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日 露 米 独 中 英
朝鮮や中国で衝突し、日本の仮想敵国として長く存在したのはロシアである。そんなロシアと戦わず、朝鮮や中国の権益を多くは望めなかった米国となぜ戦ったのか?

英国はドイツの攻勢に風前の灯火だった。英国は敗戦を回避するには米国の参戦が必須だった。米国国民は第一次大戦に懲りて、また1920年代以降世界の米国となって、完全な孤立主義となり参戦を望まなかった。大統領ルーズベルトは英国を助けるために日本から宣戦布告されることを望み日本に抵抗する中国を助け、日本を追い込んでいった。それにより、日本と同盟関係にあったドイツが米国に宣戦することを図った。そうすれば大統領になった時の不戦の公約に拘わらず英国を助けられる。しかも日本が卑怯な手で先制攻撃すれば国民は怒り、さらに積極的に参戦することを要求するだろうことを予測した。

日本の暗号は戦争前から解読されていた。真珠湾を奇襲攻撃されることを知りながら、そのままさせるがままにした上で、「リメンバー・パールハーバー」と国民を煽った。孤立主義で参戦に反対の国民が逆に積極的に参戦することを望んだ。本当はドイツに挑むのが喫緊の目的であったが、国民がまず日本に目を向けたため、その軌道修正は必要だった。

まんまとルーズベルトの作戦に乗っかって、真珠湾攻撃のすぐ後にドイツは米国に宣戦し、敗戦の危機にあった英国は米国の参戦によって救われた。加えて長らく先の見えない戦いに苦しんでいた蒋介石や中国国民は米国参戦によって中国の勝利=日本の敗戦を確信し歓喜に沸いた。

(日独伊三国同盟締結時、ドイツは日本とドイツとの二面戦争をアメリカは回避するだろうと考えていたはずなのに、なぜ自らアメリカに宣戦したのだろう?)
日独伊三国同盟第三条で一国が攻撃されたときに他の二国が援助するという自動参戦条項がある。しかし松岡は、条約が想定しているドイツ・アメリカ戦争について、日本が自動的に参戦することを避けようとしていた。松岡と自動参戦の明記を求めるスターマーの交渉の結果、条約本文ではなく交換公文において「第三条の対象となる攻撃かどうかは、三国で協議して決定する」こととなり、自動参戦条項は事実上空文化した。
当時アメリカは第三条の自動参戦条項が松岡によって骨抜きにされていたことを知らず、対日警戒感をいっそう強めた。条約締結を知った駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーは日米両国の友好関係継続は「絶望」になったとみなし、「これは、過去に私が知っていた日本ではない」と嘆いた。イギリスは10月に閉鎖される予定だった援蒋ビルマルートの継続を通知した。中国国民党との和平交渉桐工作も中止が命令された。
アメリカが自動参戦条項の実態を知ったのは、終戦後の1946年に、連合国軍に抑留されたオットとスターマーを尋問した時と見られている。

日本が参戦するとき、ロシアはドイツの攻勢に苦しんでいたが、日本はその前に日ソ中立条約を結び、またソ連のスパイ・ゾルゲが日本政府の南方侵攻方針を連絡したことで、ソ連はシベリア東部に日本が攻め込まないことを確信し、兵力を欧州に移動、集中しドイツに勝利した。

ドイツと日本は三国同盟で同盟関係になりながら、その関係を敵対国に利用され、お互いに協力することもほとんどできなかった。誰がなぜこのような関係を作ったのか。

日本は、すでに連合国に参加し北方領土を占領し日本を攻撃することを決めていたロシアに講和の仲介を打診するなど、世界情勢を理解しない行動をとっていた。外交の恥さらしとも言えよう。戦時であるからこそ、困難な中で世界の情報を徹底的に調べ上げ、有効な戦略を立てるべき時だった。
日独関係
第一次大戦では日独は敵対国であり、日本は青島を攻撃占領し、さらに南洋諸島を占領した。南洋諸島は19世紀の末にイギリス、フランス、アメリカ、ドイツがとりあった。ドイツはニューギニアをイギリス・オランダと分け合い、さらにビスマルク諸島、マリアナ、マーシャル、カロリン、パラオの諸島を手に入れ、サモア諸島をアメリカと分割した。
第一次大戦がはじまると、1914年8月イギリスはドイツ領サモアを占領。9月ドイツ領ニューギニア、ビスマルク諸島など赤道以南のドイツ領南洋諸島を占領した。8月23日にドイツに宣戦した日本は、9月29日マーシャル諸島のヤルート島を砲撃し、陸戦隊を上陸させ軍事施設を破壊。続いてカロリン諸島のポナペ島、ヤップ島、パラオ島、トラック島を占領、さらにマリアナ諸島のサイパン島を占領した。「もっと知りたい日本の現代史」より

