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Zhang_Zuo-lin 張作霖 1875年3月19日- 1928年6月4日
蒋介石 Chiang Kai-shek    31 October 1887 – 5 April 1975
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蒋介石Chiang Kai-shek31 October 1887 – 5 April 1975.png
Sun_Yat-sen孫文1866年11月12日 - 1925年3月12日.jpg
Sun_Yat-sen 孫文 1866年11月12日  -  1925年3月12日
満州某重大事件
北伐
上海クーデター
山東出兵
張作霖爆殺事件
対支那政策綱領
1923年2月、広東を回復した孫文は第3次広東軍政府を組織すると、急速にソ連との関係を深め、その助言をうけ中国共産党との合作(国共合作)、革命軍の中核を担う人材を養成する黄埔軍官学校(蒋介石校長)の設立など、軍閥に依存しない自身の勢力の強化に努めた。
孫文は、1924年9月18日、「北伐宣言」を発した。これに呼応して、10月23日、馮玉祥北京政変を起こした。孫文は、馮玉祥、段祺瑞らによる北上の要請に応じ、国民会議の開催を条件に北京入りを決意した。平和的全国統治の機運が高まり北伐は立ち消えになった。この平和的全国統治の流れは、1925年3月12日の孫文の北京における客死で頓挫した。
1926年1月4日国民党、中華民国国民政府(主席注精衛)を広東に樹立
中華民国北京政府に対抗、赤軍をモデルに国民革命軍を組織。
(当時、日本では「国民革命軍」という呼称せず「南軍」「南方軍」と呼び、「中華民国」と​呼ばず「支那」と呼んだ)
1926年大正15/昭和元年)1926年7月1日、蔣介石は、孫文を継承して軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指すとして"北伐宣言"を発表。国民革命軍(蒋介石司令)による中国全土の統一と帝国主義列強からの主権回復をスローガンに、北京政府からの権力奪回をめざした。

国民政府は、日本の政界の動向にきわめて敏感であった。日本の選挙の結果は必ず国民党の機関紙に掲載された。蒋介石が日本の政治家のなかでもっとも期待し、信頼していたのは犬養毅だった。犬養は孫文の革命に援助を与え、蒋介石とも蒋の日本留学時代から親密な関係にあった。
 蒋介石は、中国において自分ほどの日本通はいないという自負を抱いていた。蒋介石は日本語に堪能だった。東京の振武学校に留学し、新潟の高田連隊に入隊した。

1927年秋の40日におよぶ日本旅行まで、蒋はひんぱんに日本を訪れ、温泉に入り、日本食を好み、多くの知人・友人と交流していた。日中戦争期でも、蒋介石は国家としての日本国を敵としたが、決して日本人を敵とすることはなかった。
 蒋介石は、軍部の台頭は日本政治の一時的歪みであり、日本の天皇は決定権がなく、責任は軍閥にあるという主張を捨てることはなかった。日本政界に犬養毅がいる限り、軍部の台頭は押さえられるという強い信頼を寄せていた。1923年8月、蒋介石は訪ソの旅に出発する。帰国までの4ヶ月のあいだ、蒋介石はロシア語を学び、マルクスの著作を読んだ。そして訪ソのあいだに蒋介石はソ連人嫌いになった。社会主義革命に対する潜在的不信感は訪ソによって深まっていった。
蒋介石は宋美齢との再婚を美麗の母親から日本で承諾を得た。宋家の資金援助を背景として自らの力で国民革命を完成させ、国民政府内での権力を確立しようと企図した。

「蒋介石の外交戦略と日中戦争」 著者  家近 亮子

1927年 国民革命軍による南京事件漢口事件が発生
全国統治を望む与論を背景に、各地で農民運動、労働運動が発生し、北伐軍と共闘した。北伐軍は北京政府や各地軍閥を圧倒、1926年11月武漢攻略し、国民政府は広州から武漢に移転。1927年に南京上海を占領した。3月24日、南京に入城した蔣介石北伐軍の一部が反帝国主義を叫びながら外国領事館や居留地で暴行陵辱を行った (南京事件)。米英軍は艦砲射撃を開始し、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。幣原外交の日本は領事館を襲撃され、死者も出たが、日本海軍は幣原外交の指令にもとづいて、北伐軍兵士の暴行と狼藉を傍観するのみであった。このため幣原喜重郎外相の弱腰外交は痛烈に批判された。日本はイギリスと蔣介石の説得工作をおこなった。蔣介石は事態解決および過激派の粛清を行うと日本に伝えた。
南京事件漢口事件が発生すると、日本国内では協調外交に対する不満が大きくなり、とりわけ軍部は「協調外交」による外交政策を「弱腰外交」として強く批判した。
漢口事件とは、1927年(昭和2年)4月3日国民革命軍武漢攻略の際、一部の無秩序な軍隊と暴民が漢口日本租界に侵入し、掠奪、破壊を行い、日本領事館員や居留民に暴行危害を加えた事件。
1927年4月12日、上海クーデター(蒋介石による共産党粛清)
3月21日北伐軍は上海郊外に到着。これと呼応して上海の労働運動を指導する上海総工会は21日にストライキを指令。参加した労働者は50万人とも80万人とも言われる。国民党と共産党の合作による革命が成功したと多くの労働者は信じた。
ところが突然、南京の国民革命軍総指令・蔣介石は、上海に戒厳令を布告し、共産主義者とみなされた人々が粛清された。その後、上海クーデターを巡る中国国民党の武漢派(武漢国民政府)と南京派(南京国民政府)の分立(寧漢分裂)、武漢国民政府の中国共産党との決別及び南京国民政府との合流、広州張黄事変の勃発と、中国国民党内が混乱状態に陥ったため、北伐は一時停滞をみせた。イギリスは南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日、ソ連と断交した。
蔣介石の北伐軍が山東省に接近するにしたがい、日本は1927年 5月28日、山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護のため、山東省へ軍を派遣する第一次山東出兵を決定。日本と関東州大連天津から南下した日本軍は治安維持活動を開始。しかし、北伐軍は張作霖に敗北し山東省に入ることなく撤退したため、日本軍もすぐに撤退した。
 

9月、田中義一首相と蔣介石が会談し北伐・対共産主義戦に対する支援と日本の満州での権益を認める密約を結んだ。蔣介石は上海での記者会見で「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生(孫文)もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と語った。

1928年

蔣介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、蒋介石は国民革命軍総司令官の地位を回復、続いて中央執行委員会主席に選任された。国民政府は、

4月8日に北伐を再開

5月1日済南入城 日本 (首相田中義一)は、中国にある既得権益及び治安の維持のため、居留民の保護の名目で山東省に第六師団約6000人を派遣 第二次山東出兵

6月3日日本軍総攻撃済南城を占領

さらに第三師団18,000人増派(第三次山東出兵)(済南事件)。

その後、国民革命軍は日本との衝突を避けつつ閻錫山、馮玉祥らの軍閥を傘下に加え蒋介石の妻、美麗の姉宋靄齢の夫孔 祥熙の仲介によって山西の軍閥閻錫山は蒋介石と同盟を結び進撃した。6月4日、奉天派の首領である張作霖が北京を撤退した後、6月8日に北伐軍が北京を占領。その後、張作霖は用済みとして関東軍により爆殺された(張作霖爆殺事件)、

