top of page

​石油確保と援蔣ルート


​米国との摩擦
日本が米英に宣戦したのは、アメリカが対日石油禁輸の措置を取ったことが直接の原因となったと言われる。本当に米国と戦争する必要があったのか?戦争以外に道は無かったのか?

1940年頃の日本の米国への依存度は 
石油  米国76.7% 蘭領東インド14.5%  その他 
鉄類  米国69.9% 中国15.6% インド7.5% その他 
機械類 米国66.2% ドイツ24.3%  その他

1939年7月 日米通商航海条約破棄通告受ける 1940年1月失効

日中戦争の勃発後、中国での日本の軍事行動が次第に拡大。その過程でパネー号事件(1937年12月12日、日本の海軍機が、パネー号ほか数隻のアメリカ船舶を攻撃して沈没させた。 これが意図的なものなのか誤りによるものなのかについては、日本とアメリカとの間で主張がわかれたが、日本は事件が誤りによって起きたとして、ただちにアメリカに対して陳謝。 しかし、パネー号事件は、アメリカで大々的に報道され、厳しい対日世論を引き起こした)等の、日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が頻発。

1931年の満州事変以来、日本の中国進出が進み、1937年に日中戦争がはじまるとさらにその支配圏は、満州のみならず中国本土に拡大された。日本は軍事的必要を理由に第三国の貿易・旅行の自由を制限し、華北・華中でも独占的な経済支配を行った。アメリカ政府内部には対日経済制裁論が台頭。アメリカ国務省内部では、昭和13年(1938年)春から夏にかけて具体的検討を行ないはじめたが、その際、制裁手段への法的障害として、日米通商航海条約の存在が指摘された。この条約の廃棄に関しては、この段階では賛否両論に分かれていた。 
しかし、昭和14年(1939年)4月9日、天津の海関(当時の中国において開港場に設けた税関のこと)の監督で「親日的」と見られていた程錫庚が暗殺され、その容疑者がイギリス租界に潜伏。日本側は容疑者の引き渡しをイギリス側に要求したが、イギリス側はこれを拒否。そこで、日本軍はイギリス租界を封鎖し、検問所でアメリカ人を除いて出入りの者全員を厳重に取り調べ、身体検査を行なった。この事件に対しチェンバレン英首相は、議会において、忍びがたい侮辱だと言明しながらも、武力による解決には訴えなかった。その後、日本とイギリスとの間に交渉が行われ、イギリス側はこの件に関して全面譲歩をせざるを得なくなる。アメリカは、この結果に非常に不満であり、日英両国の取り決めに影響を与えるべく、日本が中国におけるアメリカの通商権益を妨げているとして、かねてから論議のあった日米通商航海条約廃棄を決定し、1939年7月、アメリカ合衆国は日本に対して日米通商航海条約の破棄を通告した。条約破棄は規定により通告6か月後の1940年(昭和15年)1月26日に失効した。
失効以降はアメリカ側が輸出入に関して制限をかけても日本に対抗手段  がない状態となった。

第五條 両締約國ノ一方ノ版圖内ノ生産又ハ製 造ニ係ル物品ニシテ他ノ一方ノ版圖内 ニ輸入セラルルモノニ對スル輸入税ハ 今後両國間ノ特別取極又ハ各自ノ國内 法ニ依リテ之ヲ定ムヘシ締約國ノ孰レノ一方タリトモ他ノ一方 ノ版圖ニ輸出セラルル物品ニ對シ同様 ノ物品カ別國ニ輸出セラルルニ當リ納 付シ又ハ納付スルコトアルヘキ所ト異 ナルカ或ハ之ヨリ多額ナル何等ノ税金 又ハ課金ヲ課スルコトヲ得ス又締約國ノ孰レノ一方タリトモ他ノ一 方ノ版圖ヨリノ物品ノ輸入又ハ該版圖 ヘノ物品ノ輸出ニ對シテハ同様ノ物品 ノ別國ヨリノ輸入又ハ別國ヘノ輸出ニ 對シテ均シク適用セラレサル何等ノ禁 止ヲ加フルコトヲ得ス但シ衞生上ノ措 置トシテ又ハ動物及有用ノ植物ヲ保護 スルノ目的ヲ以テ加フル禁止又ハ制限 ハ此ノ限ニ在ラスwikisource 

1939年12月米国道義的輸出禁止令(モラル・エンバーゴ)発動
     航空機用燃料、製造設備、製造権の対日輸出禁止
1940年
  1月 日米通商航海条約が失効
  3月30日南京傀儡政権(汪兆銘)
  6月 米国特殊工作機械等の対日輸出許可性を実施
  7月 米国「国防強化促進法」成立。大統領に輸出品目選定権。
  8月 米国、オクタン価87以上の航空揮発油、ガソリン添加用
      四エチル鉛、鉄・屑鉄、特定石油の輸出許可制を実施     
  9月 米国屑鉄の全面輸出禁止
  9月27日 日独伊三国軍事同盟。     
  9月28日 日本軍、北部仏印進駐。(援蔣ルート遮断)
  9月 米国屑鉄の全面禁輸
  10月 大政翼賛会、発足。
  12月 米国 航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制
1941年  
  6月 米国 石油の輸出許可制
  7月 日本の在米資産凍結令 日本軍南部仏印進駐
  8月 米国 石油の対日全面禁輸 

