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インドネシア オランダ領東インド(蘭印)
1941年 
12月8日 英米に宣戦布告        
     真珠湾攻撃
                 マレー作戦(~1942/5/18) 
                            英領マレー半島・コタバル、タイ南部シンゴラ上陸
     香港の戦い(~1941/12/25)
     フィリピンの戦い(~1942/6/9)
                    ミッドウェー島砲撃
                    ウエーク島の戦い
   英米日本に宣戦布告
   アメリカ、対日無制限潜水艦作戦               
   中華民国国民政府日独伊に宣戦布告
12月10日 オランダ日本に宣戦布告
 
1942年                 
1月2日  日本軍、ルソン島マニラを無血占領。
1月8日  連合軍、タイ攻撃開始。
1月11日  日本軍、マレー半島クアラルンプール占領。
    日本、オランダに宣戦布告。
1月15日  日本軍、英領ビルマ(現ミャンマー)攻撃部隊がタイに集結。
1月23日  日本軍、ニューブリテン島ラバウル占領。
1月24日  バリクパパン沖海戦。
1月25日  タイ、英米に宣戦布告。日本軍、バリクパパン占領。
1月27日  エンドウ沖海戦。
1月31日  日本軍タイからビルマ侵攻開始。マレー半島ジョホールバル占領。
2月    アメリカ人スティルウィルが中国国民党軍参謀となる。
2月1日    日本軍、シンガポールの石油施設を砲撃。
                   米機動部隊、マーシャル諸島来襲。
2月4日   ジャワ沖海戦。
2月7日   日本軍、シンガポール北東のウビン島に牽制上陸。
2月8日   日本軍、シンガポール北西海岸より上陸(シンガポールの戦)。
2月14日   日本軍、蘭領東インド(現インドネシア)スマトラ島パレンバン                        を落下傘部隊で占領。
2月15日  シンガポールの英豪軍が降伏。
2月19日  日本軍、オーストラリアのポートダーウィン空襲。
2月20日  バリ島沖海戦。ニューギニア沖海戦。
2月24日  米機動部隊、ウェーク島来襲。
     日本軍伊17潜、カリフォルニア州サンタバーバラを砲撃。
米英と開戦した最大の目的である石油を筆頭とする資源確保のためにインドネシア(当時オランダ領東インド 蘭印)の攻略を進める。占領の最終目的地は蘭印の中心であるジャワ島。蘭印の石油が確保された後、日本へ安全に輸送するため、周辺の島々の要衝、シンガポール、マラヤ、インドシナ、中国の各沿岸を抑え、そのために、イギリス東洋艦隊と米国太平洋艦隊を撃滅することが先行して行われた。

オランダ
政府が東インドを直接支配することになったのは1798年であった。蘭印は総面積190万平方キロ、総人口6,000万余であった。ジャワ島には人口の3分の2が集中し、オランダの総督府は同島のバタビア(現在のジャカルタ)に置かれていた。
蘭印の石油の1939年年産量800万トンは当時の日本の年需要量500万トンを上回っていた。他に(世界第三位)、ボーキサイトゴム(世界第二位)などの物資も産出していた。ドイツの攻勢を受けたオランダは撃破され(オランダにおける戦い (1940年))、1940年5月にウィルヘルミナ女王とオランダ政府はロンドンに逃れていた。
日本軍の南方作戦の主な目的は、蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)の石油資源の獲得にあった。南方作戦の基本構想は、イギリス領マレーとアメリカフィリピンを迅速に奪取し、それらを踏み台として蘭印を攻略し、資源を確保すると共にスンダ列島に防衛線を形成するというものであった。
日本政府はできれば蘭印への無血進駐を実現したいと考え、1941年12月8日の大東亜戦争宣戦の詔書でもオランダを交戦国から除いていたが、オランダ政府は12月10日に日本政府に対して「日本がオランダと密接不可分の関係にある英米両国に対し戦端を開いたので、日蘭間に戦争状態が存在するに至った」と通告した(これは、現地のオランダ領東インド政庁が独断で行ったもので、当時ロンドンに亡命していた本国政府がそれを追認したものと言われている)。

