では、フランスを占領下に置いていたドイツからの依頼を受けて、少数の潜水艦がマダガスカルの戦いに投入された。これは仏領マダガスカル島におけるヴィシー・フランス軍とイギリス軍の間で行われた戦闘であった。5月末、甲先遣隊の潜水艦と特殊潜航艇甲標的によるディエゴ・スアレス奇襲作戦が実施され、英戦艦ラミリーズが大破・タンカー1隻が沈没している。
一方、ドイツとイタリアでは、このセイロン沖作戦以降、有力な艦隊をインド洋に投入しない日本に対し不満が高まった。クルト・フリッケ中将/作戦部長が野村直邦海軍中将に幾度もインド洋方面への戦力投入を要請、ついにはテーブルを叩きながら悲壮な様子で訴えたドイツとイタリアはアフリカ戦線が不利になるにつれて、真珠湾攻撃でアメリカを戦争に引きずり込んだ事や苦戦に協力しない利己主義を批判、ついには「こんなことならアメリカに対して宣戦布告を行うべきではなかった」と非難した。
「日本ニュース第99号」
東洋艦隊
司令長官:ジェームズ・サマヴィル(en:James Fownes Somerville)中将
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正規空母:インドミタブル、フォーミダブル
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軽空母:ハーミーズ
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戦艦:ウォースパイト、レゾリューション、ラミリーズ、ロイヤル・サブリン、リヴェンジ
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重巡洋艦:コーンウォール、ドーセットシャー
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軽巡洋艦:エンタープライズ、エメラルド、ダナエ、ドラゴン
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オランダ軍軽巡洋艦:ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク
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駆逐艦:テネドス、他14隻
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オランダ軍駆逐艦:1隻
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艦載航空機:93機(雷撃機57機、戦闘機36機)
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基地航空機:約90機
損失
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軽空母ハーミーズ沈没
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重巡コーンウォール沈没
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重巡ドーセットシャー沈没
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駆逐艦ヴァンパイア沈没
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駆逐艦テネドス沈没
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タンカー2隻ほか輸送船10隻以上沈没、損傷多数
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基地航空機約50機損失(イギリス軍記録:27機以上損失)
日本軍の艦艇損失はなく勝利であるが、東洋艦隊の主力艦艇は生き残り、この点、日本軍の失敗と見ることもできる。
日本の独立と国際社会復帰を認める国際会議が1951年午9月、サンフランシスコで開催されましたが、そこでセイロン(現スリランカ)代表のJ・R・ジヤワルダナ蔵相はこう演説しました。「アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか。それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、また、値民地として従属的地位にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊敬のゆえである。往時、アジア詔民族の中で日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出米事を思いだせるが。当時,アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が介抱されることを希望して日本に協力した者がいたのである」
戦争中の空襲を指摘した上で、責任の所在・謝罪・反省を受け入れて、
「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む(英語: Hatred ceases not by hatred, But by love.)」という法句経の一節を引用して、日本に対する戦時賠償請求を放棄する演説を行った。
ジャワルダナ氏は閣僚・首相・大統領としてたびたび訪日、昭和天皇との会見も2回以上行われている。さらに政界引退後も日本を訪れている。また日本の仏教関係者をスリランカに招待するなど日本とスリランカの交流に尽力した。1989年、昭和天皇の大喪の礼に本人の希望により夫人とともにプレマダーサ大統領に代わって参列。既に肩書きは「前大統領」だったが、元首級参列者・大統領同格の国賓として接遇された。1991年には日本の仏教関係者の招待で広島市を訪れ、広島平和記念資料館を見学している。1996年、死去に際し献眼、角膜提供。「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言通り、左目の角膜は遺言通り群馬県の女性に移植された。
1948年2月4日にイギリスから自治領(英連邦王国)のセイロンとして独立。1972年にはスリランカ共和国に改称し、英連邦内の共和国となり、1978年から現在の国名となった。
国語はシンハラ語とタミル語で、国民の3/4がシンハラ人で構成される。また、国民の7割が仏教徒(上座部仏教)である。
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15世紀: 鄭和が1410年に来島し、形式上では明の朝貢国となった。中央部にキャンディ王国(1469年 - 1815年)が成立し、キャンディを王都とした。低地にはコーッテ王国(1371年 - 1597年)、北部にはジャフナ王国(14世紀 - 1620年)があった。
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16世紀: 1505年にポルトガル人がコロンボに商館を建設し植民地化(ポルトガル領セイロン、1505年 - 1658年)。植民都市ゴールも建設される。
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17世紀: 1658年にオランダ人が来航。ポルトガルに代わりオランダが植民地化(オランダ領セイロン、1658年 - 1796年)。
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18世紀: イギリスの東インド会社がコロンボを占拠し植民地化を始める(イギリス領セイロン、1796年 - 1948年)。
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1802年: イギリス本国の直轄植民地 (crown land) になり、アミアン講和条約でイギリスの領有が確定する。
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1815年: イギリス軍はキャンディに入り、王権は消滅した。ウィーン会議でオランダからイギリスへの譲渡が正式決定。
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1832年: コールブルックの改革( - 1833年)で、全土が均一に支配されるようになった。
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1891年: ダルマパーラが仏教の復興を目指す大菩提会を創立。
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1931年: ドナモア憲法が制定され、アジア初の普通選挙法が施行された。
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1942年: セイロン沖海戦が勃発。イギリス海軍東洋艦隊の拠点であったコロンボ、トリンコマリーが、大日本帝国海軍により空爆される。
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