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香港
 アヘン戦争の講和条約として1842年に締結された南京条約で香港島がイギリスに割譲されイギリスの直轄植民地となった。
 第2次アヘン戦争とも言われるアロー戦争では、清朝はイギリス・フランス連合軍に敗れ、1860北京条約では対岸の九竜半島の南端部がイギリスに割譲された。イギリス占領直後から都市建設が始まり、アヘン貿易と中継貿易の基地として繁栄していく。
 帝国主義段階にいたり、中国分割が進む中で、1898年6月9日、まだイギリス領となっていなかった九竜半島(新界)とその周辺の島嶼をイギリスが99年間租借することとなり、さらに発展し「新界」が形成された。これで香港島と九竜半島全域からなる現在の香港全域がイギリスの支配下に入った。九竜半島北部の99年間の租借が終わる1997年に、香港全土が中国に返還されることとなる。

 イギリス植民地としての香港はイギリス資本主義のアジア進出の拠点とされ、中国産の商品を欧米に輸出し、欧米の商品を中国市場に販売する大貿易港として発展した。さらに、東南アジア地域の物品が集積され、欧米にもたらされるという中継貿易地となり、同時にイギリス系銀行による金融が盛んになった。
 香港を外国貿易港として繁栄させたのは、中国人の海員・港湾労働者の安価な労働力であった。彼らはしばしばイギリスの海運業・貿易業者に対して労働条件の改善を要求したが、彼らを労働組合に組織し、ストライキに立ち上がらせたのは、1921年に結成された中国共産党であり、香港や広州の労働者がその活動基盤となった。1922年1月、海員の労働組合である中華海員連合会は労働条件改善と賃上げを要求してストライキに入り、そのため香港の港湾機能はマヒし、イギリス資本は打撃を受けた。イギリスは軍隊を上陸させて労働者に銃を向け、犠牲者が出たが、労働組合は屈せずにストを続け、8週間目にイギリスが要求を呑んで収束した。イギリス植民地支配に対する最初の抵抗運動でもあった。
 
1925年5月、上海でイギリスの租界警備隊による中国人労働者に対する虐殺事件をきっかけに五・三〇運動が始まると、19256月には広州に飛び火し、イギリス・フランスの租界守備隊がデモ隊に発砲して52名の労働者が殺害された。香港の労働者もストライキに起ち上がった。国共合作下の広東軍政府は労働者糾察隊を組織して香港を経済封鎖した。省港ストといわれたこのストライキは、1926年10月まで16ヶ月にわたって続けられ、「東洋の真珠」といわれた香港は、「臭港」、「死港」と化すという事態となった。
 この上海に始まった五・三〇運動での広州・香港の省港ストは、帝国主義諸国の中国支配に対して、中国民衆が初めて示した本格的な抵抗運動であり、イギリスは大きく動揺した。外国資本とそれと結びつく中国の民族資本はその後、中国のナショナリズムと共産主義の結びつきを抑えるため、国民党内の右派に働きかけ、1927年に蔣介石による上海クーデタが実行されることになる。
​世界史の窓 香港より
1931年秋の満州事変を契機にイギリスは香港の防備の強化を決定し、1936年に九龍半島中央部一帯の要塞ジン・ドリンカーズ・ラインen:Gin Drinkers Line)が完成した。
1941年12月8日朝、真珠湾攻撃と同時刻に第23軍飛行隊は啓徳飛行場のイギリス軍機に対して航空第一撃を加えた。第23軍各部隊も順次国境を突破して前進した。酒井軍司令官は九龍要塞ジン・ドリンカーズ・ライン主陣地への組織的攻撃を意図し、各部隊に準備を命じた。
9日夜、第38師団戦闘指揮所へ、歩兵第228連隊から「標高255ニ拠リ頑強ニ抵抗スル敵ニ対シ夜襲シ奮戦約三時間ニシテ2330之ヲ占領セリ」という内容を含む電報が届いた。歩兵第228連隊長土井定七大佐は後方で敵情地形を偵察していたが、城門貯水池南側高地に対する夜襲を考えた。南側地区は自己連隊の責任外地域であったが、土井連隊長は、イギリス軍に隙があるのならば、奇襲をもって敵陣地を奪取したいとの願望を密かに抱いていた。
