15年戦争
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フィリピン
1521年、ポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)が率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンのホモンホン島に到達
1494年スペインとポルトガルが結んだトルデシリャス条約でブラジルを除く新大陸(インディアス)がスペイン領有とし、1529年のサラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とした。
1565年にはスペイン副王領ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(初代総督)がセブ島を領有したのを皮切りに19世紀末までスペインのフィリピン支配が始まり、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。
征服者レガスピの1567年の書簡に、当時すでに日本人がミンドロ島やルソン島へ毎年交易に来訪していたことが記されており、日比の交流はスペインが占領する以前からあったことがわかっている。
これ以降、約250年間、マニラとアカプルコ(メキシコ)をつなぐガレオン貿易が続いた。メキシコやペルー、ボリビアから輸入した銀や、東南アジア各地や中国(清)の産物をラテンアメリカに運んだ。フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン製の大型帆船がたくさん建造された。
1762年に、一時的にマニラがイギリス軍に占領されたが、1763年にパリ条約が結ばれ再びスペインの管轄下に戻った。
18世紀になってスペインは南部への侵攻を開始したものの、西南ミンダナオ島、スールー諸島、南パラワン島では、スールー王国をはじめとするイスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。
ヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となった植民地時代に、布教を目的の1つとしていたスペイン人はローマ・カトリックの布教を進めた。スペイン人は支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。
支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。 独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立の父とされるホセ・リサールの活躍によるところが大きい。リサールは、1896年12月30日に銃殺された。
1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国はエミリオ・アギナルド らの独立運動を利用するため支援した。ただこれは、後に判明するように、アメリカがスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった。
1899年6月12日、初代大統領エミリオ・アギナルドの下、フィリピン第一共和国がスペイン帝国から独立を宣言。フィリピン革命は、普通1896年8月から1899年1月までを指す。
米西戦争の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカ合衆国に譲渡された。1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。5月18日にサンボアンガ共和国(英語版)がサンボアンゲーニョ(英語版)によって建国された。
フィリピン共和国の建国を承認しないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したものの、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗運動は武力鎮圧された。1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。1903年にサンボアンガ共和国も崩壊したが、モロの反乱は1913年まで続いた。フィリピン史では、1899年2月から1902年7月までをフィリピン・アメリカ戦争期として位置づけている。
米西戦争
1898年4月にアメリカ合衆国とスペイン帝国の間で発生。
19世紀末から20世紀に入ろうとする頃、既にスペインにかつての大帝国の面影はほとんどなかった。東アジアでは16世紀に当時のスペイン帝国で最大の版図を誇ったフェリペ2世の名前をとって名付けられたフィリピンが残るのみで、太平洋・アフリカ・西インド諸島にはほんの少数の散在した植民地しか残らなかった上に、その多くも独立運動を繰り広げていた。