 

6月15日蔣介石政権が「(国民政府による)全国統一」の宣言を出した。そして、父のあとを継いだ張学良12月29日に降伏したこと(易幟)をもって、北伐は完了し一応の国民党による全国統治が果たされることになった。南京を首都とする国民政府の発足を正式に宣言。蒋介石は国民政府主席。孫文以来、悲願の中国統一がなった。

国民政府は、対外宣言を発表し、全国統一の完成を告げるとともに、不平等条約の廃棄を宣言した。アメリカを先頭に、イギリスなどヨーロッパ各国もつぎつぎに中国の関税自主権を承認、中国を九力国条約下の主権国家として尊重し、国民政府による国家建設を支援する立場を表明した。しかし、日本のみが国民政府に敵対する立場をつづけたのである。

「北伐」の完成は、地方の軍閥勢力を残存させたままでの極めて妥協的な「中国統一」であったため、1929年3~6月には蔣桂戦争が、1930年5~11月には中原大戦が勃発する等絶え間ない戦乱が続いた。

1929年7月、ソ連が満州に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍は撃破された (中ソ紛争奉ソ戦争)。蔣介石は、全国に徹底抗戦を通電した。10月にソ連軍侵攻に合わせて中国共産党が行動開始する。12月22日に中華民国は敗北しハバロフスク議定書が結ばれ、中東鉄道はソ連の支配下に置かれソ連の影響力が強まった。中華民国政府がソビエト連邦と交戦に力を注いでいるうちに中国共産党は中国各地で盛んに活動を行った。

東方会議

1927年(昭和2年)6月27日から7月7日まで、

3月の南京事件漢口事件のように日本の既得権益の維持と在留日本人の保護すら十分にできない幣原協調外交を是正するとともに政府の対華政策を確立することを目的に、4月に就任した田中義一首相(兼外相)は強硬外交に転換した。首相主催の形式のもとに外務大臣官邸で開かれた会議。7月7日の会議の最終日に、「対支政策綱領」が発表され、当該国に通知された。

中国は中国国民党中国共産党が覇権を争って内戦状態であり、軍閥が各地に分散していた。日本政府ではこの機を見て武力による大陸進出を図るべきという意見と、あくまで現在の権益を守ることを第一とするべきという意見があった。田中義一はこれに対して、日本の権益が侵される恐れが生じたときは、断固たる措置を採る。つまり、「現地保護」し出兵も辞さない。そして満蒙(満州内蒙古東部のこと)における権益は中国内地と切り離して(満蒙分離政策)、同地域の平和のため(治安維持にあたり)日本が責任をもって支配下に置くなどが決定された(対支政策綱領)

 
欧州には協調 ジュネーブ軍縮会議

1922年のワシントン会議に次いで開催された二番目の会議。ワシントン会議で締結されたワシントン海軍軍備制限条約は主力艦艇である戦艦と航空母艦に関する制限であり、英・米5、日本3、仏伊1.67の比率とすることで合意され、残る補助艦(1万トン以下の巡洋艦など一般艦艇)に関する制限が懸案として残っていた。
 アメリカのクーリッジ大統領が1927年6月に同じ5カ国の会議を招集したが、フランスとイタリアが参加を拒否し、アメリカ・イギリス・日本の三国での会議となった。日本からは斎藤実と石井菊次郎が代表として参加した。会議はイギリスが小艦艇の多数の保有を主張したためアメリカと対立し、合意に至らず8月に閉会した。結局、課題は次のロンドン海軍軍縮会議(1930年)に持ち越された。

満州某重大事件(関東軍第一の謀略 張作霖爆殺事件)
6月4日中華民国奉天(現瀋陽市)近郊で、日本の関東軍奉天軍閥の指導者張作霖暗殺した事件。関東軍はこの事件を国民革命軍の仕業に見せかけ、それを口実に南満洲に進行し占領しようとしていた。この事実は戦後まで隠蔽された。別名「奉天事件」。中華民国では事件現場の地名を採って「皇姑屯事件こうことんじけん」とも言う。第二次世界大戦終戦まで事件の犯人が公表されず、日本政府内では「満洲某重大事件」と呼ばれていた。日本国民は東京裁判で事実を知った。
馬賊出身の張作霖は日露戦争で協力したため日本の庇護を受け、日本の関東軍による支援の下で段芝貴失脚させて満洲での実効支配を確立、有力な軍閥指導者になっていた。
12月、ライバル達が続々と倒れていったため、これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、「自らが中華民国の主権者となる」と発表した。大元帥就任後の張作霖は、更に反共反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。張作霖は欧米資本を引き込んで南満洲鉄道(以下、満鉄)に対抗する鉄道路線網を構築しようとし、満鉄と関東軍の権益を損なう事になった。

 
奉天政府の財政は破綻の危機に瀕しており、1926年の歳出に占める軍事費の比率は97%で、収支は赤字であった。張政権は不換紙幣を濫発し、1917年には邦貨100円に対し奉天紙幣110元だったのが、1925年(大正14年)には490元、1927年(昭和2年)には4300元に暴落した。
1928年(昭和3年)4月、蔣介石は欧米の支援を得て、再度の北伐をおこなう。4月19日、北伐が再開されると、日本は居留民保護のために第二次山東出兵を決定し、5月3日済南事件が起こった。さらに日本は、満洲から混成第28旅団を山東に派遣し、代わりに朝鮮の混成第40旅団を満洲に派遣した。 
村岡長太郎関東軍司令官は国民党軍の北伐による混乱の余波を防ぐためには、奉天軍の武装解除および張作霖の下野が必要と考え、関東軍を錦州まで派遣することを軍中央部に強く要請していたが、最終的に田中首相は出兵を認めないことを決定した。そこで村岡司令官は張作霖の暗殺を決意。河本大作大佐は初め村岡司令官の発意に反対したが、のちに全責任をもって決行。
6月4日の早朝、蔣介石の率いる国民党北伐軍との決戦を断念して満洲の本拠地奉天へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯京奉線満鉄連長線立体交差地点を10km/h程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬300kgが爆発した。列車は大破炎上。
張作森が前から五両目の展望車に乗っていることを知ったうえで、同車両が鉄橋下を通過する瞬間に爆破スイッチを押したのは鉄道警備他隊中隊長東宮鉄男大尉であった。
河本らは、予め買収しておいた中国人アヘン中毒患者3名を現場近くに連れ出して銃剣で刺突、死体を放置し「犯行は蔣介石軍の便衣隊ゲリラ)によるものである」と発表、この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていた。しかし3名のうち1名は死んだふりをして現場から逃亡し、張学良のもとに駆け込んで事情を話したため真相が中国側に伝わった。
関東軍高級参謀の河本大作大佐は、張作霧を爆殺し、これを南軍(当時日本は、国民革命軍とはいわず、南軍といった)の仕業として、軍事行動を起こし、一気に南満州を関東軍の手で占領しようと考えたのである。
 
