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15年戦争
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1942/4/18 - 1943/11/1
本土空襲 ミッドウェー海戦 ガタルカナル島の戦い
太平洋戦争第一段階の南方作戦が完了した後の作戦はなにも考えられていなかった。戦争開始前から、開戦後すぐなら米軍に勝てるが、その後は勝算がなかったのだから、南方作戦で開戦目的の石油確保ができた後は速やかに停戦すべきだったのに、戦線拡大に進んだ。停戦することに集中せず、なおも第二段階の作戦を進めようとした。南方作戦で獲得した占領地の防備のために米豪の連絡遮断と早期終戦を目指したハワイ占領を目的とした第二段階作戦。(しかし、ハワイ占領は実際的ではないと考えられた。)
1942年5月、東部ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)。6月、ミッドウェー攻略作戦(MI作戦)、アリューシャン攻略作戦(AL作戦)。7月、フィジーおよびサモア攻略作戦(FS作戦)が建てられた。
1942年1月23日 南洋部隊(井上成美中将第四艦隊司令長官)ニューブリテン島のラバウルとニューアイルランド島のカビエンを占領。ラバウルは連合艦隊の拠点トラック島(現在のチョーク諸島)攻撃に最適なためトラック等防衛のために確保することが必要だった。
ポートモレスビー攻略作戦
1942年1月29日連合艦隊はラエ、サラモア、ツラギとニューギニア南東岸にあるポートモレスビーの攻略作戦を決定。
3月8日南洋部隊は第六水雷戦隊(旗艦夕張)がラエ、サラモアを占領
直後の3月10日朝、空母レキシントンとヨークタウンを基幹とする米軍機動部隊がラエとサラモアに航空攻撃を敢行、日本軍は所在艦船18隻中、艦船4隻沈没、中破小破14隻、戦死130名という損害を出した。
ポートモレスビー攻略を1か月延期。5月下旬実施。
4月30日ラバウルから攻略部隊が出撃、5月3日軽空母「祥鳳」支援のもとツラギ占領、水上基地設営。
5月5日ポートモレスビー攻略を目指して珊瑚海に進出する日本軍の計画を、暗号解読によって知った米空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)ツラギを攻撃。日本本土空襲のホーネット、エンタープライズも真珠湾で補給を終えた後、珊瑚海へ派遣(開戦には間に合わず)駆逐艦菊月撃沈。
5月7日井上成美中将、南下中のポートモレスビー上陸船団をUターン。陸上航空兵力で米機動部隊子劇を試みるも発見できず。米軍、輸送船団発見。レキシントン雷撃機隊、ヨークタウン攻撃隊の攻撃で護衛空母「祥鳳」沈没。
珊瑚海海戦
5月8日早朝、日本軍、米空母発見、攻撃。レキシントン爆弾、魚雷各2発命中撃沈、ヨークタウン’爆弾1発命中。
米軍、日本空母攻撃。「瑞鶴」スコールに逃れるが「翔鶴」爆弾3発命中。飛行甲板使用不能、退却。
日米双方とも、空母1隻を失い、艦艇攻撃のみならず多くの空戦で多数の死傷者を出した。特に日本軍は多くのパイロットを失った。
連合艦隊は海からのポートモレスビー攻略を断念。
これまでと異なり、戦果が水増しして大本営発表が行われるようになった。
過大戦果発表や自軍損害の秘匿は連合国側でも行われた。
5月8日の戦闘では、米軍(レキシントン、ヨークタウン)と日本海軍の空母2隻(瑞鶴、翔鶴)が攻撃を交わした。この海戦は対抗する両艦隊が互いに相手の艦を視界内に入れずに行われた、歴史上最初の海戦となった。
