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15年戦争
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マレー作戦
1941年6月よりマレー半島攻略に向けた訓練を行っていた日本軍による、太平洋戦争における最初の攻撃となった。日本時間12月8日午前1時30分、第25軍はイギリス領マレーの北端に奇襲上陸した。
長年イギリスの植民地支配下に置かれていたシンガポールは、日英同盟の破棄以降イギリス軍によって防御設備の強化が進められ「東洋のジブラルタル」とも称されていた。海に面した南側には戦艦の主砲並みの15インチ(38センチ)砲をはじめとする重砲群とトーチカ群が構築され、さらに多数の戦闘機群が配備されて難攻不落の要塞と言われていた。北側のジョホール海峡側および同じく植民地であるマレー半島におけるイギリス軍の防備は手薄であったが、広大なマレー半島そのものが天然の防壁となると考えられていた。上陸可能地点であるタイ領内のシンゴラ(ソンクラ)からシンガポールまでは1,100キロの距離があり、マレー半島を縦断する道路は一本道で両側には鬱蒼たるジャングルとゴム林が広がっていた。さらに半島には大小約250本の河川が流れ、南に撤退するイギリス軍が橋梁を破壊すれば容易に日本軍の進撃を阻止できると考えられた。その間にイギリス軍はシンガポール北側の防備を強化することができると考えていた。
イギリス軍は国際情勢の悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点(植民地)であるマレー半島及びシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600、インド兵37,000、オーストラリア兵15,200、その他16,800の合計88,600に達していた。兵力数は日本軍の開戦時兵力の2倍であったが、訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。軍の中核となるべきイギリス第18師団はいまだ輸送途上であった。
また、ヨーロッパ戦線およびアフリカ戦線に主要部隊が張り付かざるを得ない状況であったことから、これらの植民地に配置された兵士の多くは世界各地のイギリスの植民地から集めた異なる民族の寄せ集めであった。
1941年12月4日、海南島の三亜で全船団の出撃を確認した馬来部隊指揮官・小沢治三郎海軍中将は、最後に主隊を率いて同地から出撃した。マレー攻略船団部隊は午前8時までに警戒航行隊形の制形を終えた。この日は晴れ・風向北・風速5米で、山下奉文陸軍中将以下約2万人の第二十五軍先遣兵団の乗船する輸送船18隻は、小沢中将の指揮する重巡5隻、軽巡1隻、駆逐艦14隻、駆潜艇1隻、合計21隻の艦艇に護衛され、マレー半島を目指して進撃を開始した。一方、南方部隊指揮官・近藤信竹海軍中将も、戦艦2隻、重巡2隻、駆逐艦10隻から成る南方部隊本隊を率いて同日午後12時45分馬公を出撃し、約700海里南西方にあるマレー攻略船団部隊の支援のために続行した。
マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊は、佗美浩少将率いる佗美支隊(歩兵第56連隊)で、兵力は約5500名、これを輸送する輸送船3隻合わせた搭載舟艇は約60隻、一回で2000人を輸送する能力があった。
1941年12月8日午前1時35分、第一回上陸部隊約1300名は約20隻の舟艇で隊形を整えてコタバル陸岸へ進発した。第二回上陸部隊は午前2時45分、那須歩兵連隊長以下が出発した。午前3時30分、第一回の舟艇の一部が船団に帰ってきたころ、英軍機3機が日本の船団と艦艇に攻撃を開始し、その後一時間にわたり低空爆撃と機銃掃射を反復した。そのため、橋本少将は揚陸を第二回までで中止し、船団はシンゴラに退避するべきと陸軍に意見を述べたが、陸軍の支隊長は上陸戦闘遂行上認めがたく3回必要であるとして、午前6時30分までに上陸が終了するとの支隊長の判断に基づき、同時刻になったら揚陸状況にかかわらず船団を退避することで合意した。第三回上陸部隊は第一回で使用した舟艇が細切れに戻ってくるのに逐次移乗出発することになった。その間、英軍機4機の反復攻撃により「淡路山丸」が被弾炎上して放棄され、残る2隻の輸送船も被爆して150名以上の死傷者が出た。午前7時、橋本少将は泊地の各艦に退避を命じた。上陸した第一線部隊は英軍の水際陣地に苦戦し、日没までにコタバル飛行場を占領する目標は達せられなかったが、佗美支隊は800名以上の死傷者を出す激戦ののち、8日夜半占領に成功。9日午前にはコタバル市街に突入し、英軍を急追して南進を続けた。
陸軍航空隊の第3飛行集団は陸軍航空の第一人者となっていた菅原道大少将が指揮し、陸軍航空隊のエリートを集めた精鋭部隊であったが、主力の九七式戦闘機の航続距離が短く十分な航空支援ができていなかった。「上陸部隊が飛行場を占領しだいそこに着陸せよ」という大胆な作戦を、第12飛行団長青木武三大佐に命じた。青木は自ら九七式戦闘機に乗り込んで船団護衛任務に就くと、地上部隊から「敵飛行占領す」との報告がなかったにも関わらず、自ら先頭に立って決死の覚悟でシンゴラ飛行場に強行着陸した。飛行場はすでに日本軍地上部隊が占領しており、味方の戦闘機が滑り込んできたのを見た日本軍将兵は歓声をあげ、作戦成功の知らせを受けた菅原も喜んでいる。菅原は占領したての飛行場に九九式双発軽爆撃機を進出させて、周囲のイギリス空軍の飛行場を攻撃させて制空権の獲得に努めた。