日中戦争前からドイツ顧問団は中国軍を強化していたし、上海戦ではドイツの助言で構築した近代的陣地を前に大変な苦戦で、大量の戦傷者を出した。ドイツ・中国の貿易は中国にとっては3番目に大きく、軍の交流も貿易に大きく関わっていた。

第一次大戦で敗戦国となったドイツ
「日中戦争はドイツが仕組んだ」上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ
​2008年12月   阿羅健一著 より

1919年6月28日、連合国との間でヴェルサイユ講和条約が締結。ドイツは領土の22パーセントを失った。東プロイセンは分離され、すべての植民地が奪われ、天文学的な賠償金を課せられた。ドイツ軍も骨抜きにされた。徴兵制は禁止、参謀本部と陸軍大学も廃止、陸軍は10万人、海軍は1万5000人に制限された。飛行機、戦車、重砲といった最新兵器も認められず。

このとき危機への対処を任せられたのがハンス・フォン・ゼークトである。ゼークトは、中尉で参謀本部開進課に勤務、軍団参謀長などを経て、第一次世界大戦が始まったときは中佐。1915年、同盟国トルコヘの連絡路を作るためセルビア攻略が立案され、参謀長として作戦を指導。この成功はゼークトの名を高め、その後、同盟国オーストリアの参謀本部に勤務し、大戦末期にはトルコ軍の参謀長として働いた。軍事的才能に溢れているだけでなく、明晰な頭脳は周りの等しく認めるところで、ヴェルサイユ講和会議が開かれると、軍事委員として出席した。

ドイツ軍の後始末を命ぜられたときゼークトは54歳、能力と序列からいって順当であり、陸軍省と参謀本部が廃止された今、ドイツ参謀本部の精神と機能を持った国軍をいかにして次の世代に引き継ぐか、それがゼークトの使命となった。モノクル(単眼鏡)を掛け、めったに表情を変えず、何を考えているかわからないことから、スフィンクスとあだなされていたゼークトであるけれど、深謀遠慮とともに、果敢に物事を進めていった。

1919年10月1日、ワイマール共和国が誕生し、軍文民の務める国防大臣が新設されると、ゼークトは噺国防大臣のもとに陸軍統帥部長官を設け、その下に四つの局を作った。陸軍統帥部長官には最高司令官

の役目を持たせ、陰のドイツ軍総司令官とした。隊務局には参謀本部の機能を与え、禁止されていた参謀本部の機能を潜りこませた。ゼーハクト自身は隊務局長に就任し、いわばワイマール共和国の初代参謀総長となった。四つの局のもう一つの軍務局には、やはり廃止された陸軍省の機能を持たせた。

このほか、さまざまな工夫をした。

軍事資料の収集と戦史研究のため、国立公文書館を新設、最高ポストに参謀本部戦史課長を当てた。

国土測量局長には参謀本部の地図課長を就任させ、それまでの任務を続けさせた。運輸省には鉄道課を移らせた。内務省には地図・測量課を移した。新しいドイツ軍に二つの集団司令部と十個の師団が作られ、七つの軍管区が置かれたが、廃止された陸軍大学の代わりに、これらの中で参謀教育を行った。

空軍については、運輸省民間航空局に陸軍飛行将校を押しこみ、1926年航空会社ルフトハンザを設立してパイロット育成を続けた。このように、連合国の軍事監視団をあざむいて、ドイツ参謀本部の精神が途絶えるのを防いだ。

将来の軍備拡大にも備えた。徴兵された多くの兵士より訓練を受けた少数の志願兵を重視し、その訓練に力を注いだ。師団長のもとに歩兵団長と砲兵団長が設けられると、参謀を置いて、将校の中の参謀比率を高め、制限が撤廃されたなら、ただちに数倍ものドイツ軍にできる仕組みを作った。

 

こうしてドイツ参謀本部の機能と精神は持続されたけれど、戦車、飛行機、重砲、化学兵器の禁止、という問題が残されていた。どの国の軍隊も、新しい武器を開発し、技術を習得し、それに応じた戦術を練ることが不可欠である。ゼークトはこの問題を海外に移転することによって解決しようとした。

革命が起こって連合国から離脱したロシアは、第一次世界大戦末期の1918年3月3日、ブレスト・リトフスク条約を結んでドイツと講和した。このためソ連は戦後のヴェルサイユ体制で中途半端な立場に置かれたが、重工業の建設が急がれるようになると、ドイツの機械工業に目をつけ、ドイツに協力を求めた。対してドイツは、ソ連を支援する代わり、禁止されている砲弾や化学兵器の製造をソ連国内で行い、ドイツ将校が飛行機や戦車の訓練をソ連国内で受けられるよう求めた。

秘密裡に交渉が進められ、1922年、ドイツとソ連の間でラパロ条約が結ばれた。翌年には秘密軍事協定が結ばれ、ドイツはソ連の重工業を支援し、将校もソ連の将校を教育する代わり、ソ連がドイツの砲弾を製造し、飛行機と戦車の訓練場を提供することに決まった。