 
日本は南方作戦陸海軍中央協定で蘭領印度作戦の作戦名称を「H作戦」と定めた。また、「蘭領印度に対する作戦目的は、蘭領印度に於ける敵を撃破して其の根拠を攻略し、併せて軍事及資源の要域を占領確保するに在り。」と定めた。
日本軍は蘭印攻略を担当する部隊として第16軍を編成し、軍司令官に今村均中将を任じた。蘭印作戦には多くの困難が伴うと予想された。第一に、マレー作戦フィリピン作戦香港作戦を経た後に実施されるため、奇襲ができず、また参加する部隊には再使用される部隊が多かった。第二に、長途の渡洋作戦であるため制海権制空権の確保が必須であり、島々を順次攻略して航空基地を進出させていくことが作戦遂行上の要点であった。第三に、油田の設備を連合軍によって破壊される前に確保するという特別な任務が伴っていた。

蘭印資源 
石油   1939年年産量800万トン(当時の日本の年需要量500万トン)
鉄鋼   ボルネオ島とセベレス島に約10億トン埋蔵
ニッケル ビンタン島に粘性さん約40万トン
錫    スマトラ島所属の島に年産3~4万トン
ボーキサイト ビンタン島に年産約40万トン
マンガン ジャワ島、スマトラ島などに年産1万2千トン
ゴム   年産15万トン(世界の1/3)

日本軍の攻撃は比からの部隊でボルネオ島とセレベス島の要衝に向かいさらにオーストラリアからの反撃にも備えモルッカ諸島のアンボンにも向かった。
混成第6兵団(三浦支隊・坂口支隊)
1941/12/20 比ミンダナオ島・ダバオ飛行場占領
1942/1/12  油田産地タラカン島占領 蘭印軍1,400名
1942/1/24  バリクパパン沖海戦(米海軍駆逐艦4隻輸送船2隻喪失)
1942/1/25  バリクパパン占領
1942/2/10  バンジェルマシン飛行場占領
 
1942/1/11  セレベス島メナド飛行場に空挺降下(海軍)
1942/2/9   セレベス島マカッサル占領(海軍)
1942/2/24  セレベス島ケンダリー占領(海軍)

1942/1/24  モルッカ諸島アンボンの戦い
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アンボンはオランダが1599年に基地を建設して以来のモルッカ諸島の中心地であり、天然の良港を中心として要塞と航空基地が構築されていた。連合軍の守備兵力は3,000名(オーストラリア軍1,200名、蘭印軍400名、現地軍1,400名)であった。アンボンの攻略に任じられたのは第38師団歩兵第228連隊を基幹とする東方支隊(支隊長:第38歩兵団長伊東武夫少将、兵力5,300名)と呉第1特別陸戦隊(750名)であった。第38師団は香港攻略戦を完遂した後、1月12日に香港を出発し蘭印作戦に参加していた。
1月24日、ハワイ空襲から帰投した第2航空戦隊の空母蒼龍飛龍の艦載機がアンボンを空襲した。
31日未明、東方支隊主力はアンボン東側に、呉一特と第10中隊は北側に上陸した。第10中隊の中隊長は香港攻略戦で名を馳せた若林東一中尉であった。東方支隊主力は31日夕刻にアンボン市内に突入し、蘭印軍司令官カーピス中佐以下800名の守備隊は翌2月1日未明に投降した。

当時のチモール島は西半分がオランダ領、東半分が中立国であるポルトガル領であった。開戦直後の12月12日に、事前の協定に基づきオーストラリア軍が上陸していた。20日未明に東方支隊による上陸作戦が行われた。連合軍の守備兵力は1,940名(オーストラリア軍1,500名、蘭印軍240名、現地軍200名)連合軍の遺棄死体は296、捕虜1,136名であった。東方支隊の損害は戦死67名、戦傷56名であった。


