top of page
15年戦争
各項目にカーソルを置くと、サブフォルダーが現れます
戦後中国
日本敗戦とともにアメリカは、抗日戦末期に弱体化が著しかった国民党軍に大量の援助を行い、これによって新たに39個師団に武装・訓練をほどこし、アメリカ船をもって在中国日本人の本国送還を急ぎ、空路・海路から約40万の国民党軍兵士とアメリカ海兵隊5万人を華北に派遣・上陸させて北京、天津など重要都市を占領、かつ国民党軍にかわってアメリカ軍みずから華北の炭坑、鉄道などを接収した。一方、国共合作交渉は、8月28日に蔣介石と毛沢東が重慶で直接会談し、10月10日の双十協定で一時的な合意を見た。
この間、先述のようなアメリカによる国民党軍の武装・訓練・華北への輸送作戦は12月までにかなりの進展を見せ、アメリカは蔣介石政権崩壊・共産主義拡大防止対策を行い、トルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとした。したがって、トルーマン政権の対中政策は、「ルーズベルトの戦後構想」を基調とするものとして始まったといえる。
12月15日、ハリー・トルーマンは対中戦後政策に関する包括的な公式声明を発した。この声明は、
(1)中国共産党を含めた国民党主導下の統一政府樹立、
(2)中共軍の国民党軍への編入、
(3)安定政権の基礎づくりのため、土地改革をはじめとする社会改革への着手の諸点を要求し、さらに
(4)以上が実行されない場合、アメリカは対中援助の拒否権を使用することを宣明した。
深まりゆく内戦の危機に、アメリカは大統領特使ジョージ・マーシャル元帥を送って 国共の調停にのりだした。在華アメリカ軍兵力は11万を超えるピークに達していた。こうしてアメリカは国民党軍に莫大な支援を集中して共産党側を圧倒しつつ、他方でアメリカのさらなる国家資本援助を報償として提示して国民党の譲歩をせまることによって国共両党を統一交渉テーブルにつかせようとしたのである。共産軍の戦闘力の強さを誰よりもよく認識していたアメリカは、腐敗した国民党軍の崩壊を恐れ、蔣介石に大量の軍事援助を与えつつ、国民党軍が強化されるまで衝突を先にのばそうとしたのである。
1946年1月10日、双十協定に基づき、政治協商会議(後の中国人民政治協商会議と区別して旧政協と呼ばれる)が重慶で開催された。各党派の代表構成は、国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。
この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割りあてられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。同時にアメリカ代表のマーシャル、国民党代表の張群、共産党代表の周恩来による軍事調処執行部(三人委員会)が成立して「国共停戦協定」も調印されたものの、蔣介石の「武力剿共」の決意は変わらなかった。
2月25日の基本法案によると、陸海空三軍の最高統帥者が中華民国政府主席(蔣介石)であることを再確認した上で、一年以内にその陸上兵力を国民党軍90個師団、共産党軍18個師団に削減し、さらにその半年後にはそれぞれ50個師団と10個師団にまで縮小することが取り決めされていた。3月の党大会において、国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議した。6月に再び中国共産党との間で国共内戦が勃発した。
トルーマンは、家族ぐるみでの付き合いをした前大統領のルーズベルトとうって変わって、蔣介石及び中国国民党への軍事援助に消極的となる。なおこの背景にはアメリカ政府内に入り込んだソ連や中国共産党側のスパイの活動があったと言われている。また、中国共産党はこれに対して1946年6月22日に「アメリカの蔣介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出。これを受けてマーシャル将軍は、中国国民党への武器弾薬の輸出禁止措置をとった。これと反対にソ連は中国共産党への軍事及び金融的支援を急激に活発化させていったため、中国国民党軍は次第に劣勢に追い込まれていくことになる。
8月10日にはトルーマンが、蔣介石にその行動を非難するメッセージを送り、国内問題の早急な平和的解決への努力を要請し、8月31日に再度、国共間の政治的解決こそが中国の再建という大事業を可能にさせるのであり、「中国全土に広がる内戦の危機の脅威を速やかに除去することができるならば、アメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画を実行に移すことになろう」と警告を発したが、それもなんら効力を発揮することなし国民党の軍事攻勢は続けられたが、ソ連からの軍事支援が増した中国共産党が勢いを増していく。