ソ連とのこのやり取りはほかの国へと広がっていった。歩兵監リッター・フォン・ミッテルベルガー中将はトルコに渡ってトルコ軍の訓練をした。ボリビアに渡ったハンス・フォン・クントは、ボリビア軍を訓練して、パラグアイとのチャコ戦争を指揮するようになった。

ゼークトがこういった使命に適進している最中の1920年3月、カップ一揆が起こり、隊務局長を辞任した。カップ一揆は失敗し、そのとき座視するしか方法のなかった政府首脳は辞任を余儀なくされたのだが、隊務局長を辞任していたゼークトは、陸軍統帥部長官に就任することとなった。

1923年1月になると、ルール地方がフランスに占領され、ドイツ経済の混乱は拍車をかけた。九月、エーベルト大統領が非常事態を宣言したため、ドイツの行政権は陸軍統帥部長官に就任していたゼークトに移った。すると復員軍人たちの反逆やヒトラーのミュンヘン一揆が起こった。カップ一揆に中立の立場を取ったゼークトであったが、今度は鎮圧に動き、その対処によってワイマール共和国は崩壊をまぬがれる。非常事態が宣言されてからの半年間、ゼークトがドイツの舵取をしたのだが、それによりドイツ軍の中でゼークトの名声は揺るぎないものになった。それと共に新しいドイツ軍も確固としたものになっていった。

ヒンデンブルクは第一次大戦中に参謀総長を務め、ゼークト以上の経歴と国民的人気を持っていた。ヒンデンブルクが大統領になるのは自然の流れで、同じ.軍人であるヒンデンブルクが大統領に就任したことから、ゼークトの力は弱くなっていく。1926年、ドイツの元皇太子の長男が軍の演習に参加するのを許したという理由からゼークトは辞任を迫られる。こうしてゼークトは権力の中枢から去ることになるけれど、敗戦からの八年間、ドイツ参謀本部の精神と機能を持続させ、新しいドイツ軍を作りあげたのはゼークトだった。それとともにゼークトは、ドイツ軍の退役将校が海外へ出ていき、その国で軍事指導をする、という道筋もつけた。

1911年10月10日、中国 武昌で革命の火の手があがり、翌年2月12日、宣統帝は退位する。296年続いた清王朝は終わり、宣統帝はラスト・エンペラーとなった。取ってかわった中華民国で権力を握ったのは、度重なる弾圧をかいくぐって革命を指導してきた孫文ではなく、逆に清朝に高官として仕え、革命勢力を弾圧してきた衷世凱だった。辛亥革命が成功したのは、革命勢力が強かったからでなく、清朝に采配を振るう人物がいなかったからである。孫文はいったん臨時大総統に就いたものの、二か月後にその職を衷世凱に譲った。首都も南京から北京に移された。

孫文は第二次、第三次と革命を起こすが失敗して次第に疎外されていく。1916年6月、衰世凱は亡くなるが、哀世凱の持っていた権力を手にしたのは段祺瑞、馮国璋、曹錕、呉偑孚といった軍閥だった。孫文は南の広州で北京の様子を窺うしかなす術はなかった。

1919年7月、ソ連の外務人民委員(外務大臣)代理のカラハンがやってきて孫文と会った。ソ連と中華民国がまだロシアと清であった時代、中国に不利な条約が取り交わされていたのだが、革命直後のソ連はこれら条約の破棄を声明した。大正十年に世界の革命を指導したマーリンがコミンテルンを代表して、また1921年には駐独大使を務めてドイツ革命を指導したヨッフェが中国にやってくる。そのころの孫文は、広州に国民政府を建てて大総統を名乗ったものの内部から反乱が起こり、1923年2月、再び広州に軍政府を作っていた。

北京を目指す孫文にとってソ連はこの上ない味方となった。さらなる支援をソ連から得るには共産主義者と手を組まなければならず、1924年1月、孫文は中国共産党員が国民党に入るのを認める。国民党と共産党の第一次合作がなると、世界で革命を指導してきたボロディンが孫文の政治顧間となり、中華民国の憲法や国民党綱領の草案作成にまでかかわりだす。6月、赤軍にならって黄哺軍官学校が広州に設立された。校長には蒋介石が就いたが、軍事教練はソ連の教官団が行い、顧問団長にはブリッヘル将軍が就任した。ソ連は国民党の中に入り、強い影響力を持つようになった。

もともと孫文の革命勢力を支援してきたのは日本である。孫文が中国革命同盟会の結盟式を行ったのは東京であり、それ以来、宮崎酒天や頭山満ら多くの民間人が支援の手を差しのべてきた。ところが日本が衰世凱政権に二十一か条の要求をすると、ソ連が援助の手を差しのべ、革命をなしとげたソ連に対する畏敬もあって、孫文は日本よりソ連に頼るようになっていった。