河本は、張作森爆殺を南軍(国民革命軍)の仕業として、駆けつけた奉天軍との間で武力衝突を起こさせ、これを機に関東軍も武力行動を開始して、一気に南満州の占領を謀る手はずであった。しかし、「張作霖氏の列車爆弾を投げられ転覆死傷者多数、張氏は軽傷」(『大阪毎日新聞』一九二八年六月四日号外)と新聞報道されたように、張作森が死んだとは思われず、側近がその死を一週聞にわたって隠したため、河本らは武力発動をする機会を失してしまい、謀略は失敗に終わった。
 
憲兵司令官が派遣され調査の結果、事件の主犯は河本大佐ら日本側軍人であるとの確証を得、また現場で発見された「中国人2人」の死体は実は日本側の工作であったことなどが確認され、その旨を田中首相に報告。
 東京裁判関係資料から発見された「厳秘 内奏写」(栗谷憲太郎『東京裁判論』所収、大月書店)によれば、田中首相は昭和天皇にたいし同年12月24日「矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、其計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と河本大佐の犯行を認めたうえで、軍法会議を行う旨の上奏を行った。また、同年12月26日からの第56回帝国議会の貴族院委員会においても、事件の真相を明らかにする旨の答弁を行う。かつて陸軍大将の経歴もあった田中であったが、その後に陸軍ならびに閣僚・重臣らの強い反対にあった。白川義則陸相は三回にわたって天皇に関東軍に大きな問題はない旨を上奏した。また、村岡関東軍司令官は、軍紀は正したいが政治的責任もあると反論し、自身が責任を一身に負って辞職しようとした。陸軍は軍法会議開廷を回避して行政処分で済ませるため、1929年(昭和4年)5月14日付で河本高級参謀を内地へ異動させたので、河本をふくめた関係者の処分を断念した。
同年6月27日、田中首相は「陸相が奏上いたしましたように関東軍は爆殺には無関係と判明致しましたが、警備上の手落ちにより責任者を処分致します」と行政処分を上奏した。これに対し天皇は「それでは前と話が違ふではないか」と田中を叱責し、田中首相が恐懼し弁解をしようとしたが、鈴木貫太郎侍従長に「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ。」と心情を語られた。鈴木侍従長から天皇の言葉を聞かされた田中は引責辞任の腹を決め、7月1日付で村岡長太郎関東軍司令官を依願予備役、河本大作陸軍歩兵大佐を停職、斎藤恒前関東軍参謀長を譴責、水町竹三満州独立守備隊司令官を譴責とする行政処分を発表し、7月2日に田中内閣は総辞職した。

元老の西園寺公望は、日本の国際的信用のため、あえて事件の真相を公表し、責任者を軍法会議で厳重に処罰するよう、田中首相に要望し、牧野伸顕内大臣・鈴木貫太郎侍従長らも同じ考えであった。

ところが、陸軍首脳部には河本を厳重に処分する方針に強い反対が渦巻いた。与党の政友会の多くの閣僚もそれに同調し、田中内閣の外務政務次官の森恪は、これ以上真相を暴くべきではないと真相究明に反対し、情報もれを防ごうとした。昭和天皇は、田中首相の首尾一貫を欠いた上聞に怒りを示したものの、真相の公表と厳しい処分をしない方針を裁可した。

張作森爆殺事件当日、たまたま現場近くを通りかかった民政党の代議士松村謙三らによって、野党民政党総裁浜口雄幸にも状況が報告され、民政党もこの事件が日本軍の仕業であることを知っていた。
しかし、事件の真相を広く国民に知らせようとはせず、真相の隠蔽を黙認するかたちになった。
もしも、新聞が謀略事件であったことを報道し、政府が事件の真相を国民に知らせ、謀略を起こした河本らを厳正に処分し、世界に日本の非を表明していれば、関東軍は第二の謀略である柳条湖事件を試み、成功することはなかったのではないだろうか。
柳条湖事件の謀略を図り、実行した石原莞爾が関東軍参謀に赴任したのは、張作霖爆殺事件の4か月後、1928年10月で、河本大作の推薦があったと言われ、河本が責任を問われ予備役となる1929年4月まで河本と石原は関東軍による満蒙問題解決のための作戦を検討、石原は張作霖爆殺事件の失敗をもとに、もっとおおがかりで確実な謀略を計画、実行する。
河本は責任を問われ、1929年(昭和4年)4月に予備役、第九師団司令部附となり、同年8月停職処分と言う形で軍を追われた。しかし、満州事変後、南満州鉄道理事、満州炭鉱株式会社理事長となり、1942年日支経済連携を目的として設立された北支那開発株式会社傘下の山西産業社長となった。東宮は満州国軍政部顧問となり、満州武装移民計画を推進、満蒙開拓青少年義勇軍の構想を計画。
日本に従属、協力していた父の張作森を日本が爆殺し、しかもその真相を闇に葬ったことは、張学良の対日不信と反日感情を決定的にした。1928年7月71一日、黒龍江・吉林・奉天(遼寧)の東三省保安総司令に就任した張学良は、張作森が築き上げた奉天軍閥・東北政権の基盤をうけつぎ、日本側の執拗な説得をはねつけて、同年12月29日、東北(満州)全土の旗を、国民政府の青天白日旗に取り替える「易幟えきし」を断行した。張学良の東北政権が国民政府に合流することを表明したことにより、国民政府の全国統一が達成された。

張学良は奉天軍閥の親日派の重鎮を粛清して、日本との決別の姿勢を明らかにし、東北軍と称されるようになる奉天軍の軍権を掌握し、独自の理念にもとづいて東北政権の基盤強化を進めていった。

 

東北軍の編成、装備の近代化にとりくみ、陸軍・海軍・空軍を備えた近代的軍隊に仕上げた。また東北大学を奉天に設立するとともに、各地に中学校を建設し、東北政権をになう人材を育成した。

張学良はさらに、日本の南満州鉄道の西側と東側に並行する鉄道を建設し、大連港に対抗して、萌薦島にドイツ資本で大規模な港を建設した。これにより黒龍江省と吉林省から満鉄を利用せずに鉄道を萌藍島港に直結させ、海外へ満州の産物を直接に輸出できるようになった。日本側はこれを「満鉄包囲網」の形成といって、危機感をつのらせた。張学良はまた、幣制改革をおこなって貨幣統一をはかり、経済流通を発展させた。こうして大連・満州鉄道付属地中心の日本による植民地経済に対抗して、奉天・ハルビン中心の東北経済建設が進められた。

いっぽう、張学良の東北政権下においては、日本の帝国主義的進出に反対・抵抗し、「大連と満鉄の回収」「領事裁判権回収」「日本の警察権の回収」などを唱える反日ナショナリズム(日本側は「排日運動」といった)が台頭した。

こうした張学良の東北経営が発展するにともない、満州における「日本の生命線」といわれてきた満鉄の経営は悪化し、さらに日本の帝国主義的権益を回収しようとする民族運動の高揚にたいして、日本側は「排日運動の激化」と対抗ナショナリズムを強めた。

