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アメリカ本土攻撃

1941年12月8日の真珠湾攻撃後、第6艦隊(潜水艦隊)旗艦 練習巡洋艦 香取から第1潜水戦隊に命令が入った。「米空母レキシントン型がハワイから北東方に向かっているので、第1潜水戦隊はこれを追撃せよ」。

そこで伊9、15、17、19、21、23、25潜水艦の7隻のほか途中から伊10、26潜も追跡にくわわった。しかし、彼らは目差す空母には会敵できなかった。そこでせっかく米西岸にまで東進したので、通商破壊戦をすることとなった。つまり北はシアトルから南はロスアンゼルスまでの問に九隻が展開したのである。戦果下記。

 1941年月日 砲撃      敵船名           総トン数      備考
12/21  伊17   〇       エミジオ           6,912    タンカー
12/21 23    〇       アギワルド       6,771       〃
12/23    19    〇       スト・レイ     10,763       〃
12/24    17    〇       ラリー・ドーヘニー    7,038    〃
12/24    21    雷撃   モンテベロ        8,272       〃
12/24    21    〇        アイタボ           6,418       〃
12/25    19    雷撃    アブサロカ        5,696     貨物船
12/25    23    〇        ドロシ一・フィリップ    2,119    〃
12/28    25    雷撃    コネチカット    8,684    タンカー

 

写真太平洋戦争 丸5より

「商船には魚雷を1本だけ射て」という規定があったため数隻、損傷なし。コネチカット号生存者は、ボートでコロンビア河口のアストリア市へ避難。またドロシー・フィリップ号は白昼、伊23潜の14センチ砲弾をうけて舵を損傷。

9隻の潜水艦に対し「次の沿岸都市を砲撃せよ」とロスアンゼルス、サンディエゴ、アストリア、ユーレカ、モンテレーなど8ヵ所を指定してきた。そこで九隻は12月25日夜を期して艦砲射撃をするよう準備をととのえた。ところが決行直前、連合艦隊司令部より「クリスマス当日の砲撃は控えるように」と命令が入った。そして燃料の関係で20日~27日には帰途につかねばならず、この第一回の米本土砲撃はお流れとなった。

I-26_Japanese_submarine.jpg
米国西海岸距離.jpg

日本潜水艦の主力はマーシャル群島のクェゼリン環礁を基地としていたが1942年2月1日、米空母ヨータタウンとエンタープライズは同地を爆撃してきた。日本潜水艦は空母を追撃したが、会敵できなかった。

だが第3潜水戦隊旗艦の伊8潜と伊17潜はそのまま東進し、米本土西岸に進軍した。サンフランシスコ燈台の明りも見える地点に進出した伊8潜では、艦長、砲術長、航海長らが集まって、サンフランシスコとシアトルとの間のユーレカの町を砲撃することを決定した。ところが決行直前、乗艦中の第3潜水戦隊司令官三輪茂義少将は「あまり重要ではない、単なる脅かしの作戦のため危険をおかしてはならぬ」と中止させてしまった。
他方、伊17潜は米太平洋艦隊の基地サン・ディエゴ沖にあらわれた。そしてカリホルニア州サンタ・バーバラ海峡の入口にあるエルウッド油田を砲撃することとなった。1942年2月24日の日没直前、伊17潜は浮上、海岸から4000メートルの位置で、いつでも脱出できるように艦首を沖に向けた。白鉢巻姿の砲員は40口径の11年式14センチ砲で砲戦の準備をととのえた。夜11時10分(現地時問夜7時10分)砲撃開始。この時たまたまルーズベルト大統領がラジオで放談中であったという。合計17発を射ったが通常弾であり、焼夷弾ではなかったので火災は発生しなかった。これが日本艦艇による史上、初の米本土砲撃である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


伊17潜は3月1日、アクロン燈台沖で米タンカー・ウイリアム・H・バータを撃沈して横須賀に帰投した。

さらなる攻撃が1942年6月、伊25と26潜の二隻によって行なわれた。伊26はシアトル沖で6月7日、コースト・トレーダーを撃沈後、21日、カナダのバンクーバー島エステヴァン岬にあるカナダ軍の無線羅針局(霧が濃いため衝突せぬよう電波を出す)に14センチ砲弾17発を射ち込んだ。米側はあわてて燈火を消したり、SOSを発したりしたが無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみ。

他方、伊25潜は翌22日、
オレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地を潜水艦基地と誤認し、14センチ砲で砲撃を行った。

当初はアストリア市も砲撃対象としていたものの、コロンビア川の河口を入ったところにあるアストリア市へ砲撃は届かなかった。しかし突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、陸砲が配備されていたにも拘らず伊25に対して何の反撃も行えなかった。この砲撃によって電話線や送電線が一時寸断されたものの、基地施設の損害は皆無であった。

なお同艦は20日、英船フォート・カスモンも撃沈している。

 

 

 

 

 

 

 

1942年4月18日、米空母ホーネットより発進したB-25 16機(各4個の爆弾搭載)が初めて日本本土を爆撃した。米軍には日本のような航空機を搭載する潜水艦がなかった。逆に、日本は米軍のように空母を米大陸まで侵攻させて攻撃する力はなく潜水艦が搭載する小型飛行艇を利用したが小型飛行機による限定爆撃であり、市民に対する無差別攻撃を回避し、森林火災を起こすことを目標に作戦された。

