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日本空襲

日米開戦直前1941年5月、アメリカ政府はボーイング社に試験飛行もしていないB-29爆撃機を250機も発注したが、真珠湾攻撃で発注数を倍加、翌1942年2月にはゼネラル・モーターズ、ノース・アメリカン、ベル社にも協力を求め1,600機の生産を命じた。1943年6月実用実験機のYB-29が米陸軍航空軍に引き渡される。
1942年に日本軍焼夷弾によるアメリカ本土空襲を行うと、米空軍も焼夷弾の開発に踏み切り、1942年には投下後バラバラになって着地すると尾部からナパームを噴射しながら跳びはねるという強力な着火能力をもつM69焼夷弾が開発された。

1942年4月18日 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲(東京初空襲)

1943年12月のカイロ会談において、1944年10月のマリアナの攻略と、「日本本土戦略爆撃のために戦略爆撃部隊をグアムとテニアン、サイパンに設置する」という文言が織り込まれて、マリアナからの日本本土空襲が決定された。しかし真珠湾から3,000マイル、もっとも近いアメリカ軍の基地エニウェトクからでも1,000マイルの大遠征作戦となるマリアナ侵攻作戦にニミッツ提督などは不安を抱いていた。また極東空軍司令官ジョージ・ケニー少将も「マリアナからでは戦闘機の護衛が不可能であり、護衛がなければB-29は高高度からの爆撃を余儀なくされ、精度はお粗末になるだろうという意見だった。

1943年12月 中國の米空軍基地を攻撃するため大陸打通作戦立案。
      長沙、桂林から本土空襲される懸念。
1944年4月 まずは長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の飛行場も占領
      インドにB29 150機集結。
1944年6月15日 八幡製鉄所空襲。米軍B29、75機、中国大陸成都から北九州への初空襲。
      日本軍は2機以上を撃墜し、B29を始めて確認した。    
      同日サイパンの戦い開始。
7月7日 - 日本のサイパン守備隊が玉砕
7月7日B29 18機、長崎、佐世保大村、八幡、7月26日には60機(72機出撃したが、故障などで12機が脱落)で満州鞍山の昭和製鋼所、8月10日に60機が一旦セイロン島の基地まで進出後にパレンバンの製油所、同日に29機が長崎の工業地帯を爆撃。その後もインドを拠点に爆撃が続いた。
7月9日にサイパン島はアメリカ軍の手に落ち、ついでグアム島テニアン島も8月10日までに攻略されて、南部マリアナ諸島はアメリカ軍のものとなった。これにより、日本の主要都市のほぼすべてがB-29の攻撃可能範囲内に入ることとなった。

11月7日「震天制空隊」B29への体当たり、特攻部隊

11月21日 熊本空襲
11月24日 B-29、マリアナ諸島より東京 中島飛行機武蔵野工場を初空襲。これ以降、東京は106回、中島飛行機武蔵野工場は11回爆撃される
 

B29飛行範囲.jpg
a_0007成都のコピー.jpg


12月10日 日本軍、大陸打通作戦を完了。すでに中国からではなくマリアナ諸島から日本は空襲されていた。
 
12月13日のB-29の75機による名古屋の航空機工場への空襲は8,000mから9,800mからの爆撃であったが、投下した爆弾の16%は目標の300m以内に命中、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下した。
12月18日にも再度名古屋爆撃、目標は三菱の飛行機組み立て工場。63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため、前回と同じ8,000mから9,850mの高高度からレーダー爆撃を行ったが、爆撃精度は高く、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれた。この2日間のB-29の損失は合わせて8機であった。高高度精密爆撃がようやく成果を上げたが、この2回目の名古屋空襲と同じ1944年12月18日に、第20爆撃集団司令官ルメイは、中国で焼夷弾を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験を行っている。それは日本軍占領下の中華民国漢口大空襲であり、ルメイ指揮下の84機のB-29が500トンもの焼夷弾を漢口市街に投下し、漢口はその後3日にわたって燃え続けて市街の50%を灰燼に帰して、漢口の市民(ほとんどが中国人)約20,000人が死亡した。

1945年
1月20日、第21爆撃集団カーチス・ルメイ少将を司令官に任命。
ルメイはすでに準備、実験された無差別爆撃の方針、戦術を基本的に踏襲したが、ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8,500メートルから9,500メートルの昼間爆撃を行っていたが、高度1,500メートルから3,000メートルに変更、理由はジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、火災を密度で合流し大火災にできることであった。しかし低空では敵の迎撃機、対空砲があるため夜間爆撃にした。
2月16-17日硫黄島上陸作戦に先行し、米軍ジャンボリー作戦(空母 16, 戦艦 8、巡洋艦 15, 駆逐艦 77)攻略部隊を守るための陽動と航空戦力の減殺を目的として、高速空母機動部隊である第58任務部隊(司令官:マーク・ミッチャー中将)により関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を攻撃。
航空機 1200が艦載機として初めて東京空襲を行った。