フィリピンではアギナルドにより、キューバではアントニオ・マセオ、マクシモ・ゴメス、ホセ・マルティなどにより既に数十年に渡るゲリラ戦争が展開されていたが、スペイン本国はこれらの脅威に対抗しうる予算あるいは人的資源を十分に持っておらず、全ての面で不足していた。
アメリカ海軍は開戦の1年以上前にフィリピンでスペイン軍を攻撃する計画を作成していた。西部への拡張およびインディアンとの大規模交戦の終了はアメリカ陸軍の職務を減少させ、軍の指導陣は新しい職務を望んだ。
「スペインとの戦いは、すべてのアメリカの鉄道ビジネス及び所得を増加させるだろう。それは、すべてのアメリカの工場の出力を増加させるだろう。それは、産業と国内通商のすべての流通を刺激するだろう。」と明言した。太平洋を渡ってマニラまで向かうのに2ヶ月はかかる時代であったにも関わらず、マニラ湾海戦は開戦からわずか約2週間後の5月1日に勃発した。
4月19日に議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認し、大統領はスペインの撤退を要求する為に軍事力を行使することを承認した。これを受けてスペインはアメリカとの外交関係を停止し、4月25日に連邦議会はアメリカとスペインの間の戦争状態が4月21日以来存在することを宣言した。なお議会はその後、4月20日に戦争の宣言を遡らせる議決を承認した。
フィリピンにおける最初の戦闘は、5月1日のマニラ湾海戦である。香港を出港したジョージ・デューイ提督率いるアメリカ太平洋艦隊が、マニラ湾でパトリシオ・モントーホ提督率いる7隻のスペイン艦隊を攻撃した。6時間ほどでスペイン艦隊は旗艦を含む3隻が沈没し、4隻が炎上するなど壊滅状態に陥った一方、アメリカ艦隊の被害は負傷者7名のみとほぼ無傷であった。
マニラ湾海戦の結果フィリピンのスペイン海軍は壊滅したが、マニラでは1万人以上のスペイン陸軍が駐留していた。海戦後にデューイと会談し、勝利の暁に独立させると約束されたフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの民族主義者は、アメリカ軍の支援と相互連携してスペイン軍を攻撃した。独立軍は1万人を超え、1898年6月にはルソン島中部を制圧し、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言して暫定政府を組織した。アメリカ本国のマッキンリー政権はマニラ市を占領するためウェズリー・E・メリット少将の指揮で大規模な派遣軍(正規軍5千人を含む2万人規模)を派遣した。6月30日に派遣軍の先発部隊、7月半ばにはメリット少将も現地に到着し、8月にはスペイン軍に降伏勧告を行い、14日に休戦協定が決定した。
フィリピン人による報復を恐れたスペイン軍は、マニラへフィリピン軍が入城しないことを降伏条件としており、スペイン降伏後のフィリピンの統治はアメリカが握ることとなった。これはフィリピンの独立運動側からすると不満な結果であり、独立運動の対象はスペインからアメリカへ移り、米比戦争へ繋がることとなった。
1898年8月に11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。アメリカがスペインに代わって国の統治を始めると同時に、アメリカとフィリピンの戦争が始まった(米比戦争)。戦争はフィリピンの国家主義者の独立に対する望みを絶つために行われ、20万人から150万人と言われる犠牲者を生んだ。
1901年米比戦争に敗れてアメリカ合衆国の植民地となる
その後フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会は1916年にジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領が成立した。
1929年に世界恐慌が発生すると無課税でアメリカ本土に移入されていたフィリピンの砂糖がアメリカ本土の甜菜糖やキューバ糖に打撃を与え、アメリカの資産家で破産するものが続出した。そのためフィリピン糖排撃の声が高まり、関税を課すことを目的にフィリピン独立が叫ばれるようになった。1934年にアメリカ議会はフーバー大統領の反対を押し切り、タイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾したことで、フィリピン自治領からフィリピン・コモンウェルスに移行したが、アメリカはフィリピンにアメリカへの依存貿易を続けさせるなどの利権を確保し続けた。
第二次大戦フィリピンへの日本軍侵攻は真珠湾攻撃の10時間後、1941年12月8日に始まった。真珠湾と同様にアメリカの航空機が最初の日本による攻撃で深刻な被害を受けた。アメリカの太平洋艦隊は上空援護を得られず1941年12月12日にジャワ島に撤退した。