シンゴラはマレー国境近くのタイ領であり、第二十五軍先遣兵団は主力はシンゴラから、安藤支隊はパタニ、ターベから上陸し、マレー国境を突破し、所在の英軍の抵抗を排除してケダー州西部を南進しようと計画した。8日午前4時12分、シンゴラの第一回上陸部隊の先頭部隊が上陸に成功、上陸後は英国領事館を占領
パタニ、ターベ上陸を行う安藤支隊(指揮官は歩兵第42連隊長安藤忠雄大佐)は歩兵第42連隊を基幹とする人員約7200名、車両約230からなる部隊であり、輸送船6隻に分乗した。このうち歩兵一個大隊に各種部隊を加えた約2800名がターベに上陸する部隊で輸送船2隻に分乗していた。支隊の任務は主力をパタニ河口西岸に、一部をターベ北方に上陸させ、パタニ、ターベ両飛行場を占領し、ケダー州に進撃することだった。8日午前3時、パタニ・ターベ部隊ともに上陸開始に成功する。パタニではタイ軍の反撃があったが、午前11時40分頃、タイ軍は降伏した。夕刻までに両飛行場ともに占領に成功した。
宇野支隊(指揮官は歩兵第143連隊長宇野節大佐)は第十五軍第五十五師団の一部で、歩兵第143連隊を基幹とする各種部隊から成り、その任務は、佛印からタイに陸路進駐する近衛師団と呼応して、南部タイ各地に上陸して付近の飛行場を占領し、第二十五軍のマレー攻略を容易にするとともに、すみやかにマレー半島を横断してその西岸ビクトリア・ポイントに達し、その飛行場を占領して馬来方面作戦部隊の側背を掩護するのにあった。宇野支隊の上陸地は、ナコン、バンドン、チュンポン、プラチャップであった。別に吉田支隊(近衛歩兵第四連隊第三大隊基幹)が海軍艦艇の護衛を受けず、輸送船「白馬山丸」に乗船して、単船でバンコク南方海岸に上陸する。分進地点で分かれた宇野支隊船団は、「占守」がナコン船団を、「香椎」がチュンポン、バンドン船団を護衛し、プラチャップに向かう輸送船には護衛艦艇はつけられなかった。
7日午後9時頃、タウ島の東30海里でバンドン、チュンポン船団は両方面に分離し、「香椎」はバンドンの輸送船「山浦丸」を護衛した。バンドン上陸部隊の舟艇隊は8日午前8時40分、シーラット河口を発見して遡江を開始、午前10時頃、バンドン市に突入し、同日中に飛行場を占領した。宇野支隊長の直率するチュンポン船団は8日午前3時頃に泊地に侵入し、上陸後はタイ軍の抵抗を受けたが、武装を解除させ、飛行場を占領した。
ナコン船団の第一回上陸部隊は8日午前4時頃に舟艇隊を出発させたが、豪雨の影響で午前5時20分頃ようやく海岸に達した。しかし、目指すパクパーン河口の発見に手間取り、午前7時30分発見して遡江を開始。午前10時頃、ナコン駅付近に達し、若干のタイ軍の抵抗を排除してナコン市周辺と飛行場を占領した。
プランチャップに向かった上陸部隊は午前6時30分頃上陸し、タイ軍の抵抗を制圧し、飛行場を占領した。
一方、開戦前に日本の船団の接近を知った英東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップス中将は、出撃して日本船団を攻撃する決意をして、8日午後6時55分、戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス)、駆逐艦4隻(エレクトラ、エクスプレス、テネドス、オーストラリア籍のヴァンパイア)を率いてシンガーポールを出撃していた。
9日午後3時15分、伊65(原田毫衛艦長)が艦影二を発見、英艦隊発見の第一報を打電した。その後見失ったが、10日午前4時41分、潜水艦による再発見の報で英艦隊が反転してシンガーポールに避退中と知った南方部隊指揮官:近藤信竹海軍中将は、午前5時、これを追撃するとともに、第一航空部隊及び潜水部隊に対し「敵ハ〇三四一地点フモロ四五ヲ「シンガーポール」ニ向ケ遁走中ナリ 航空部隊及び潜水部隊ハ極力此ノ敵ヲ捕捉撃滅スベシ」と命じた。
第一航空部隊による索敵攻撃が行われた結果、午後1時頃、イギリス東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が撃沈された。航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の海戦となった。
12月12日午後7時、ベトナム中南部カムラン湾から輸送船「智利丸」「錦隆丸」が出撃しシンゴラへ先行したのに始まり、英領ボルネオ攻略部隊、マレー上陸部隊などが続き、13日午後12時20分、最後に小沢中将が「鳥海」「鬼怒」を率いて出撃した。マレー上陸のために分離した輸送船は途中敵襲を受けることなく、16日午前4時45分コタバル、午前10時シンゴラ、午前11時パタニ、午後11時ナコン、17日午前6時バンドンの各泊地で揚陸を開始した。
この作戦は英軍の戦艦2隻を撃沈した後だったので水上部隊に反撃される公算は低く、陸軍第三飛行集団の作戦成果により航空部隊の反撃を受けることも全くなく終了した。唯一潜水艦が脅威であり、すでに揚陸を終えたものを中心に輸送船が数隻撃沈されたが、日本もオランダ潜水艦「O20」を撃沈した。