石油対日輸出禁止
日本は1937年から日中戦争を始め、それによりパネー号事件などの日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が発生するに従い、中国大陸の権益に野心があったアメリカでは対日経済制裁論が台頭してきた。近衛内閣が1938年に発表した東亜新秩序声明に以前から日本を敵視していたアメリカは態度を硬化させ、1939年に日米通商航海条約の廃棄を通告した。1940年1月に条約は失効。

12月12日揚子江上において、日本海軍機がアメリカ合衆国アジア艦隊河川砲艦パナイ(パネー)」を攻撃して沈没させ護衛されていたスタンダードオイル社のタンカー3隻を破壊し、さらにその際に機銃掃射を行ったとされる事件。事件発生時、第三艦隊司令部の伝達不備からパナイの最終避難位置情報が伝達されておらず、現地航空隊は南京付近に第三国艦船が存在することを知らなかった。そのため大本営海軍部の公表は、パナイを中国船舶と誤認したのはやむを得なかったとし、日本陸軍への誤爆を含むあくまで誤爆事故だったと釈明したが、アメリカでは日本海軍機による故意爆撃であるという認識が定着していた。故意爆撃か誤認爆撃かの決着は見なかったが、いずれにしても事件から約2週間後に日本政府からの陳謝がアメリカ政府に受け入れられ、事態は概ね収束した。


1940年9月、イギリス・アメリカなどが蒋介石政権に物資を補給するルート(援蒋ルート)を遮断するために、日本は親独のヴィシーフランスとの条約締結のもと、仏領インドシナ北部へ進駐した(北部仏印進駐)。さらに同月ドイツとの間で日独防共協定を引き継ぐ日独伊三国軍事同盟を締結した。この同盟によりアメリカは日本を敵国とみなし、北部仏印進駐に対する制裁と、日中戦争の拡大など日本の拡大政策を牽制するという名目の元、アメリカは屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。アメリカの資源に頼って1937年以来、日中戦争を遂行していたため、その供給停止により日本は苦境に陥った。

その一方で、日本は蘭印(オランダ領東インド)と石油などの資源買い付け交渉を行っており(日蘭会商 )、結果的には日本は、蘭印と石油200万トンの供給量で合意した。この量は、当初の希望量の2倍であった。この交渉で鍵となったのが航空機用燃料の量で、アメリカの圧力によって蘭印側は、日本が求めた量の1/4に留められた。日蘭会商の芳澤団長は蘭側へ交渉の打ち切りを通告した。なぜか?

戦争と石油(3)  『日蘭会商』より
石油を含めた重要物資の購入交渉 (日蘭会商)
海軍 は昭和に入ると、その効率性から艦艇 の燃料を石炭から石油へと切り替えていた。昭和5(1930)年、国内の原油 生産量は約32万kℓであった。この国内の生産量は若干の増減はあるものの、太平洋戦争が始まるまで変化はない。石油の輸入先は米国が大部分で、その依存度は平均80%、昭和14(1939)年には石油の備蓄を目的にした緊急輸入によって90%にも達していた。
  石油輸入量(万トン) 内米国から 蘭印から
1935年         345                 231 (67%)            
1937年         477                 353 (74%)                87
1939年         494                 445 (90%)                57
 
泥沼化する日華事 変と強化される米国の経済制裁のなか で、1940年7月に大本営陸海軍部が提案した「世界情勢の推移 に伴ふ 時局処理要領」が大本営政府連絡会議で採択された。 
 この要綱のなかでは、「蘭印に対しては、暫く、外交的処置により其重要 資源確保に努む」とあるものの、対南方への武力行使に関しては、「支那事変(日華事変)の処理未だ終わらざる場合、第三国と開戦に至らざる限度に於 いて施策するも内外の情勢特に有利に進展するに至らば対南方問題解決のため武力行使することあり」と強硬路線が現れるようになった。
 翌8月、大本営海軍部が作成した「時局処理要綱に関連する質疑応答資料」では、これの路線を詳細に説明し、武 力行使を必要とする時機として次の場 合を挙げた。
1. 好むと好まざるとにかかわらず武力行使を要する場合。
 (1) 米国の全面的な禁輸の断行、及ひ(び)、第三国がこれに呼応したため必需物資の取得上、止むを得ざる場合。
 (2) 米国と英国が協同して帝国に対 する圧迫を加へ、または、加へんとする企図が明瞭となった場合。(太平洋方面英国 領の内、要所を米国にて使用す ること明らかになれる如き)
 (3) 比島方面、英国の東洋での兵力 の著しき増勢等、米国、英国に 
して単独に我の存立を直接に脅威する措置を執れる場合。
2.好機到来の場合
 (1) 米国が欧州戦争に参加し、東洋この事態に対して割き得べき余力 が小となれる場合。
 (2) 英国の敗勢が明らかとなり、東 洋に対する交戦の余力が小とな 
れる場合。
3. 帝国の威信上、武力の行使がやむを得ざる場合。

