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日米中戦争
ヘンリー・ロビンソン・ルース(Henry Robinson Luce、1898年4月3日 - 1967年2月28日)は、アメリカ合衆国の雑誌編集者・出版者である。「当時のアメリカで最も影響力のある民間人」と呼ばれたアメリカの雑誌界の大物である。
タイム社を設立し、『タイム』『ライフ』『フォーチュン』『スポーツ・イラストレイテッド』を創刊し、それらの編集を指揮した。彼が創刊した雑誌は、ジャーナリズムとアメリカ人の読書習慣を変えた。また、タイム社は『タイム』誌に関連したラジオ番組やニュース映画を制作し、世界初のマルチメディア企業となった。1941年には、彼はアメリカが世界の覇権を握ることを想定し、20世紀を「アメリカの世紀」と宣言した。アメリカの孤立主義からの転換を示唆したもの。
 
ルースは、1898年4月3日に長老派の宣教師だった父ヘンリー・ウィンターズ・ルースと母エリザベスの息子として生まれた。両親は1897年に宣教師として清国に渡り、翌年に、山東省登州府蓬莱県で活動中にヘンリーが生まれた。父は中国に合計31年間留まり、後に斉魯大学(山東基督教共和大学)や燕京大学の副学長を務めた。10歳の時、中国内陸伝道教会(現在の国際福音宣教会)が設立した寄宿学校・芝罘学校に入学した。
1923年タイム社を創設、アメリカ最初のニュース週刊誌『タイム』創刊。発行部数は1935年の45万から1937年には60万超。『フォーチュン』は1937年に10万超。写真ジャーナル週刊誌『ライフ』は1936年創刊。1941年までに3種類の雑誌はタイム社をメディア帝国にのし上げ、ルースは20年間出版業界の帝王となった。

1964年までタイム社の全ての出版物の編集主幹を務めたルースは、共和党の有力なメンバーとしての地位を維持した。反共主義的な感情を持ち、共産主義との戦いという名目で『タイム』を利用し、右翼の独裁者を支持した。いわゆる「チャイナ・ロビー」の後ろ盾となった。中国国民党の指導者である蔣介石とその妻である宋美齢による対日戦争を支持するようにアメリカの外交政策や国民感情を舵取りする上で大きな役割を果たした。『タイム』誌の表紙には、1927年から1955年までの間に11回、蔣介石と宋美齢が登場している。
タイム・ライフ
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蔣介石
蒋介石を​「極東で最も偉大な人物」「中国のナポレオン」と紹介し彼がいかに日本軍と戦ったか、また蒋介石のキリスト教的道徳観、共産党との戦いに焦点を当てた。1927年4月反共体制を確立し、1930年蒋介石がクリスチャンになったことを『タイム』は大きく報道。従来、中国は反帝国主義がキリスト教と結ばれていたのが、キリスト教徒の指導者になったことを、欧米は歓迎した。1931年満州事変が発生して間もなく10月に2度目の登場。1933年3度目の登場。1937年には「1937年のもっともすぐれた人物」に選んだ。1937年に盧溝橋事件が発生し日中戦争に繋がり、上海事変が起き南京まで日本軍は侵攻、国民政府は南京から重慶に移った。

真珠湾攻撃の2日後、『ニューヨーク・タイム』の社説は「もしアメリカが、無尽蔵の兵力を有する忠実な同盟国、中国と協力すれば、太平洋戦略の鍵を握ることになるだろう」と論じた(The New York Times, Dec 9, 1941)。1942年Jan 5のTimeは「非情な侵入者に対して自由を求めて絶えることなく勇敢に戦ってきた最初の国民である中国人の英雄的な不屈の精神」に対して、深い同情と賞賛の念を示すとともに、蒋介石は日本の侵略者と勇敢に戦う唯一の指導者であると強調、自由中国の大義を宣伝」6月1日には7度目の表紙登場。その中の記事で「蒋介石は毎日朝5時半に起きて、聖書を読み、祈祷し、自由中国の運命を探っている」と報じ、「我々を援助してくれれば、中国は必ず戦争を勝ち取ることが出来る」と蒋介石の言葉を引用。
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宋美齢
西安事件
蒋介石の妻、宋美齢は宣教師の家庭で生まれた。(1898年3月4日(1898年2月12日1901年など諸説あり) - 2003年10月23日)宋一族は戦時下の中国の政治、経済、金融において支配的な権力を掌握。美麗は姉 宋慶齢とともに9歳からアメリカに留学、ボストン郊外の名門大学ウェルズリー大学を卒業後、1917年に帰国。1927年12月1日上海で蒋介石と結婚。
上海最高級ホテルのマジェスティックホテルの会場には外国のすべての領事官員や陸海軍の高級将校を含む3000人を超す人々が招待された。
​結婚式の翌週、蒋介石は国民革命軍総司令官の地位を回復、続いて中央執行委員会主席に選任された。北伐が再開され、蒋介石の妻、美麗の姉
宋靄齢の夫、孔 祥熙の仲介によって山西の軍閥閻錫山は蒋介石と同盟を結ぶ。1928年南京を首都とする国民政府の発足を正式に宣言。張学良も忠誠を誓い、孫文以来、悲願の中国統一がなった。蒋介石は国民政府主席、孔 祥熙は工商部長、宋姉妹の弟、宋子文は財政部長と南京政府の要職を占めた。