3月15日 田中義一、共産党大弾圧(3.15事件)

6月29日田中義一内閣、天皇の緊急勅令により治安維持法改正を強行、最高刑を死刑とする

​   以後政治活動、言論思想弾圧に猛威をふるい、軍部・政府の戦争政策に反対することは

   ほとんど不可能になった。

8月27日パリ不戦条約(ブリアン・ケロッグ条約)調印

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張学良
出兵反対の動き
日中戦争全史より

第一次山東出兵にたいしては『大阪朝日』(1927年5月29日)が「対支出兵、何故の急」と題して、政府が不祥事や居留民の安全を憂慮、不安であるというだけで重大決定をしたことを疑問視し、反対する社説を掲げた。民本主義者の吉野作造は、『中央公論』(1927年7月)に「支那出兵に就いて」と題する論説を掲載して、日本の身勝手な居留民保護による出兵の不条理を批判し、中国人の排日感情をできるだけ阻止すべきであると述べた。さらに雑誌『社会運動』(1927年10月)において、「田中内閣の満蒙政策に対する疑義」と題して、田中内閣の山東出兵は、日本の特殊権益の満蒙を分離して中国分割をもくろむもので「火事場泥棒的に利権を獲得する方法は、欧州戦争で終わりを告げた筈だ」と批判した。

田中内閣の山東出兵に厳しい批判を加え、満蒙放棄論を主張したのは『東洋経済新報』によった石橋湛山であった。石橋は、第二次・第三次山東出兵にたいして、「無用なる対支出兵」(『東洋経済新報』1928年5月5日)、「戦死者を思え出兵は戯談事にあらず、国民は撤兵を要求せよ」(同5月19日)と題する社説をかかげ、日本の政府当局が力説し、世論もそれを支持した「満蒙の特殊利益」を守り「満蒙分離」をはかるという山東出兵の目的を批判した。

論壇ではなく社会運動において、無産政党と労働組合・農民組合による「支那から手を引け」というスローガンをかかげた、山東出兵に反対する「対支非干渉」運動が一定の高揚をみせて展開されていた。

当時日本で合法的に活動していた無産政党には、社会民衆党と日本労農党・労働農民党(労農党)があった。非合法とされた共産党は、労農党をとおして活動していた。これらの無産政党は、国民党と共産党の合作により反帝国主義をかかげ、労働者・農民も参加して展開されていた中国国民革命に共鳴し、支持をしていた。

1927年3月の南京事件を契機に帝国主義列強が国民革命に軍事干渉する動きが強まると、労農党は「対支非干渉同盟」の結成を呼びかけた。田中内閣が第一次山東出兵に向けて動きだすと、無産政党は共同して反対する運動を開始し、対支非干渉地方同盟が各地に組織され、運動は広がりをみせた。

田中内閣の第一次山東出兵が開始されると、労農党はただちに政府に抗議文を提出、社会民衆党・日本労農党も反対を表明、「対支非干渉」運動の輪は広がり、1927年5月13日には、対支非干渉全国同盟が結成された。しかし、その一カ月前の蒋介石の四・二一反共クーデターは、日本の「対支非干渉」運動を分断する直接の影響を与え、蒋介石・南京政府を支持する社会民衆党と「民衆の敵蒋介石」「革命的労働者農民の絞殺者」と激しく批判する労農党・日本労農党とに分かれるようになってしまった。

 

1928年2月、日本で最初の男子普通選挙による衆議院選挙が実施された。これは大正デモクラシーといわれる議会制民主主義政治の実現をめざした大衆運動の成果として、1925年、それまで納税額によって選挙権を制限していた制度を改め、二五歳以上の男子に一律に選挙権を与える普通選挙法が公布された結果であった。この総選挙で、合法的無産政党から八人が当選し、無産政党運動の躍進した高揚が、「対支非干渉」運動の持続的な発展を支えることになった。

はげしい弾圧にもかかわらず、労農党が19万票を獲得して二人を当選させたことは政府に大きな衝撃を与えた。田中内閣は、三月一五日、共産党と同調者1568人を一斉検挙し、共産党の指導者の徳田球一ら488人を治安維持法違反で起訴した(三・一五事件)。さらに4月10日、労農党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟を共産党の外郭団体として、治安警察法により解散命令を出し、解散させた。これにより、労農党も非合法政党とされた。

 

一連のはげしい弾圧により、「対支非干渉」運動も大きな打撃をうけた。田中内閣は、そのうえに第二次山東出兵をおこない、済南事件を引き起こし、さらに第三次山東出兵へとつき進んでいった。

治安維持法は、1925年4月、男子普通選挙法とセットにするかたちで制定された。「国体変革」

(天皇制打倒)と「私有財産制度の否認」(共産主義)を目的とする結社を組織したり、これに参加することを禁止した法律である。これを制定したのが、憲政会・政友会・革新倶楽部のいわゆる護憲三派の連立内閣であった、加藤高明内閣である。加藤高明は二十一力条要求を中国に強制した外相であった。護憲三派内閣によって政党政治が開始され、男子普通選挙の実施とあいまって、いわゆる大正デモクラシーの成果といわれる。しかし、その政党内閣が、天皇制を護持するために、治安維持法を制定し、「治安維持法体制」をスタートさせた歴史的過誤は、教訓となろう。

政党内閣が治安維持法を制定したのは、ロシア革命の影響が、コミンテルンの支部としての日本共産党の結成(1922年7月)などを通じて、日本社会へ広まることへの脅威があった。大正デモクラシーを主導した政党は、日本の天皇制は護持する立場にあったので、1917年のロシア革命で蜂起した労働者・農民・民衆が皇帝権力を倒し、さらに皇帝を処刑するにいたったことへの恐怖心があった。さらに護憲三派の政党は中小もふくめた資本家階級の利益を代表する政党であったので、ロシア革命のように資本主義経済と資本主義社会を否定する共産主義思想が日本社会へ広まることへの恐怖と警戒があった。

共産党とそのシンパにたいして三・一五の大弾圧をおこなった田中内閣は、1928年6月、国会での反対を押し切って、天皇の緊急勅令として、治安維持法を改正、さらに即日施行という非常手段をとった。これにより、「国体変革」を目的とする結社行為の最高刑が死刑となった。さらに「目的遂行罪」「未遂罪」が加えられた。「目的遂行罪」によって、自分が共産主義や天皇制反対の思想をもっていなくても、共産党員の活動を手助けしたと見られただけで犯罪とされた。「未遂罪」では、天皇制反対や共産主義思想を考えただけでも犯罪とみなされることになり、戦時中に「治安維持法体制」が猛威をふるった時は、そうした本をもっているだけで逮捕された。

治安維持法改正にともない、内務省直轄の政治思想警察の特別高等警察(特高)を拡充強化、全県の警察部に特別高等課を設置した。特高は、中央集権制が強く、機構・人事・活動ともに内務省の直轄下におかれた。共産主義者・社会主義者・無政府主義者・在日朝鮮人などを「特別要視人」として、厳重な監視態勢をとるとともに、スパイを組織に潜入させて内情をさぐり、検挙・弾圧をおこなった。特高が治安維持法を武器にして、残虐な拷問によって自白を強制、時には死にいたらしめたことはよく知られる。