日本軍が、マニラ市に上陸した。マッカーサーはマニラを脱出してコレヒドール要塞に立てこもったが、このときマニラを「オープン・シティ(無防備都市)」と宣言。都市の破壊や民間人の被害は防がれ、マニラは1942年1月2日に日本により無血占領された。
ダグラス・マッカーサーは1942年3月11日の夜に軍隊を残したままコレヒドール島を去り、4,000 km離れたオーストラリアへ向かった。
置き去りにされた7万6000人のアメリカ軍・フィリピン軍の人々は1942年4月9日に降伏したが、捕虜を収容する施設がなく全長は120kmで、もともとはその半分弱は鉄道とトラックで運ばれる予定であったが、計画を立てた当初の捕虜の予想数と、実際の捕虜の数に大きく違いがあり、結局約83kmの距離を3日間、1日平均14kmを難民と捕虜と監視の日本兵が歩いた。「バターン死の行進」。米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。日本軍に降伏したとき、バターン半島のアメリカ兵の50パーセントは戦傷やマラリアのために、医師の手当てを要する体調だった。したがって、短距離を歩くことさえ不可能ではないとしても極めて困難だったが戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。行進中の捕虜の待遇は部隊によって異なるとみられるものの、捕虜は「食糧や飲料水の提供は非常に少なく、灼熱のなか休みも殆どなく歩かされ」て、「夜は収容可能人数の倍の人数で倉庫に押し込まれて」「用便も立っている場所で行われざるを得なかった」と証言される。7000 - 10000人が命を落とした。収容所にたどり着いたのは、捕虜となった約7万6千人の内、約5万4千人。米軍の死亡者は2300人と記録されている。監視の日本兵は少なく、逃亡は容易だったとされる。フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、ほとんど脱走者。
コレヒドールにいた1万3000人の生存者は5月6日に降伏した。
アメリカは1935年にはフィリピンの独立を約束していたので、日本も1943年5月に御前会議でフィリピン(フィリピン行政委員会)とビルマを独立させた。1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立した。しかしアメリカは日本の傀儡政権であるとしこれを認めなかった。
その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営を進めた。日本の敗戦が濃厚になると1944年12月8日に親日義勇隊のマカピリ(約5600名)が設立されベニグノ・ラモスなどが参加し、戦闘に加わった。
フィリピンの対日武装勢力は二つに大別できる組織からなり、ともに大きな団体となっていた。ひとつは、かつてマッカーサー大将の指揮下で活動していた米比軍の将兵ら(通称をアメリカ極東陸軍の頭字語USAFFEからユサッフェ・ゲリラという)で、原隊よりは比較的自由な活動をしていた。他方は、フクバラハプと呼ばれるフィリピン国内の農民革命運動や労働運動者たち共産系であった。この2組織は必ずしも協力関係にあったわけではない。
ユサッフェは、米比軍の正式区分だった全10管区を引き継ぐ形で軍管区司令部を設置し、総兵力約22000名によるゲリラ戦を展開した。もっともユサッフェ・フクバラハプの2集団とは別に中小のゲリラ集団が各地に点在しており1943年に大本営陸軍部がまとめた「最近ニ於ける比島事情」には100以上の組織と27万人のゲリラが報告されている。
これらゲリラの活動により、1943年の時点で連日のように道路・橋や電話線の破壊、移動中の部隊への襲撃が相次ぎ「昼間は歩けない」とさえ言われた。 レイテ・比島作戦が進行するにつれアメリカ軍が武器を供給したこともあり、その数は一気に膨れ上がり、諸戦において有力な戦力となった。日本軍がほぼ無力で撤退していくことになったのは、このユサッフェらゲリラの影響も大きい。 ゲリラと無関係な一般市民との区別は容易ではなかったため、日本軍による討伐作戦の途中で虐殺事件がおきることも多々あった。
1944年9月21日、22日、アメリカ軍機によりマニラ市内が激しい空爆にさらされると、同月23日、ラウレル政権はアメリカとイギリスに対して宣戦布告を行った。
ミッドウェーの開戦を転機に守勢に回った日本軍は次第に追い詰められて1944年10月20日から25日にかけてフィリピン周辺の広大な海域で米軍と海戦を繰り広げた。史上最大の開戦とされる。レイテ沖海戦と呼ばれこの戦闘から特攻隊が登場した。これにより米軍はレイテ島に上陸しマッカーサーはオーストラリアからフィリピンに戻った。