9日夜、土井連隊長は第3大隊に夜襲の決行を命じた。20時30分、若林東一中尉の率いる第10中隊は255高地のイギリス軍陣地に突入し、3時間の戦闘の末これを奪取した。土井連隊長の独断専行を知った佐野師団長以下師団司令部は激しく動揺し後退を命じたものの、土井連隊長は司令部からの電話を切ってしまった。若林中隊はさらに前進し、10日1時には341高地まで占領した。
酒井軍司令官は急報を聞き激怒したが、この際、この機に乗じて所定の準備期間を待つことなく攻撃を開始しようと決断した。第1砲兵隊は準備未了の状態であったが10日午後から砲撃を開始しイギリス軍の主要な砲兵陣地を制圧、右翼の歩兵第230連隊も11日未明から攻撃前進を始め、同日昼までにジン・ドリンカーズ・ライン西側の主防衛線である366高地と256高地を占領した。11日12時、イギリス軍は香港島への撤退を発令した。
九龍半島での掃討戦は13日までに終了した。
軍司令部では、土井連隊長の独断専行について軍法会議に付すべきとの声もあがったが、「若林中尉が、前線を偵察中に偶然敵兵力配備の欠陥と警戒の虚を発見し、挺進敵陣地に突入しこれを奪取した」とすることで収拾が図られ、支那派遣軍総司令部および大本営に報告された。若林中尉には後に感状が授与され、「斥候中の挺進奪取」という話は流布した。若林中尉は1943年1月にガダルカナル島で戦死した。
九龍半島を占領した日本軍に対して、イギリス軍は香港島と洋上の艦船から砲撃を浴びせた。日本軍では九龍要塞の攻略で戦闘は終わると予想し、香港島攻略の具体的な計画は考えていなかった
14日から日本軍は香港島へ向けて砲爆撃を開始し、第1砲兵隊は九龍半島対岸の海岸要塞に向けて3日間で2,000発を打ち込んだ。しかし島の南側の要塞はほとんど手付かずであった。
九龍及び大全湾付近より香港島北角付近へ、左翼隊(歩兵第229連隊基幹)が鯉魚門方面から同島北東部へ上陸する作戦であった。18日20時準備射撃を開始。20時40分第1波が離岸し、21時45分奇襲上陸に成功した。第2波は19日払暁までに渡海を完了し、香港島北東部を確保した。
20日、ニコルソン山の要塞を攻撃した日本軍右翼隊は同日夜にこれを占領したものの死傷者は600名に及んだ。左翼隊も山麓の香港ホテルに陣取るイギリス軍の猛射を受け前進できなくなった。赤柱半島でも激戦となった。赤柱半島は付け根の正面がわずかに250メートル、縦深3キロに及ぶ半島で、海岸砲台や高射砲陣地を備え鉄条網を張り巡らせ、約1,500名が守備する要塞地帯であった。日本軍は2個大隊と砲兵をもって攻撃をかけたがどうしても攻略することができなかった。
21日、日本軍はニコルソン山中において貯水池を発見した。数人の中国人が給水施設を動かしていたが直ちに停止させ、たちまち香港市街は全面断水となった。同日、ようやく日本軍はニコルソン山の南北の線に沿って戦線を構築し、22日には香港ホテルを奪取してイギリス軍を東西に分断した。
さらに数日激戦が続き、第23軍将兵が前途なお多難の戦闘を覚悟しつつあった25日17時50分、香港島西部の陣地にあったヤング総督とマルトビイ少将が遂に白旗を掲げた。19時30分、日本陸海軍司令官は停戦を命じ、ここに香港の戦いは終わった[8]。この日は香港人に「黒いクリスマス」と呼ばれている。
降伏の交渉は日本軍が司令部を置いていた「ペニンシュラホテル」の3階で行われた。香港島内における戦いで、日本軍は戦死683名、戦傷1,413名を出した。イギリス軍の戦死は1,555名、捕虜は戦闘間1,452名、戦闘後9,495名であった。
香港攻略戦で捕虜となったイギリス軍は11,000名。内訳はイギリス人が5,000名、インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。捕虜の証言によれば、イギリス軍は半年間は持ちこたえる構えで食糧弾薬等を準備していたという。だが香港はわずか18日間で日本軍によって攻略された。
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