蒋介石は、南京に国民政府を設立した直後、当時原野だったこの地に巨大な都市「大上海」を生み出し、欧米の支配下にある租界を凌駕しようとした。ファーストレディーとなった美麗は、アメリカ仕込みの英語とクリスチャンとしての素養を武器に欧米に蒋介石への支持を訴えた。
「国民政府主席として、また国民革命軍総司令として、私の夫は軍閥の謀反を阻むために全力を尽くしています。しかし将軍たちは封建的観念にしがみつき、私利私欲に走っています。我が国が直面している災難を思うと、私の胸は痛みます」
一方、蒋介石夫妻の豪奢な生活に批判も高まっていた。米国務省に報告された宣伝ビラには「四億同胞に涙で告げる書 宋美麗が毎年フランスから買い付ける化粧品は40万ドルと決まっている。彼女のトイレットペーパーは一巻き20ドル。ダイヤをちりばめた靴は一足80万ドル、…」

1933年蒋介石は江西省南部を中心とする共産党地区に対し本格的な包囲掃討作戦を開始。陸軍100万人、空軍200機を動員。共産党は根拠地瑞金を放棄、西南方面へ移動を開始。2万5千里の行軍の果てに、毛沢東が指導権を確立することになる長征が始まった。「抗日」より「反共」を優先する蒋介石政権に対し、中国各地で抗議運動がおこった。蒋介石は容赦ない弾圧を加えた。一年間に4500人もの人々が逮捕、虐殺された。

1936年
12月12日共産党軍との戦の視察に赴いた蒋介石が、東北軍の張学良に監禁された。張学良は国民党が共産党との戦を停止し、一致して抗日にあたるよう蒋介石に迫り、その要求を中国全土に通電した。上海でこれを知った美麗は13日、宋靄齢、孔祥熙夫妻やオーストラリア人顧問W.H.ドナルドらと南京に飛んだ。南京政府の態勢は、西安に軍を差し向け、張学良を打つべしとの意見に傾いていたが、美麗は強硬に反対した。「皆さんの提案は蒋介石先生の声明を危険にさらします。平和的手段で彼を釈放させるためには、いかなる努力も惜しまれてはなりません」一方、共産党も事件には驚いていた。共産党の出した方針は蒋介石を釈放させ、代わりに、かねての方針通り国民党と共産党との抗日統一戦線結成を認めさせようというものだった。ドナルドと宋子文が交渉を開始し、22日美麗はドナルドと子文と共に西安に入った。西安に到着する前、美麗はドナルドにリボルバーを渡して「もし兵士が私に指一本でも触れようとしたら私を撃って」と言った。空港で出迎えた張学良に美麗はまずお茶を所望する。「張学良を紳士と信じている」ことを示すためだった。信じていなければ毒殺の恐れのある茶を飲まない。(他家を蒋介石、美麗夫妻が訪問するときも湯を持参し、料理は連れて行った家のコックが料理するものしか食べなかった)
蒋介石は条件を頑強に拒んでいたが、美麗を見て、変わった。内戦の停止と抗日の原則に同意、ただし、交渉は子文と美麗が当たり、合意した条件に蒋介石は保証するが、署名はしない条件。

美麗がのちに口述した「西安事変回憶録」には「張学良は西安の有力者の一人を連れてきて私に引き合わせました。張は、この人物は西安では大きな影響力を持っているのだが、蒋委員長は会いたがらない」と、美麗はこの有力者の名前を明かしていないが、周恩来である。
美麗は周恩来に中国共産党が誠意を持っているなら、国民政府の指導のもとで共同の努力をすべきだと述べ、周恩来は蒋介石が抗日に同意するなら、共産党は彼を全国の指導者として支持する。蒋介石を除いて適任者はいないと、答えた。
周恩来の毛沢東への報告。
孔祥熙と宋子文が行政院を組織し、宋が全責任を持って世論を満足させる政府を組織する」
「蒋介石が確実に共産党討伐を停止し、張学良の手を経て紅軍に物資を支給することを、宋兄妹が保証する」
「すべての政治犯を釈放するため、孫文夫人宋慶齢と方法を協議することに宋子文は同意した」
当時の中国において宋一族がいかに大きな存在であったかが分かる。
宋美齢の名前は世界に響き渡った。


