15年戦争
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マダガスカルの戦いと連動し、1942年5月31日、オーストラリアのシドニーに停泊中の連合国艦船に対して特殊潜航艇3隻が攻撃を行った。
攻撃に参加した潜水艦は伊21、伊22、伊24、伊27、伊29の5隻で、伊22、伊24、伊27の3隻が特殊潜航艇甲標的を搭載した。
乗員は以下の通り。(計画時)
1942年
4月27日 伊21・伊29、
5月18日 伊22・伊24・伊27が、トラック諸島チューク島を出港した。出港当日の夕方、伊24搭載艇が爆発事故を起こし乗員が死傷したため、同艦はトラック諸島に引き返し、乗員を伴中尉らと交替させて5月20日に再度出港した。
5月30日に、伊22、伊24、伊27の3隻はシドニー沖に到着した。
5月31日16時21分、伊22搭載艇が発進。
続いて28分に伊27搭載艇が、
40分に伊24搭載艇が発進した。
伊27搭載艇はシドニー港入り口で防潜網に絡まり、21時30分ごろ自爆した。
次に伊24搭載艇が港内に向かい、侵入に成功した。伊24搭載艇は港内に在泊していたアメリカ重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を発射した。魚雷は2本とも外れ、その内1本は岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。また、その隣に係留されていたオランダ潜水艦「K IX」も爆発の衝撃で損傷した。
伊24搭載艇は帰途シカゴの攻撃による損傷がもとで沈没した。
最後に伊22搭載艇が港内に侵入したが、このときには警戒が厳しくなっていた。伊22搭載艇はオーストラリア海軍艦艇からの爆雷攻撃を受け結局自爆。魚雷は未発射であった。
なお、特殊潜航艇を発進させた潜水艦は6月3日まで帰投を待っていた。
(下記写真)
シドニー湾を攻撃し撃沈された甲標的 攻撃後に引き上げられた九七式酸素魚雷
オランダ潜水艦KIX 特殊潜航艇(甲標的)
オーストラリアとの戦
自爆した2隻の特殊潜航艇は1942年6月4日、5日に引き上げられ、9日にイギリス海軍から派遣されていたシドニー港司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将は乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森一曹・都竹二曹)の海軍葬を行った。
戦時中に敵国である日本の軍人に鄭重な礼を尽くすことには、日本軍によるオーストラリア北部への空襲が激化し、多くの死傷者を出している中でもありオーストラリア国民の一部から批判があったが、装甲の薄い小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降することなしに自沈する松尾大尉らの勇敢さに対し、グールド少将は海軍葬で礼を尽くし、葬儀のあとラジオで演説し、豪州国民に訴えた。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」
「戦死した日本軍の勇士の葬儀を我が海軍葬で行うという私に、非難が集中していることは承知している。けれど私は、あえてこの葬儀を実行する。なぜなら、もし我が国の兵士が彼らのように勇敢な死を遂げた場合、彼らにもまた、同様の名誉ある処遇を受けさせたいためである…」
1942年8月に4名の乗員の遺灰は、日豪交換船シティー・オブ・カンタベリー号に乗せられてオーストラリアを出発し、アフリカ東海岸のロレンソ・マルケス(現モザンビーク首都マプト)に到着した。この船は、戦争開始以来オーストラリア国内で抑留されていた日本人外交官や民間人の送還のために航行した。著名な乗客の一人は、駐豪公使の河相達夫だった。交換船として戦争に同じように巻き込まれた連合国民間人を乗せて到着していた鎌倉丸に、遺灰は乗客とともにロレンソ・マルケス港で移された。鎌倉丸は1942年10月に横浜に到着した。この当時、海外邦人日本帰還のニュースはほとんど報道されず、特殊潜航艇乗員の遺灰の到着が、各新聞のトップ記事として扱われた。さらに、オーストラリア海軍が日本人乗員のために海軍葬を執り行った事実は、乗員たちの英雄的評価をさらに高めた。日本側の反応は、オーストラリアも注意深くモニターしている。
伊21、24はその後、シドニーとニューキャッスルの街に対して砲撃を行ったが被害は大きくなかった。
On the morning of 8 June, I-24 and I-21 briefly bombarded Sydney and Newcastle. Just after midnight, I-24 surfaced 9 mi (14 km) south-south-east of Macquarie Lighthouse. The submarine's commander ordered the gun crew to target the Sydney Harbour Bridge. They fired 10 shells over a four-minute period; nine landed in the Eastern Suburbs and one landed in water. I-24 then crash dived to prevent successful retaliation by coastal artillery batteries. Only one shell detonated, and the only injuries inflicted were cuts and fractures from falling bricks or broken glass when the unexploded shells hit buildings.