空母翔鶴
空母祥鳳
空母瑞鶴
空母レキシントン
空母ヨークタウン
5月7日-8日の珊瑚海海戦において、日本側は軽空母祥鳳が沈没、翔鶴が大破、瑞鶴も航空隊の被害甚大で、翔鶴の修理と航空隊の再建には三ヶ月が必要と見込まれた。連合軍側は空母レキシントンが沈没、ヨークタウンが損傷した。
5月12日、連合艦隊命令作第14号により、ミッドウェー作戦とアリューシャン作戦の詳細な作戦要領が下令された。5月14日、五航戦から珊瑚海海戦の戦死者の報告が送られ、翔鶴と瑞鶴の両艦とも次期作戦に使えないことが判明した。
5月28日、第一機動部隊は第一航空戦隊(赤城・加賀)・第二航空戦隊(飛龍・蒼龍)・第三戦隊第2小隊(榛名・霧島)・警戒部隊(軽巡洋艦長良・第4駆逐隊〈嵐・野分・萩風・舞風〉・第10駆逐隊〈秋雲・夕雲・巻雲・風雲〉・第17駆逐隊〈谷風・浦風・浜風・磯風〉)・燃料補給部隊として内海西部を出撃する。空母4隻、260機の艦載機、戦艦2隻、重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻、
米軍は空母3隻(エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウン=珊瑚海海戦で損傷していたため修理工を乗せて進軍)232機の艦載機、重巡7隻、軽巡1隻、駆逐艦14隻、潜水艦20隻、陸上基地航空機101機
真珠湾攻撃で生き残った米軍空母は太平洋各地で日本軍に対し、一撃離脱でかく乱した。広い太平洋で日本軍は米軍を索敵することが困難であり、米軍の太平洋の最大の根拠地であるハワイを攻略することで停戦に持ち込むことを考えた。これには強い反対もあった。ハワイ攻略に進む前にミッドウェーを攻略することが計画された。
山本五十六長官と参謀長の宇垣纒の目標は米機動部隊の撃滅であった(ミッドウェー攻略は機動部隊をおびき出すため)が、実戦部隊の南雲中将はあわせてミッドウェー島攻略の二兎を追うものという齟齬があった。
5月11日頃、米軍は日本軍の暗号解読などで、日本軍のミッドウェー作戦を把握した。さらにアッツ島、キスカ島の攻撃も見抜いていた。
5月26日日本軍暗号変更。
6月4日4:30(日本時間6月5日)日本軍、ミッドウェー島米軍爆撃
5:34ミッドウェー島米軍偵察機、日本艦隊発見
7:10ミッドウェー島米軍機、日本艦隊を数度にわたり攻撃開始
07:15日本軍 第二次攻撃のため雷撃から爆装に転換
07:40筑摩零式偵察機利根4号機 米艦隊発見
09:20米軍艦載機日本艦隊上空到達 爆装から再度、雷撃に転換中の空母に命中した爆弾で誘爆起きる
12:05日本軍ヨークタウンへの最初の攻撃 14:30 2度目の攻撃 15:00乗員退避
19:13空母蒼龍沈没、711名戦死
19:25空母加賀沈没811名戦死
6月5日02:00空母赤城日本軍駆逐艦で処分267名戦死
23:30空母飛竜日本軍駆逐艦が処分392名戦死
6月7日空母飛竜の攻撃隊による雷撃を受け、曳舟にひかれて真珠湾に向かっていたヨークタウンは伊168潜水艦によって撃沈86名戦死、同時に発射された魚雷で駆逐艦ハムマン沈没84名戦死
この他日本軍は重巡三隅沈没700名戦死、航空機289機喪失、米軍は、航空機約150機喪失
Movements during the battle, according to William Koenig in Epic Sea Battles