1937年日本との間に勃発した日中戦争では、当時中国や満州国で日本との利益対立を深めていたアメリカからの軍事援助の獲得を目指し、美麗は「国民党航空委員会秘書長」の肩書で、蔣介石の「通訳」として、駐中華民国大使館附陸軍武官のジョセフ・スティルウェルやアメリカ陸軍航空隊のクレア・リー・シェンノート元大佐との交渉に同席し、アメリカからの有形無形の軍事援助を引き出し、日中戦争中から第二次世界大戦の初頭にかけて日本軍と対峙した「アメリカ合衆国義勇軍(フライング・タイガース)」の設立や、日本軍と比べ物にならないほど遅れていた中華民国空軍の近代化に大きく貢献した。

1938年美麗はオランダの記録映画作家ヨリス・イヴェンスを武漢に招いた。イヴェンスは世界各地で戦う民衆の姿を記録し続け、スペイン戦争の映画も制作、注目を集めていた。イヴェンスは中国各地で撮影を続け、記録映画『四億』は世界中で公開され大反響を呼んだ。協力者の中には戦場を駆けた写真家ロバート・キャパもいた。

1938年10月蒋介石は重慶を戦時首都とすると宣言。
日本の占領地域の拡大と比例するかのように、共産党の勢力は伸びた。国民党軍が日本軍に敗れて撤退すると農民たちは自らの命と土地を守るため共産党の八路軍・新四軍に参加、抗日の本拠地を作り上げていった。当時、中国には日本軍の占領する「淪陥区りんかん」、共産党の支配する「解放区」、国民政府が支配する「大後方」が併存。

1939年5月4日日本軍の無差別爆撃が重慶を襲い多数の中国市民が亡くなった。アメリカの雑誌「ライフ」は写真入りでこれを報じ、アメリカ市民に衝撃を与えた。
八月ソ連が敵対者ドイツと不可侵条約を結んだ。ソ連は中国を見捨てようとしているのではないかと重慶は懸念した。蒋介石の戦略は日中戦争と欧州の戦争を結び付け、英米と連合することであり、そのために、中国が英米と同じ「民主主義国」であることを印象付けることであった。ソ連ではなく英米に中国は傾斜。

1940年9月日本は北部仏印進駐。南進開始。日独伊三国同盟締結。
中國経済は崩壊寸前だった。豊かな東海岸一帯を日本軍に抑えられ、中国が税収で賄えるのが国家支出の25%、不足分は紙幣の乱発で埋め合わされ、超インフレとなる。新聞は1937年比24倍、ゴム靴は20倍、政府高官の間に腐敗が横行した。蒋介石は米国の援助を引き出すため宋子文を派遣した。ハーバード大学出身で東海岸の流暢な英語、ワシントンの最高級ホテル、ショーラム・ホテルで米国高官を次々と招待し、豪華な中華料理とブリッジで歓待した。ローズベルトにも贈り物を送った。
11月大統領選挙に勝利したローズベルトは本格的に中国支援に乗り出した。12月2日1億ドル対中借款。中国の物価安定のために5000万ドルの資金供与と、トラックや石油、食料買い付け資金5000万ドル借款。100機のイギリスに提供される予定だったカーチスのP40戦闘機を中国に提供。米軍パイロットを一時的に退役させ、義勇兵として中国で戦うことを認める。
1941年3月米中間で武器貸与協定が結ばれ、大量の武器と軍需物資が中国にもたらされた。

4月、日ソ中立条約締結、その付属声明書にはソビエトが満州帝国の領土保全を尊重すると記載されていた。もはや中国にはアメリカしか頼りはなかった。​

米国の借款を獲得した重慶では宋一族をめぐって黒いうわさが渦巻いていた。当時重慶にいた米国外交官ジョン・ペイトン・デイビスによると「ともかく巨額の金が動いていました。そういった中で秘密を隠し通しのは至難の業ですからね。孔祥熙と宋靄齢、宋靄齢の弟たちが組んで金を動かしていました。蒋介石は腐敗とは無縁でした。かれは政治的人間ですし、中国全部が自分のものですから」エドガー・スノーによれば、 
孔祥熙は米国から爆撃機を買う場合、一機につき1万6千ドルのコミッションを要求したという。「…だが、この巨額のリベートも孔祥熙が行っている為替の投機による利益に比べれば、微々たるものに過ぎない」他の証言「孔祥熙がまず、ある公債や株式について整理すべきであると新聞紙上で発言する。株価は急落。靄齢が買い占める。孔祥熙が前言を翻し政府が株式を買い支える。株価は値上がりし、靄齢のもとに莫大な利益が転がり込む」蒋介石夫妻の顧問ドナルドは西安事件でもともに交渉に参加するほど信頼を勝ち得ていた美麗に切り出した。「貧しい人々のあえぎをよそに、あなたの一族のなかには、虚栄におぼれ俗悪な形で富を誇示しているものがいる。あなたは、そんな馬鹿なまねをやめさせるべきだ」「ドナルド、政府についても中国についても何を言っても構わない。でもあなたでも批判してはならない人間がいることをよく覚えておくことね」1940年ドナルドは中国を離れた。