At 02:15, I-21 shelled Newcastle, from 9 km (4.9 nmi; 5.6 mi) north-east of Stockton Beach. She fired 34 shells over a 16-minute period, including eight star shells.[2]: 250 The target of the attack was the BHP steelworks in the city. However, the shells landed over a large area, causing minimal damage and no fatalities: the only shell to detonate damaged a house on Parnell Place, while an unexploded shell hit a tram terminus. Fort Scratchley returned fire, the only time an Australian land fortification has fired on an enemy warship during wartime, but the submarine escaped unscathed.
オーストラリアでは病院船Centaurが日本の潜水艦に沈められたと多くの人が信じている。
【2010年1月12日 AFP】第2次世界大戦(World War II)で航行中に魚雷攻撃を受け、乗船していた268人とともに沈没したオーストラリアの病院船が10日、遠隔操作のカメラによって66年ぶりにその姿をとらえられた。
オーストラリアのセントー(Centaur)号は、1943年5月14日に消息を絶ったが、前月行われたハイテク捜索で、深さ2059メートルの深海で見つかった。
10日にはカメラを搭載した遠隔操作の潜水艇による調査が実施され、ケンタウルス号の船体の両側に描かれた巨大な赤十字の印が撮影された。また、オーストラリアの第47病院船を示す数字「47」も船体両側で見つかった。
オーストラリア当局は、ケンタウルス号が旧日本軍の潜水艦に警告なく撃沈されたと主張しているが、日本側は、同船沈没当時の状況は不明確な点が多いと述べる。(c)AFP
Before dawn on 14 May 1943, during her second voyage, Centaur was torpedoed and sunk by a Japanese submarine off Moreton Island, Queensland. The majority of the 332 aboard died in the attack; the 64 survivors were discovered 36 hours later. The incident resulted in public outrage as attacking a hospital ship is considered a war crime under the 1907 Hague Convention. Protests were made by the Australian and British governments to Japan and efforts were made to discover the people responsible so they could be tried at a war crimes tribunal. In the 1970s the probable identity of the attacking submarine, I-177, became public.
The reason for the attack is unknown; there are theories that Centaur was in breach of the international conventions that should have protected her, that I-177's commander was unaware that Centaur was a hospital ship, or that the submarine commander knowingly attacked a protected vessel. The wreck of Centaur was found on 20 December 2009; a claimed discovery in 1995 has been proven to be a different shipwreck.
オーストラリア海軍の艦船はアメリカ軍やイギリス軍とともに太平洋の戦闘に参加したほか、陸軍の多数の兵士も戦闘に参加した。
オーストラリアの牧羊地帯で育った快活な青年ジャックは第二次大戦中、日本軍がボルネオ島に設置した悪名高いサンダカン捕虜収容所に送られた。肉体的・精神的な虐待が繰り返された後、捕虜たちは数回に分けて約260キロ離れたラナウまでジャングルの中を歩かされた。1945年1〜6月のことだ。
捕虜たちは栄養不良や病気で弱っていた。しかも26日間の移動中に与えられた食料はわずか数日分。空腹や病気で倒れるとその場で殺されるか、置き去りにされた。オーストラリア人とイギリス人の捕虜は出発時に2700人ほどいたが、「死の行進」から生還できたのはオーストラリア人6人だけ。そこにジャックの姿はなかった。
だが「日本人を恨んではいない」。ジャックの弟ロン(85)は介護施設からの電話でそう語り、「日本兵は無理やり戦争に駆り出されていた。彼らを動かしたリーダーたちも死んでしまった。ただ、3年も苦しんでいた兄を救えなかったことが無念でならない」と言って声を詰まらせた。
こうした話に、オーストラリア人は今でも感情を強く揺さぶられる。あの戦争への関与が比較的少なかったこの国では、映画であれ小説であれ、ドキュメンタリーや回想録であれ、戦時下の捕虜体験や日本人の「残酷さ」に焦点が当てられやすい。
戦後70年、あの戦争を記憶にとどめようという機運はかつてなく高まっている。一種の「通過儀礼」として、タイとミャンマー(ビルマ)を結んだ泰緬(たいめん)鉄道やパプアニューギニアの激戦地を訪ねる若者も少なくない。
日本軍が42年にオーストラリア上陸を計画していたという伝説を、今も多くの国民が信じている。確かに当時の日本軍は毎週のように北部を空襲していたし、潜水艦でシドニー港を攻撃したこともある。上陸作戦など存在しなかったが、08年には国土防衛の記念日(9月の第1水曜日)が制定された。
オーストラリア人が日本との戦争を忘れないのには理由がある。連合国の一員として欧州で戦った第一次大戦と違い、第二次大戦は(特に42年のダーウィン空襲以降は)自分たちの国と国境を守る戦いだったからだ。