この作戦後、山本連合艦隊長官やその幕僚の責任は問われず、一航艦も長官南雲忠一、参謀長草鹿龍之介は一航艦の後継である第三艦隊の指揮をそのまま受け継いだ。しかし、それ以外の一航艦の幕僚は全て降ろされ、また士官も転出させられた。開戦時に山本長官は「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持できるが、それ以降はアメリカの国力が日本を圧倒する」と述べ、短期決戦早期講和を目指していたが、当作戦の失敗、大敗北により発言力を失った。また実質短期決戦は不可能となったため、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換せざるを得なくなった。ミッドウェー海戦直後の参謀本部への説明の中でも、軍令部は「主力空母が2隻(翔鶴、瑞鶴)では守勢の外はない」と述べている。しかし国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵など全ての拙劣さにより喫した敗北だったにも拘らず、事後に作戦戦訓研究会は開かれず、国民にもこの敗北は伝えられなかった6月5日-6日にかけてのミッドウェー海戦で、第一機動部隊は空母4隻(赤城・加賀・飛龍・蒼龍)と母艦搭載全飛行機285を喪失した(搭乗員は8割が生還)。
日本海軍が保有する空母は正規空母2隻(翔鶴・瑞鶴)、商船改造大型空母2隻(隼鷹・飛鷹〈7月竣工予定〉)、軽空母3隻(龍驤・瑞鳳・春日丸)に減少し、飛行機搭載数の多い攻撃用空母は4隻(翔鶴・瑞鶴・隼鷹・飛鷹)という状態になった。戦訓から大型空母2(攻撃専念)・小型空母1(警戒)で航空戦隊を編成し、対空母航空決戦に徹すること、機動部隊を建制化して部隊内の思想と訓練の統一を図ることになる。7月14日、連合艦隊の戦時編制改訂にともない第一航空艦隊は廃止され、第三艦隊として再出発した。
赤城 加賀
飛竜 蒼龍
エンタープライズ ホーネット
1942年
4月18日 米空母ホーネットから発進したB-25爆撃機16機によるドーリットル空襲(東京など初空襲)。
被害は僅少。しかし、政府と軍部には大きな衝撃。ミッドウェー作戦に繋がる。・
5月3日 日本軍、ソロモン諸島ツラギ占領(第二段階作戦の内MO作戦始まる)。
5月4日 日本軍、英領ビルマのアキャプ占領、ビルマ制圧完了。第一段作戦南方作戦完遂。
5月7日-8日 米領フィリピン・コレヒドール島の米軍降伏。
珊瑚海海戦(日本軍、ポートモレスビー攻略作戦を放棄)。
5月10日 日本軍、ミンダナオ島を占領。
5月29日 日本軍の特殊潜航艇、
マダガスカル島のディエゴ・スアレスのイギリス軍基地を攻撃
(マダガスカルの戦い)。
5月31日 日本軍の特殊潜航艇、オーストラリアのシドニーのイギリス軍
艦艇を攻撃(特殊潜航艇によるシドニー港攻撃)。
6月5日-7日 ミッドウェー海戦。
日本軍は赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4空母と艦載機390機を失う大敗。
米空母の損失はヨークタウンのみ。
第二段階作戦の挫折=米軍の反攻(開戦から僅か6カ月)
6月7日 日本軍、米アリューシャン列島キスカ島に上陸、占領。
6月8日 日本軍、アリューシャン列島アッツ島に上陸、占領。
6月16日 日本軍、ニューギニア島ポートモレスビーの連合軍基地を空襲。
6月20日 伊26潜、バンクーバーのカナダ軍基地を砲撃。
6月21日 伊25潜、オレゴン州アストリアの米軍基地を砲撃。
7月 日本軍、フィリピン全土占領。
7月18日 - 日本、ポートモレスビー攻略作戦開始