1941年12月8日真珠湾攻撃。重慶の模様。
「やにわに往来が騒々しくなり、号外屋の叫ぶ声や、それを買いに家から飛び出す音や、寄り集まってしゃべっている声などが、娑婆の雑音をつんざいて聞こえてきた。軍事委員会は歓喜にあふれ、蒋介石もわくわくして古いオペラの旋律をうたい、その日は一日中、アヴェ・マリアのレコードをかけ通しだった。国民政府の役人は、まるで大勝利を博したかのように歩き回って祝辞をかわした。彼らの見解によると、それは勝利に等しかった。ついにアメリカは日本と戦端をひらいたのだ。これからは中国の戦略上の重要性は従来にも増して高まるだろう。アメリカのドルや資材がどんどん中国に流れ込んでくるだろう。5億ドル、10億ドルと…」


1942年2月米議会は蒋介石の要請にこたえ、新たに5億ドルの借款供与を承認した。

1942年11月から1943年5月まで宋美齢、渡米。
1943年2月ホワイトハウスを訪問し、ローズベルト大統領と会談、対中援助の強化を求めた(The New York Times, Feb18,1943)。ローズベルトは中国を全力で支援することを宣言した。
翌日美麗は上下両院議会に招待され、上院で行われたスピーチの中で中国と米国の同盟関係を訴え、タイム誌は何度も演説について報道を繰り返し、「もっとも印象的で効果的」であり「いかに我々に類似しているか」と強調した。ワシントンのショーラム・ホテルのバンケットホールで大統領、上下院議員、各国大使を集めた大レセプション・パーティーを開いた。パーティー会場はホテル開業以来の混雑となった。
​美麗はその後、ニューヨーク、マディソンスクエアガーデンでも17,000人を前に演説し、九人の州知事たちが演説した。さらに、ボストン、シカゴ、サンフランシスコ、ロスアンゼルスと移動、ロスのハリウッドホールではマレーネ・デートリッヒ、イングリッド・バーグマンらそうそうたる顔ぶれの歓迎員会が企画し、全米にラジオ中継された。『タイム』『ライフ』は報道を続けた。
当時すでに囁かれていた美麗の悪評を打ち消し、「中国における女性の重要さと男女平等のあかしとして蒋介石夫人を描くべきで、それが中国が民主主義的であると見せる」ことが情報管理された。
美麗の訪米は大成功で、中国救済連盟に寄せられた義援金は700万ドルに達した。

1943年11月18日蒋介石夫妻はローズベルト、チャーチルとカイロ会談に臨んだ。22日、蒋介石の主張が認められ、1944年1月を期してビルマ北方では米英中三国が陸軍で、南方ではイギリス海軍を中心とした艦船部隊が、日本軍に反撃を加えるという戦略が採択された。美麗は蒋介石の通訳として会議に参加、会議参加者「蒋介石の言っていることを正確に通訳しているか、我々には分からない」。23日ローズベルトは蒋介石夫妻を夕食会に招き、戦後、中国を世界の大国として遇することを明確にし、満州・台湾・澎湖諸島が中国の領土となることを同意した。内外の世論は中国外交史上、空前の勝利と夫妻を讃えた。
しかし、わずか10日後、12月5日、蒋介石はローズベルトからビルマ作戦を延期すると通告された。
カイロ会談に続いてテヘランでローズベルト、チャーチルにスターリンを加えた会談が持たれ、ドイツとの戦に勝利した後、ソビエトが対日参戦することが確約された。日本を打倒するために中国に期待していた軍事的な役割は、今後ソビエトが果たしてくれる。米英に大きな負担となるビルマ作戦を急ぐ必要はなくなった。またローズベルトはスターリンに、対日参戦と引き換えに、日本の敗戦後、極東に自由港を設け、ソビエトが優先的に使用するという提案を行い、自由港として遼東半島・大連が挙げられた。ローズベルトは蒋介石の頭越しにスターリンと取引したのだ。