佗美支隊は攻撃を続け、18日午後ナール河南岸陣地を攻略、夜にはクワラクライに迫り、20日午前8時市街を占領した。佗美支隊は12月22日未明からクワンタンへ転進を開始した。2同支隊は三方面からクワンタンに進撃し、12月31日には軍の要求通り同市付近一帯を奪取したが、飛行場は遠くクワンタン河右岸にあり、英軍主力の補足撃滅の企図も達成できなかった。1942年1月1日、クワンタン飛行場攻撃のため前進を開始、3日夜半飛行場占領。木庭支隊はQ作戦の中止に伴い、計画が変更されて12月28日コタバルに上陸し、陸路でクワンタンに到着した。
1月26日、輸送船団を発見したイギリス空軍は、残存戦力の総力を結集してこの船団を攻撃することとした。まずは、イギリス軍とオーストラリア軍の戦爆連合の編隊34機が来襲したが、上空援護していた第11戦隊と援軍として到着した第1戦隊が迎撃して17機を撃墜して撃退した。その後に第2波の約20機が来襲したが、弾薬を撃ち尽くして帰還した第11戦隊に代わり、飛行第47戦隊の二式単座戦闘機(鍾馗)2機が迎撃して15機を撃墜してこれを撃退した。輸送船団は軽微な損害を被ったが、揚陸は支障なく続けられた。この大損害によりシンガポールのイギリス空軍は壊滅状態に陥り、こののちイギリス空軍機は殆ど姿を見せなくなってしまった。27日、英軍は駆逐艦2隻でエンドウ泊地に迫ったが、日本の護衛艦艇が迎撃し駆逐艦サネットを撃沈した
英軍はクワラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃により組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、11日にはほぼその撤退を完了していた。
こうしてジョホール州南部における英軍の組織的抵抗はついに崩壊し、近衛師団はジョホール・バルに向かい追撃を始めた。
シンガポール
英軍側は、ABDA司令部司令官・アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)大将がジョホールでの戦闘は不利と判断し、1月28日に全英軍のシンガポール撤退を決心し、撤退を参謀本部に打電し、30日夜撤退を開始した。マレー軍司令官アーサー・パーシヴァル中将は「撤退は日本軍の妨害もなく実施され、1月31日をもってジョホールバル橋頭堡部隊と行方不明のものとを除き、全部隊はシンガポール島の撤退を完了した」と報告した。
日本陸軍は12月8日の上陸からジョホール・バル占領に至るまでの55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復、1100キロを進撃し、海上機動距離は650キロ。陸戦戦果は遺棄死体が約5000名、捕虜が約7800名。第25軍は戦死者1535名、戦傷者2257名。第三飛行集団は戦死者185名、戦傷者180名。
1941年12月21日、第3飛行団がイポーとクアラルンプールでバッファローを4機撃墜、翌22日には陸軍航空隊の最新鋭戦闘機一式戦闘機(隼)を配備した加藤建夫中佐率いる飛行第64戦隊の隼23機がクアラルンプール飛行場を攻撃、迎撃に現れたイギリス空軍第453飛行隊のバッファローと交戦して15機を撃墜するなど航空殲滅戦を展開し制空権を確保。シンガポールが近づいた1942年1月8日、菅原は第25軍のシンガポール攻略支援のために入念な航空殲滅作戦を命じた。菅原の命令に基づき、1月12日に72機もの大編隊がシンガポールを空襲、迎撃してきたバッファロー10機を撃墜し、重爆撃機は悠々とイギリス軍飛行場を爆撃した。この日はさらに第2撃も加えられ、イギリス空軍に多大な損害を与えた。
シンガポールのイギリス空軍には、1942年1月はじめに中東から新型戦闘機ホーカー ハリケーン2個中隊約50機が補充されており第3飛行集団の脅威となっていたが、1942年1月20日に、新鋭戦闘機ハリケーンと加藤率いる第64戦隊が初めて交戦。この空戦で隼は1機を失いつつも敵指揮官機を含むハリケーン3機を撃墜して完勝し、隼の優位性を実証している[139]。その後もハリケーンは日本軍の空襲の迎撃に出撃するが、そのたびに損失が膨んで、イギリス軍のハリケーンへの期待は裏切られた。そしてエンドウ沖で壊滅的な損害を被ったイギリス空軍に対して、第3飛行集団は爆撃機によりシンガポールのイギリス軍飛行場を連日攻撃し、たまらずマレー方面のイギリス空軍司令官ホッバム空軍大将やガルフォード空軍少将はシンガポールを脱出し、日本軍から撃墜撃破を逃れた残存機もジャワやスマトラ島に待避。
1942年2月4日朝、軍砲兵隊は射撃準備を終え、以後逐次射撃を開始し、シンガポール島に対する攻撃は軍砲兵の攻撃準備射撃で始まった[145]。8日、軍主力の渡航開始。 10日夜、連合軍の主陣地と予想されていたパンジャン付近の要線は大きな抵抗もなく予想外にたやすく攻略できた。11日朝、第25軍司令官は英軍司令官に対し降伏勧告文を通信筒で飛行機から投下させた。英軍の抵抗はシンガポール市街の周辺でにわかに強化され、日本の弾薬は欠乏したが、15日午後、英軍は降伏した。英軍司令官パーシヴァル中将は降伏の原因は断水にあると語っている。14日に砲撃、空襲で送水管、水道管が破裂し、15日給水状況は逼迫し、専門家が今後一昼夜の給水しかできないと判断したという。
