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           日中戦争への道

米軍を主力とする連合国との戦争は日中戦争の延長上にある。日本は中国問題をめぐって長く米国と摩擦が続き、最後は米国の石油禁輸によって開戦に進んだ。

​米国は日中戦争への直接の介入を避けながら、蒋介石の国民党軍を援助し続けた。蒋介石は中国には単独で日本に勝利する力が無いことはわかっていたので、米国の参戦を強く望んでおり、真珠湾攻撃をきっかけに米国が参戦した時はこれで勝つことができると大いに喜んだ。

日本が真珠湾を攻撃した時、どのように戦争を終結させるか明確な戦略がなかったことは驚きである。開戦した時、米国との圧倒的な国力の差異について日本には十分な認識があり、短期で米国と終戦にしなければ負けることが分かっていたにも拘わらず、戦いに勝利しているその初期にいかに戦を終わらせるか不明であるとは、政府・軍部という指導部の無能力・無責任を表すものだ。そんな政府を理性的に批判するメディアもほとんどなく、圧倒的多数の国民も反対の声を挙げることなく従属することになったことは、記憶しておくべきことだろう。

中国に対しては一撃で勝利できると舐めてかかった。そうはいかないとわかるまでずいぶん時間がかかった。もともと日清戦争の勝利以来、中国を馬鹿にしていた。中国を当時は日本政府も支那と呼び、民間で中国人はチャンコロと蔑称を使う人間も多かった。そのために、途中から長期戦を覚悟し、何度も停戦に持ち込もうとしたが、強い停戦の意思をもって貫徹できる人間がいなかった。そのために、停戦を持ちかけても中国側への条件がふらついたり、強硬な条件に変化していって却って不信感を持たれ、停戦実現しなかった。

開戦前の交渉で米国は日本軍が中国から撤兵したり、中国における既得権を放棄することなどを日本に要求したが、特に陸軍は「これまで流された日本兵の血を考えると、絶対に妥協できない」という態度であった。本来なら流された多くの日本兵の血によって、謙虚に間違いを認識し、方向転換すべきだった。結局、日清戦争以後の海外の領土、権益はすべて失われた。さらに多くの兵隊と、沖縄をはじめとする多くの国民の命と生活が破壊された。結果論でいうなら奪った領土を失っても、戦争を回避することができたなら、ずっと日本国民にとっては良いことだった。そういう選択肢も実際あった。長い目で見て戦争より優れた道をどれほど政府は追及したのだろう。少なくともその逆の道を行くように陰謀を策し、国民をだまし、苦しめた軍部の責任は免れない。

また軍隊はいかに戦争して、いかに勝つかを考え実行する組織であり、戦争をしない施策や戦争をやめる方策を考え実行するのは軍隊ではない。前者と後者は相反するものであるから、同一の組織・人間が矛盾なく遂行することはほとんど不可能であり、戦争中の日本の実体がそれを証明している。また戦争をするか、しないかを決めることが、戦争をいかに実行するか、勝利するかよりも上位の決定であり、その決定権は軍隊より上位に位置する。

日本の行くべき方向は国民が認めた議会・政府が決めることであり、国の興亡を決する戦争は最たるものである。その議会・政府も軍隊が席巻したのは、軍隊・政治家の間違いであり、それを容認した国民の間違いと言われても致し方ない。軍の統帥権や統率が議会・政府にないという根本的な憲法の問題も大きかった。反対意見もあったが、反民主的な制度を持ち込んで、反対意見を暴力的に押さえつけたことも、政治家・国民の失敗だった。

国民主権であることが前提であろうが、そこにはさまざまな欠点があった。少なくとも大日本帝国憲法はその点、大きな欠点があった。

日本が負けたことによって日本人にとって良いこともあった。主権在民は明確に新憲法で規定され、議会政治が復活し、自由民権が復活した。宗教と政治は分離され、宗教・教育・思想の自由は保障された。不当に制限された国民の様々な自由は回復ないし戦前以上に確保された。不当な経済格差は農村、都会ですくなくとも減少する方向で修正された。それらは不十分、不完全な面もあったが、それらの変革を心から歓迎した人が圧倒的に多かった。少なくとも国民主権は確保された。戦前の日本社会が残っていたら、今の日本人は本当に不幸だ。