蒋介石にソビエト参戦と自由港提案は伝えられずビルマ作戦延期のみ通告されたが、蒋介石は激怒し「もし米英がビルマ作戦を行わないのであれば、その代償として中国はアメリカに対して10億ドルの借款を要請する」と返答した。しかし、ルーズベルトは議会が同意しないだろうとこの要求を一蹴し、中国に好意的であったモーゲンソー財務長官さえ、「中国政府の頭目たる汚職一家をどうしてほかの中国人がいつまでも支持しているのか理解に苦しむ」と言った。このころFBIは宋一族の腐敗について調査している。その文書は大部分閲覧可能であるが、ほとんどすべてのページに黒く塗りつぶされた部分がある。残された部分では「これまで武器貸与法によっておよそ5億ドルが中国に提供されたが、そのうちの大部分は宋一族の懐に流れ込むであろう」とある。

1944年4月日本軍は大陸打通作戦を開始、11月までに日本軍は、米軍基地があった桂林、柳州などを占領。国民政府軍は敗走を重ね、その軍隊の三分の一を失った。
党内の派閥から孔祥熙、宋靄齢、美齢が攻撃された。(慶齢はほとんど共産党と共にすることが多かった)内部抗争の発端はアメリカと中国との関係の悪化にあったという。靄齢、美齢は、ブラジルそしてアメリカへ移り住んだ。孔祥熙も靄齢の後を追い、やがて財政部長を解任された。一方外交部長を務めていた宋子文が翌年には行政部長と財政部長を兼任した。蒋介石は自らの延命に成功した。

宋一族はアメリカをパートナーとして権力を拡大し続けたが、アメリカが対日戦のパートナーとしてソビエトを選んだため、宋一家の基盤が崩れた。1944年6月米軍はサイパン島を、1945年3月に硫黄島を占領。中国から日本空襲することは必要なくなり中国の重要性は減った。1945年2月ヤルタ会談でソビエトの対日参戦の時期が確定、見返りとして大連港の自由化と、満鉄の優先的な使用を認められたが、重慶にはヤルタの合意(秘密協定は伝えられなかった。ルーズベルトはスターリンに「中国に話すことの困難は、何事も中国側に話すと24時間以内に全世界にしれわたってしまうことだ」

美齢は日本の敗戦から一か月後1945年9月に中国帰国。1946年7月蒋介石は数十万の兵を動員して共産党地区に攻撃を開始。共産化の脅威を煽って、米国の支援を要求した。米国も調停を断念し、支援を鮮明にした。
慶齢は7月声明を出し、国民政府への支援をしないように訴えた。
国民党軍は当初圧倒的な勢いで侵攻した。総兵力430万人、米軍の最新装備を持つ正規軍が200万人、共産軍は120余万人、日本軍から奪った旧式装備であった。米国は国民政府に20億ドルの援助を与えたほか、軍事顧問団を派遣し、余剰軍事物資を放出した。しかし、共産軍は粘り強く反撃し、1948年に入ると形成は逆転。東北、華北、中原などで人民解放軍は勝利を重ね、解放区は拡大した。1948年9月「遼瀋戦役」を開始、10月錦州、長春攻略、11月はじめまでに全東北を開放した。この戦役で国民党軍は一挙に47万の兵力を失った。

直後、美齢は再び米国を訪問し国務長官マーシャルの夫人の客となりマーシャル邸に滞在した。しかし、マーシャル国務長官に会うこともできず、蒋介石政権支持の声明をだすことも拒否された。トルーマン大統領も「蒋介石に対する借款はすでに38億ドル以上に達している」と声明した。美齢はニューヨーク郊外のリバデールにあった姉 
靄齢の屋敷にひきこもった。

1949年4月21日、解放軍は総追撃を開始、一斉に長江の渡河作戦を敢行。24日には首都南京、5月27日上海を占領、さらに南下を続けた解放軍は、その年の内に、台湾をのぞく中国全土をほぼ掌握。
1949年10月1日中華人民共和国成立。 慶齢は人民政府の副主席の一人として天安門上、毛沢東のかたわらに立った。
靄齢60歳、慶齢56歳、美齢52歳。

​美齢は1950年米国を後にして台湾に向かった。美齢は戦災孤児の施設や病院の建設に力を注いだ。またしばしば米国訪問もし大陸反抗への支持と支援を訴えた。2003年10月23日に、マンハッタンの自宅で老衰により105歳(106歳との説もある
)で死去
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エレノア・ルーズベルトと