2月15日午後10時、停戦となり、シンガポールの攻略作戦は終了した。
第25軍の発表では、2月末日までに判明したシンガポール攻略作戦間の戦果と損害は、捕虜が約10万人、日本の戦死1713名、戦傷3378名。イギリス軍は約5,000名が戦死し、同数が戦傷した。
2倍を超える兵力差を覆して、当時難攻不落と謳われたシンガポール要塞を日本軍が10日足らずで攻略した結果、イギリスが率いる軍としては歴史上最大規模の将兵が降参した。当時のイギリス首相であったウィンストン・チャーチルは自書で「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と評している。
連合軍司令官のアーサー・パーシヴァル中将の指揮下には、(書類上では)4個師団強に相当する8万5千の兵力があった。うち約7万人の戦闘部隊は38個歩兵大隊(英印軍17個大隊、イギリス本国軍13個大隊、オーストラリア軍6個大隊、マレー/シンガポール人の2個大隊)と3個機関銃大隊を基幹としていた。このうち2個師団は1月以降に護送船団で到着したばかりであった。
新着のイギリス軍第18師団(師団長M. ベックワース=スミス少将)は、完全編成部隊ではあったが、戦闘経験と適切な訓練を欠いていた。その他の部隊のほとんどはマレー半島で日本軍の攻撃から受けた損害から回復する時間はなく、定数を割り込んだ状態であった。現地人大隊はやはり戦闘経験が無く、いくつかの部隊は戦闘訓練すら未了であった。シンガポールには名高い大口径要塞砲として3門の15インチ砲をもつ1個砲兵中隊と15インチ砲2門をもつ別の1個中隊が含まれていた。これらの要塞砲は東方海上からの攻撃に備えて配置されていたため、一部は全周旋回できない設計であった。そのため、日本軍の侵攻ルートであるマレー半島側を砲撃できないものがあり、海を向いて配備された要塞砲は日本軍による再利用を防ぐためにあらかじめ解体処分された。要塞砲には主に対艦砲撃用の徹甲弾が配備され、対人殺傷効率の高い榴弾が配備されていなかったため、陸上部隊に対する砲撃の効果は少なかった。
大日本帝国陸軍の第25軍司令官の山下奉文中将の指揮下には、近衛師団(師団長・西村琢磨中将)、第5師団(師団長・松井太久郎中将)、第18師団(師団長・牟田口廉也中将)の3個師団からなる3万強の戦闘部隊があった。戦闘員の数では連合国軍に比べ劣っていたが、その練度と経験、装備の性能でははるかに勝っていた。
近衛師団には九五式軽戦車からなる戦車旅団が配属されていた。また、最新鋭の一式戦闘機を擁した第59戦隊と第64戦隊がこれらを空中から援護した。
イギリスから独立したばかりの隣国アイルランドでは長年にわたる支配への恨みから反英感情が強く、特に独立運動を弾圧してきたパーシヴァルが降伏したことで元アイルランド共和軍(IRA)幹部らがダブリン駐在の別府節弥領事を囲んで祝賀会を開いたという。産経新聞. (2017年2月5日)
マレイ半島での兵站に関しては、日本軍はイギリス軍から鹵獲した食糧、燃料、軽火器等を活用した。糧食は日本軍のものより味も良く兵士たちは「チャーチル給養」と名づけて喜んだという。当時マレーには500万の人口が居住し肥沃で農業が盛んで食糧は豊かであったため、現地での食糧などの調達も円滑に進んだ。このようにして本来兵站能力に欠けた日本軍は、貧弱な補給部隊に依存することなく軽快に行動できた(後日、兵站能力に欠ける日本軍は人口希薄で食糧生産の乏しいガダルカナルやニューギニアで飢餓に苦しんだ)。
シンガポール華僑粛清事件
1942年2月15日、イギリス軍が日本軍の第25軍に降伏し、日本軍はシンガポールを占領した。
同月21日に、第25軍司令部は、アヘン麻薬貿易組織・抗日分子や旧政府関係者の摘発・処刑のため、シンガポールの市街地を担当する昭南警備隊、シンガポール島のその他の地域を担当する近衛師団、マラヤ半島のジョホール州を担当する第18師団およびジョホール州以外のマラヤ全域を担当する第5師団に粛清を命じ、シンガポールを含むマレー半島各地で掃討作戦が行われることとなった。
日中間の戦争状態が拡大する中で、東南アジア各地では、日本軍施政圏下のアヘン麻薬貿易禁止に対する華僑による抗日運動が盛んになっており、特にシンガポールの華僑は1938年10月の南僑総会の組織化に中心的な役割を果たし、1941年12月30日にはイギリス当局の要請もあって中華総商会を中心に星州華僑抗敵動員総会を発足させるなどしていたため、日本軍はアヘン麻薬貿易の中継地であるシンガポールの華僑がアヘン麻薬貿易組織の中核であり抗日運動の中心になっていると見なしていた。