2月18日 - 3月22日 硫黄島の戦い

3月10日 - 東京大空襲(死者10万名焼失26万戸B29出撃325機)史上最悪

3月12日 名古屋大空襲(死者586名焼失27,803戸B29出撃数310機損失1機)

3月14日 大阪大空襲(3,987名136,107戸295機2機)

3月16日 神戸空襲(2,598名65,000戸331機3機)

3月19日 - 名古屋大空襲(1,027名39,893戸310機1機)

3月19日 呉軍港空襲

3月25日 名古屋大空襲

4月1日 - 6月23日 沖縄戦

4月7日以降は硫黄島配備のアメリカ陸軍のP-51P-47イギリス海軍空母艦載機のスピットファイアなどの戦闘機も空襲に参加、B-29爆撃隊の護衛にあたり、地上施設の攻撃も行った。硫黄島は日本爆撃の際に損傷したり故障したB-29の不時着用の基地として重要だった。

4月12日 郡山空襲

4月13日-14日 城北大空襲

4月15日 川崎大空襲

4月30日 浜松空襲

5月10日 徳山大空襲

5月19日 浜松空襲

5月25日 - アメリカ軍機約500機が東京・山の手を大規模空襲

5月29日 - アメリカ軍機約620機が横浜大空襲

5月31日 - アメリカ軍機約120機が台北大空襲

6月1日 奈良空襲

6月5日- アメリカ軍機約500機が神戸大空襲

6月9日 熱田空襲

6月10日 日立空襲

6月10日 千葉空襲

6月17日 鹿児島大空襲

6月18日 四日市空襲

6月18日 浜松空襲

6月19日-20日 豊橋空襲

6月19日-20日 福岡大空襲

6月19日-20日 静岡大空襲

6月23日 - 沖縄における日本軍の組織的な戦闘終結

6月22日 姫路空襲

6月22日 水島空襲

6月22日 各務原空襲

6月26日 津空襲

6月28日-29日 佐世保大空襲

6月29日 下関空襲6月29日 岡山大空襲6月29日 延岡大空襲

7月1日-2日 熊本大空襲7月2日 下関空襲7月1日-2日 呉市街空襲

7月3日 姫路空襲

7月4日 徳島大空襲7月4日 高松大空襲

7月5日 第1次横手空襲[要出典]

7月6日 甲府空襲

7月7日 岐阜空襲7月7日 千葉空襲7月7日 明石空襲

7月9日-10日  和歌山大空襲

7月10日 仙台空襲

7月10日 岐阜空襲

7月12日 宇都宮空襲

7月12日 敦賀空襲

7月12日-13日 一宮空襲

7月14日-15日 函館空襲  北海道空襲 14日 釜石艦砲射撃 15日 室蘭艦砲射撃 多治見空襲 小樽空襲

7月16日 アメリカが原子爆弾の実験に成功し、マンハッタン計画完成

7月16日-17日 平塚空襲7月17日 沼津大空襲7月17日 桑名空襲7月17日 日立艦砲射撃7月17日 

大分空襲

7月19日 銚子空襲

7月19日-20日 福井空襲岡崎空襲日立空襲

7月20日、マリアナ基地にいた原爆投下を任務とする第509混成部隊は、東京空襲に初めて参加。目的は、日本人に単機による高空からの一発の爆弾投下に慣れさせるため。以降、広島、京都、小倉は原爆投下目標地のため爆撃を禁止。

7月24日 呉軍港空襲 津空襲 大津空襲 大垣空襲 半田空襲

7月25日 保戸島空襲

7月25日 米国、原爆使用を決定し投下命令を下す。

7月26日 ドイツのポツダムで英米ソ首脳が会談しポツダム宣言を発表。日本政府は、これを黙殺。

7月26日 松山大空襲

7月27日 大牟田空襲

7月28日 大山口列車空襲7月28日 一宮空襲7月28日 呉軍港爆撃(呉軍港空襲) 青森へ新型焼夷弾を投下)

7月28日-29日 宇治山田空襲

7月29日 大垣空襲

7月30日 那賀川鉄橋空襲 鎌倉空襲

8月1日-2日 長岡空襲

8月1日 富山大空襲(原爆投下を除く地方都市への空襲被害としては最大)

8月2日 水戸空襲8月2日 八王子空襲

8月5日 前橋空襲8月5日 佐賀空襲

8月5日-6日 今治空襲

 