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スティルウエルと

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米国 日中イメージ
米国マスコミは日中戦争に関して圧倒的に親中反日であった。極東問題に対する無関心派も減少。中国への同情を背景に米国では医療援助や被災民救援などさまざまな中国援助団体が設立され、同時に日本製品のボイコット運動も発展した(Committee for boycott against Japanese Aggression)。ただ日中戦争初期の米国では日本の中国侵略に反対し、中国に同情したが、日本製品買い控えに参加すると答えたのは37%で1938年2月にも中国への武器弾薬輸出反対が64%あった。しかし、次第に対日強硬政策支持に傾いていく。
中国におけるアメリカ人宣教師たちは1931年、日本の中国侵略が開始され、蒋介石がキリスト教に入信したころから、反日親中的立場を取るようになった。1937年南京陥落(虐殺)を実見したジョージ・フィッチが記録フィルムをもって惨状を訴えた。
1938年ACNPJA(日本の中国侵略に加担しないアメリカ委員会CAmerican Committee for Non ・Participationin Japanese Aggression )が幅広い宗教・政財学のメンバーを集めて結成され(名誉会長にはへンリー・スティムソン前 国務長官、副名誉会長にはハーバード大学名誉 学長、元米アジア艦隊司令官など)対日軍需物資禁輸に向け運動を展開した。大量の各種宣伝物が作成、配布され、残虐な日本軍と無辜の中国民衆という単純化された対比がなされ対日軍需物資輸出はキリスト者として罪になると訴えられた。
1939年の世論調査では日中戦争に関して中国に同情するとしたのは74%、対日ボイコットは66%、対日武器弾薬禁輸には72%が賛成した。
石油・鉄鋼等を含むすべての軍需物資の対日禁輸に関しても、1939年7月には賛成が51%であったのが、1940年2月には75%に達した。ACNPJAの調査によれば、1940年2月までに全米の主要30新聞が禁輸支持の決議を採択したり、そのための宣伝、請願などの行動をとった。日米貿易は米側の出超であることを反映し、1940年9月でも財界人の意見は対日融和首相が40.1%、放任が35%、攻撃が19.1%であったが、強硬な対日世論の前に1939年7月の日米通商航海条約の破棄、1940年7月の対日軍需物資輸出統制、10月のくず鉄、鉄鋼、航空機用ガソリン等の禁輸などに進んだ。
ローズベルト大統領は1940年7月スティムソン陸軍長官を任命した。前国務長官、対日強硬派、ACNPJA名誉会長としてしられた人物である。ACNPJAは1941年2月に活動を停止した。スティムソンは日米交渉での最終妥協案反対や原爆投下決定にも拘わることになる。
対日経済制裁は戦争の危険を招くという世論や、ACNPJAに対してアメリカを戦争にまきこむ委員会だという批判もあった。
​現代中国第71号 日中戦争とアメリカ援華制日運動より


 
宋姉妹

宋美齢は宋靄齢宋慶齢の2人の姉と共に「宋氏(家)三姉妹」と呼ばれる。
父親、宋耀如は9歳で米国に渡り、大学神学部を卒業、伝道師となる。1886年帰国し、上海へ。結婚し三男三女に恵まれた。靄齢アイリン、慶齢チンリン、美麗メイリン、子文、子良、子安
彼の関心は伝道から企業経営へと移り、大いに成功。そのころ孫文と出会い、秘書役、スポンサーとなる。
長女 宋靄齢 ソン・アイリン(
1889年7月15日 - 1973年10月19日
財閥で国民政府財政部長を務めた孔祥熙の妻。父は孫文の支援者であった浙江財閥宋嘉澍。「宋氏三姉妹」の長女で、妹に宋慶齢(孫文夫人)・宋美齢蔣介石夫人)が、また弟に中華民国の政治家・実業家となった宋子文がいる。。1904年5月28日、14歳だった宋靄齢はアメリカに渡り、ジョージア州メイコンウェスレイアン大学に留学した。1905年にはおじに付き添って、ホワイトハウスで行われたセオドア・ルーズベルトのパーティーに出席
1910年にアメリカから帰国した後、孫文の秘書となった。孫文とともに全国各地を調査し、総延長約10万キロメートルの鉄道建設計画策定に関わった。
1913年に孫文が袁世凱に敗れ日本に亡命すると、父とともに渡日し孫文の秘書を続けた。1914年横浜孔祥熙と結婚。
日中戦争が始まると、妹の宋慶齢・宋美齢とともに抗日運動に参加した。中国工業合作協会の支持に加わり、婦女指導委員会を組織し、全国児童福利会を創設したほか、香港の負傷兵の友協会の会長に就任した。戦後は1947年に渡米し1973年10月20日、ニューヨークの病院でガンのため85歳で没

