15年戦争
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太平洋戦争
マダガスカルの戦い
マダガスカルの戦いとは第二次世界大戦中の1942年5月にアフリカ大陸の東, インド洋に浮かぶマダガスカル島で日本軍が主にイギリス軍と戦った戦闘のことである。「太平洋戦争」中の戦闘のひとつと呼ぶには、インド洋の西の端というはるか離れた戦闘であった。
当時フランス植民地のマダガスカル島で1942年5月5日より11月6日まで行われた、ヴィシー政権側についた駐マダガスカルのフランス軍(ヴィシー・フランス軍)と大日本帝国海軍に対し、イギリス軍と南アフリカ軍を中心とした連合国軍陣営の間においてインド洋のシーレーン奪取を目的とした戦いのことである。
このころ地中海および北アフリカの戦況はドイツ軍とイタリア軍を中心とした枢軸国側に有利であり、その為に中東及びインド方面、さらにインドを経由してオーストラリアなどへ軍事物資の補給などのために向かう連合国側船団は、地中海-スエズ運河ルートではなく喜望峰 - インド洋のルートへ迂回していた。
マダガスカル島はこの迂回ルートの途上に位置しており、マダガスカル島の港や飛行場が日本軍に占拠されると、連合国軍のヨーロッパと中東及びインド、オーストラリア方面との補給路が絶たれる恐れがあった。
日本軍は1941年12月の開戦以降、1942年3月の末までに東南アジア全域(イギリス領マレー半島や蘭印<=インドネシア>、アメリカ領フィリピンなど)を制圧し、続いてアメリカ本土への空襲やオーストラリアへの空襲を行ったほか、イギリス植民地のビルマ南部まで攻略を行い、さらに西進を行うことが可能であった。
この頃、日本海軍の潜水艦はインド洋で完全に制約を受けずに活動でき、3月には日本海軍の機動部隊がイギリス領セイロン島攻撃を行った。そのため、イギリス海軍の東洋艦隊はモルディブ諸島のアッドゥ環礁に退避したが、日本海軍の更なる攻撃によって手持ちの空母他多くの艦船を失い、イギリスの植民地である東アフリカのケニアのキリンディニまで撤退した。
この全面的な撤退により、イギリス海軍および連合国軍は、日本海軍がマダガスカルをインド洋およびアフリカ大陸攻略への前進基地として使用する惧れが出てきた。
1940年5月ドイツに敗北して、フランス中部のヴィシーには親ドイツのフランス・ヴィシー政府が樹立されていたが、その政権下にあったマダガスカル島のフランス軍基地を日本海軍も使用できるようになると予想された。日本海軍が航空機や潜水艦を配備し、さらにその基地をドイツ海軍やイタリア海軍も使用すれば連合国軍にとってさまざまな脅威が生じる。
イギリス軍を中心とする連合国は、仏領マダガスカル島ディエゴ・スアレス攻略作戦「アイアンクラッド作戦(Operation Ironclad)」の実行を決めた。イギリス陸軍と、イギリス海軍は空母イラストリアス、インドミタブル、戦艦ラミリーズを基幹とする艦隊が上陸作戦の援護を行うこととなった。
主力艦:戦艦ラミリーズ、空母イラストリアス
巡洋艦:デヴォンシャー、ハーマイオニー
駆逐艦:アクティヴ、アンソニー、ダンカン、インコンスタント、ジャベリン、ラフォレイ、ライトニング、ルックアウト、パケナム
コルベット:オーリキュラ、シクラメン、フリージア、フリティラリー、ジェニスタ、ジャズミン、ナイジェラ、タイム
掃海艇:Cromarty、Cromer、Poole、Romney
東洋艦隊
主力艦:戦艦レゾリューション、ウォースパイト、空母フォーミダブル、インドミタブル
巡洋艦:カレドン、ドラゴン、エメラルド、エンタープライズ、ニューカッスル
駆逐艦:デコイ、フォーチュン、フォックスハウンド、グリフィン、ホットスパー、ネスター、ノーマン、パラディン、パンサー
Y船団
Bachaquero、Empire Kingsley、Mahout、Martand、Nairnbank、Thalatta、Derwentdale、Easedale
Z船団
Duchess of Athpll、Franconia、Karanja、Keren、Oronsay、Royal Ulsterman、Sobieski、Winchester Castle
英第5歩兵師団第17歩兵旅団、第13歩兵旅団、英第29歩兵旅団、5つの奇襲部隊、イギリス海兵隊は1942年5月5日、ディエゴ・スアレス西のクーリエ(Courrier)湾およびアンバララタ湾へ上陸した。
ヴィシー・フランス軍は約8000名で、うち約6000名はマダガスカル人で残りは大部分がセネガル人であった。1500から3000名がディエゴ・スアレス周辺に集中していた。
海軍の戦力は仮装巡洋艦1隻、通報艦2隻、潜水艦4隻などであったが、このうち通報艦1隻と潜水艦3隻はイギリス軍による攻撃時には在泊していなかった。フランス軍のほかの戦力は沿岸砲8門、モラーヌ・ソルニエMS406戦闘機17機、ポテ 63.11偵察機6機、少数のポテ 25TOEとポテ 29であった。