アストリア市の海軍基地への攻撃を成功させ、7月11日に母港である横須賀港へと戻った伊25潜は8月16日、横須賀を出港した。同艦は太平洋を北上し、アリューシャン列島をかすめて9月7日にオレゴン州グランコ岬の沖に到着した。

天候の回復を待ち2日待機した後、9月9日の深夜に空襲を決意し、田上艦長ら搭乗員が見守る中、藤田信雄飛曹長と奥田兵曹が操縦する零式小型水上偵察機は76キロ焼夷弾2個を積んで「伊25」を飛び立った。

未明に組み立てが始まり、水上機はカタパルトから発射された。

同機は高度、3000メートルで北東に進んだ。

 

 

 

 

 

      写真 太平洋戦争 丸5 特攻 より

 

目標地点である太平洋沿岸のブランコ岬に到達してから内陸に進み、カリフォルニア州との州境近くのブルッキングス近郊の森林部に2個の焼夷弾を投下し、森林部を延焼させた。藤田機は、アメリカ陸軍による地上からの砲撃も、戦闘機迎撃もなく無事任務を遂行し、片道約30分、沖合いで待つ「伊25」に帰還した。

なお、実は藤田機は空襲を終えて「伊25」に帰還すべく飛行中に、オレゴン州森林警備隊の隊員であるハワード・ガードナーによって発見されアメリカ陸軍に通報された結果、アメリカ陸軍航空隊ロッキード P-38戦闘機が迎撃に向かったものの、発見されることはなかった。

藤田機の帰還後、「伊25」は沿岸警備行動中の陸軍航空隊のロッキード A-29ハドソン哨戒爆撃機に発見されて攻撃を受けたが、既に機体を収容した後で損害は受けなかった。

これが日本軍による初の米本土空襲である。この焼夷弾は520個の小弾子にわかれて飛び散り、火災を発生させるものだが、何しろ人影まばらな森林ゆえ期待したほどの効果はなかった。

その後のアメリカ陸軍の太平洋沿岸部の警戒強化を受けて、すぐに2回目の空襲は行われず、2回目の空襲は20日後の9月29日の真夜中に行われた。藤田機は同じく計画通りに76キロ爆弾2個を再びオレゴン州オーフォード近郊の森林部に投下、森林部を延焼させ、この時も特に迎撃を受けることなく「伊25」へ戻った。帰途、水上偵察機はなかなか伊25潜を発見できず、一時は「もうダメか」と思われたほどだった。

 

年月日  艦名  砲撃  雷撃    船名                         総トン数   備考

42・3・1  伊17     〇      〇     ウイリアム・H・バーク 2,215          〃

6・7          伊26     〇      〇     コート・トレーダー        3,286      貨物船

6・20            25     一      〇     フォート・カモスン        7,126         〃

10・4        伊25     一      〇     カムデン                            6,653     タンカー

10・6          〃       一      〇     ラリー・ドヘニー            7,038        〃

10・11        〃       一      〇      ソ連潜水艦L19号             1,039     ソ連潜

伊25潜は10月、さらに二隻の敵商船を西岸沖で撃沈した。

たまたまソ連太平洋艦隊では北氷洋強化のため潜水艦L15、16の二隻をウラジオストッタからパナマ運河経由でヨーロッパに送った。彼らは米西岸を南下していた。10月11日、伊25潜は米潜水艦らしきものを発見して500メートルまで接近した。もう魚雷は一本しか残っていなかったので、これによりL16を撃沈した。だが、当時日本とソ連は戦闘状態にはなかった。米海軍が、「護衛を出してやる」といったにもかかわらず、これを拒否して災難にあったソ連太平洋艦隊である。彼らはL16潜の喪失について責任をうやむやにするため、あえて日本に抗議しなかった。

終戦後の1962年に、藤田飛曹長はオレゴン州ブルッキングス市から招待を受けアメリカに渡り、同市市民から「歴史上唯一アメリカ本土を空襲した敵軍の英雄」として大歓迎を受け、同市の名誉市民の称号を贈られた。またその時、同市市民から藤田飛曹長が投下した焼夷弾の破片を贈られた。その破片からはかすかに火薬の臭いがしたという。なお藤田飛曹長は、戦争中、軍刀として用いた愛刀をブルッキングス市に寄贈した。

この招待は外務省を通じて伝えられたが、当の本人には招待の趣旨が知らされていなかったため、現地に到着するまで「戦犯として収監されるのかもしれない」と思っており、寄贈した軍刀は戦後も密かに所持していたものを、収監されそうになった時には自決するため、荷物に忍ばせて持参したものであった。

その後、藤田飛曹長は贖罪の意味を込めて同市に植林を行ったり、同市市民を日本に招待するなど日米友好に残りの半生を費やした。また、そのような貢献を受けて、後にロナルド・レーガン大統領よりホワイトハウスに掲揚されていた星条旗が贈られた。なお、かつて爆弾片と星条旗は、茨城県土浦市の「まちかど蔵野村」に保存公開されていたが、2021年10月現在、陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地広報センター藤田信雄氏コーナーに移転され展示されている

藤田信雄と乗機の零式小型水偵.jpg
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藤田信雄
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