西安事件をスクープした松元重治が書いた「上海時代」によると、
靄齢が上海の株相場を左右する大手筋の一人であることを知っていたほかに、彼女はかつてムッソリーニをも降参させたという話を聞いていた。その話というのは、宋靄齢がムッソリーニをその官邸に訪ねたときのことである。ムッソリーニは、首相用の大きな長方形の事務室で客を接見するのを常としており、客を迎えるとき、彼は、その部屋のいちばん奥に据えた大きな机を前にして、入口の方に向って椅子にどっかと坐っていたという。ドアを開けて入ってくる客がムッソリーニに近づくためには、少なくとも二、三十集も歩かなければならなかった。客が歩いてくるうちに、客人の品定めをやるのがムッソリーニのやり方であったという。ところが、宋靄齢がローマを訪れ、ムッソリーニに会ったとキ彼女は、ドアを開けて部屋に入ったところで突っ立ったまま、はるかにムッソリーニを眺め彼の品定めをやっているかのように、一歩も動かなかった。相手が女性であるから、致し方なく禁を破って、ムッソリーニのほうから宋靄齢のほうに足を運んでいき、入口で突っ立っている彼女と握手した。かくしてムッソリー二は、この女性にだけは「降参した」。

上海でソ連大使のパーティがあったその夜、十二時すぎになっても、孔祥煕は来ず、夫人だけが会場の入口に現れ、そこで突っ立って動かなかった。会場の中央に立って、来る客人たちに握手していたボゴロモフ・ソ連大使が、宋靄齢が立っている姿を見ると、ムッソリー二の場合のように、大使のほうから飛んでいって、彼女の握手を求めた。私(松元重治)は、その夜も彼女の芝居が成功したと思ったが、世界の誰に対しても恐くないという自信が、ありありと彼女の堂々たる挙動に現れていた。「ソ連何ものぞ」という気塊が彼女にはありそうにさえ感ぜられた。「上海時代」より


次女 宋慶齢 Soong Ching-ling ソンチンリン(1893年1月27日 - 1981年5月29日)
1907年に14歳でアメリカに留学し、ジョージア州のウェスレイアン大学に留学して文学学士号を取得し、1913年に帰国。8月には孫文や父親と姉靄齢の滞在する横浜へ。1914年結婚した姉の跡を継いで孫文の英文秘書を務めていた。孫文とは1915年10月25日に東京で結婚。結婚に際しては孫文が宋慶齡より26歳年長である点や、前妻の盧慕貞との間に子女をもうけていたことよりクリスチャンである両親からも反対されたが、唯一、宋美齢の賛成を受け、孫文の離婚が成立した後に結婚したとされる。

孫文は日露戦争で勝利した日本を見て「もし中国が日本の程度に達すれば、中国は10の強国と同じ強さになるであろう。その時中国は他に打ち勝ったその地位を再び取り戻すであろう」、と日本からの支援を期待していた。
 ​
1916年夫妻は帰国。慶齢は孫文の活動を支えた。1925年、孫文逝去の後は1926年1月に中国国民党中央執行委員に就任している。5.30事件では新聞に弾圧への抗議文を発表した。「この悲劇は、中国民衆の革命への志を圧殺しようとするイギリスと日本の権力がもたらしたものである。…我々の武器は、愛国心と人々の連帯だけである。民族の独立を勝ち取るために、ともに戦おう。孫先生の精神はまだ死んではいない」
1927年蔣介石が指導する南京政府が上海にて四・十二事変を発動し、それまでの宥和的な中国共産党との関係の見直しが迫られるが、宋慶齢は孫文の「聯俄容共(ソ連との協力、共産党の容認)」政策を堅持する立場を採り上海クーデターを非難し、蔣介石や宋一族との対立を深め、宋慶齢は汪兆銘の武漢政府に身を寄せることとなった。

​1927年3月21日、北伐軍が帝国主義の牙城、上海に到達したとき、上海では50万人とも80万人とも言われる労働者がストライキに入り、国共合作による中国革命が成就したと多くの労働者は考えた。しかし、突然、4月12日、蒋介石はクーデターを起こし、共産党への弾圧を始めた。実は蒋介石は4月1日、宋靄齢孔 祥熙夫妻の上海の屋敷で武漢国民政府主席に就任したばかりの汪兆銘と会っていた。なにが話されたかはわからない。

7月、宋慶齢は「孫文の革命原則と政策違反に抗議するための声明」を発表し蔣介石派と決別、それは同時に、宋靄齢 孔祥熙 美麗ら蒋介石側に立った宋家の人々との決別でもあった。慶鈴はソ連に向かいかつて孫文がしたように革命運動を再建しようとした。8月にはソ連に身を寄せている。しかしスターリンによる反対派の粛清と中国革命に対する冷淡な態度に幻滅し、中山陵(南京郊外の紫金山にある孫文の墓所)完成の式典に際して中国に帰国している。慶鈴滞在中、かつて孫文と中国革命推進の共同宣言を出したアドルフ・ヨッフェは長年の同志トロツキーの除名、自らに迫害が及ぶ恐怖の中でスターリンへの抗議をもって拳銃自殺した。スターリンは蒋介石についた。モスクワに幻滅し中国に戻る慶鈴に衝撃を与えるニュースが報じられた。姉の靄齢が上海の自宅で記者会見を開き、蒋介石と妹美麗の結婚を発表した。