8月6日 - 日本、遣独潜水艦作戦開始8月 イギリス領インドで反英暴動。
8月7日 米軍、ソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸
(ガダルカナル島の戦い、連合軍の本格的反攻始まる)。敗戦まで約3年
8月8日 第一次ソロモン海戦
8月17日 アメリカ軍、マキン奇襲上陸
8月21日 - 日本軍によるガダルカナル島の飛行場奪還作戦イル川渡河戦
8月24日 第二次ソロモン海戦
9月9日 伊25潜より発進した艦載機がアメリカ本土のオレゴン州を空襲。
9月15日 伊19潜、米空母ワスプ撃沈。
9月29日 伊25潜より発進した艦載機、アメリカ本土のオレゴン州を再度空襲
10月 英米、中国における治外法権撤廃を声明、不平等条約を廃止。
10月 重慶で英米中ソ対日作戦会議。
10月11日 サボ島沖海戦
10月13日 戦艦金剛と同榛名によるヘンダーソン基地艦砲射撃が行われる
10月24日 - 日本、二回目のガダルカナル島総攻撃
10月26日 南太平洋海戦。米軍の稼動空母が0隻になる。
日本軍も真珠湾攻撃以来の熟練搭乗員を多数失う。
11月12日 第三次ソロモン海戦始まる。11月13日 戦艦比叡沈没。11月15日 戦艦霧島撃沈。
11月30日 ルンガ沖夜戦
12月8日 ニューギニア島バサプアの日本軍全滅。
12月31日 - 日本大本営、ガダルカナル島からの撤退を決定
ミッドウェー海戦の敗北により第二段階作戦は頓挫し、アリューシャン作戦は実施されたが、米軍に押されて撤退、FSフィージ・サモア攻略作戦は中止となった。それに代わり、1942年3月に航空基地を築いていたニューブリテン島のラバウルからゼロ戦が往復できる距離にあるソロモン諸島のガタルカナルに航空基地を作り、アメリカとオーストラリアの間の航行を遮断する作戦とした。7月に飛行場建設を始めたが、米軍は建設完成を見計らって8月7日米軍は上陸し飛行場を占領した。
第一次ソロモン海戦
米軍の上陸支援艦隊は空母3隻、戦艦1隻、重巡11隻、駆逐艦31隻、輸送船23隻、上陸部隊2万人
日本海軍はラバウルから第八艦隊が出撃、重巡5隻、軽巡2隻、駆逐艦1隻
8月8日夜戦となった。
米軍損失は重巡6隻の内4隻沈没(アストリア、キャンベラ、クインシー、ビンセンス)1隻大破
ただし、米艦隊の奥にいた輸送船は攻撃を免れた
日本軍損失は帰路、米軍潜水艦の攻撃で重巡加古が沈没
日本軍の勝利, ただしガ島奪還のための十分な兵力投入がされなかった。
8月18日米軍上陸部隊は2千人程度という誤情報により、飛行場奪還を図った一木支隊先遣隊千人が上陸するも反撃にあい全滅。
さらに残りの一木支隊を上陸させようと援護の第三艦隊が出撃し、米軍と海戦になった。
第二次ソロモン海戦
米軍は空母3隻(エンタープライズ、サラトガ、ワスプ)
日本軍第3艦隊空母2隻(翔鶴、瑞鶴、龍驤)戦艦2隻、重巡4隻、軽巡1隻、駆逐艦13隻
第二艦隊戦艦1隻、重巡6隻、軽巡1隻、駆逐艦21隻
8月24日龍驤からガ島飛行場攻撃するも、サラトガ艦載機の攻撃により沈没
31日空母サラトガ日本軍の潜水艦伊26の雷撃で損傷
9月15日には、空母ワスプが潜水艦伊19の雷撃により浸水と誘爆を招いて大破、雷撃処分
エンタープライズも中破するも、結局ガ島再上陸は果たせなかった。
10月11日 サボ島沖海戦
24日の第二回総攻撃を控えて飛行場砲撃のためサボ島沖を進軍していた重巡「青葉」「古鷹」駆逐艦2隻が米艦隊と遭遇、2145米軍の砲撃が始まった。「青葉」戦闘能力喪失、戦線離脱。「古鷹」に集中砲火。その後沈没。日本軍と米軍の間にいた駆逐艦「ファーレンホルト」(大破)「ダンカン」(沈没)が味方の誤射も受け離脱。「吹雪」被弾、轟沈。「衣笠」は砲撃戦後、帰還。