マレー半島ではイギリスがスズ鉱山などでの労働力として導入した中国人が急速に増え、海峡植民地の人口は1940年にはマレー人228万人に対し華僑は235万人に達したが、華僑は支那事変以来蔣介石政権に通じて、抗日ゲリラ活動を行っていたことから、マレー半島を占領した日本軍は華僑を粛清した。粛清された華僑は、日本軍により「大虐殺」されたとして、今日では日本のアジア侵略の代名詞になっているが、海峡植民地の華僑は、常に植民統治者の側にあり、その番頭、仲介人となり、政治を白人が司るなら、経済は華僑が牛耳り、マレー人に対して白人以上に搾取者・収奪者となった。海峡植民地は東南アジアでも、最も華僑に支配された地域であり、海峡植民地で日本軍の占領を歓呼の声で迎えたのは、マレー民族主義を掲げるマレー青年同盟(Kesatuan Melayu Muda; KMM)だった。そのため日本軍は華僑を徹底的に排除し、マレー人とインド人を優遇した。また、インドネシアの独立運動の歴史は長いが、それは華僑の経済搾取に対する反抗運動でもあり、華僑はオランダ人以上に過酷な搾取を行い、イスラム同盟の運動は、直接的には華僑排斥運動だった。白人の植民地支配は、代理支配する人種を設定するものであり、アジアではインド洋からアフリカが印僑、ビルマから東は華僑が代理支配役を務めた。東南アジア諸民族と華僑との対立は、経済的・文化的なものを超え、民族対立にまで昂進しており、政治的変動のたびに、華僑には襲撃が加えられ、戦後も華僑への反感は消えておらず、ベトナムは華僑の追放を行い、中越戦争を引き起こした。インドネシアでも1998年5月インドネシア暴動が発生しており、インドネシアでは華僑は経済を牛耳り、暴利を得ながらもそれをインドネシアには還元せず、自分たちだけで独占し、華僑の故郷とする中国に投資すればするほど、地元の反感・憎悪は高まり、華僑はイスラム教徒との協調性にも欠け、嫌われ者となっており、インドネシアでは中国語書籍の販売を禁止していたこともある。華僑には民族的な優越感があり、在住国の民族との同化や融合を拒否しており、日本軍の華僑粛清は、このような民族間の緊張の中で行われ、日本軍の進軍が東南アジア諸民族から歓迎されたのは、支配者である白人を駆逐したからだけでなく、その代理支配を担当していた華僑を粛清したためである。海峡植民地を軍政下に置いた日本は、1942年5月にシンガポールに昭南興亜訓練所を開設し、マレーの各州からマレー人、インド人、華僑の若く優秀な官吏を選抜し、農業技術、軍事技術、そして国家とは一体何であるかを徹底的に叩き込み、新国家建設の中枢を担える人材を養成した。また、若い人材を南方特別留学生として日本に派遣し、マレー人の行政人材を養成した。その後、昭南興亜訓練所はマラヤ興亜訓練所に引き継がれ、1000人以上の卒業生を輩出し、その卒業生がマライ義勇軍の将校となり、マレーシアを独立させ、独立後の政治・経済における中核となった。海峡植民地における華僑の粛清とマレー人の行政人材育成は、今日のマレーシア連邦の基礎を築き、華僑を追放しない限り、アジアの解放はありえず、黄文雄は「よく見落とされる日本軍の東南アジアへの貢献がある。それはマレー半島などにおける華僑に対する『粛清』だ」「一昔前には東南アジアの反日デモがしばしば報じられたが、それを主導してきたのは華僑勢力と、何らかの意図がある日本のマスコミであることに注意しなければならない。華僑は、日本政府の反省と謝罪表明を喜んで受け入れるだろうが、諸民族は逆にそれを、日本の東南アジアへの敵対行為と見るはずである」と述べている。
戦犯裁判
1947年3月10日からシンガポールのビクトリア・メモリアルホールで開始された裁判では、主として、上官命令が戦争犯罪行為の弁護理由になるか否か、粛清・虐殺が「軍事的必要で緊急かつ不可避に要求するもの」であったかが議論された。
検察官側は、事実関係として、
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2月18日 プンゴール・ロード末端近くの海岸にて 約300名
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3月1日頃 チャンギ・ロード10マイル里標近くにて200名から300名
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2月23日頃 東海岸ロードの7.5マイル(約12キロ)地点にて約120名、タナメラ地域チャンギ海岸にて500名から600名
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2月16日以降 タンジョン・パガーにて約150名
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2月21日以降 フォート・カニング近くのチャンギ海岸にて200名から400名
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2月23日 アンバー・ロード近くの海岸にて約500名
の華人が殺害されたと主張した。
弁護側は、多数の殺害の事実関係そのものは争わなかった。軍政下の麻薬取引や暴動、ゲリラ活動は戦時国際法で裁判無しでの即時死刑執行が認められており、一部の抗日華僑が民間人に変装してゲリラ活動を行おうとしたことは証拠があり、粛清は正当な戦闘行為の一環だったこと、各地区では上層部の命令に従って指示された対象を射殺しており、軍隊内での命令は絶対で逆らうことはできなかったことを主張した。また上層部を満足させるため、殺害した人数を水増しして報告しており、供述した人数が起訴状では民間人の証言によって更に水増しされていると主張した被告人もいた。
これに対して検察側は、軍事上の必要性は戦争法規からの逸脱の免責事由にはならないと反論した。
判決
1947年4月2日、河村警備隊長と大石憲兵隊長の2人に絞首刑、他の5人に終身刑が宣告された