このような背景下、1940年5月、米内光政内閣は蘭印に対して、 オランダがドイツに占領された後、蘭印の現状を維持することを宣言した見返りとして、石油、ボーキサイト、ゴムなどの重要資源の供給を求めた。同年7月に成立した第2次近衛文麿内閣は重要資源を外交で確保し、輸入を図るべく蘭印への使節団を派遣する計画を立てた。この交渉が日蘭会商である。
当初、政府は総理級の人物が使節団長として適当と考え、前拓務大臣の小磯国昭予備役陸軍大将(後に首相)を候補に挙げた。 
 小磯大将は団長を引き受ける条件として海軍陸戦隊の同行を希望。更 に、現地で陸戦隊の力が不足する場合には陸軍2個師団の派遣を要望した。さすがに、この砲艦外交的な要求には東條英機陸相も「随分、非常識なことを言ひますね」とつぶやいた。 
 また、小磯大将は団長の人選中に記 者会見で、「蘭印の住民は経済的には 白人と華僑の極端な搾取を受け、政治的、文化的に実に低い水準にある。日本は彼等と民族的に近ひものを持っている。虐げられた東洋民族を救済するのは日本の宿命だ。東亜新秩序も此処 に意義がある」、「蘭印には豊富な物資があり、日本をして旧来の欧米に依存している状態から極東の自給自足体制に転換する希望を達せしめるものであって、世界の平和、共栄のための南 進政策、これが日本の南方に対する社会通念である」と、欧米勢力の駆逐と大東亜共栄圏論を高らかに打ち上げ 
た。
 この発言は、東京朝日新聞に掲載され、更に、ロイター電で世界中に配信された。当然のことに、この記事は蘭印側を刺激し、「蘭印は小磯大将を日本の代表として受け入れることは出来ない」との強い反発を引き起こした。交渉が開始される前から団長が忌諱される事態になった。結局、小磯大将の派遣は取りやめとなって、使節団長は阪急グループの創立者小林一三商工相 (任期:昭和15年7月~16年4月)に決定した。
 民間からは三井物産会長、協和鉱業常務 などが商工省嘱託として参 
加した。外務省、大蔵省、商工省、拓務省、農林省からの参加に加えて、陸軍省、海軍省からも随員が同行した。 いずれも、当時、南方および石油の専門家として知られた人物であった。
日蘭会商は石油、ボーキサイト、ゴム、錫、ニッケル鉱などの重要物資の 確保と日本人の入国、企業問題等を目的とした総括的な交渉であった。
当時、蘭印政府はオランダ本国がドイツに占領されていて、英国に亡命していた政府の指示によって動いていた。そのため、蘭印は植民地政府としては弱い立場にあった。
当時、日本が蘭印から輸入していた石油の量 は年間50万~ 65万トンであった。日本は交渉の開始時には、この輸入量を引き上げて年間100万トンを要求した。更に、日本は油田の取得をも計画していた。
日本はそれまで東京で交渉し、それまでの日本の輸入量を65万トンとして、 これに新規の要求として100万トン、次にこれを250万トンと引き上げ、合計315万トン要求となった。わずか、4カ月で要求量は一気に5倍になってしまった。
  石油輸入量(万トン) 内米国から 蘭印から
1935年         345                 231 (67%)            
1937年         477                 353 (74%)                87
1939年         494                 445 (90%)                57
(日本の蘭印石油の輸入量=1937年86.9万トン、1938年66.8万トン、1939年57.3万トン。 出所:日蘭会商関係資料「詳細石油関係参考資料」商工省石油編)

石油輸入量(万Kl)
    原油 航空揮発油 重油 他 合計
1939年      300             7             148       37     492 
1940          375           28             143       84     630
1941          131           24               47       24     226
出所:第二復員省(旧:海軍省)調査資料