上陸したイギリス軍と南アフリカ軍を中心とした連合軍の大規模な攻撃後、最大都市のディエゴ・スアレス(現在Antsiranana)は5月7日に降伏した
War ships and British merchant ships in the Antsiranana harbour _Diego_Suarez after the French had surrendered on 13 May 1942
日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10と特殊潜航艇甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にマレーシアのペナンを出撃した。南アフリカのダーバン港のほか、北方のモンバサ港、ダルエスサラーム港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した結果、伊30と伊10がアデン、ダーバンなどを偵察したが有力艦艇は確認できず、1942年5月21日に攻撃目標が最大の都市でありまた連合国軍が占領したディエゴ・スアレスに決定された。
ディエゴ・スアレス攻略後イギリス軍の艦船の多くはすぐに去ったが、戦艦ラミリーズ(リヴェンジ級戦艦)はディエゴ・スアレスに留まっていた。
1942年5月30日(イギリス側記録では29日)には伊10の搭載機がディエゴ・スアレス港を偵察し、クィーン・エリザベス級戦艦1隻、巡洋艦1隻などの在泊を報告。5月31日に伊16と伊20から甲標的が発進した。なお、伊18はうねりによる浸水が原因で攻撃には参加できなくなっていた。
ペナンを出航する伊10(撃沈総数は14隻、計81,553トンにのぼり、帝国海軍潜水艦の中では撃沈隻数、トン数ともに第1位。商船2隻、計16,198トンに損傷を与えた。7月2日、アメリカ海軍駆逐艦と交戦しサイパン方面で沈没。艦長の中島清次中佐以下乗員103名全員戦死。沈没地点はサイパン東北東110浬地点付近、北緯15度26分 東経147度48分。
伊16潜水艦
特殊潜航艇母艦として真珠湾攻撃にも参加した。
甲標的の攻撃によりラミリーズに魚雷1本、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティ(British Loyalty、6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは撃沈された
ラミリーズが再就役したのは約1年後の1943年5月のことであった。
ディエゴスアレスに入港するラミリーズ
特殊潜航艇(甲標的)前部及び後部 submarine Force Library (USA CT)
特殊潜航艇(甲標的)とは二人乗りの小型潜水艇で船首に二本の魚雷を搭載し、母艦の潜水艦甲板に搭載されて敵地に接近すると母艦から発進し、敵艦に近接してより正確な雷撃を行うことを目的に開発された。
真珠湾攻撃で5隻(乗員10名、内9名戦死、1名捕虜)が初めて出撃した。
日本海軍の特殊潜航艇による攻撃が行なわれると湾内は大混乱に陥り、翌日の昼頃までイギリス軍による爆雷攻撃が繰り返され、防潜網が展張された。
伊20から発進した甲標的は上記のように雷撃に成功し大きな戦果を挙げたが、後に艇がノシ・アレス島で座礁したため、艇長の秋枝三郎大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名は艇を放棄し、マダガスカル島のアンタラブイ近くに上陸して、付近を通りかかった漁師の助けを受けて母潜との会合地点に徒歩で向かった。
6月2日に2人は、会合地点付近のアンドラナボンドラニナという小集落に到着したものの、地元の店で食料を調達した際に怪しんだ地元住民からの通報を受けて探索を行っていたイギリス軍部隊に発見された。
両名はイギリス軍による降伏勧告を拒否し、15人のイギリス軍部隊を相手に軍刀と拳銃で戦いを挑み2人とも戦死した。なおこの戦いでイギリス軍側も1人が死亡し5人が重軽傷を負った。戦死日は英側資料では6月2日、現地の目撃証言では6月4日である。その後2人の亡骸はイギリス軍により現地に埋葬された。
(前列)
左端 伴勝久S、一人置いて中馬兼四S、秋枝三郎 D、松尾敬宇 S、大田政治、右端岩瀬勝輔 D
(後列)
左端 芦辺守 S、 松本静、 大森猛 S, 竹本正巳 D、都竹正雄 S, 坪倉大盛嬉, 高田高三 D
S Sydney湾攻撃 D Diego Suarez (Madagascar)攻撃
「伊20潜水艦」から艇長の秋枝三郎大尉 、艇附・竹本正巳一等兵曹出撃 D。
「伊16潜水艦」からは艇長・岩瀬勝輔少尉、艇附・高田高三二等兵曹が出撃 D
AWM Caption: MEMBERS OF THE JAPANESE IMPERIAL NAVY MIDGET SUBMARINE ATTACK GROUP WHO CARRIED OUT SIMULTANEOUS ATTACKS ON DIEGO SUAREZ (MADAGASCAR) AND SYDNEY HARBOUR ON 1942-05-31.