賠償
1966年10月25日、日本政府はシンガポールとの間で、2,500万シンガポール・ドル相当の日本の生産物と役務を無償で供与する、という内容の戦後賠償協定を締結し、その協定を1967年9月21日にシンガポールにおいて両国外相が「第二次世界大戦の間のシンガポールにおける不幸な事件に関する問題の早期のかつ完全な解決」のためであるとして調印した。
1976年2月15日の追悼式(日本占領時期死難人民記念碑にて毎年開催)には、高橋・シンガポール日本人会会長と林・日本商工会議所会頭が参列、供花した。
1994年8月28日に、村山富市首相が日本の首相として初めて慰霊塔(日本占領時期死難人民記念碑)を訪れ、献花した。
2017年2月15日の75周年の追悼式では、篠田研次駐シンガポール大使が初めて、追悼式に日本国代表として公式参加し、慰霊塔(日本占領時期死難人民記念碑)に献花した。篠田大使は「深い悲しみと哀悼の意」を「日本人の圧倒的多数とともに共有」と慰霊の言葉を述べた。日本大使の参加は、日本を「敵ではなく平和のパートナー」として参加することを現地の追悼委員会の委員長が提案し、声かけしたもので、現地でも広く報道された。また、当日は、現地のシンガポール日本人学校からも、代表として参加した現地在住日本人の子弟である生徒2名が、慰霊のために折った折鶴を持参して追悼した。
図解太平洋戦争
マレー沖海戦で日本軍機の攻撃を受け回避行動を行うプリンス・オブ・ウェールズ(画面左前方)とレパルス(画面左後方)
下左
プリンス・オブ・ウェールズ
下右レパルス
シンガポール
英東洋艦隊
コタバル上陸作戦
タイ上陸
賠償
マレーの虎 ハリマオ
「マレーの虎 ハリマオ伝説」中野不二男著 新潮社1988年から主として引用
HA RIMAUとはマレー語で「虎」を意味する。
日本軍が1941年12月8日マレー半島に上陸し、1942年2月15日シンガポールを占領するまでマレーの戦いを日本軍とともにした若者がいた。2歳からマレーで育ち、マレー語を話し、マレーの子供たちと遊び、イスラムに改宗し、マレーの若者たちから慕われ、日本で徴兵検査を受け、マレーの若者たちとともに英国軍と戦い、マレーのハリマオと呼ばれジャングルを含む約1000㎞を走り回り、最後はマラリアに感染して3月17日31歳で亡くなった。
谷豊は1911年福岡で生まれた。2歳の頃一家でマレーのクアラ・トレンガヌに移り住んだ。トレンガヌはマレー東岸ではコタバルに次ぐ街だったが、大通りには孔雀が出てきたり、虎が牛を飼っている家の牛を食べることがあったという。父親は福岡以来、理髪店を営んでいた。
1916年「教育は日本で」という父の意向もあり、学齢期にはいったん二つ違いの妹と帰国(伯母、叔父の家に滞在)し、曰佐尋常小学校に入学し卒業。引き続き曰佐高等小学校に入学した。トレンガヌではいつもマレー人の友達とマレー語で遊び、妹ユキノはユウ、豊はママと呼ばれていた。日本では言葉がわからず親元のこと、トレンガヌのことばかり考えていた。
豊の「ママ」は親しみと尊敬をこめた相手を呼ぶときのもので、例えばヴェトナムのホーチミン大統領を支持するマレー語系メディアは「ママ・ホー」と呼ぶ。豊はマレー人の友人の間では人気があった。
日本では学校でも買い物へ行っても言葉がつうじず、母が病気になった時も、病気になったことがわからなかった。妹があまりにいじめられて豊が手を挙げることもあった。腕力はあったが、普段はあまり喧嘩をしなかった。
1924年迎えに来た母とともに再びクアラ・トレンガヌへ戻り、理髪店を手伝い、以前にもまして仲間が増え、店には大勢仲間のマレー人も来た。妹が言うには「その仲間たちが、ママって名前を聞くと、みんなピッとして、なんでもいうことを聞くんですよ。兄はたしかに人の下になるのが嫌いでしたよ。でも上に出たがるわけでもなかったですし。食べ物もなんでも一つしかなくても人が来れば分けてしまうような性格でした。」
豊の父は「外国へ来とるということは、日本人の代表だ、恥ずかしい真似をしたらいかん」と言い、町のどっかで日本人が金に困っていると聞くと、貸してくれとも言われてないのに人力車にのってお金を届けた。店にマレー人の物貰いがきても、ああ、分かった、分かったと言って、お金をやっとりました。恩を着せたり、貸してやるようなやり方をしたらいかん、「はい、さしあげます」というて出さにゃあいかん、と言っていた。
1931年、19歳のとき、徴兵検査を受けるため再び帰国。
前年の12月1日から11月30日までの間に満20歳となるものは徴兵検査をうけねばならない。豊はこの年、11月6日で20歳。
海外に居住するものは延期願いも出せたが、父親は「兵隊検査に遅れてはいかん、日本人はちゃんと兵隊検査をうけなきゃならん」と帰国させた。
徴兵検査の結果は身長が規定(1.55m)に達しなかったために丙種合格(軍に入営する現役に適さず、戦時の際に必要なだけ召集される)だった。その後、アサヒ足袋(後の日本ゴム)に入社したが間もなく辞め、福岡市内の渡辺鉄工所に就職した。
1919年
対華二十一箇条要求→五・四運動 排日運動
1931年
9月8日柳条湖事件が発生し、満州事変に発展、
1932年
5月5日 第1次上海事変: 上海停戦協定調印
9月15日 日満議定書調印
1933年
2月23日 - 日本陸軍、熱河省に侵攻。