そもそも「国体の変革」という概念がきわめてあいまいで、いくらでも拡大解釈が可能であった。

最初は共産主義運動・無政府主義運動など天皇制を批判する運動が取締りの対象であったが、次第に拡大解釈されて、日中戦争以後、国家総動員体制が強まるにつれ、日本の「国策」すなわち戦争政策に反対する者が治安維持法違反で検挙・弾圧されるようになった。

治安維持法を制定、さらに改正した時点では、政治家も国民も、その法律の有する危険性についての認識は欠如していたと思われる。しかし、悪法がいったん制定されると法そのものが一人歩きするように、弾圧法として猛威をふるい、本書で詳述する満州事変・日中戦争・アジア太平洋戦争への道を歯止めすることが不可能な国内体制にしていくのである。治安維持法は、当初は一部の共産党勢力にたいする弾圧法として、多くの政治家たちが支持、容認ないし黙認したものであったが、時代の経過とともに、「時限爆弾」のような法律であったことが明らかになったのである。この時限爆弾法を仕掛けた政友会の政治家たちにとっては、おそらく「想定外」であったと思われるが、後述するようにロンドン海軍軍縮条約を締結した民政党内閣を攻撃するために、政友会の鳩山一郎や森恪らがパンドラの箱を開けてしまった「天皇統帥権」とセットになって、共産党が弾圧により壊滅的な状態になった後は、弾圧する対象は自由主義者、宗教者などへと拡大され、ついには、政党政治・議会政治をも崩壊させ、天皇制ファシズム体制を構築する要の弾圧法となって猛威をふるったのである。

山東出兵反対
治安維持法

1929年

3月4日 - アメリカ合衆国ハーバート・フーヴァー大統領就任式。

4月16日 - 共産党員一斉検挙(四・一六事件)

7月1日張作霖爆殺事件責任者の処分発表。処分が軽すぎると天皇が首相田中義一を叱責。

7月2日 - 田中義一(陸軍)内閣総辞職。濱口雄幸(大蔵官僚)内閣成立。

10月24日ニューヨーク株式市場の株価大暴落、
       世界大恐慌(1929-33)
 
1930年

1月11日 - 濱口内閣の主導で日本が金本位制に復帰(金解禁)(為替安定化目的)昭和恐慌 

1月21日ロンドン海軍軍縮会議開催

1月26日 - インド国民会議が独立を宣言

2月26日 - 共産党員全国一斉検挙開始

4月22日 - ロンドン海軍軍縮会議終結。米英日の3国で軍備制限条約締結

 ロンドン海軍軍縮条約(全権若槻礼次郎)

4月25日 - 統帥権干犯問題が発生(軍令部長加藤寛治)     

 

7月27日 - 中国共産党軍が長沙を占領

7月28日 - 長沙の日本領事館が中国共産党軍に焼かれる

7月29日 - 長沙ソビエト政府樹立

9月10日 - 米価大暴落、大豊作で1917年以来の安値(豊作飢饉)

10月29日 - 支那との外交文書における名称を支那共和国から中華民国に変更する旨、閣議決定。

     日本国内では従来どおり支那が用いられ続ける。

11月14日 - 濱口首相遭難事件: 濱口首相が東京駅佐郷屋留雄に狙撃され重傷

浜口内閣の政策の二本柱は協調外交と緊縮財政であったが、その両政策の要となっていたのがロンドン海軍軍縮条約の締結であった。条約交渉の焦点は補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等)の保有量の制限にあったが、浜口内閣は、昭和4(1929)年11月26日に、補助艦総トン数対米7割、大型巡洋艦対米7割、潜水艦現有量78,000トンを要求することを閣議決定した。ただ、日本の主張に対してはアメリカの反対も強く、昭和5(1930)年4月22日に日本政府は大型巡洋艦では譲歩して総トン数約7割の妥協案での条約調印に踏み切った。幣原外相が牧野伸顕内大臣にあてた書翰に添付された書類にはこの間の交渉過程が記されている。
さて、一度は妥協案を受け入れたかに見えた加藤寛治軍令部長が、条約の内容に反対である旨の上奏を試みた。これをきっかけに、軍令部長の反対を押し切って行われた軍縮条約締結が天皇の統帥権を犯すものとして、軍令部、政友会、民間右翼などによる激しい政府攻撃が起こった(統帥権干犯問題)。しかし、元老、重臣、世論の支持を背景に議会を乗り切った浜口内閣は枢密院での審議を押し切り、10月2日に条約の批准に至った。
大日本帝国憲法第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(統帥大権)を盾に、政府が統帥権事項である兵力量(軍政権)を天皇(=統帥部)の承諾無しに決めたのは憲法違反だとする、いわゆる「統帥権干犯問題」を提起した。議会は後に統帥権を主張する軍部の独走を押さえられなくなる。
同年11月14日、浜口首相は国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月13日総辞職した(浜口は8月26日に死亡)
海軍内部の対立抗争の原因となる
「条約派」(海軍省枢要ポスト・エリート仕官「軍政派・海軍良識派)
「艦隊派」(軍令部ポスト純軍人タイプ「統帥派」)
      軍令部長加藤寛治大将、条約反対、部長辞任
      同次長末次信正中将
艦隊派の反対に拘わらず、浜口雄幸内閣は幣原外相を擁して条約を批准した。艦隊派はその後、東郷元帥を使って、対米英強硬派の皇族、伏見宮博恭王を軍令部長(その後総長名)に就任させ(1941年4月まで)、人事権を握り、条約派は中央から追われ、海軍は対米英強硬路線となる。

日本は1936年1月15日にロンドン軍縮会議から脱退し、軍縮時代は終わった。

この時日本全権長野修身は対米英強硬論者で伏見宮のお気に入りで、広田内閣の海相として国策に南進政策を併記させ、南部仏印進駐を行わせ、真珠湾攻撃決断に参加。1944年2月まで軍令部長として海軍最高指導者。(A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンで急性肺炎を患い、米国陸軍病院(US Army Hosp)へ搬送され治療を受けたがその後死亡)

統帥権

大日本帝国憲法第11条 天皇は陸海軍を統帥す

統帥権のうち、

軍事作戦は陸軍では参謀総長が、海軍では海軍軍令部長(後に軍令部総長と改称)が輔弼し、彼らが帷幄上奏し天皇の裁可を経た後、その奉勅命令を伝宣した。

他に軍政上の動員令・編成令・復員令という奉勅命令があり、通常陸海軍大臣が帷幄上奏し、裁可後彼らが伝宣した。

他に、平時編制や戦時編制、参謀本部条例や編成要領、勤務令など帷幄上奏勅令があり、これは通常陸海軍大臣が、陸軍軍事教育関係ではおもに教育総監が、帷幄上奏し裁可後、陸海軍大臣が全軍へ詔勅で公布、ないしは詔勅を用いず軍内へ内達し、執行