1945年1月4日米軍はルソン島の日本軍基地を爆撃開始、6日から艦砲射撃開始、9日朝から175,000人がリンガエン湾に上陸開始した。1月15日第二次の米軍上陸。第6軍総勢約194,000人(米軍全体では280,000人とも)。日本軍は約226,000人が迎え撃ったが、レイテ沖海戦で飛行機を失ったパイロットや整備兵なども多く十分な戦力でなかった。そのため一定程度の抵抗で時間を稼いだ後、山地に後退して持久戦に持ち込もうと考え山下奉文大将は司令部をマニラから北部のバギオに移した。また、前回アメリカ軍が行ったようにマニラの無防備都市宣言も検討したが、大本営陸軍部がマニラの放棄に同意しなかった。それでも陸軍は3個大隊だけを残して主力は東方山地に退去した。さらに港湾を死守したいと考えていた海軍はレイテ沖海戦やその後の沈没艦の乗員、飛行機を失ったパイロットや整備兵、現地で応召した在留邦人などを集めた雑兵の部隊を作り「マニラ海軍防衛隊」とした。
マニラ海軍防衛隊は、当初は約26,000人の海軍軍人・軍属を有していたが、兵器の大幅な不足から戦力化できなかった約10,000人を、北部ルソンのカガヤンなど他地域へ移動させていた。戦闘直前の2月3日にも、兵器製造などを行っていた6,000人(ほぼ非武装)を東方山地へ脱出させたため、戦闘となったときの兵力は約10,000人であった。マニラに残った海軍将兵は陸戦隊7個大隊に再編成されたが、そのうち本格的な地上戦訓練を受けていたのは第31特別根拠地隊の陸上警備科1個中隊のみであった。また、マニラ海軍防衛隊指揮下には、野口勝三陸軍大佐の指揮する野口部隊(臨時歩兵2個大隊基幹)など陸軍3個大隊約4,300人が配属されたが、これも在留邦人からの現地召集が大半で戦力は劣った。
第二次世界大戦によって110万人のフィリピン人が犠牲となった。
2月当時マニラ市内には約70万人の市民が残っていた。
このうち10万人がマニラ市街戦の犠牲になったとも言われる。
マニラに20棟あった16世紀から17世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、アメリカ軍の攻撃により2つを残して破壊された。第二次世界大戦において、フィリピンで多くの人命の喪失と甚大な物理的破壊が発生したのは、アメリカ軍の無差別爆撃が原因とする意見もある。戦後しばらくはフィリピン人犠牲者についてアメリカ軍の責任を問うことがタブー視されていたが、フィリピン人犠牲者のうち日本軍による殺害を差し引いた残り4割はアメリカ軍の無差別爆撃が原因とされ、それにより多数の命が失われた。
1945年2月3日、まずマニラのサント・トマス大学にいた数千人のアメリカ人や連合国側の市民が日米両部隊の交渉の結果、戦闘を経ずに解放される。その後、米軍はマニラを完全に包囲。市街地に立てこもった日本軍に対し、アメリカ軍は徹底した砲爆撃を加えた。これにより、市街地は廃墟と化した。アメリカ軍の支援を受けたフィリピン人ゲリラ約3,000人も、戦闘に参加した。
2月6日にマニラ海軍防衛隊は以下の報告を打電した。
敵「マニラ」に侵入するや 市民は双手を挙げて之を歓迎万事我が戦闘行動を阻害しつつ 市民は約70万と認めらるるも 3日より5日に至る「パシツク」河以北戦線に於いて 奇襲攻撃を不可能ならしめたるは「ゲリラ」化せる一般市民にして 攻撃前に米軍に内通せられ 肉攻隊員にして市民の射撃を受け 米軍宛所在を表示せられ 目的を達せざりしもの枚挙に遑あらず 米軍侵入の地帯は米国旗を掲揚しある等 敵国人として差当り処置を要するものあり 「マニラ」市は地盤軟弱にして 高層建物も地下室を有するもの殆んど無く 砲爆撃に依る振倒大なり 現有焼夷弾数発により 内張、床、精食等に点火消失すること予想以上なり 就中弾薬の誘爆 特に今回の如く弾庫、重量施設に爆破準備をなしある場合は戦闘実施に相当の困難を感じ 市街戦実施上考慮を要するものと認む— 戦史叢書 『南西方面海軍作戦』 p.507
(参考)In 1941 the estimated population of the Philippines reached 17,000,000. Manila's population was 684,000.
2月14日に岩淵少将はこの戦いにおける戦訓を打電した。内容は勝手に陣地を放棄する指揮官が多い事、寄せ集めの即席部隊はゲリラにも劣る烏合の衆などであった。
2月24日、岩淵少将は、拠点を死守する旨の決別電を発した。25日、市内の日本陸軍部隊はついに一斉脱出を試みた。翌26日に岩淵少将もできる限り部下を脱出させた後に司令部で自決した。3月3日、アメリカ軍はマニラでの戦闘終結を宣言した。
日本軍はマニラ市民から敵対的感情を持たれていると考えており、実際にゲリラ化した市民に攻撃されたため、外から迫る米軍と対峙するに際に挟み撃ちにされないよう、住民を大量に殺戮したとされる。上述の通り現地で編成した寄せ集めの部隊だったため規律や士気に問題があり、住民への暴行や殺害が多々発生した。現地人だけでなく中立国を含む外国人の婦女への性暴力も行われた。