 9月中旬、小林使節団はバタビアに到着した。
蘭印側 は、「従来、日本は年間60万トン程度 を輸入していた。突然、300万トンの 買い付けを求められても隣接諸国への輸出を犠牲にすることになって、均等待遇の原則に反する。関係する石油会社とも協議の上でなければ回答は困難 である。また、従来、石油会社には石油供給の義務不履行の事実もない。したがって、政府が供給の保証を付与することはできない。購入問題は各石油 会社の責任とし、問題が生じた時、初めて政府が斡旋をしたい」と回答した。
日本は蘭印に、「英 米との関係上、380万トンはおろか日 本の全需要(500万トン)を蘭印に期待 している」と更なる増量にも触れた。
一方、この会商に先立つ8月上旬、マニラで米・英・蘭の石油関連会議が 開催されていた。また、同月中旬、米国務省顧問のホーンベック(元国務省 極東部長)は英国政府代表とともに蘭印で石油の生産を行っている「コロニアル石油」(スタンダード・バキューム)と「バターフセ石油」(ロイヤル・ダッチ・シェル)の代表と会談して、「日本へ適当量の通常原油を販売することに異議はないが、航空機用揮発油を大量 
に販売することには多くの問題がある」と伝えた。これらの協議と牽制は その後の蘭印の対応に大きな影響を与えた
 9月27日、「日独伊三国同盟」が調印 され蘭印側に再び衝撃が走った。10 月中旬、小林団長とモーク長官が会談 をしているさなか、小林団長は、「三 国同盟」の趣旨について説明を始めた。 
「米国が参戦せば日本もドイツに味方して戦争に引き込まれる惧あり。之を避けんとせば、日本と蘭印と固く握手することにより米国をして参戦を思ひ留らしむる要あり」と発言した。これ に対して、モーク長官は「ドイツの敗戦こそ太平洋の平和維持に必要にして、蘭印はこれを希望し、かつ、固く信じ居るものなり。本国を蹂躙せられたる蘭印はドイツとの交戦国であり、敵と同盟関係に入りたる国がいずれの側に立ち居るやは明確にしてオランダ 本国の将来より判断して、いずれの国 がドイツ側なりやを決定せざるを得ず。此の点、日本側とは見解を異にし
て、蘭印の立場は明瞭なりと謂ひ得べ し」と答えた。

 小林団長は、「日本は三国同盟の有無に拘らず、万一、ドイツ側に敗色濃厚なる時は、之が援助に赴かざるべからず」と述べた。これに対しモーク長官は、「斯くの如くんば会談を続け難し。蘭印は一つに通商あるのみ、政治問題あるべからず」と交渉は激突の状 況に至ってしまった。相手の立場を考 えずに浅薄な国際情勢の分析を開陳した素人外交の結果であった。
 この小林団長の発言が会談の雰囲気を大きく変え、交渉は暗礁に乗り上げ てしまった。 会談に同席した斉藤音次総領事は、「(この発言は)蘭印側に大きな衝撃を与へ、 蘭印は一切之に耳をかさざる態度をとり、使節も事の意外に驚き、かつ、自己の失敗を認むるに至れり」と 
東京へ報告した。
 この発言を契機として、日本使節団 の内部でも小林団長の交渉能力に対す る評価が低下していった。また、小林 団長本人は、元々、バタビアに到着した当初から交渉に関して悲観的な見方が強く、本人の強い希望もあって東京 から帰朝命令が到着した。

 小林団長の帰国を前に向井石油代表は精力的にモーク長官と交渉を続けた。その結果、成立した合意は購入量合計で200万6,000トンに 
なった。交渉当初の購入目標100万トンを基準にすれば200%の成果、最終の購入目標となった380万トンを基準にすれば53%を確保したことになった。
 しかし、日本が最も購入を希望した航空機用の揮発油はわずか5万トンで あった。(航空揮発油輸入量:1939年 7万kl, 1940 28, 1941 24)

小林団長は帰国前の記者会見で自己宣伝的に「交渉は成功」との発言 を行った。この発言がロイター電で世界中に流されると、日本と蘭印の双方 に大きな影響を与えた。米国の新聞には、「蘭印が全生産量 の40%(実際は25%)を日本へ供給」との記事が掲載された。そのため、蘭 印は「裏切り者」と称された。日本側でも、今後も交渉 の困難さが予想されるなか、「日本は満足との印象を蘭印側に与へた」として現地代表団のなかに不満と反感の声が上がった。
向井石油代表は、中原義正海軍大佐に、「斉藤、太田両名が蘭印側と政治問題 に付いて会談する際、石油問題に深入りするので思うように交渉が進まな い。かういふ状態では辞任帰国するよ り外にない」との苦情を述べている。 斉藤総領事と太田随員は外務省(松岡洋右外相)への電文の起案者であった が、三国同盟が締結された際、現地から「速やかに支那事変(日華事変)を解 決した後、好機武力を行使して蘭印問 題を一挙解決(蘭印の占領)せんとする」旨の電文を発信している。