統帥権の独立によって、奉勅命令や帷幄上奏勅令へ政府や帝国議会は介入できなかった。

 

しかし、

兵力量(師団数や艦隊など軍の規模)の決定は天皇の編制大権であった。これは軍政をになう陸軍大臣か海軍大臣が輔弼した。一方、

軍の兵力量の決定は、陸海軍大臣も内閣閣僚として属す政府が帝国議会へ法案として提出し、その協賛(議決)を得るべき事項であった。

統帥権干犯問題
統帥権干犯問題
ロンドン海軍軍縮会議
伏見宮博恭王
統帥権

1931年9月18日(金曜日) 柳条湖事件(関東軍 第二の謀略)

 満州奉天(現在の瀋陽市)近郊,
   関東軍による満鉄爆破謀略 板垣征四郎、石原莞爾
午後10時20分ころ、中華民国奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)の北方約7.5キロメートルにある柳条湖付近で、南満州鉄道(満鉄)の線路の一部が爆発により破壊された。
まもなく、関東軍より、この爆破事件は中国軍の犯行によるものであると発表された。このため、日本では一般的に、太平洋戦争終結に至るまで、爆破は張学良ら東北軍の犯行と信じられていた。しかし、実際には、関東軍の部隊によって実行された自作自演の謀略事件であった。
事件の首謀者は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐。二人はともに陸軍中央の研究団体である一夕会の会員であり、張作霖爆殺事件の計画立案者とされた河本大作大佐の後任。
石原、板垣らは9月下旬(27日か28日ころ)の謀略の決行を予定していた。ところが、9月初旬、東京の外務省に、関東軍の少壮士官が満州で事を起こす計画があるという情報がもたらされた。9月5日、幣原喜重郎外相は、栗原正外務省文書課長にもたらされた情報をもとに、奉天総領事の林久治郎に対し、関東軍の板垣らが近く軍事行動を決行する可能性がある旨を知らせ、注意を呼びかけた。国内では、外務省の谷正之アジア局長が陸軍省小磯国昭軍務局長にその真偽を問い合わせた。また、9月11日には、昭和天皇から陸軍大臣南次郎に対し軍紀に関する下問がなされた。これは、陸軍の動きを危惧した元老西園寺公望の意向によるものであったという。外相電に対して、奉天の林総領事は、厳重注意中であるが、今のところはそのような不穏な動きはみられないとの返電を一旦は送っている。
9月14日、関東軍の三宅光治参謀長から陸軍中央の建川美次参謀本部第一部長らに対し現状視察の依頼があった。陸軍中央の首脳部は天皇の意向も考慮し、関東軍の動きを牽制する意味もあって建川の満州行きを決めた。さらに翌15日、奉天の林久治郎総領事は、緊急情報として、関東軍が軍の集結や弾薬資材の搬出などをおこない、近く軍事行動を起こす形勢にあることを幣原外相に伝えた。これは、満鉄理事であった伍堂卓雄からもたらされた情報にもとづく林の判断であった。あわせて林は、総領事館職員に対しては、厳重な警戒を怠らぬよう指示している。林総領事からの緊急情報を受けた幣原外相は、すぐさま南陸相に対し、このようなことは「断じて黙過する訳にはいかない」と強く抗議した。南ら陸軍首脳は、この申し入れもあってあらためて建川少将に武力行使を差し控えさせるように指示した。この時点で建川自身は、石原らの計画の一部についてはすでに知っており、実行の期日を9月27日と考えていたという。
こうした軍中央の動向について、東京からの情報を得た石原・板垣らは、計画の中断を恐れ、当初の予定を変更して急遽決行日時を約10日繰り上げ、9月18日の夜とした。軍首脳の意向も度外視して佐官クラスの青年将校が実力行使におよんだ点では、まさに「下剋上」をあらわす現象であった。
9月18日、上述のように建川少将は満州で謀略事件が起こるのを抑える任務を帯びて、安東経由の列車でひそかに奉天に入っていたが、司令官一行が旅順に帰ったのちも板垣は奉天にのこり、建川を料亭で泥酔させた。また、東京に出かけていた奉天特務機関長の土肥原賢二は朝鮮経由で奉天にもどる車中にあった。土肥原は謀略の詳細については教えられていなかったが、陰謀に加わった花谷正少佐が機関長代理の任にあった。こういう状況のなか板垣は、事件当日の夜、土肥原不在の奉天特務機関に陣取ったのである。

板垣参謀は特務機関に陣取り、関東軍司令官代行として全体を指揮、爆破事件を中国側からの軍事行動であるとして、独断により、第二大隊と奉天駐留の第二師団歩兵第二十九連隊(連隊長平田幸広)に出動命令を発して戦闘態勢に入らせ、さらに、北大営および奉天城への攻撃命令を下した。北大営は、奉天市の北郊外にあり、約7,000名の兵員が駐屯する中国軍の兵舎である。また、市街地中心部の奉天城内には張学良東北辺防軍司令の執務官舎があった。ただし、事件のあったそのとき、張学良は麾下の精鋭11万5,000を率いて北平(現在の北京)に滞在していた。
 
事件の発生した9月18日の午後11時15分、中国側の交渉署日本科長より在奉天日本総領事館に、日本兵が北大営を包囲しているが、中国側は「無抵抗主義」をとる旨の電話があった。午前0時、午前3時ころにも、同じく交渉署の日本科長より電話で、中国側は「全然無抵抗の態度」をとっているゆえ、日本軍が攻撃を停止してくれるよう申し入れがなされた。同様の申し入れは、臧式毅遼寧省政府主席や趙欣伯東三省最高顧問からもなされたが、これらはいずれも、張学良が、万一の場合は日本軍に対し絶対無抵抗主義をとるよう全軍に指示していたためであった。
 
決行の夜、事件を知らせる電話が奉天特務機関から奉天総領事館にもたらされた。林総領事は知人の葬儀に出席して留守だったため、林の部下である森島守人領事が特務機関に急行した。ここで森島は外交的解決を主張したが、板垣高級参謀は即座に「すでに統帥権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉するのか」と恫喝した逸話はよく知られている。同席していた花谷特務機関補佐官も抜刀し、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と森島領事を威嚇した。帰館後の森島は、緊急連絡により総領事館に戻った林総領事に一切を報告したうえ、東京への電報や在満居留民保護の措置をとった。
知らせをうけた本庄司令官は、当初、周辺中国兵の武装解除といった程度の処置を考えていた。しかし、石原ら幕僚たちが奉天など主要都市の中国軍を撃破すべきという強硬な意見を上申、それに押されるかたちで本格的な軍事行動を決意、19日午前1時半ころより石原の命令案によって関東軍各部隊に攻撃命令を発した。また、それとともに、かねて立案していた作戦計画にもとづき、林銑十郎を司令官とする朝鮮軍にも来援を要請した。本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だったはずだが、その規定は無視された。攻撃占領対象は拡大し、奉天ばかりではなく、長春、安東鳳凰城営口など沿線各地におよんだ。
 