スマトラ島パレンバンは蘭印最大かつ東南アジア有数の大油田地帯であり、ロイヤル・ダッチ・シェルが操業する製油所とともに太平洋戦争における日本軍の最重要攻略目標であった。パレンバンはムシ川の河口からおよそ100キロの内陸に位置するため、陸軍の大発上陸用舟艇による攻撃では川を遡上している間に油田設備を破壊されるおそれがあり、これを避ける為にはまず空挺攻撃によってこれを奇襲占領し、次いで地上部隊をもって確保する作戦。こうして第1挺進団(団長:久米精一大佐)が空挺降下し第38師団主力(歩兵第229連隊基幹、兵力 12,360名)が支援する陸軍初の空挺作戦が立案された。1942年2月14日空挺降下は挺進第2連隊の329名のみで実施。第38師団主力も14日にバンカ島に到着、15日に先遣隊がパレンバンに到着した。師団主力は18日にパレンバンに到着、周辺地域を確保した。

2月19日、金村支隊(第48師団台湾歩兵第1連隊の一部)がバリ島に上陸
ABDA艦隊のうち軽巡洋艦3隻、駆逐艦7隻が出撃。日本艦隊は駆逐艦4隻と劣勢、日本軍が駆逐艦1隻大破の損害を受けたのに対して、ABDA艦隊は駆逐艦1隻が沈没、軽巡洋艦1隻が中破。(バリ島沖海戦

2月27日スラバヤ沖海戦
日本軍は重巡洋艦羽黒、那智および軽巡洋艦2隻、駆逐艦14隻
ABDA(America, Britain, Dutch, Australia)艦隊はイギリスの重巡洋艦 エクゼター、アメリカの重巡洋艦ヒューストンおよび軽巡洋艦3隻、駆逐艦
12隻とほぼ同数,
28日までの交戦で、日本軍の駆逐艦1隻大破に対して、ABDA艦隊ではオランダの軽巡洋艦デ・ロイテルとジャワ、駆逐艦コルテノール、イギリスの駆逐艦エレクトラが撃沈され、司令官ドールマン少将も戦死

2月28日 バタビア沖海戦
スラバヤ沖海戦で残存したアメリカの重巡洋艦ヒューストンとオーストラリアの軽巡洋艦パースはジャワ海からの脱出途中、
3月1日未明、バンタム湾で第16軍主力を揚陸作業中だった日本軍輸送船団を発見し攻撃南遣艦隊の重巡洋艦三隈、最上が応戦ヒューストン、パースの2隻は共に沈没した。その後、ABDA艦隊はさらにエクゼターと駆逐艦2隻を失って壊滅(スラバヤ沖海戦#掃討戦)し、駆逐艦4隻が辛うじてオーストラリアへ脱出。
バタビア沖海戦で日本軍は最上の魚雷誤射により、揚陸艦神州丸・輸送船佐倉丸・輸送船龍野丸・病院船蓬莱丸・掃海艇が沈没および大破着底している。

日本軍艦艇損失
大破
駆逐艦:朝雲(応急修理後、自力で戦場を離脱)
輸送船:徳島丸(空襲により擱座)
連合国軍艦艇損失
沈没
重巡/エクセター(英)
軽巡/デ・ロイテル(蘭)、ジャワ(蘭)
駆逐艦/コルテノール(蘭)、エレクトラ(英)、ジュピター(英)、駆逐艦エンカウンター(英)、ポープ(米)
小破
重巡/ヒューストン(米)