​中国における外国人軍事顧問

中国では、清の時代から、省ごとに民政と軍政を扱う責任者が任命され、やがて軍政を握る者が民政も支配し、地方の独自性が高まっていった。衰世凱が亡くなると、各地で様々な軍閥が跋扈しはじめる。軍閥は税金を徴収し、税金で兵隊を養い、それが軍閥の地位を高めていった。衰世凱亡き後の北京政府は軍閥の合従連衡で、1920年代は五十余りの軍閥が中国で蹟雇していた。軍閥には様々な外国人が顧問としてかかわっていた。衷世凱を支援したのはイギリスであり、呉偑孚を支援したのはイギリスとアメリカで、アメリカは孫伝芳も応援した。ソ連は馮玉祥を応援し、日本は張作森を支援した。

1925年3月12日、孫文が死ぬ。孫文が悲願としていた北伐のため、翌年2月、蒋介石が国民革命軍の総司令に就いた。軍閥同様、軍政を握っている者こそ指導権を握る。それまで蒋介石は、孫文の方針に従って、国共合作が進められていた最中にソ連を訪れた。しかし、合作がなると中国共産党は国民党を切りくずし、ボロディンの後の顧問団長キサンガは北伐に反対し、蒋介石は共産党のやり方に納得いかないものを感じだしていた。1926年3月、蒋介石は広東で反共クーデタを起こし共産党と対決する姿勢を明らかにした。北伐を進めて南京を首都とした後、1927年4月には上海のゼネストを弾圧し、共産党を排除した。7月、国共合作は終わりとなり、六十名に及ぶソ連の顧問団は国民党から去っていった。

共産党を国民党から一掃したものの、北京を支配していた軍閥の巨頭張作森は蒋介石に攻勢をかけ、国民党の中の領袖からは反蒋の動きが起こる。1927年八月、蒋介石は国民革命軍総司令を辞任せざるをえなかった。批判の矛先を辞任によっていったんかわした蒋介石は、1928年1月、改めて総司令に就任した。国民党の実権を握るため蒋介石がなすべきことは、北伐を成功させることである。南京から攻めのぼった蒋介石は、六月北京に入城して北伐を完成させ、八月、南京で開かれた会議で国民政府主席に選ばれた。

蒋介石は国民党による中華民国の統一を一応は成し遂げたけれど、国民党の中には李宗仁、爲玉祥、閻錫山など蒋介石と対立する領袖がいる。李宗仁は広西省、馮玉祥は陳西省、閻錫山は山西省という地盤を持ち、税金を徴収し、軍隊を養っていた。

国民党と分かれた共産党も、1927年8月に南昌で暴動を起こし、同年12月には広州でも反乱して、1928年に入ると湖南省、広西省、福建省の一部にソヴィエトを作り、一定の支配地域を持つようになった。

国民党から去ったソ連の軍事顧問団は、中国共産党の軍隊を訓練しはじめていた。国民党内の軍閥と中国共産党に勝利するため、蒋介石はソ連に代わる軍事顧問団を必要としていた。

清朝末期、ドイツの軍人が招かれ、ドイツ式の訓練を行ったことがある。日清戦争で日本と戦った北洋艦隊の旗艦定遠や鎮遠はドイツ製で、旅順の要塞建設もドイツがかかわっていた。

こうしたことから孫文は、第一次大戦後、軍の近代化のため、ドイツの軍人を招こうとした。

蒋介石は1922年6月にドイツに留学しようとして孫文に止められたことがある。1927年8月、国民革命軍総司令を辞任した蒋介石は、9月末になって日本へ向かい、しばらく日本に止まって上海に戻ったが、日本に行った後はドイツで軍事学を学ぼうとした。ドイツから軍事顧問を受け入れることは蒋介石にとって自然な選択肢である。そんなとき、ぴったりの人間と蒋介石は会った。国民党の招きで広州にやってきたマックス.バウアー大佐である。

マックス・バウアー大佐は、中国の産業界を視察するよう朱家驊から要請されて広州に来たところで、招いた朱家驊はドイツ留学の経験を持ち、帰国すると北京大学教授となり、五.四運動を指導していた。そのころは広東の中山大学の教授を務め、後に交通部長(部長は日本の大臣にあたる)や組織部長を務める。蒋介石に近く、国民政府内の代表的なドイツ派というべき人物である。