林総領事は幣原喜重郎外務大臣に至急の極秘電を送り、関東軍は「満鉄沿線にわたり一斉に積極的行動を開始せんとする方針」と推察される旨を伝えている。これは、さまざまな情報を総合すると、関東軍の行動は単に中国軍に対する自衛的な反撃にとどまらないという見方によるものであった。林は、政府が大至急関東軍の行動を制止する必要がある旨を幣原に進言しており、さらに別電では、この事件が関東軍の謀略である可能性も示唆している。

 

政党内閣を守ろうとした第2次若槻内閣の首相若槻禮次郎
陸軍中央に事件勃発の第一報が届いたのは、9月19日午前1時7分であった。これは、奉天特務機関の花谷少佐が18日午後11時18分に発信したもので、中国軍の満鉄線爆破と第二大隊の出動を報じるものであった。
事件を知った陸軍中央では、19日午前7時より各機関の首脳が参集し、事後対策を協議した。集まったのは、陸軍省から陸軍次官杉山元、軍務局長小磯国昭、参謀本部からは参謀次長二宮治重、総務部長梅津美治郎、第一部長代理(第二課長)今村均、第二部長橋本虎之助らであった。ここで小磯軍務局長が開口一番に「関東軍の今回の行動は全部至当のことなり」と発言したが、誰も反対はしなかった。兵力増援の必要性も同時に了解され、今村第二課長が増援計画を立案することとなった[。8時30分、朝鮮軍の林銑十郎司令官より飛行隊二中隊を増援させ、さらに混成一旅団の奉天派遣を準備中との連絡、
また10時15分には朝鮮軍の鉄道輸送の開始報告の連絡が入った。国外出兵の場合は、閣議において経費支出を認めたのち奉勅命令の伝宣手続きを必要とするので、参謀本部内には林の措置は妥当でないという意見が大勢を占め、越境派兵を見合わせるよう指示した。
これに対して政府は、19日午前10時に緊急の閣議を召集した。閣議に先だって第2次若槻内閣の首相若槻禮次郎は、南次郎陸軍大臣に関東軍の行動は真に軍の自衛のための行動かと念を押し、南は「もとより然り」と答えた。このとき、もしこれが日本軍の陰謀によるものなら、世界に対する日本の立場は困難になることを指摘した。閣議では南陸相の状況説明ののち幣原外相が外務省筋で得た各種情報の朗読があった。幣原の報告は、この事件が関東軍の謀略であることを言外に示唆しており、閣議は陸軍の説明に懐疑的な雰囲気となって、南陸相は満州への朝鮮軍増援を内閣に提議することができなかった。閣議は、陸軍ふくめ「事変不拡大」の方針を決めて散会した。
19日午後1時30分、若槻首相は参内し、内閣の不拡大方針を昭和天皇に奏上した。このとき若槻は、軍の出動範囲拡大については、必ず閣議を経たうえで裁可していただくよう願う旨付け加えた。陸軍では午後2時から陸軍三長官会議が開かれ、南陸相から、参謀総長の金谷範三と教育総監の武藤信義に閣議決定を伝え、それを南自身合意したことを伝えた。陸軍主流派に属していた金谷は、事件処理について必要以上とならぬよう善処することを本庄関東軍司令官に訓電しており、会議でも「旧態に復する必要あり」との見解を示した。南陸相とは同郷出身でもあり、南に協力的であった。南もまた、本庄司令官に対し事変不拡大方針に留意して行動するよう訓電した。
金谷参謀総長の旧態に復するという所見について、今村第二課長は不満であった。今村は「矢は既に弦を放たれたるものなり、之を中途に抑えて旧態に復せんとすれば軍隊の士気上に及ぼす影響大にして国軍の為由々しき大事なりと信ず」と述べ旧態復帰反対(現状維持)を上申した。金谷は動かなかったが、二課(作戦課)では旧態復帰は断然不可とする善後策を起案し、参謀本部首脳会議(次長部長クラス)の了承を得た。そして、もし内閣が関東軍を旧状に復帰させようとするなら、陸軍大臣は職を賭すべきであり、そのために政府が瓦解しても「いささかも懸念する要なき」という強い方針が確認された。いっぽう、若槻は参謀総長が天皇に直属し、内閣の統制外にあることから、元老西園寺公望やその影響下にある宮中重臣らの協力を得て朝鮮軍の満州派兵を食い止めようとした。若槻は、西園寺の政治秘書原田熊雄を通じ、宮内大臣の一木喜徳郎、侍従長の鈴木貫太郎、内大臣の牧野伸顕らに協力を要請したが、閣議によって陸軍を抑える以外に術はないなど消極的な姿勢を示した。
翌9月20日、午前10時より開催された二宮参謀次長、杉山陸軍次官、教育総監部の荒木貞夫本部長の首脳会談では、3人は柳条湖事件をもって満蒙問題解決の糸口とする旨を表明、政府倒壊も意に介せずとの強硬方針を確認して、旧態復帰断固阻止を申し合わせた。いっぽうの原田は宮中の重臣らが、若槻の協力要請に対して消極的であったことを若槻首相に伝えた。ただし、この日の午後2時、金谷参謀総長は参内し、天皇に対して、これまでの戦闘経過と各地の軍の配備状況を報告するとともに、将来については閣議決定を尊重する旨をはっきりと奏上した。
9月21日午前10時からの閣議では、関東軍が治安維持に必要な行動以外に軍政を実施すること等の禁止が決定され、満蒙問題の「一併解決」が必要であることで合意した。しかし、今後の関東軍の態勢については現状維持と旧態復帰で意見が割れ、南陸相らは現状の占拠状態のまま中国と交渉することを主張したのに対し、幣原外相らは占拠を解いて交渉に移るべしと主張して議論は平行線をたどった。閣議では、この日午前に始まった関東軍の吉林派兵が問題となり、閣僚全員が派兵に反対した。南陸相が不穏な現地の状況を説明して派兵の必要を訴え、吉林以外には派兵せずと言明して了解を得た。さらに、南陸相より満州への朝鮮軍増援の提議があり、若槻ひとり増援の必要を認めたが、他の閣僚は、国際連盟で問題とされる可能性があることや関東軍の旧態復帰時に困難を引き起こす危険性があることなどから、安保清種海相ふくめ、全員が不要論に立った

