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​タイ
1782年にバンコクに都をおく王朝が興り、この王朝が現在まで続いているが、1851年に王位についたラーマ4世は国際事情に通じていた。この国王は、アユタヤ朝時代から続いてきた中国への朝貢を取りやめる一方、欧米諸国との国交を重視し、イギリスやフランスと順次通商条約を樹立して自由貿易体制に加わった。香港総督ジョン・ボウリングが率いるイギリス使節団と、西洋諸国との多くの不平等条約の最初であるボーリング条約を結んだ。これは不平等条約ではあったが、バンコクに商業的および経済的発展をもたらした。これによって、大きな代償を負担させられたが、植民地化は免れた

ラーマ5世(チュラーロンコーン大王:在位1868-1910年)は即位するとすぐに欧米を視察してタイの立ち後れを実感し、チャクリー改革と呼ばれる数々の改革を行った。当時、ビルマとマレーシアはイギリスに、ベトナムはフランスに、それぞれ占領されていた。シャムも狙われていたが、ラーマ5世はイギリスにマレー半島の一部を割譲し、フランスにはラオスとカンボジアを割譲する事で、独立を保った。この背景には、ラーマ5世によってある程度近代化されていたシャムをあからさまに占領するのは問題があったことや、シャムを緩衝地帯として独立させておくことが望ましいと考えた英仏両国の事情などがあった。












 
第二次世界大戦勃発直前の1939年8月、フランスはタイ王国に対して不可侵条約の締結を要請していた。これはフランス領インドシナ(以後、仏印)の安全を図るためであり、翌1940年6月12日バンコクにおいて仏泰相互不可侵条約に調印した。しかし、フランスがドイツに敗れたこと、独仏休戦1940年6月17日)前にフランスが不可侵条約を批准していなかったこと、日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況から、タイは旧領回復への行動を開始した。
タイのピブーン政権は、新たに発足したフランスのヴィシー政権に対し、1893年仏泰戦争でフランスの軍事的圧力を受けて割譲した仏印領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオスの領土と主権やフランス保護領カンボジアバッタンバンシエムリアプ両州の返還を求めたが、フランス政府はこの要求を拒否した。
日本の同盟国であるドイツによるフランス本土占領と、親独のヴィシー政権の樹立を受けて日本軍北部仏印進駐を行ったため、日本と友好関係にあったタイにとっては、日本軍が南部仏印にまで進駐してしまうと領土要求が難しくなるという懸念が生まれていた。当時のタイ政府はあくまで強硬な姿勢を貫き、9月頃より国境付近で両軍による小競り合いが頻繁に発生するようになった。

両国の外交が暗礁に乗り上げた1940年11月23日、タイ空軍が仏印領内を爆撃し両軍の戦端が開かれた。

1941年1月6日、タイ軍は仏印領内のルアンプラバン地方(現ラオス)・バッタンバン地方(現カンボジア)に20個大隊で侵攻開始した。対する仏印軍は10個大隊で、しかも重火器が不足していたためタイ軍に圧倒され敗北を重ね多くの死者、行方不明者を出し撤退するなど、タイ軍が勝利をおさめた。

仏印軍はタイ軍を一時的に押し戻したものの、物量に勝るタイ軍はフランス軍に対してさらなる攻撃を加え、本国が占領下におかれ兵士の追加もままならないフランス軍は数多くの戦死者や負傷者を出すこととなった。

 
戦闘が拡大を続け終息する気配を見せない中、アジアにおける数少ない独立国かつ友好国のタイや、他の地でも戦闘を行っていた友好国のフランス(フランスは本土やアフリカ連合国軍との戦いを続けていたほか、いくつかの植民地は自由フランス側についた)という、友好国同士が戦い国力が疲弊することを憂慮した日本が、タイとフランスの間の和平を斡旋し始めた。
1941年1月21日、二見甚郷・駐タイ公使はタイから公式の調停依頼文書を受け取る。1月24日にフランス側が非公式に調停を受諾し、1月28日に両軍は停戦した。
2月2日より東京において調停会議が開催されたが、両国の対立により難航した。タイ側はラオスとカンボジア全土の返還を要求したが、これはあくまで交渉のための要求であった。一方で、戦況を有利に進めていたフランスは、エスカレートしたタイ側の要求を受け入れるはずもなく、これを拒否した。
2月24日、日本から調停最後案が提示された。フランスはこの最後案を拒否するが、日本側の強い圧力により、いくつかの留保条件を付した上で3月11日に調停が成立した。その後、条約化に伴う交渉が三国間で引き続き行われ、5月9日に泰仏両国が東京条約に調印して終戦となった。
条約はタイが1904年にフランスに割譲したメコン川右岸のルアンパバーン対岸とチャンパサク地方、および1907年に割譲したカンボジア北西部のバッタンバン・シエムリアプ両州を、タイ側に割譲させた。ただし、その範囲は若干異なり、シエムリアプの町とアンコールワット周辺の遺跡群は対象外とされた。このようにタイの要求を仏印側がほぼ受諾する内容だったため、後半では劣勢となっていたタイが勝利したという形となった












 
第二次世界大戦においてタイは、日本の同盟国として英米に宣戦布告したが、1945年8月16日に宣戦の無効を宣言し、「敗戦国」の扱いは避けられた。しかし、ド・ゴールのフランス臨時政府は、1941年のヴィシー政権下での割譲を無効であるとし、タイに返還を求めた。これに対し、タイは失地獲得は戦争開始前であるとし、これに応じなかった。1946年仏暦2489年)5月にはフランス軍がタイ領を攻撃し、タイは国連安全保障理事会に提訴した。しかし、フランスがタイの国連加盟に拒否権を行使する構えを見せたため、国際社会への復帰を優先したタイは領土を引き渡した。
その後勃発した第一次インドシナ戦争においてフランスが敗北したため、同地は間もなく独立したカンボジア王国ラオス王国の領土となった。
タイがフランスから獲得した地域.png
太平洋戦争が勃発すると両国の同意のもと日本軍はタイへ進駐し(タイ王国進駐)、タイは表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦った。タイは東南アジア戦線(マレー作戦ビルマの戦い)では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。そのため戦争末期には連合国軍の空襲にもあっている。
一方で駐米大使セーニー・プラーモート摂政プリーディー・パノムヨンらが「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた。こうした二重外交により、タイは1945年、1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することができ、降伏や占領を免れた。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。



タイは日本と同盟関係にあったため日本軍に占領され被害を受けることは無かったが、戦時中に日本軍が円建てで物資を調達した件に関して(特別円問題)計150億円の補償を受けている。また、戦費調達のための日本の20億バーツのタイへの負債は、タイ使節団の意向により2500万ドルとされた。
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