母国をナチス・ドイツに占領されたオランダにとって、極東の植民地は最後の拠点であった。オランダ亡命政府はアメリカ軍が極東の防衛に真剣でないと判断し、アメリカ人のハート大将を解任し、オランダ人のコンラッド・ヘルフリッヒ中将(東インド諸島出身)を司令官とする人事を連合軍に行わせている。しかし、既にシンガポールの戦いシンガポールは陥落。大規模海軍基地を失ったことで、連合軍は損傷艦の修理や補給も難しい状態になっていた。その上、ジャワ沖海戦バリ島沖海戦などの小規模海戦で連合軍に損傷艦が続出する。たとえば重巡ヒューストンは損傷により前部砲塔6門しか使用できなかった。さらに連合軍にとっての痛撃は、オーストラリアからジャワ島に至る戦闘機中継基地ティモール島を占領され、くわえて2月19日の南雲機動部隊のポートダーウィン空襲により北部豪州主要港のダーウィンが大打撃を受け、ジャワとオーストラリアの連絡線が遮断された事であった。
この時点でABDA連合は、既に現有戦力ではジャワの防衛は不可能と判断して撤退を始めていた。2月21日、アーチボルド・ウェーヴェル大将はイギリスのウィンストン・チャーチル首相に、ジャワの防衛が絶望的であると報告した。2月25日の時点でウェーヴェル将軍はジャワを去った。ジャワにはドールマン少将指揮の艦隊の他はアメリカ、オーストラリアの少数の航空機が残されているのみで、ABDA司令部の主だったメンバーは既にセイロンやオーストラリアへ脱出しており、残っているのはオランダ軍だけであった。

この海戦の大きな特徴としては第一次昼戦からポープの沈没まで、46時間という長時間に及ぶ戦いとなったことであろう。この間に主要な戦闘は5つ行われているが、太平洋戦争の中で、これだけ長時間の海戦になったのは数えるほどしかない。しかも、対戦した艦艇数から考えると異常ともいえる長さであった。これは、戦力に勝る日本軍が「二万五六千米の遠距離砲戦を」継続し、砲や魚雷の命中率が極端に低下し、致命傷を与えるのに時間がかかったことが主な要因といえる。日本軍艦船の命中率の低さは驚くべきものがあり、例えば第五戦隊の重砲戦の命中率がこれほどまでに低かったのは、日本軍の技量というよりも両軍の取った戦法にあった。両軍が大遠距離での砲撃戦に終始し、また大角度の避弾運動(非
敵側に変針して敵艦の照準を外す運動)を繰り返したことが挙げられる、着弾まで数十秒~数分の時間を要する当時の砲戦ではこうした状況に対する有効な対策がなく、日本軍は射撃教範を墨守していたずらに修正射撃を繰り返した。こうした混乱は本海戦が日本海軍にとって日本海海戦以来37年ぶりの本格的海戦であり、初めての実戦に対する不慣れさや緊張が影響していた。