小林団長の帰国後も日蘭会商は 事務レベルの交渉を継続していた。 
11月上旬、石油の新規契約分が調印 された。
 この時期、昭和15(1940)年11月、日本では「対蘭印物資取得並に貿易応 急方策要領(対南方発展施策に関する件)」が閣議で決定された。「要領」には「蘭印において生産される物資、例へば、石油、錫、ゴム、ボーキサイト、ニッケル鉱、クローム鉱、マンガン鉱などに付いては、本邦に対し其の必要量の優先的供給を為すことを蘭印政府に保証せしむる等の措置を為すを緊急とす。就中石油の確保に付いては重点を置くものとす」と記されている。
昭和15年12月28日、新任の芳澤団長がバタビアに到着した。同行者は太平洋協会調査部長(元東京帝大教授)、三井物産常務取締役(向井忠晴会長の後任)で あった。総領事は11月末の段階で斉藤音次から石澤豊に交代していた。日本の使節団は人員を一新して交渉にあたることになった。しかし、日本側の発言には正規の外交官にしては夜郎自大的、恫喝的な表現が目立 つ。一方、蘭印側には自立心とともに主張すべきは主張するとの発言が見受けられる。
石油対日輸出禁止
日米通商航海条約
日蘭会商
石油輸入量
日蘭合意.JPG
蘭印物資要求
貴重な資源が、ある程度、確保できたならば戦略的に対応をするのが交渉であるが、芳澤団長は回答を受け取った翌日、「蘭印側の回答を不満足として会商決裂を声明したる上、使節団を引き上げる他なし。6月20日過ぎ帰国の予定である旨御了解願う」との電報を東京に発信した。
 交渉が最終段階にあった5月下旬、松岡外相はクレーギー英国大使を外務省に呼び、難航している日蘭会商の斡旋を依頼した。会談の席上、松岡外相 は、特に、蘭印側がゴムの輸出量を減 少させたことに対して、「蘭印の如き弱小国が日本に対してドイツに再輸出しないとの保証を要求するとは、蘭印の増長を示すものにして、大国日本に対してヒューミリエーション(屈辱)なり。日本は断じて保証を与えす」と断じた。
 これに対して、クレーギー大使が「蘭印が対独再輸出をしない旨の保証を要求するのはビジネス上、止むを得ない」と発言すると、松岡外相は「ビジネス上もけしからん」と応じ、大使が日本のゴムの需要量を問えば、外相は「回 答の限りにあらず」と答えた。

商工省は日蘭会商の発案者であった ため、交渉を打ち切る場合でも、「石油代表及ひ随員はそのまま駐在を続けさせる。日蘭関係が最悪の状況になっても、最後の一刻まで日本の主張を行ふ」との方針を決定していた。6月11 日に開催された大本営政府連絡懇談会に、次の対処方針が提出された。 
 ①芳澤団長の引き上げを命じる、② 調印は行わない、③交渉決裂の形にせず、その後の余地を残す、④使節団の帰国後も必要があらば所要の者を派遣 する。
 この方針を受けた使節団は蘭印側と最後の交渉を行い、蘭印側は回答した 重要資源の対日輸出を行うことを約束した。6月下旬、使節団は、順次、帰国の途に就いた。
日蘭会商が打ち切られた昭和16(1941)年の6月上旬、海軍第1委員会 
は「現情勢下に於いて帝国海軍の採るべき態度」を作成して、南部仏印への 進駐と蘭印の石油資源を接収するとの 海軍の方針を明らかにした。
 7月2日、御前会議で「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」が決定された。この要綱は「支那事変の処理に邁進し、自存自衛の基礎を確立するため南方へ 進出し、情勢の推移に応じて北方問題 を解決する」また、「本目的の達成のためには英米戦を辞せず」とした。米国政府は、わずか、6日後の7月8日には、日本の外務省が米国、ドイツ、ソ連の駐在大使に宛てた外交電報を解 読してその内容を知ることになる。(電報には「英米戦を辞せず」は入っていなかった)
 7月19日、ウェルズ国務次官は国務省内部に、7月21日までに対日資産の 凍結、生糸他日本製品の輸入拒否、石油禁輸に必要な命令の準備を命じた。 
7月24日、米国のラジオが「日本の輸 送船12隻が海南島を出航して南下し つつある」と報じた。
 24日の午前、ルーズベルト大統領は、「米国が対日石油禁輸を躊躇してきた のは、それによって日本が蘭印へ進攻することを心配していたからだ。米国 の慎重な政策によって戦争の拡大が防 止されてきたのだ」と述べた。更に、 
大統領は24日の午後、閣議の席で、「日本の資産を凍結して対日貿易の制限を 行うべきだ」と発言した。しかし、この段階では、大統領は、まだ、石油禁 輸を行う決定はしていなかった。 
 大統領は「通常の方法で命令を出し、 申請が財務省に出されれば許可を与え る。しかし、政策はいつ変更されるかも分からない。変更の場合は全許可を 取り消す」と発言した。そして、在米国の日本資産を26日に凍結できる準 備を指示した。
 この日の夕刻、ルーズベルト大統領 は野村吉三郎大使と会談した。この席 で、大統領は石油禁輸の可能性を示唆するとともに「仏印の中立化構想」を提 案した。野村大使は直ちにこれを日本の外務省に連絡した。これが、米国の 「最後の警告」であった。
7月24日の大本営陸軍部戦争指導班 
「機密戦争日誌」の記述では、「外相、南仏進駐に対する米国の動向に就き資金凍結、石油禁輸等強硬態度とるべきを発言す。」
7月25日の同記述では、「米大統領、今まで日本に油を供給したのは南太平 洋の平和を欲したるに在りと演説す。『日本の南進により今や遂に平和は破る。全面禁輸も已むなし』というが如き口吻なり。当班、仏印進駐に止まる 限り禁輸なしと確信す」。
7月26日の同記述では、「当班(戦争 指導班)全面(石油)禁輸と見ず、米はせざるべしと判断す。何時かは来るべし。その時期は今明年早々にはあらずと判断す」としている。
7月27日、蘭印は在蘭印の日本資産を凍結して、日蘭会商で調印した石油 協定を停止した。
7月28日、日本軍は南部仏印へ進駐する
8月1日、米国は「石油の全面的禁輸」を断行した。また、蘭印もこれに合わ せて石油協定を破棄した。この時まで に日蘭会商で合意した石油要求量のうち、日本へ向けて積み出された量は20万トンに達していなかった。日本の陸海軍は一部を除き「南部仏印進駐までは米国はこれを許容するであろう」との楽観的な見通しを持っていた。そのため「資産の凍結」と「石油禁輸」の報は陸海軍の政策決定者たちを震撼させ、驚愕の淵に落とし入れた。 
 米国は石油の輸出許可を止めるので はなく、石油代金の支払い手続きによって圧力を掛けてきた。対日強硬派 が大勢を占める合同(国務省・財務省・司法省)外国資金管理委員会(委員長 ディーン・アチソン国務次官補)と財務省は許可済みの石油製品の購入資金を凍結した口座から引き出す許可を与 えなかった。