閣議でこの議論がなされていた午後3時半ころ、朝鮮軍より越境開始を知らせる参謀総長宛の電文が到着し、ただちに陸相より閣議に報告された。林銑十郎司令官の命令による独断越境であった。一軍の司令官が天皇の命をまたず部隊を国外に動かすことは重大な軍令違反であり、陸軍刑法では死刑に相当した。若槻首相や井上準之助蔵相は閣議の席上でおおいに憤慨した。この話をあとで聞いた鈴木侍従長も「御裁可なしに軍隊を動かすことはけしからん」と怒ったという。午後6時、金谷参謀総長は、単独の帷幄上奏によって、朝鮮軍独断越境について天皇の裁可を得ようとして参内したが、それには事前に首相の承認を必要とするとの奈良武次侍従武官長、鈴木侍従長らの助言、および、同様の趣旨からの永田鉄山ら軍事課の反対により、これを断念、独断越境についての報告と陳謝をおこなった。その夜、杉山陸軍次官が若槻首相を訪ね、独断越境について閣議で承認する旨を今晩中に天皇に奏上してほしいと頼んだが、若槻はこれを断った。
9月22日午前9時半、若槻が参内した際、昭和天皇より、政府の事変不拡大方針は至極妥当と思うので、その趣旨を徹底するよう努力せよとの言葉をかけられている。若槻は宮中で金谷参謀総長に会い、金谷からは独断派兵について閣議の決定を経なければ天皇の裁可を仰げないので閣議の決定を経たかたちで上奏してもらいたい旨を依頼されたが、若槻はこれを断り、総理大臣官邸での閣議に向かった。閣議では、若槻は天皇のことばを南陸相をふくむ全閣僚に伝えたうえで、独断出兵の処理を議題としたが、この時点では出兵に異論を唱える閣僚はなく、いっぽうで賛意の意思表示も全くなかった。結局、若槻内閣は朝鮮軍の出動とそのための戦費支出を「出たものは仕方なきにあらずや」と事後承認して、昭和天皇も「この度は致し方なきも将来充分注意せよ」と軍紀違反を不問にして正式派兵とした

 
死刑に値する朝鮮軍 林銑十郎司令官の独断越境。彼のその後、

1932年(昭和7年)4月11日 - 任 大将

1934年(昭和9年)1月23日 - 補 陸軍大臣

1936年(昭和11年)3月 - 予備役編入

1937年(昭和12年)広田弘毅の後、2月2日 - 内閣総理大臣6月4日まで123日、後任近衛文麿

​1943年脳出血で死去68歳

板垣征四郎、
朝鮮軍司令官、第七方面司令官シンガポールなどを経てA級戦犯として処刑
石原莞爾
二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、宇垣内閣組閣は流産に追い込んだ。後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。
一般の日本国民は、満州事変における関東軍の行動を熱狂的に支持した。当時の児童の作文などからは、沸き上がってくる軍国熱とともに不安や緊張も綴られている。当時、上述の中国側の無抵抗方針や現地の奉天総領事の判断や見解は一切報道されておらず、その点ではマスメディアの報道のあり方にも問題があった。もとより、少数ながら事件に対し批判的なメディアもあった。石橋湛山の『東洋経済新報』は、中国国民の覚醒と統一国家建設の要求はやみがたいものであり、力でそれを屈服させることは不可能だと論じた
 
「安内攘外」方針のもと「公理に訴える」ことを選択した国民政府首席で行政院長であった 蔣介石 は、日本との戦闘は回避し、1931年(昭和6年)9月21日満州問題を国際連盟に提訴した。
しかし、国際連盟は当初日本の軍事行動に対して何ら有効な行動をとらなかった。帝国主義列強にとって中国の共産主義ナショナリズムの方がむしろ大きな脅威であり、当初、日本に対し宥和的な姿勢を示したのである。ソビエト連邦計画経済の実施と農業集団化の推進に国力を傾注しようとしており、事件には不干渉の方針をとった。
しかし、満州での事変拡大は中国民衆の激しい抗日感情を生み、いたるところで「抗日救国」が呼号された。上海では9月24日、学生10万、港湾労働者3万5,000がストライキをおこない、26日には市民20万人が参加して抗日救国大会がひらかれ、対日経済断行が決せられた。北平でも9月28日に20万を超える市民が抗日救国大会をひらき、政府に対日参戦を要求、さらに市民による抗日義勇軍編成が決議された。日本商品ボイコット運動も広範囲に広がり、日本の対中国輸出を激減させた。中国民衆のなかでこうした強く激しい抗日感情が長くつづいた背景には、中国では、この年の7月から8月にかけて長江流域で大水害が発生し、家を失い、飢餓と寒さに苦しむ1,500万人以上ともいわれる被災者の救済に社会的関心が集まっていたからでもあった。そして、「抗日救国」の運動は翌1932年1月-3月の第一次上海事変でも強い高まりをみせたのである。
 
柳条湖事件は満州事変へと拡大し、若槻内閣による不拡大方針の声明があったにもかかわらず、関東軍はこれを無視して戦線を拡大、
1931年10月8日奉天を奪われた張学良が臨時政府を設置した熱河省の錦州を爆撃、国際連盟理事会の避難を浴びた。若槻内閣は不拡大声明を発表するが、11月19日関東軍は満州北部のチチハルを占領、12月11日若槻内閣は総辞職した。
関東軍は翌1932年1月3日錦州占領、2月5日ハルビン占領、など満州各地を占領した。関東軍が容易に各地を占領したのは蒋介石と張学良が日本に対して不抵抗を抜いたためであるが、日本軍には一撃を加えれば中国軍は容易に屈服するという「中国一撃論」が台頭する。

かわって立憲政友会犬養毅が内閣を組織した。
関東軍は満州より張学良政権を排除し、1932年3月には清朝最後の皇帝(宣統帝)であった愛新覚羅溥儀を執政にすえて「満州国」の建国を宣言した。犬養内閣は満州国の承認には応じない構えをみせていたが、
同年5月の五・一五事件では犬養首相が暗殺されて、海軍軍人の斎藤実に大命が下ると斎藤内閣は政党勢力に協力を要請して挙国一致内閣を標榜、軍部の圧力と世論の突きあげによって満州国承認に傾き、
同年9月には日満議定書を結んで満州国を承認した。
一方の中華民国は、これを日本の侵略であるとして国際連盟に提訴した。列国は、当初、事変をごく局所的なものとみて楽観視していたが、日本政府の不拡大方針が遵守されない事態に次第に不信感をつのらせていった。1932年1月に関東軍が張学良による仮政府が置かれていた錦州を占領すると、アメリカ合衆国は日本の行動は自衛権の範囲を超えているとして、パリ不戦条約および九か国条約に違反した既成事実は認められないとして日本を非難した。

満州事変
は九カ国条約で定められた中国の領土保全の原則に違反しているとして、各国から非難を受けた。それ以後もたびたび日本の行動は同条約違反と非難されたが、日本側は非難を受けるたびに本条約を遵守する声明を公表し続けた。1月には幣原外相は日中両国の「共存共栄」を解き、中国の国権回復要求の矛先をかわそうとしたが、張学良政権は中国のナショナリズムを背景に鉄道建設交渉が行き詰まっていた。日本の議会では前満鉄副総裁の松岡洋右(政友会)は「満蒙は我が国の生命線
であ」り、幣原外相が「弱腰外交」であると非難した。

国際連盟は、1931年12月10日の連盟理事会決議によって、1932年3月、満州問題調査のためにイギリスのリットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン)を団長とするリットン調査団を日本と中国に派遣した。調査は3か月に及んで同年6月に完了、同年10月には調査の結果をリットン報告書として提出した。その報告書において、9月18日およびそれ以降の日本の軍事行動を自衛とは認められないと結論付けている。
柳条湖事件
リットン調査団
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