マックス・バウアーは、ドイツ参謀本部のエリート・コースを歩んだ軍人で、参謀本部作戦課を皮切りに、第一次世界大戦が始まると西部戦線の参謀として働き、参謀本部に戻って作戦課兵器班長についた。新しい発想を持ち、科学技術を身につけ、たとえば420ミリ自走式臼砲の採用などを考えている。多くの著書を持ち、自信に溢れ、政治に野心を持った軍人だった。1920年、軍の一部が東プロイセンの郡総監ヴォルフガング・カップを首相にいだいてクーデターを起こす。このクーデターの中心人物の一人がマックス・バウアー大佐であった。ベルリンを占領して成功したかに見えたクーデターは、軍の全面的な支援を得ることができず失敗し、バウアー大佐は退役する。退役したバウアーはソ連、スペイン、アルゼンチンで軍事顧問として働き、国民党の招きで中国にやってきたところであった。マックス・バウアーに会った蒋介石は顧間就任を要請し、バウアーはこれを引き受けた。

1928年秋、いったんドイツに戻ったマックス・バウアーは、改めて三十人弱の将校とともに中華民国を訪れ、軍事顧問団を形成する。このとき、早速ドイツの新しい兵器が中国にもたらされた。

バウアーを団長とする軍事顧間団は直ちに黄哺軍官学校の軍事教練に着手した。翌二九年春になると李済深や李宗仁らが蒋介石と対立し、顧間団はこれら対立勢力に対する戦いの指導に当たった。この作戦指導中、マックス・バウアーは漢口で急死、ヘルマン・クリーベル中佐が後を継ぐことになった。

クリーベル中佐も優秀なドイツ将校で、第一次大戦中はルーデンドルフの幕僚として働き、ヴェルサイユ講和会議にドイツ代表団の一員として出席している。戦後、民間軍事組織である郷土防衛志願兵部隊が作られ、三十万人まで増えたとき、指揮を執ったのがクリーベルである。クリーベルはナチスの主要幹部の一人で、軍事面においてはヒトラー以上に権力を持っていた。ミュンヘン一揆でも重要な働きをし、一揆が失敗すると、ヒトラー同様五年の禁固刑に処せられている。このような経歴から、クリーベル中佐も中国軍の軍事指導にはうってつけで、顧間団長を一年五か月間務めた。

辞任したクリーベルから顧問団長を引き継いだのはゲオルク・ヴェッツェル中将である。

ゲオルク・ヴェッツェル中将もドイツ参謀本部のエリート・コースを歩んだ軍人で1930年8月、ヴェッツェルが三人目の顧問団長となり、まもなくして閻錫山と馮玉祥が蒋介石に対し反乱を起こし、蒋介石が彼らとの戦いに追われ、ヴェッツェルも戦術を助言し、蒋介石の要望に応えた。やがて、中国共産党に対する蒋介石の戦いが始まり、1931年6月の第三次掃共戦で蒋介石接指揮を執ることになると、軍事顧問団も蒋介石とともに南昌に赴いた。顧問団は共産党戦いにもかかわりだしたのである。

1932年1月に第一次上海事変が起こり、軍事顧間団の訓練した第八十七師八十八師が参戦した。そのときの二つの師(日本の師団とほぼ同じ編制、一個師は約一万)の活躍から、ドイツ軍事顧問団はがぜん注目されるようになった。その後、日本軍が熱河省に進攻し、万里の長城をはさんで中国軍との戦いになったとき、ヴツェル中将は中国軍の指揮を執った。五次掃共戦が行われることになると、ヴェッツェル中将はトーチカ建設による包囲作戦を石に進言し、1933年10月16日、これまでとは様相を一変した第五次掃共戦が始まる。ヴェッツェルが団長についたころ四十人ほどだった顧問団は、多いときには八十人近くにまえた。軍事顧問団は国民党内の軍閥や共産党だけでなく、日本軍との戦いにもかかわるよなった。

ゼークト大将はヴェッツェル中将の三代前の隊務局長を務め、1930年から32年にかけてドイツ国家人民党から国会議員。1933年ヴェッツルから手紙を貰ったフォン・ゼークト大将は、とりあえず中国を訪れることにし、八月に帰国する三か月間、北支の実地踏査を行い、蒋介石に対して意見書を提出した。

「ドイツ製の武器で武装した近代的軍隊の建設をすべき」

「近代的な軍隊は権限を集中しなければならず、いったん(部下に)権限を委譲した場合すべての権限を与えなければならないが、中国の軍隊はそれが欠けている」と指摘した。また、このとき、

「一国だけを敵として、ほかの国とは親善政策を取ること」をすすめていた。

蒋介石はゼークトの顧問就任を強く要請した。ゼークトがドイツに戻ると、今度はヒンデンブルク大統領とマッケンゼン元帥がゼークトに任をすすめた。ベルサイユ条約で、外国との軍事援助にかかわることが禁止され、これまで団員は個人の資格で中国政府と契約し、ドイツ政府は関与していない姿勢を取っていたが、このころから公然とドイツとして援助にかかわるようになった。1934年四月、ゼークト大将は再び中国を訪れ、ヴエッツェル中将に代わって顧問団の団長についた。このとき、これまでの団長と違い中国軍事委員会の総顧問にもついた。軍事委員会は、蒋介石が委員長を務め、中国政府の中で最も強い権力を持っている。蒋介石が南京を空けている間、ゼークトは、南京軍官学校の委員長官邸で、蒋介石に代わって軍と政府に各種の命令を発する権限も与えられた。