敵兵救助作業
2月27日-28日第二次夜戦で第五戦隊 (那智、羽黒)は蘭軍巡洋艦デ・ロイテル、ジャワを撃沈した。2番艦の羽黒は1番艦の那智より『溺者あり救助を乞う』との信号があり救助に向かったところ、それは蘭軍巡洋艦の乗組員だった。『全員救助すべし』の下令により羽黒は約20名を収容、士官達は参謀予備室に収容された。
2月28日の朝、二水戦の駆逐艦雪風と時津風は、海上を漂流する連合軍の沈没艦船の生存者を発見し、その救助に当たった。雪風はエレクトラの砲術長やデ・ロイテルの通信科の下士官をふくむ40名ほどを救助した。
同日22時、『溺者あり』との信号を受けた二水戦旗艦神通は初
風に命じ、デ・ロイテルの乗組員など39名を救助させた。第十六駆逐隊の各艦に収容された連合軍将兵は、主に初風によって救助されたが、捕虜となった生存者を纏めて運ぶ役目は雪風に任せられ、後日、バンジェルマシンで病院船に引渡された。
3月1日午前2時、第五戦隊部隊(那智、羽黒、山風、江風)は哨戒中に軽巡ジャワの生存者を発見、37名が江風に収容された。
3月1日昼間の戦闘後、第三艦隊司令長官の高橋伊望中将は、艦隊に海上を漂流中の連合国軍将兵の救助活動を命じ、3隻の駆逐艦が救助にあたった。山風はエクセターの生存者67名を救助した、約100名の捕虜を抱えた第五戦隊は第二艦隊・第三艦隊に指示を仰いだ。
午後2時過ぎ、駆逐艦曙が漂流するフォール卿らを発見したが、砲を向けたのみで去った。天津風はオランダの病院船オプテンノールをバンジェルマシンに護送するため単艦行動中だったが、バウエアン島北西部でエクセターの生存者らしき連合軍将兵漂流者多数を発見、『別に救助船がくる』と英語で知らせ、同時に第二水雷戦隊司令部に救助を依頼すると、その場を去った。 
一方、南方作戦全般を指揮した第二艦隊司令部(司令長官近藤信竹中将)は、ジャワ島南方洋上の重巡愛宕艦上にあったが、これも全軍に対し、「敵兵救」の打電。電、雷の2駆逐艦は、イギリス滞在歴があり親英的な感覚を持っていた高橋中将の直属かつ単艦行動中だった幸運が重なり、艦長の決断と個性が遺憾なく発揮された。 エンカウンターの将兵を救助した雷駆逐艦長の工藤俊作少佐は、英語で「諸君は果敢に戦われた。今、諸君は大日本帝国海軍の大切な賓客である。私はイギリス海軍を尊敬するが、日本に戦いを挑む貴国政府は実におろかである」と挨拶している。「雷」での待遇は良かったが、その後の東南アジアでの捕虜生活は「まあまあ」であったという。 雷の乗組員雪風の航海士の山崎太喜男少尉は、海軍兵学校時代に英国人教師に英会話を習った経緯から、救助したエレクトラの砲術長のトーマス・スペンサー大尉の訊問を担当した。15時間近く海上を漂流していたスペンサー大尉は雪風で水と食事を与えられ、山崎少尉から着替えと煙草を進められると、故郷スコットランドの思い出など身の上話を語り、その一方で軍事的な質問に対しては黙秘を貫いたが、当時の日本軍に浸透していなかったジュネーブ条約のことは詳しく話した。山崎少尉はスペンサー大尉から「英米ではジュネーブ条約によって捕虜の待遇を保証していて、戦争中でも家族との連絡や捕虜交換による帰国が許される」と教えられ、「生きて虜囚の辱めを受ける前に自決する」という考えが常識だった日本軍との違いに驚かされた。
3月2日、潜水艦との戦闘後に海戦海域に戻った艦隊は、再度高橋中将の命令により救助活動を実施した。2回目の救助活動では妙高、足柄他の
艦も漂流者を収容している。那智は約50名を救助したという。『望遠鏡で見ると、どの味方僚艦の後甲板も、救助した捕虜が山積みされ、いまにもこぼれ落ちそうであった。』。その後、海上に漂流者多数を残して参謀長命により救助活動は中止された。救助中止は無電によるものと、足柄の石井勝射撃盤員は推測している。
3月3日午前6時半に乗員を涼ませるため浮上していた連合国潜水艦(艦名不詳)へ足柄が高角砲射撃を行い、海に飛び込んだ潜水艦乗員たちを駆逐艦潮が救助した。同日、捕虜100名を乗せた山風はマカッサルに到着した。
3月5日セレベス島マカッサルに入港した艦隊は、捕虜を陸軍捕
虜収容所のトラックへ引き渡している。港内で足柄の隣だったオランダの病院船オプテンノールの看護婦たちは甲板上の捕虜たちと手を振り合っていた。
 
バリ島沖海戦
スラバヤ沖海戦
パレンバン
バタビア沖海戦
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