8月6日 午前8時15分広島に原爆投下

爆心地から500メートル以内での被爆者は、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを超え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが死亡していった。11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。1945年昭和20年)の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人から 12万人と推定されている

 

8月7日 豊川空襲

8月8日 筑紫駅列車空襲事件 福山大空襲 八幡大空襲

8月9日 米軍、長崎に原爆投下。御前会議でポツダム宣言の受諾を決定。

当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊した。原爆死没者名簿の人数は2009年8月9日現在で14万9266人。

 

8月9日 大湊湾(大湊町)で海戦(大湊空襲)。事実上最後の海戦となる。

8月10日 花巻空襲 第2次横手空襲

8月11日 鳥栖空襲 加治木空襲 久留米空襲

8月13日 長野空襲 大月空襲

8月14日-15日 土崎空襲

8月15日 伊勢崎空襲

8月15日 熊谷空襲

8月15日 小田原空襲

全国(内地)で200以上の都市が被災、被災人口は970万人に及んだ。被災面積は約1億9,100万(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。その他、多くの国宝重要文化財が焼失した。米国戦略爆撃調査団は30万人以上の死者、1,500万人が家を失ったとしている。死者数は調査団体、研究者、新聞社各紙によって数値のばらつきがあり、最少の約24万から最大の100万人の説が存在する。 また、負傷者も30万人程度という説もある。

B-29の損失数

硫黄島に不時着し炎上するB-29、P-51も数機巻き添えとなっている

米国戦略爆撃調査団(USSBS)による統計

日本本土を爆撃したB-29

延べ出撃機数33,401機

作戦中の総損失機数485機

延べ出撃機数に対する損失率1.45%

作戦中の破損機数2,707機

投下爆弾147,576トン

搭乗員戦死3,041名

ウィキペディアより

 日本を無差別爆撃した将軍に勲一等旭日大綬章を授与した日本

日米開戦直前、アメリカ政府はボーイング社に試験飛行もしていないB-29爆撃機を250機も発注したが、真珠湾攻撃で発注数を倍加、翌1942年2月にはゼネラル・モーターズ、ノース・アメリカン、ベル社にも協力を求め1,600機の生産を命じた。しかし、実現まで2年を要した。
1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本本土空襲計画を提出する。日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張し、焼夷弾の使用にも言及していた。アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない。
9月のCOA会議作戦分析委員会では主要六都市の住民58万4000人を殺した時に起こる完全な混乱状態の可能性が論じられた。戦略情報局長ウィリアム・マックガヴァンは心理的効果を主張し、日本の子供は火事に対する恐怖を刷り込まれているので焼夷弾はパニックと結びつきやすいので、地域爆撃を全面支持し、「地獄を引き起こせ。国中の日本人に参ったと言わせろ」と提案した。アーノルドはこの追加報告書を採択した。
1945年1月20日、カーチス・ルメイ少将を司令官に任命した。3月10日の東京大空襲から焼夷弾を集中投下する無差別爆撃が本格的に開始され、耐火性の低い日本の家屋に対し高い威力を発揮した。
空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災、被災人口は970万人に及んだ。被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。その他、多くの国宝・重要文化財が焼失した。米国戦略爆撃調査団は30万人以上の死者、1,500万人が家を失ったとしている。

他に広島原爆死亡者約32万人以上(原爆死没者名簿2021/8/6時点)
 (14万人、原爆投下の年1944年12月までの死者、
 当時広島に滞在していたのは35万人、
 原爆投下当日の死者は9万人、以上推定)
長崎原爆死亡者18万人以上(2019年8月時点)
 (1945年12月までの推計7万人、
  当時の長崎人口24万人)


1964年12月7日に日本に返還されたばかりの入間基地(旧ジョンソン基地)で、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は浦がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査・審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は小泉純也防衛庁長官と椎名悦三郎外務大臣の連名で行われ、防衛庁から佐藤栄作首相・賞勲局へ叙勲が適当であるという説明があった。勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例に基づいたものである。
授与への批判
ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対して批判も大きく、現在でも「勲章は返還するべきである」と唱える者もいる。当時は日本社会党・原水爆禁止団体・被爆者などから国民感情として納得できないという声が上がった。
国会でも叙勲に対して疑問視する声があった。東京大空襲や原爆から叙勲は不適切ではないかという質問に佐藤は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの。」と答え、小泉は「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。防衛庁の調査でも当時ルメイは原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、原爆投下はトルーマン大統領が直接指揮したものである。」と説明しており、佐藤もそれらを理由に決定を変える意思は無いと表明した。勲一等の授与は天皇が直接手渡す「親授」が通例であるが、昭和天皇はこれを行わなかった。

ルメイ 勲章
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