1933年6月、はじめてゼークトが中国を訪れたとき、ハンス・クラインが同行した。ハンス・クラインは、退役大尉で、第一次世界大戦前から武器商人として活躍していた。戦後、ドイツとソ連との間に提携が進められたとき、条約による提携を進めたのがゼークトであり、そこから生まれた貿易に従事したのがクラインだった。中国訪問中、クラインは南京政府と広東政府の双方と武器工場の建設について契約を結び、ゼークトはドイツ軍事顧問団と独中貿易について話し合った。このことで独中貿易はこれまでないほど進展が見られるようになった。

ドイツが特に輸入したかったのはタングステンだった。タングステンは、特殊鋼の生産に必要な戦略的鉱物だが、ヨーロッパやアフリカでは全く産出されず、埋蔵量において中国が最大量を誇っていた。中国共産党が支配している中国南部も主要な産出地で、そこでは毛沢東の弟の毛沢民が責任者となり、産出したタングステンを広東政府に売っていた。これらのタングステンもクラインを通してドイツに渡るのだが、クラインは南京政府とも交渉した。

帰国したゼークトはドイツ国防軍と協議した。近代化を目指す中国軍は、ドイツ製の武器が必要で、さらにドイツの機械や工業製品も欲しがった。一方、再軍備を進めるドイツはタングステン、鉱物、桐油など中国の産出する原材料を必要としていた。外国為替の不足に悩むドイツはバーター貿易を進めざるをえない。中国も全く同様である。蒋介石の希望する軍備増強のため、バーター貿易が急激に増大すると考えられたが、ドイツ軍部と産業界は全面的に賛同した。

ゼークトが帰国するときクラインも帰国し、翌1934年1月、クラインは貿易会社ハプロ(工業製品貿易有限会社)をベルリンに設立した。ドイツに戻ったゼークトとクラインの根回しにより、軍事顧問団は貿易から手を引き、軍事顧問団のかかわってきた貿易関連はハプロが担当することになり、独中貿易をさらに促進させることになる。同年3月、ゼークトが改めて中国を訪れ、クラインも同行した。8月23日、ハプロと中国の間で物資交換条約が結ばれ、トラック工場の設立、鉄道の敷設が決まった。

ゼークトが団長に就任すると、次々と変革が進められていった。

国軍編制会議では今後三年間にドイツ製武器を装備した二十個師の編制が決まった。

模範となる部隊としての教導総隊が創設された。

毎年一回、各兵科連合の演習が行われだした。

数多くの教育機関も設立された。中央士官学校、陸軍大学校、歩兵学校、憲兵訓練学校、化学戦学校、防空学校などが南京に次々と設立された。南京城外の丘陵地帯は一大軍事教育拠点となった。さらに杭州には航空士官学校、福建省には海軍兵学校が設立された。

中国軍の士気は高まった。装備も近代化され、戦術にも長けるようになってきた。

第五次掃共戦の実行にあたって、ゼークトはヴェッツェル同様の包囲作戦を主張した。それまでの掃共戦では、中国軍は共産軍のゲリラ戦に手を焼いたが、この時はヴェッツェルとゼークトの進言で、中国軍は共産軍を包囲し、強力なトーチカを建設して、共産軍の弱体化を待つ作戦をとった。この作戦は見事に成功し、第五次掃共戦はこれまでにないほど順調に進んだ。

1935年三月、病気のためゼークト大将は帰国した。翌年十二月に死亡したとき、ドイツで準国葬の扱いを受けた。中国では厳粛な慰霊祭が行われた。南京にいた中国軍将領のほとんどが参加し、何応欽軍政部長が蒋介石の代理として出席した。

アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将が、ゼークト大将の推薦で五人目の顧間団団長に就任することになった。ファルケンハウゼン中将もやはりドイツ軍のエリート将校であり、1900年に北京で起こった義和団の乱に従軍、1910年から14年までは大使館付き武官として日本にも滞在した経歴を持っている。第一次世界大戦ではトルコ駐屯軍司令官に就き、戦後はドレスデン歩兵学校長を務め、1930年に中将で退役していた。1935年1月に再び中国を訪れ、顧間団長代行に就任するとともに、「中国国防基本方針」を蒋介石に提出、3月にゼークト大将が帰ると団長に就任した。ゼークト同様、ファルケンハウゼンも蒋介石の信頼を受け、軍事委員会の総顧問に就任した。

ゼークトのもとで決められた中国軍増強三か年計画は終わり、1936年、ファルケンハウゼンのもとで、新たに、近代化された六十個師(約六十万人)を再編し、さらに別の六十個師を近代化することが決められた。