THE MEMBERS ARE SHOWN IN CREWS OF TWO WITH THE COMMANDING OFFICER OF EACH MIDGET SUBMARINE SEATED IN THE FRONT ROW WITH HIS CREW MEMBER STANDING BEHIND HIM.
FRONT ROW - OFFICERS, FROM THE RIGHT: LIEUTENANT KATSUSUKE IWASE - DIED IN THE DIEGO SUAREZ ATTACK;
LIEUTENANT COMMANDER MASAHARU OOTA WHO, ALTHOUGH A MEMBER OF THE DIEGO SUAREZ ATTACK GROUP, DID NOT TAKE PART DUE TO PROBLEMS SUFFERED BY HIS SUBMARINE ON THE WAY TO THE TARGET - HE WAS LATER LOST, PRESUMED DEAD, WHEN, AS A CREW MEMBER ON ONE OF THREE JAPANESE SUBMARINES DESPATCHED TO OPERATE WITH GERMAN SUBMARINE FORCES IN THE ATLANTIC, HIS SUBMARINE WAS SUNK IN THE BAY OF BISCAY;
COMMANDER KEIU MATSUO - DIED IN THE ATTACK ON SYDNEY HARBOUR;
COMMANDER SABUROO AKIEDA - DIED IN THE ATTACK ON DIEGO SUAREZ;
COMMANDER KENSHI CHUUMA - DIED IN THE ATTACK ON SYDNEY HARBOUR;
LIEUTENANT TEIJI YAMAKI WHO, ALTHOUGH A MEMBER OF THE SYDNEY ATTACK GROUP, DID NOT TAKE PART BECAUSE OF THE DEATH OF HIS CREWMAN IN A TRAINING ACCIDENT BEFORE THE OPERATION;
AND LIEUTENANT COMMANDER KATSUHISA BAN OF THE SYDNEY ATTACK GROUP WHO WAS LOST, PRESUMED DEAD.
BACK ROW - CREW MEN, FROM THE RIGHT; CHIEF PETTY OFFICER KOOZOO TAKADA - DIED IN THE DIEGO SUAREZ ATTACK;
CHIEF PETTY OFFICER DAISEIKI TSUBOKURA - DID NOT TAKE PART IN THE ATTACK ON DIEGO SUAREZ BUT LATER DIED IN A SUBMARINE SUNK AT GUADALCANAL;
CHIEF PETTY OFFICER MASAO TSUZUKU - DIED IN THE ATTACK ON SYDNEY HARBOUR;
ENSIGN MASAMI TAKEMOTO - DIED IN THE ATTACK ON DIEGO SUAREZ;
ENSIGN TAKESHI OOMORI - DIED IN THE ATTACK ON SYDNEY HARBOUR;
CHIEF PETTY OFFICER SHIZUKA MASUMOTO - KILLED IN A BATTERY EXPLOSION ACCIDENT DURING TRAINING BEFORE THE ATTACK ON SYDNEY HARBOUR;
AND ENSIGN MAMORU ASHIBE OF THE SYDNEY ATTACK GROUP WHO WENT MISSING, PRESUMED DEAD.
THE JAPANESE CAPTION FOR THE PHOTOGRAPH IS ALSO HELD BY THE WAR MEMORIAL.
その後、太平洋で戦線を拡大した日本軍はミッドウェーの敗戦などによって、インド洋に再び進出することはなかった。