 
海軍などでは三井物産などの民間商社を通じ、ブラジルやアフガニスタンなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、1941年には、民間ルートでの開拓を断念した。昭和14年12月に米国が発動した「モ ラル・エンバーゴ」(道義的禁輸)は、 元々、ソ連がフィンランド市民を空爆 したことに対する米国の経済制裁であ った。 この時点での対日発動は、中国大陸 での日本軍の行動に対する米国の警 告・圧迫を目的としたもので、航空機 用燃料(高オクタン価ガソリン)の製 造装置、製造ライセンス、ノウハウの 輸出を禁止した。モラル・エンバーゴ は直接的な石油禁輸ではなかった。し かし、当時、航空機ガソリン製造を目 標に設立(昭和14年)された「東亜燃 料工業」は、米国から高オクタン価 (100)ガソリン製造のためのフードリ ー触媒分解法の導入交渉を行っていた が同令の発動により交渉は中止され、 その後、航空機の高性能運用に大きな 障害が生じることになる。 また、「日本揮発油」は米国のUPO 社の石油精製プロセスの特許権を保有 していたが、同社の斡旋でオクタン価 92のガソリン製造プラント実施権を確 保するために米国へ派遣されていた陸 海軍の交渉団も、同様に、このモラ ル・エンバーゴ発動により交渉を打ち 切られた。

米国の高オクタン価(100)ガソリ ンの製造能力は、昭和13年時点で2.7 億ガロン(約1.8万バレル/日)あり、 製造能力は昭和16年には4.1億ガロン (約2.7万バレル/日)に達すると予測 されていた。 日本が高オクタン価(86)ガソリン の製造に成功したのは昭和11年で、太 平洋戦争中に製造されたオクタン価の 最高は92と、技術力の差は大きかった。 オクタン価100ガソリンは海軍燃料廠しょう が試作段階に達していたものの、日本 には高温高圧下での水素添加工程に使 用する特殊鋼の製造技術が無く、高オ クタン価ガソリンの商業的生産段階に は未達状況で、総合的技術力の後進性 がこの面でも現れている。 米国の航空機はオクタン価100のガ ソリンを通常使用しており、高性能エ ンジン(日本海軍のゼロ戦は、1,000 ~1,200馬力、時速565キロメートル、 米国海軍のF6Fヘルキャットは2,000馬 力、時速610キロメートル)の開発に 伴い、航空機のエンジン出力性能に大 きな差が生じていった。量だけでなく 石油精製技術の日米格差が大きく立ち はだかっていたと言える。 (参考:現在の自動車のハイオクガソリンのオク タン価は96以上を言い、通常の製品は100前後。)
https://oilgas-info.jogmec.go.jp/_res/projects/default_project/_project_/pdf/0/652/200601_045a.pdf 