10月13日 戦艦「金剛」と「榛名」によるヘンダーソン基地艦砲射撃が行われる
23:37 ~ 57, 00:20 ~ 56 合計966発
14,15,16日にも「衣笠」を含む艦艇から艦砲射撃を実施した。一時的に効果があってもすぐに補修された。
10月24日 - 日本、二回目のガダルカナル島総攻撃。2~3千人の死者を出して失敗。
10月26日 南太平洋海戦。米軍の稼動空母が0隻になる。
日本軍も真珠湾攻撃以来の熟練搭乗員を多数失う。
日本軍空母「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」「隼鷹」戦艦4隻、重巡8隻
米軍空母「エンタープライズ」中破「ホーネット」撃沈 戦艦1隻、重巡3隻
米軍はガ島飛行場を確保し、日本の輸送船を攻撃継続
11月12日 第三次ソロモン海戦始まる。11月13日 戦艦「比叡」自沈処分。駆逐艦「暁」「夕立」自沈処分重巡「衣笠」沈没 11月15日 戦艦「霧島」駆逐艦「綾波」沈没。
「比叡」「霧島」は再度の米飛行場艦砲射撃のために出撃。支援艦隊は空母「隼鷹」など。
米軍は修理中の空母「エンタープライズ」戦艦2隻「ワシントン」「サウスダコタ」40cm砲合計18門、巡洋艦2隻、駆逐艦8隻のほか輸送船団の護衛艦隊。
米軍沈没艦艇、軽巡アトランタ、ジュノー(伊26潜)駆逐艦「カッシング」「ラフィー」「バートン」「モンセン」「ウォーク」「プレストン」「ベンハム」
双方大破中破小破多数。
輸送船6隻沈没、4隻のみ兵員2千人と4日分食料揚陸。
ガ島の日本軍は約2万人となるが、食料不足、風土病蔓延により餓島となった。
11月30日 ルンガ沖夜戦(米軍呼称「Battle of Tassafaronga」)
駆逐艦8隻食料をドラム缶に半分詰め、ロープで5~10本を数珠繋ぎ。
21:06米艦隊(重巡「ミネアポリス」など)日本艦隊を発見
21:12日本軍、米艦隊を発見 21:16ドラム缶を縛り直し、全軍突撃命令
21:20米軍攻撃開始。先頭の「高波」に攻撃集中、反撃するも炎上、停止。そのご沈没。
米軍重巡「ミネアポリス」魚雷2本命中、戦列離脱。「ニューオリンズ」魚雷1本命中、艦首切断。「ペンサコラ」魚雷1本命中、戦列離脱。「ノーサンプトン」魚雷2本命中。沈没。
その後も、駆逐艦、潜水艦による輸送作戦が何度も実行されたが、米軍の妨害により成果は上がらなかった。
12月8日 ニューギニア島バサプアの日本軍全滅。
12月31日 - 日本大本営、ガダルカナル島からの撤退を決定
重巡洋艦 アストリア ヴィンセント
クインシー 豪巡洋艦 キャンベラ
空母サラトガ 空母ワスプ
戦艦ワシントン
空母隼鷹
戦艦 霧島 比叡
1943年日本軍は第二段階作戦で米豪の遮断を図っていたが、
1942年5月珊瑚海海戦で海からのポートモレスビー攻略を断念。
さらに6月ミッドウェー海戦の敗戦で主力空母4隻を失い
米豪遮断目的のフィージ・サモア攻略の計画も断念。
1943年8月から12月まで日本航空隊基地ラバウルから往復可能で米豪遮断の航空基地となりうる ガタルカナル島をめぐる日米の激戦。
2月1日-7日 日本軍約1万人、ガダルカナル島撤退。上陸人員は約3万人。戦死行方不明約2万人。
その間にポートモレスビーから米軍はラバウル攻勢を強めた。