5月7日 - 日本軍、華北に侵入。
と日本の侵入は続き、中国人の反日、排日は中国はもとより、アジアの華僑にも広まっていった。
1933年11月6日、満州事変以降の日本軍に怒った華僑の暴漢(外来の広西人)がトレガンヌの日本人の経営する店々を襲い、谷家(店舗兼住居)の2階で風邪で寝込んでいた豊の末の異母妹静子が斬首され殺された。暴漢は静子の首を持ち去った。犯人は逮捕後死刑になったとも、無罪放免になったとも言われる。
豊はその話を聞いた後、叔父に別れを告げて、マレーに戻ったのであるが、だれも再会できなかった。豊はその後イスラム教徒になった。
翌1935年、谷一家は豊をマレーで探し続けたが会えぬまま、日本へ引き揚げた。
1934年ごろ、豊はクアラルンプールの監獄で鈴木泰三というクアラルンプールで事業を営む日本人に会う。鈴木はのちにF機関の機関員となるがその時は通訳として監獄に呼ばれた。豊は英国人の屋敷に泥棒に入って逮捕されていた。英国人取調官は豊が、華僑に殺されたトレンガヌの理髪店の長男であることなど調べ上げていた。豊はマレー語で話し続けた。
そして、取調室で鈴木に強い不満をぶちまけた。妹殺害の犯人を釈放するのは、理屈に合わぬではないかと、州の警察に訴えたが埒が明かない。さらにその犯人を裁判で無罪にしたクアラルンプールの裁判所に不服を申し立てたが、これも思うようにいかなかった。それでもあきらめずに英国側のさまざまな機関に訴えたが、ことごとく無視された。1934年ならば、日本は12月にワシントン、ロンドン両条約を破棄しているので影響があったのか。
単なる窃盗でありその後、短期間で釈放されたらしい。そのころから鈴木は、豊が英国人の家を襲った、逮捕された、また襲ったという噂を、頻繁に耳にする。投獄されたのは一度、二度ではなかった。しかし、人を殺したり、危害を加えることはなかった。警察としても単なる泥棒では長期に拘留できなかっただろう。このころ豊はハリマオとよばれていなかったようだ。しかし、次第に豊は変わった。
その後の話。「手下も大勢いましたよ。かわいがっていたんでしょうね。盗んだものを全部ばらまいたりして。なんにも私財にしていなかったようです。まあ、贅沢するようなものはないけれど、たべものは誰でも手に入りますし、金があっても富裕の生活しかできない状態でしたから」
豊のターゲットはゴム園を経営する白人や、中国人の貴金属商で、やはり分け前はすべて仲間に分けていた。マレーで危なくなるとタイへ来て新聞にものるし、マレーの手配書(居場所を通報すれば5万ドル、捕らえたものは10万ドル)もタイの町々に張り出された。「白人以外の警官なんかは、みんな子分だといわれてましたね。つかまりっこありませんよ。憎まれてはいなかったですね。えらいやっちゃなあ、と多少畏敬の念をもってみられていました。」
豊は英国官憲に妹の事件を正当に扱ってもらうことを訴えるのは徒労と知り、私的制裁に出たというのが筆者中野氏の想像である。手下を増やし、ときに町に現れて襲う豊のことを華僑たちがハリマオ(虎)と呼ぶようになったのか。
1941年4月谷を説得してF機関に勧誘するため、神本利夫が南タイの監獄にいる谷豊をみつけ25バーツ(約160円)で釈放させた。その後、F機関の土持が説得した。その日F機関の偽装商社「大南公司」シンゴラ支店の裏口から暗くなってマレー人の服、バケツをぶら下げた魚屋が音もなく入ってきた。人を威圧するような、いかにも親分という30歳くらいの顔つきだった。」
谷豊のつたない日本語もあり、二人は長い間話し合った。
「君の中にも日本人の血が流れているんじゃないか。もし戦争となったら軍に協力してくれ」と。「協力します。私もお願いがある。戦争となったら命を懸けることになるから、写真を撮って家族に送ってほしい。」
ハリマオ、谷豊のF機関での任務は詳細は分からないが、反英、対日協力の醸成と促進などでなく退却する英軍よりも先回りし、退路にある橋梁の破壊やダムの確保などであったらしい、潜伏活動であり一般道でなく山中を行かねばならない。日本軍は平地を自転車などで突進したが、仲間を連れてマレー半島を縦に走る山脈を走り回り、鉄道を爆破したり、確保したり多くの失敗もあった。
日本軍は1月31日シンガポールの英軍とジョホールバルで対峙する。そのころ豊はマラリアが再発。まもなくシンガポール陥落。
2月15日機関長藤原大佐の手配でシンガポールの病院へ下士官待遇で移る。
F機関で機関長に次ぐ副官であった山口中尉によると、3月17日は「もうやせ衰えて、顔も青かった。あれほど山の中を走り回っていたのに、肌はきれいでした。窓の外は日が暮れかかっていました。谷君、ご苦労さん、よくやってくれた、元気を出せと言い、軍属になったことも伝えました。藤原さんはいま東京に行っているが(インド仮政府の工作)戦争が終わればマレーの政治をみる軍政部の一員だ。君の部下の中からも、いいやつを出してもらえるか、といったら、ずいぶん喜んでいました。(軍属になったのは藤原少佐が上層部へ推薦したもの)」谷は「おれのような人間が官員さんになれるなんて、夢のようです、と涙をこぼしながら、何度も何度も繰り返していた」「それから、彼が病院に入った時、私どもはもしもの場合は機関葬をやろうと思っていたんです。ところが、息を引き取る二、三日前でしたか、自分はもうだめだと思ったんでしょう、一つだけ頼みがある、ぼくが死んだらここにいる仲間にまかせてほしい、日本の偉い人にも来てもらったら困る。回教のやりかたで、この者たちにやってもらう、と断ったんです。ええ、いつも五、六人の仲間が介抱していましたから。しかし…そうはいっても、機関から誰か行くべきだった。そこまで行ってやればよかった。」豊が息をひきとったのは、午後七時か、八時頃だったと思われる。病院の外には、ほかにも20人ほどの仲間がいた。豊の遺体はベッドから五、六人の仲間にかつがれて陸軍病院の外へ、そして日がとっぷりと暮れた山道を、豊の遺体は大勢の仲間の肩に支えられて、どこかへ運ばれていった。回教徒、谷豊の墓がどこかは分からない。日本人墓地には彼の顕彰碑のみがある。