 

1936年1月、南京政府の訪独団がドイツを訪れるが、彼らは二千トンのタングステンを用意した。訪独団はヒトラー総統はじめ国防大臣のブロムベルク、経済大臣シャハトらと会見した。

4月8日、経済大臣シャハトと財政部長孔祥煕の間に一億ライヒスマルクの借款貿易協定が結ばれた。中国に軍事工場を設立するため、ドイツが巨額の資金を貸し付ける協定で、これにより単なる私企業ハプロと中国との間に締結された契約は公的な協定となった。七月に入ると中国は重工業建設三か年計画をスタートさせ、クルップ(ドイツ最大の兵器製造会社)とシーメンス(ドイツ最大の電機メーカー)の協力する中央鋼鉄廠、ドイツの援助による各地の兵器工場、イー・ゲー・ファルベン(巨大化学メーカー)の援助による爆薬関係研究所、ダイムラー・ベンツの技術援助による中国初の国有自動車会社などの建設計画を進めた。1931年、中国から見た輸入貿易量の国別比率でドイツは5パーセントで、アメリカ、日本、イギリスに次ぐ順位であった。その後ドイツの貿易量は毎年伸び、1936年には16パーセントとなり、イギリスを抜いて日本と並び、ほぼ戦前の水準までに回復した。

1934年、上海・南京間の陣地構築が始まったが、1936年には陣地構築が急ピッチで進んだ。

上海西北80キロメートルの福山・呉県間にトーチカ群が構築されたが、これは呉福線と呼ばれ、やがてこの陣地は、上海の特別陸戦隊を攻撃するときの拠点となり、日本軍が南京に向かってくるときの防御陣地ともなった。呉福線のさらに西北40キロメートルの江陰と無錫の間にもトーチカ群を設け、呉福線が破られたら、ここで阻止しようと作られ、この陣地は錫澄線と呼ばれた。これらは鉄筋コンクリート製、出入り口は鉄の扉というトーチカを中心に周りに掩蔽壕を持ち、なかには周囲100メートル、200メートルの巨大なトーチカもあり、いたるところにクリークが流れて堀のようになっていた。

中国共産党は第五次掃共戦で壊滅状態となった。いよいよ次は日本である。対日戦の準備が進められ、高射砲と防空組織の造成、上海.南京間の陣地構築、南京城の要塞化に力が入れられた。

こうした中、驚愕すべき事件が起こった。1936年12月12日、蒋介石が西安で張学良によって監禁される事件が起こったのだ(西安事件).解放に向って話合いが行われる中、16日、首都南京では強硬論が強くなって張学良討伐が決まり、何応欽が総司令に選ばれた。

このときファルケンハウゼンは、ドイツ式訓練を受けた二個師とドイツの顧問をつけた戦車一個旅団で反乱軍を奇襲、共産党に対しては爆撃によって進出を抑え、蒋介石の釈放を求める、という計画を提案した。実際には何応欽の攻撃命令が出されることも、ファルケンハウゼンの計画が採用されるまでもなく、26日、蒋介石は無事南京に戻ったが、このことからわかるように、このころ顧問団は中国政府と一心同体のごとくになっていた。

1927年のバウアー大佐訪中以来、ドイツ軍事顧問団は中国軍を訓練し、装備を近代化し、軍閥と中国共産党との戦いでは作戦を指導した30名で始まった顧間団は1937年5月に100名を超えるまでになった。

1938年2月5日、広田外務大臣は改めてディルクセン駐日大使に武器輸出の停止を迫った。

4月27日、とうとうゲーリング元帥は武器輸出を今後禁止すると決定、5月3日から実施されることになった。武器輸出の停止が決まると蒋介石は、「イタリアですら発注済みの武器輸出を撤回したことはない」と批判した。5月5日、広田外相はドイツに対して二度目の抗議を行った。ドイツは輸出禁止を決定したが、それで解決したわけではなかった。前年9月、ゲーリング元帥は四か年計画の責任者に任命され、四か年でドイツを自給自足できる態勢に作りあげる任務を背負った。輸出を禁止したものの、既にまとまっている契約だけで二億八千二百万ライヒスマルクもあり、輸出できなくなればドイツ軍需産業は甚大な打撃を受け、その存在まで脅かされる。実行されなければ、昭和十三年だけに限っても、ドイツは現金、外国為替を合わせ、一億ライヒスマルクを失って、軍備のため必要な原料を買いつけることができなくなる。そのため、実際は、昭和十二年八月以前の契約に基づく武器輸出は認められることになったのである。しかし、リッベントロップ外務大臣は、契約済みのものであっても輸出禁止を主張した。とうとうゲーリング元帥が折れ、6月15日、ようやく、すべての対中武器輸出が禁止されることとなった。