1942年8月日本軍ニューギニア島東部ブナに上陸し山越えでポートモレスビー攻略を目指すが、補給が続かずプナへ撤退。そこで米軍と遭遇、日本軍はラエ、サラモアへ後退。
1943年3月ラエ、サラモアへの援軍を乗せた輸送船団はダンピール海峡で連合軍の爆撃で輸送船8隻、駆逐艦4隻喪失。3千人戦死。ビスマルク海海戦
2月10日 - 3月下旬 日本軍、ビルマで英軍と交戦。
第一次アキャブ作戦開始(三一号作戦)。
3月26日 アッツ島沖海戦
4月7日-16日 い号作戦
トラックからラバウルに連合艦隊司令部を移し、山本五十六自らラバウルから指揮。
ラバウル、及び空母4隻からニューギニア戦線の米軍基地を攻撃、制空権挽回を図る。
米軍にも損害は出たが、勢いを抑えるまでではなく、逆に日本軍航空機の損害は大きく、
以後大規模な航空作戦はできなくなった。
4月18日 山本五十六連合艦隊司令長官、 基地視察に出かける予定を米軍が暗号解読。
ブーゲンビル島上空で待ち伏せ戦死(海軍甲事件)。
図解太平洋戦争より
1943年
1942年6月米軍の北方からの本土爆撃を防ぎ、米ロの遮断を目的にアリューシャン列島のアッツ島、キスカ島を占領。
3月26日 アッツ島沖海戦
5月12日 米軍、アッツ島上陸。
5月29日 - 日本軍、アッツ島で玉砕日本軍全滅し「玉砕」の語の使用始まる)
7月29日 日本軍キスカ島から撤退(キスカ島撤退作戦)。
7月6日 クラ湾夜戦Battle of Kula Gulf
ソロモン諸島(ニュージョージア諸島)コロンバンガラ島とベララベラ島間のクラ湾
ニュージョージア島の隣に位置するコロンバンガラ島の防備強化(兵員約1600名揚陸
日本軍駆逐艦8隻(沈没2隻、他損失大) 米軍軽巡3隻(沈没1隻)、駆逐艦4隻
7月12日 コロンバンガラ島沖海戦
日本海軍のコロンバンガラ島への輸送部隊とアメリカ海軍、ニュージーランド海軍が交戦し、
日本軍は軽巡洋艦1隻が沈没、アメリカ軍は駆逐艦1隻が沈没し、軽巡洋艦3隻が大破
8月17-24日 カナダ・ケベックで英米首脳会談。
Amagiri escaped and later rammed and cut in half the motor torpedo boat PT-109, captained by future President of the United States John F. Kennedy (1917–1963), in the Blackett Strait, southwest of Kolombangara on 2 August. Hatsuyuki and Satsuki returned to Buin via the Blackett Strait.
8月6日 ベラ湾夜戦Battle of Vella Gulf
ソロモン諸島ベラ湾で生起した海戦。日本軍のコロンバンガラ島への輸送部隊が、
アメリカ軍の水雷戦隊に邀撃され、日本側駆逐艦3隻が沈没
9月8日 イタリア、連合国に降伏。
9月17日 連合軍、ニューギニア・ラエを占領。
9月30日 御前会議で絶対国防圏構想を決定。
10月 日本軍、フィリピン独立を許可。
10月6日 ベララベラ海戦Battle of Horaniu
日本軍はベララベラ島からの撤収を企図して大発動艇や小型艦艇を派遣。
アメリカ軍は水雷戦隊(駆逐艦6隻)で日本軍水上部隊を邀撃し、夜間水上戦闘に至った。
日本側は駆逐艦9隻の内、夕雲が沈没し、アメリカ側は駆逐艦1隻が沈没し2隻が大破した。
日本軍の撤退作戦は成功
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