同年8月には、国民党への武器援助が禁止された。マーシャルは当時トルーマン大統領に、国共間の調停が絶望的であること、その多くの責任は蔣介石にあるとして非難している。またトルーマン大統領自身も、国民党への不満を後に表明している。1946年12月18日、トルーマン大統領は「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する。つまり、マーシャル・プランのような中華民国の工業および農業改革の復興を援助する計画は、内戦を行ったことで破綻となったのである。
1946年10月21日、蔣介石は初めて台湾を訪問し「抗日戦争の英雄」として熱烈な歓迎を受けた。このとき蔣介石は「台湾はまだ共産分子の浸透を受けておらず、清潔な土地といえる。今後積極的に建設を行い、模範省の一つとしたい」と感想を持ち、日本統治時代のインフラが数多く残り資本財が蓄積されている台湾の将来性を見出している。しかし、1947年2月27日、台北市で行われた抗議デモに対して憲兵隊が発砲し、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧するという二・二八事件が起きた。その後、蔣介石は台湾全土に戒厳令を敷き、以降白色テロによる支配を行うこととなる。
1948年に中華民国の初代総統に就任するが、国共内戦での戦況悪化を受けて、1949年1月に辞任した。副総統だった李宗仁が総統(代理)となり、同年4月1日に共産党との和平交渉団を首都・南京から北平(北京)に派遣して北平和談を行い、交渉団が最終案である国内和平協定を持ち帰ってきた。しかし、20日に国民党は署名を拒否する電報を共産党に打って交渉は決裂し、3日後の23日には渡江戦役で人民解放軍によって首都・南京は陥落して総統府も占領された。
1949年10月1日、毛沢東は北京で中華人民共和国を建国し、一方の蔣介石は重慶などを経て、12月に成都から息子の蔣経国とともに飛び立ち台湾島の台北に遷都することになる(台北は臨時首都)。アメリカのトルーマン政権は蔣介石率いる国民党政権の無能ぶりを厳しく批判しており、CIAの見通しではアメリカの介入が無ければ1950年中に台湾も共産党の手に落ちるであろうと予測していた。
1950年1月、トルーマン大統領は台湾への不介入声明を発表し、アチソン国務長官もまたアメリカの西太平洋防衛ラインから台湾を除外した。しかし、この頃になると、トルーマン政権の無策が中国を共産圏に追いやったと批判する「中国の喪失」論が共和党を中心に各方面から噴出し、このままむざむざ台湾を共産党側に渡すことに反対する意見が高まってきており、蔣介石はアメリカの態度好転に期待を繋いでいた。
蔣介石は、3月に総統への復任を宣言した。海南島、舟山諸島の失陥後、台湾は臨戦態勢に入った。蔣経国は各部隊を慰問して、たとえ死すとも領袖蔣介石に忠誠を尽くすとの血盟宣誓を行うキャンペーンを繰り広げており、台湾全土が事実上蔣介石と運命をともにすることを強要された。台湾全土が極度の緊張に包まれていく中、1950年6月25日、突如として事態が急変する。朝鮮戦争により、トルーマンは台湾不介入声明を撤回して同年6月に台湾海峡の中立化を名目に第七艦隊を派遣した。朝鮮戦争に人民義勇軍が参戦したため、人民解放軍による中華民国への軍事行動は1950年10月から一時的に停止した。
1950年3月に再び総統に就任し、アメリカからの全面的協力を受けて大陸反攻を目指すこととなる。しかし、同時期、中華民国が国連常任理事国として支持した国連軍の司令官で蔣介石と気脈が通じていたダグラス・マッカーサーが朝鮮戦争への中国国民党軍の投入などを強硬に主張してトルーマン政権に解任され、香港を抱えるイギリスは中国共産党が建国した中華人民共和国を承認するなど逆風も受けた。
トルーマン政権からドワイト・アイゼンハワー政権に交代するとアメリカは米華相互防衛条約を締結し、在台米軍も駐留し始め、これ以降中華民国とアメリカは冷戦下における同盟国として強固な関係を保ち続けた。一方で、1960年代に大躍進政策失敗で混迷する大陸への反攻を企図するも(国光計画)、当時のジョン・F・ケネディ大統領の支持を得られずに断念し、アメリカに対して強い不信感を抱くようになった。
bottom of page