日本が米国の核の傘に入ったことは、敗戦国である以上、他に道はなかったのだが、それ故に核兵器反対の声が挙げられないという政府の意見には失望する。今、世界は別の方向に動こうとしている。唯一の被爆国日本もその経験をぜひ生かすべきである。

核の傘に入ったからドイツ、朝鮮同様の分断をさけられたのかもしれない、それは幸運だった。しかし、その後、日本が生きていくために「日本外交の基本であり、かかせない米国との同盟」に入ったために、真の独立・独自性を維持できず、またアジア各国といまだに緊密な関係を築けない。米国対ロシア、中国、北朝鮮の対立の中で日本の独立した安全保障を確立しつつ、国際協調を積極的に進めながら、アジアと世界の平和に真に貢献出来る日はいつ来るのだろう。少なくとも戦争を外交問題の解決する方法としては認めないという憲法九条は戦後の日本の平和を守ったし、自衛力を保持しながらも、この精神は絶対堅持すべきであり、そのために何をなすべきか常に考えることが必要となろう。

​戦争をしない道、戦争をしかけられたら勝利する道、を常に用意する心がけと準備が必要であろう。

 

15年戦争(日中戦争+太平洋戦争)は満州事変に始まり、それが日中戦争につながり、されに太平洋戦争に拡大した。さらに、その遠因は明治維新以降、朝鮮・満州・中国と続く拡大政策に繋がる。その拡大政策は、明治維新を強力に後押しした西欧の帝国主義・植民地主義に対する日本の植民地化に対する警戒にあった。富国強兵によってタイと日本のみがアジアで植民地化を防げたが、近隣アジアに対する日本自身による帝国主義・植民地主義へと反転したことによって、日本国滅亡の危機、一歩寸前まで突き進んでしまった。

​アジアの植民状況を振り返ってみよう。   

1800年の世界の植民地の地図(各本国を含む)
スペイン・ポルトガルがアメリカ大陸で先行し、先住民族への虐殺、資源の略奪などから始まった。19世紀に入り産業革命が欧州各国に広がると、各国はその産業の原料供給地と市場を確保する必要に迫られ、後進地域を競って統治下においたとの説明が一般的であった。そしてそのために各植民地に鉱山やプランテーションを開設し、原料供給地としてモノカルチャー経済下に置いたと説明された。この説明は一面の真理ではあるが、必ずしもすべてを説明しているわけではない。
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植民地地図
第一次世界大戦勃発時の世界の植民地の地図(各本国を含む)
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第二次世界大戦終結時の1945年の世界の植民地の地図(各本国を含む)
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インド、中国を見るならば、両国は世界最大の資源と市場を有する大国であり、軍事的優位性と領土拡大の野心を有する西欧列強から見れば、恰好のターゲットであった。中国については、より強大な国のイメージがあったが、日清戦争で小国日本に敗れたことにより、西欧列強の進出が加速された。
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世界人口
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GDP
満州国
面積 1,191,000 km2 (1933年)
人口 33,697,920 (1933)  36.933.206(1937)
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各国面積
紀元1年から19世紀までインド、中国が人口は圧倒的1位を交互に占めていたことが分かる。紀元前数千年の歴史を見れば、超後進国であった植民地主義の英国にとって、まずインドが植民の大きな対象となり、次の大きな対象が中国であった。それに日本も加わり、すでに利権を確立しつつあった英仏独など、さらに遅れてきた米国とも摩擦が生じることになる。第二次大戦で米英は欧州での戦いに結束し、ドイツを倒すためにも日本の開戦を誘い出すことで、孤立主義の米国世論を参戦に導くことになる。


​ソ連もドイツを国内深く進攻させた上で、伸びきった戦線を使って撃退した。蒋介石は重慶に首都を移し、長期戦を耐え抜いた。中国は米国程豊かな国ではなかったが、日本よりはるかに大きな国であり(人口7倍、面積2021年25倍)日本軍が軍隊で制圧できる相手ではなかった。面積が3倍ほどの満州でさえ、完全に制圧できなかったのに、何をどこまでという目的もなく突き進み、結局、停戦を望むが徹底抗戦の中国を相手に解決することなく敗戦となる。
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