米軍上層部は当初市民や都市基盤に被害を残すことを避けるため重砲火の使用禁止を命じてマニラ奪還に臨んだが、コンクリート製や石材製の建築物に立て篭もった日本軍の激しい抵抗に直面した現場からの要請により10日後には規制を解除した。アメリカ軍は日本軍の防衛陣地を徹底的に破壊する為に市街地に重砲による砲撃を行い、多くの民間人が犠牲となった。
山下大将は市民虐殺についての責任を問われてマニラ軍事裁判で裁かれ、絞首刑となった。マニラ戦での残虐行為をめぐって司令官責任が追及された同裁判をめぐっては、山下自身はすでにバギオに在ってマニラ戦を直接現場で指揮したわけではなかったこと、山下の人柄を軍人・指導者として慕う者が多かったことから、報復的政治裁判だという批判や、山下に対する同情論が裁判当時から根強かった。とくに米軍側で山下の弁護人をつとめたフランク・リール(A. Frank Reel)は、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)の影響力のもとで裁判が政治化したことを鋭く批判する著書を出版して山下無罪論を展開し、同書はサンフランシスコ平和条約が結ばれて連合国の日本占領が終わるやただちに翻訳出版され、大きな反響を呼んだ。
「マニラ市街戦ーその真実と記憶ー」WEB編より
戦闘後すぐにフィリピン人の証言が集められ、戦後の日本軍戦争犯罪の糾弾のために使われた。
マックス・フォン・シュラーは、アメリカ軍は日本軍を警戒しながらマニラを前進し、日本軍の抵抗を受けると、その防御陣地あたりを徹底的に無差別爆撃したことから、多数のフィリピン人が犠牲となり、日本軍が10万人も殺害することは不可能であり、アメリカ軍が自らの犯行を日本軍に責任転嫁していると批判している。
また近年では、アメリカ軍の無差別爆撃に対する生存者や遺族の怒りも語られるようになっており、フィリピンの若い世代の間でもフィリピンの戦禍について認知・共有が進んでない側面もあり、日本軍による殺害とアメリカ軍による無差別爆撃による戦争末期のマニラなどにおける惨禍について、『インクワイアラー(英語版)』をはじめとするフィリピン国内の大手新聞社が若い世代を対象とした特集記事を組むようになった。
中国南京、シンガポール、そしてマニラでの「日本軍による虐殺」は、聞くに堪えない残酷さである。「ワランヒヤ日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録」「聞き書きフィリピン占領」など多くの書籍が出ている。筆者はその虐殺された方の人数については、これからも研究されて真実に近づくと信じるが、多かれ少なかれ、多くの方々が被害にあったことは間違いないと思う。その理由、原因もいろいろあることも更に明らかになるだろう。日本軍の側にも、虐殺自体は謝罪しかないが、それなりの言い分があるだろう。ただ一つ、根本的な原因は「戦争」それ自体である。
お互いに普通の市民でありながら、兵隊にさせられ、虐殺・強盗・強姦など、それまで普通の生活を送っていたなら、ありえない行動に走った、走らされたのは戦争という非人道的な状況に放り込まれたためで、戦争さえなければ、こんなことは起こらなかったはずだ。こんな大罪に走らせる戦争は絶対に避けなければならない。
大半がジャングルのルソン島の日本軍は、食糧の補給は完全に途絶えて餓死者が続出し、マラリアや赤痢にかかる者が続出した。部隊としての統制は乱れ、小部隊ごとに山中に散開して生活していた。降伏は固く禁じられていたため、伝染病にかかった者はそのまま死ぬか自決し、衰弱した日本兵は抗日ゲリラや現地民族に襲撃され消耗していった。道の至る所に日本兵や民間人の死体が転がって腐敗により体が膨らみ、臭気を放って蛆虫の巣窟となっていた。手榴弾で自決した日本兵の体の一部分は無残に吹き飛んでいた。飢えた兵士は食糧を求めて村や現地人を襲ったり、日本兵同士で食糧をめぐって殺し合いをしたり、死んだ日本兵を食べたりするなど、戦争どころではなくなった。兵士の間で台湾までたどり着けば助かると信じられていたために、筏を作ったり泳いで台湾まで行こうとするものまでいた。
終戦の4日後、8月19日に山下大将は停戦命令を受容した。しかし分散した各部隊への連絡は困難で、半年かけてようやく全軍が降伏した。降伏までに日本軍は20万人が餓死あるいは戦病死した。アメリカ軍に収容されたが、力尽きて輸送船の甲板への梯子が登れず死ぬ者までいたという。
米軍 約194,000人(280,000人とも) 戦死行方不明 8,310
日本軍 約226,000人 戦死行方不明 217,000
この他「太平洋戦争 日本の敗因5 レイテに沈んだ対東亜共栄圏」NHK取材班も参考になるかもしれない。
1945年の日本敗戦に伴い、独立を失いアメリカの植民地に戻ることを余儀なくされることとなったが、1946年のマニラ条約で、フィリピン・コモンウェルスの組織を引き継ぎ、7月4日、戦前から約束されていたフィリピン第三共和国がアメリカ合衆国から再独立した。
中間賠償