1942年4月3日、東京の参謀本部から福岡の家族に連絡があり、藤原岩市参謀が来訪、豊が軍属として戦死したことを伝えた。家族は長らく会えなかった豊の遺品をいくつも受け取ることができた。
ハリマオの話は「靖国の神」「軍事探偵」などと戦意高揚に使われた。
ハリマオ
新聞の一面に大きく取り上げられただけでなく、すぐに1年後には現地ロケも終えて、映画が封切られた。
藤原岩市 1908年(明治41年)3月1日 - 1986年(昭和61年)2月24日
陸士43期、陸大50期
開戦前から陸軍中野学校の卒業生を中心に民間人を装い事前工作を指揮。藤原機関、通称F(Freedom, Friendship, Fujiwara)機関の秘密工作は日本陸軍のマレー・シンガポール侵攻作戦に平行あるいは先行して行われた。主としてマレー半島における民衆とインド将兵、華僑に対する懐柔と宣撫をする。アジア人を味方につけてイギリス軍を孤立化させる目的。
F機関と藤原の最も大きな功績は、インド国民軍の創設である。当時タイに潜伏していた亡命インド人のグループと接触して、彼らを仲介役として藤原は英印軍兵士(在マレー英軍16万人の内、6万人はインド人)の懐柔を図った。藤原は、降伏したインド人兵士をイギリスやオーストラリアの兵士たちから切り離して集め、通訳を通して彼等の民族心に訴える演説を行った。この演説は(日本についての歴史的評価がどうであれ)インド史の一つのトピックである(The Farrer Park address)。インド国民軍は最終的に5万人規模となった。
期待以上に大きくなったインド国民軍は、一少佐の手に余るものであり、F機関を発展解消して岩畔豪雄を長とする岩畔機関を作った。日本軍とインド国民軍の間で、またインド国民軍の内部で、トラブルが頻発し、インド国民軍のトップを誰にするかで大問題となった。彼らをまとめられる人物としてインド人の推挙に従いスバス・チャンドラ・ボースを呼び寄せることになるが、インド国民軍初期の統率者であったモーハン・シンは任を解かれて怒り、藤原は彼を宥めなければならなかった。
F藤原機関
右の立って両手を後ろに回しているのが藤原。机の上に両腕を置いてイギリス側と対面しているのが山下奉文将軍
マレーシアとの賠償
準賠償を受領した4カ国は、いずれも(1)サンフランシスコ平和条約を締結したか、または別途に日本と平和条約を結んで、その上で(2)賠償請求権を放棄したことの見返りに無償供与を得ている。これ以外に、正式な平和条約で規定されるところの賠償請求権を放棄しないで、賠償に類する無償供与(準賠償)を受けた国々がある。いわゆる血債問題(華僑粛清)について準賠償を受けたマレーシアとシンガポールは、サンフランシスコ平和条約の時点では未だイギリス領であり、かつサンフランシスコ平和条約を調印した当時の宗主国であるイギリスが既に賠償請求権を放棄してしまっている。ビルマのように別途に平和条約も結んでいないので、無償供与の引き換えに放棄できる正規の賠償請求権も持たない(ビルマは戦時中はマレーシア・シンガポールと同じく英国領であったが、サンフランシスコ平和条約当時は既に独立していた)。例えば「マレーシアとの血債協定」には次のように記さ
れている:
日本国政府及びマレイシア政府は、第二次世界大戦の間のマレイシアにおける不幸な事件に関する問題の解決が日本国とマレイシアとの間の友好関係の増進に寄与することを認め、両国間の経済協力を促進することを希望して、次のとおり協定した…日本国は、現在において二千五百万マレイシア・ドルの価値に等しい二十九億四千万三千円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務をマレイシアに無償で供与するものとする。
なお、マレーシアのガザリ・シャフィ外務大臣(英語版)は、大東亜戦争中に日本軍が創設した興亜訓練所で学んでいたことから、大東亜戦争についての理解が深く、日本から受け取った賠償金の使用方法について大変な心遣いをしており、「日本人は気づいていなかったかも知れないが、(賠償の)受け手となった、かつて日本占領の犠牲者であった新興独立国の一部は、賠償が血償への支払いとして反日感情を招くことを回避するため、そして日本の賠償が一段と賞賛に値するものへと転換させたことで日本の手助けをした。マレーシアでは、賠償金を使って合弁の国際海運会社を始め、今日ではこの会社は反映し、日本とマレーシアの協力のシンボルとなっている」と語っている。
マレーシア賠償
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