 
蘭印資産凍結 協定停止
戦争と石油.JPG
特定領域研究「日本の技術革新-経験蓄積と知識基盤化-」 
第 3 回国際シンポジウム研究発表会  論文集
2007 年12 月14 日・15 日
戦前期の航空機用揮発油の技術開発
Development of Aviation Gasoline Production in Pre-war Japan 
三輪 宗弘   より
戦争と石油2.JPG
高オクタン価
表3 から戦時中の日本の航空機用燃料、重油製造 は、貯蔵していたカリフォルニア原油の精製で賄われた。昭和19(1944)年までストックを食いつぶしていったことがわかる。昭和 17 年に占領したボルネオやスマトラからの原油を昭和17 年から精製し、本格化したのが昭和 18 年からである。しかし戦局 の悪化に伴い、昭和 20 年にはほとんど精製する原 油が底をついている。蘭印からの原油は四日市の第二海軍燃料廠には回されず、主に第三海軍燃料廠で 精製された。日本石油下松製油所には陸軍の占領し たスマトラ、北ボルネオから原油が運ばれた。昭和 18 年の精製は蘭印(スマトラ、北ボルネオ)産原油だけである。 
米国海軍技術調査団(U.S. Navy Technical Mission to Japan)は、徳山の第三海軍燃料廠を視 察した際の印象として、装置、蒸留塔、タンク、パイプ、ポンプ、熱交換器などがほぼ完全に日本で製造されていることに驚いたと記し、品質もよいと書いている。日本の航空機用燃料製造の特徴は、分解 ガソリンの高圧水素添加と軽油・灯油の水素添加に 
あると指摘している。東亜燃料工業の中原延平にインタビューを行い、接触分解のフードリー法導入断念の経緯や日本における接触分解の研究や接触分解 装置の建設について調べている。米国戦略爆撃調査 
団の報告書に比べると、日本の技術開発を高く評価 している
​タンカー全滅
戦争と石油 太平洋戦争編(2)岩間敏 から
日本は45~58万総トンのタンカー保有量で太平洋戦争に突入した。貨物船、客 船等を含む船舶の合計は634万総トンで 
タンカーの占める割合は10%以下であった。石油を求めて南方に侵攻した にもかかわらず、その輸送手段としてのタンカー保有数は少なく、戦争開始年の昭和16年度でも建造タンカーはゼロに近かった。この保有タンカーのうち大型の優良タンカーの半数以上(11隻、16万トン)は海軍に徴用(艦艇給油用)され、小型タンカーは外洋航海が困難であったため 実際に南方石油の還送に使用出来たのは20万総トン前後であった。

南方原油の還送量を年間300万キロリットルとした場合、1万総トン級の 
タンカーが年間10航海するとの前提で約30万総トン、還送量が年間400万キ ロリットルの場合は約40万総トン、企画院の想定による戦争3年目(昭和19 年)の還送量450万トンのためには約45万総トンのタンカーが必要になる。 
この不足分充当のため、既存の貨物・鉱石船のタンカーへの改造、戦時標準 型(簡易工法)タンカー等の建造が行われた。
この日本のタンカーに対し米国は潜水艦、航空機、機雷を用いて集中的に攻撃を行った。
太平洋へ投入された米国海軍の潜水艦は
開戦時51隻(大型39隻、中型12隻)であった。当初、米国 の潜水艦隊は魚雷(マー14型)の性能 に問題(起爆・深度調整装置の不良)があったこと、開戦時、フィリピンの キャビデ港にある米海軍アジア艦隊の 魚雷貯蔵庫を日本軍に爆撃され大量の 魚雷(233本)を失ったことによる魚 
雷数の不足等で活動は停滞気味であっ た。
しかし、昭和18年以降になると電池 魚雷、魚雷用新トルペックス火薬、夜 間潜望鏡の装備、潜水艦・機雷探知用FMソナーの開発、無音水深測深儀、 敵味方識別装置(IFF)、マイクロ波SJレーダー(対艦船、航空機用)等の新 兵器開発、搭載に加え、大西洋でのドイツのUボートとの戦いに教訓を得た「狼群戦法(集団包囲攻撃)」の導入により米国の潜水艦隊の攻撃能力は飛躍 的に増大していった。
昭和18年9月、米国海軍作戦部長E・Jキング大将は「潜水艦の最優先攻撃目標は日本のタンカー」との命令を出している。加えて潜水艦の配備数も増強され、
昭和18年9月時点で118隻(大型100隻、中型18隻)と倍増した。この潜水艦の配備 数の増加はその後も続き、
昭和19年8月には約140隻、同年12月には156隻、 
昭和20年8月の戦争終結時点では182隻(大西洋と合わせた米海軍の全保有数は267隻)に達した。

さらに日本に致命的であったのは、日本の輸送船団の港湾出発時刻、会合点、船団編成等の海軍暗号無線が解読されていたことである。海軍が自信を持っていた暗号(暗号-D他)は戦争期間中を通じほぼ解読されていた。米国の潜水艦隊は集団で会合地点に先回りし、輸送船団を待ち受け、包囲殲滅作戦を行った。加えて制海権・制空権を米国に奪われるに従い日本の輸送船団は航空機の攻撃にも曝されることになる。

開戦時58万トンの保有タンカーは戦争終結時の昭和20年8月には25万トン(うち可動6.3万トン)に減少している。外洋航海可能タンカーは「さんぢえご 丸」(7,269総トン、三菱汽船)ただ1隻になっていた。単純減増でなく戦争中の建造が115万トン、喪失が148万トン(改造減等で差し引き合わず)とな っている。

米国の海上輸送路破壊作戦により
日本が失った船舶数(除く軍艦、500ト ン以上)は2,259隻、814万トンで、うち486万トン(59.7パーセント)が潜水艦、
    247万トン(30.3パーセント)が航空機、
     40万トン(4.9パーセント)が機雷によるものであった。