4月22日、ドイツ外務省から駐華大使トラウトマンに命令が来た。「顧間団にただちに帰国するよう伝えよ」この時点で二十四人のドイツ将校と七人のドイツ官吏が蒋介石のもとで働いていた。

ヴァイツゼッカー次官はベルリンの中国大使に「顧問団の存在はドイツが中国の戦争遂行に協力している印象を世界に広めている」と伝えざるをえなかった。

6月21日、とうとうドイツは中国に対して最後通牒を発した。「6月23日まで全員が帰国の途につくことを中国が認めると声明し、実行しなければ、大使は即座に帰国する」

トラウトマン大使は中国側に、「顧問団の引き揚げがうまくゆかなければ、両国の関係はただちに断絶する」

1938年6月24日、とうとう顧問団は事務所を閉鎖し、蒋介石の許可が下りる下りないにかかわらず帰国することを決定した。6月28日、トラウトマン大使が召喚された。

最後になって、蒋介石は顧問団のためお別れパーティを盛大に開いた。

7月5日、屋根にハーケンクロイツが描かれた特別列車は、香港に向けて漢口を出発した。

ドイツ顧問団
ファルケンハウゼン将軍
日独関係
外国人軍事顧問

1940年5月9日、突然、ドイツ軍は西部戦線で攻勢に出た。数日後に機甲兵団はルクセンブルクを越え、15日にオランダを占領、28日にはベルギーも陥落させた。そのままフランスに向かい、6月14日にパリを占領、22日、フランスとの間に休戦協定を締結した。ドイツ軍の電撃作戦は、日本を含めて世界を震憾させた。これら占領地域の駐屯軍指揮官を命ぜられたのがファルケンハウゼンである。5月22日、ベルギー・北フランス地区司令官に任命され、同時にオランダ地区の司令官も命ぜられた。さらに4日後、ルクセンブルクの司令官も兼任した。
ファルケンハウゼンが軍司令官となって二年目の1942年1月、ハッセル元イタリア大使がブリュッセルにやってきて、彼の抱いているヒットラー暗殺計画をファルケンハウゼンに話した。七月二十日、いよいよ暗殺計画が実行される。爆弾が破裂、会議室は壊れ、窓から吹き飛ばされた人も出た。何人もが死んだが、ヒトラーは助かった。
事件から9日後の7月29日、ヒトラー暗殺計画に関与したとしてファルケンハウゼンはゲシュタポに逮捕された。暗殺計画は、個別に秘密裡に進められていたため、全容は誰にもわからなかった。ファルケンハウゼンが逮捕されてひと月後、ロンメルが関与していることも明らかになったが、国民的英雄の処刑をヒトラーは躊躇した。10月14日、ロンメルは自決する代わりに、以前に負った傷で逝去したと発表され、国葬にされた。
ファルケンハウゼンはダッハウ強制収容所などで監禁されつづけた。そのうち元国立銀行総裁で経済相のシャハト、元参謀総長などと処刑されることになった。処刑寸前の1945年5月4日、アメリカ軍によって彼は救出され、処刑をまぬがれた。それはヒトラーが自決して四日後だった。その後、ファルケンハウゼンは戦争捕虜として1948年まで連合軍に収容され、ベルギーに引き渡され、戦争裁判にかけられた。1951年三月、ファルケンハウゼンに、ブリュッセルで約二万五千人のベルギーのユダヤ人を国外追放し、ベルギー人の人質を処刑したとして十二年の懲役判決が下った。ファルケンハウゼンがオランダの軍司令官を務めていたときの行政長官はすでにニュルンベルク裁判で絞首刑となっていた。
しかし、長年の拘留期間が考慮され、ファルケンハウゼンは三週間後に釈放された。
この間、ファルケンハウゼンは、支那事変三周年目に抗日戦を称賛する書簡を蒋介石に送っていた。蒋介石はファルケンハウゼンの裁判に尽力し、彼の家族へ経済援助をした。1958年のファルケンハウゼン八十歳の誕生日には、台湾に逃げのび支配者となっていた蒋介石は三千ドルの小切手を贈ったという。

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英国はなぜ蒋介石を援助し続けたのか?

英国 X ドイツ 英国はドイツに負ける恐れがあり米国の参戦が必要 中国 X 日本  中国は単独では日本に勝てない、米英参戦必要             

      中國と日本が停戦すれば米国が参戦しない惧れ          
         英国にとっては日中停戦は困る → 中国援助
      
      日本が中国を理由に米国に宣戦すれば            
         日本と同盟関係のドイツが米国に宣戦​          
         英国の望むところ

日本 Ⅹ 米国 X ドイツ    
       英国                
         ドイツの敗戦 = 英国の勝利         
         日本の敗戦  = 中国の勝利     
           〃    = 英国植民地の回復

ソ連 X 日本  明治時代から日露戦争を含み中国東北で権益衝突
中國                           ソ連は中国共産化に意欲     
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