中間賠償とは、軍需工場の機械など日本国内の資本設備を撤去して、かつて日本が支配した国に移転、譲渡することによる戦争賠償である。1945年11月に来日したアメリカ占領軍E. W. ポーレー率いる米賠償調査団によって行われた最初期の対日賠償政策である。工場設備による賠償は後の平和条約による最終的な賠償ではないという観点から「中間賠償」と呼ばれた。また、中間賠償にはまた日本の産業的武装解除も兼ねて行われたという側面もある。大蔵省によると、1950年5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する43,919台の工場機械などが梱包撤去された。受け取り国の内訳は中国54.1%、オランダ(東インド)11.5%、フィリピン19%、イギリス(ビルマ、マライ)15.4%である。
占領した連合国に対する賠償
サンフランシスコ平和条約第14条で定められているところの日本が占領し損害を与えた連合国と二国間協定を結んで行った賠償のことである。一般に狭義の「戦争賠償」は、この二国間協定による賠償が意味されることが多い。この賠償を受ける事ができたのは、以下の2つの条件を満たす国である。
平和条約によって賠償請求権を持つと規定された国
日本軍に占領されて被害を受けた国。
該当する連合国とはフィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、インドネシア、豪州、オランダ、英国(香港、シンガポール)、米国(グアム、キスカ、アッツ)の九か国を指。ただ、大戦中はこれらの国は米、英、仏、オランダの植民地あるいは属領であり、国際法上は独立国家ではありませんでした。この内、ラオス、カンボジア、豪州、オランダ、英国、米国は賠償請求権を放棄または行使しなかったが、ラオス、カンボジアとは経済・技術協力協定を結び賠償に代わる準賠償を行ってきました。またこの九か国以外でも、スイスやアルゼンチンなどには日本から受けた損害に対する賠償請求権が認められた。 フィリピンにはフィリピン共和国との間の賠償協定により1980億円(5億5千万ドル)、ベトナム(南ベトナム)には140億4000万円を支払い。北ベトナムに対しては七五年に85億円、また七六年には統一後のベトナムを対象に50億円の無償経済協力をした。1976年7月22日のフィリピンに対する支払いを完了。
フィリピンはサンフランシスコ平和条約の調印前から80億ドルの賠償を要求するなど、日本に対し賠償請求を強く主張。その結果、日本が独立を回復した直後から、日本とフィリピンとの間で賠償交渉が行われたが、賠償額や両国国会での反対論を前に交渉は難航。しかし、度重なる交渉の結果、1956年5月9日に日本側全権の高碕達之助らとフィリピン側全権のフェリノ・ネリ(Felino Neri)大使らとの間で、賠償5億5千万ドル、経済協力2億5千万ドル(総額8億ドル)からなる日比賠償協定が調印された(同年7月23日発効)。賠償額としては最高額である。
2国間協定に基づく賠償
国名 金額(円) 金額(米ドル) 協定調印日
ビルマ 720億 2億 1955年11月05日
フィリピン 1980億 5億5000万 1956年05月09日
インドネシア 803億880万 2億2308万 1958年01月20日
ベトナム 140億4000万 3900万 1959年05月13日
準賠償
ラオス 10億
カンボジア 15億
ビルマ 504億
シンガポール 29億4000万3000
マレーシア 29億4000万3000
大韓民国に対しては別に1080億円の経済協力金1965年06月22日
朝鮮は戦勝連合国ではないので、これは戦後処理の一環(終戦と共に終了した植民地支配に関する補償)ではあっても厳密な意味での「戦争賠償」とは見なされない。朝鮮はサンフランシスコ条約第14条のような平和条約で規定されるところの正規の「戦争賠償権」を持たないので、賠償請求権の放棄の代わりに「財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が…完全かつ最終的に解決された」と記されている。
中国(中華民国)は賠償金請求権を放棄しているが、在外資産による賠償は受けている。
外務省の調査によると、1945年(昭和20年)8月5日現在の在外資産の総額は次の通りである:
地域名c 金額(円)
朝鮮 702億5600万円
台湾(中華民国) 425億4200万円
中国 東北 1465億3200万円
華北 554億3700万円
華中・華南 367億1800万円
その他の地域(樺太、南洋、その他南方地域、欧米諸国等) 280億1400万円
合計 3794億9900万円
冷戦下では地主支配(アシエンダ)打倒を訴える共産系のフクバラハップが勢力を拡大し、ルソン島ではゲリラ戦争が続いたが、1950年代中に共産ゲリラはアメリカからの全面的な支援を受けたラモン・マグサイサイの手によって一度壊滅した。その後、親米政権によって農地改革が行われたものの、実効性には乏しいものとなった