昭和20年に入るとパレンバン等の主要占領油田、製油所の石油生産量は空 襲により激減し輸送船団の被害も増大した。昭和20年1月、ベトナムのブンタオ沖合での「ヒ86船団」の全滅により本格的石油還送は途絶した。この船団 はタンカー4隻(さんるいす丸、極運丸、63播州丸、優情丸)、貨物船6隻(辰鳩丸他)に原油・石油製品(約3.6、ボーキサイト、マンガン等を積載し護衛艦6隻(旗艦:練習巡洋艦香椎)とともに日本に向かう途中、米機動部隊の艦載機(延べ250機)の攻撃を受けた。タンカー4隻、貨物船6隻、護衛船3隻が沈没ないしは擱座し、船団は壊滅した。この攻撃を行った米海軍ハルゼー機動部隊(正式空母8隻、護衛空母8隻、艦載機1,000機、戦艦6隻、重巡洋艦7隻他)は、この時、南シナ海で商船35隻、艦艇12隻28万トン(昭和20年1月の喪失船舶数は42.5万 
トン)を葬り「ハルゼー台風の襲来」と言われた。
最後の還送原油は昭和20年3月に瀬戸内海の徳山に到着した富士山丸(1 
万238総トン、積載原油1.6万トン)、光島丸(1万45総トン、積載原油・重 油1.1万トン:その他錫60トン、ジルコン60トン)で、以後、途絶した。この光島丸が輸送した重油が沖縄へ出撃する戦艦大和に積み込まれたとも言われている。この両船は南号作戦第8次により、あまと丸(1万238総トン)と3隻で船団(ヒ96船団*5:海防艦3隻)を編成し、2月にシンガポールを出航したが、途中カムラン湾であまと丸が米潜水艦の電撃を受けて沈没、海南島付近で光島丸がB-29の空爆を受けて破損、同船は積荷の原油の一部(2,500トン)を放棄し、香港で修理後、日本にたどり着いた。富士山丸は単船中国沿岸を北上、黄海を横断して朝鮮半島沿いに南下して徳山に帰着している。商船隊も特攻的航海を行っていたこと 
が分かる。南方ルート「最後の輸送船団」はシンガポール発の「ヒ88丁船団」、輸送船8隻(うちタンカー3隻)、護衛艦8隻で3月29日、仏印沖で全滅した。
松井邦夫氏の労作 「日本・油送船列伝」(成山書店)には、日本の最初のタンカーである宝国丸(帆船、94総トン、明 治40年建造)から昭和20年の終戦までに就航・建造された全タンカー438隻の記録がある。このうち310隻(「商船戦記」数値306隻)が戦没している。

昭和19年末には「船団輸送」は困難になり、昭和20年1月、大本営は輸送特攻作戦「南号作戦」を発令した。
さらに、サイパン島の陥落(昭和19年7月)によりB-29爆撃隊が同島に進
出すると日本周辺の海峡・海域に多数の機雷が投下され始める。この作戦は昭和20年3月以降促進され投下機雷総数は1万2,000個(関門海峡4,990個、周防灘666個、若狭湾611個、広島湾534個、神戸・大阪付近380個)になり、この機雷に触れて通過船3隻につき1隻が沈没し、国内海上輸送も麻痺状態になった。下関と朝鮮半島の釜山を結ぶ関釜連絡線は下関港がこの機雷投下により封鎖状態になり、発着港は博多、山口県(日本海側)仙崎、さらには須崎と移っていった。昭和20年6月には「天皇の浴槽」と言われていた日本海にも米潜水艦(9隻)が侵入(対馬海 
峡→宗谷海峡)し17日間で27隻、5.4万トンを雷撃、沈没させた。
戦争終了直前の昭和20年7月には青函連絡船も攻撃を受けた。7月14日、 
青森県東方海上約200キロメートルに接近した米海軍第38機動部隊(空母4 隻、艦載機248機)は青函航路を攻撃し14隻の青函連絡船のうち11隻が沈没している。北海道は孤立し瀬戸内海をはじめ本土周辺でも海上輸送はほとんど困難になっていた。
戦争終結時、日本は2,568隻、883万トンの商船を失っていた。残存商船は1,217隻、134万トン(運行可能船舶80万トン)であった。
戦争中、海上輸送に従事した乗組員は約7万1,000名、うち3万5,000名(4万6,000名の説もある)が死亡している。死亡率は49パーセントでこれは日本陸海軍の軍人死亡率19パーセントの2.6倍である。


岩間 敏 JOGMEC 特命参与 iwama-satoshi@jogmec.go.jp
71石油・天然ガスレビュー エッセー
戦争と石油(2)~太平洋戦争編~(前号:Vol.40 No.1の続きから)
*1:米国戦略爆撃調査団石油報告は111隻、57.5万トン、飯野海運調査:48隻、45.6万トン、日本油槽船列伝:外洋航海可能48隻、44.8万トンと種々の数値あり。
タンカー全滅
bottom of page