蒋介石は早くから宋姉妹に接近。まず孫文に美麗との結婚を取り計らうよう依頼したが、慶齢は強硬に反対。孫文が亡くなると蒋介石は慶鈴に結婚を申し込み断られる。蒋介石の日記に最も頻繁に出てくる女性は陳潔如で、1920年14歳で蒋介石と結婚した女性である。陳潔如のメモワールによると、蒋介石と美麗の結婚を推し進めたのは
靄齢である。「共産党によって、あなたの権力はいずれ奪われるだろう。だが私はあなたに協力する。弟子文を通じて上海の銀行家たちから資金を引き出し提供しよう。武器を買うための金も援助しよう」と支援の約束をし、美麗に対しては蒋介石と結婚を薦めた。また、蒋介石が権力を握った暁には、宋一族を政府の要職につけることを求めた。1928年北伐完了し、蒋介石は国民政府主席、孔 祥熙は工商部長、宋子文は財政部長(部長は大臣)と南京政府の要職を占めた。

1928年春、慶齢は当時ヨーロッパの反帝国主義運動の中心で、各国からの亡命者があつまっていたベルリンに向かった。在独アメリカ大使館から米国国務省長官あて報告。「半年間のモスクワ滞在で、慶鈴はボリジェビズムやボリシェビキのプロパガンダに幻滅した。彼女は孫文の三民主義によって中国を救おうとしている」蒋介石によって統一された中国は、中国における列強の機会均等をうたったワシントン体制にとって歓迎すべきものであり、蒋介石に対抗し、共産主義に接近する慶齢には神経をとがらせていた。

1929年、蒋介石は孫文の遺志に基づき、都・南京に巨大な中山陵を造営、北京の孫文の遺体を移した。蔣介石はベルリンの慶齢のもとに、慶齢の二番目の弟、子良を派遣し、中山陵で行われる埋葬式に出席を要請、合わせて彼女を国民党中央執行委員に再任命。慶齢は声明で「私は帰国する。しかしその目的は孫博士の遺体を、彼が埋葬することを望んでいた紫金山に移す式典に出席するためである。国民党の政策が、孫博士の基本原則に完全に一致するまで、私は党のいかなる仕事にも、直接的にも間接的にも参加することはできない」
帰国した慶齢は北京郊外の壁雲寺に詣でた。4年前孫文を葬った時、誰にもまして励まし、慰めてくれたのは姉と妹だったが、今や三姉妹の心は遠く隔たっていた。特別列車で北京から南京に向かった孫文の遺骸は各地で人々がつめかけ、南京では、埋葬式が催され、海外を含む多くの来賓が出席、蒋介石、宗家の人から慶齢は遠く離れたままだった。

蒋介石は中山陵の近くに慶齢の家まで用意し、南京に彼女を引き留めようとしたが、式典の翌日、慶齢は上海に戻った。さらに蒋介石夫人、美麗は慶齢を訪問し、国民党中央執行委員会への出席を求めたが、慶齢は拒絶。この委員会では、三民主義に反対するような言論の禁止と、国民党に従うことが定められた。慶齢は声明をだす。「反革命的指導者の性格が、今日ほど恥知らずなものとして明らかになったことはない。国民革命を裏切ったことで彼らは帝国主義者に堕落した。しかし、中国の民衆は抑圧を恐れることなく、偽りに満ちたプロパガンダに惑わされず、ひたすら革命の側に立って戦うであろう」。英米の新聞は蒋介石とのトラブルを恐れ、慶齢の声明を改竄した。
蒋介石はなおも慶齢を南京に引き戻そうと、かつて孫文の側近の一人であった戴季陶を差し向けた。その時の慶齢との長く熱い論争を慶齢は新聞に発表したが、その明確で強固な立場表明は、宋家との対決という姿勢の基盤であり、終生変わることはなかった。

1929年には国民党を脱退した。

1933年蒋介石は江西省南部を中心とする共産党地区に対し陸軍100万人の本格的な包囲掃討作戦を開始。
共産軍は瑞金から撤退し、1万2500キロに渉る長征を開始した。一方、「抗日」より「反共」を優先する蒋介石にたいする抗議運動は中国各地に広がり、蒋介石は容赦ない弾圧を加えた。これに対し、慶齢は民権保障同盟を設立し、言論の自由と政治犯の釈放を求めて活動を繰り広げた。1935年「中華人民対日作戦基本綱領」発表。「国民党や国民政府に頼って抗日救国を実行しようと考えてももはや望みはない。中華民族は自ら武双自営し、自分を救う以外にない」しかし、共産党は「すべての者が内戦を停止し、すべての国力を集中して抗日救国の神聖なる事業に奮闘するべきである」と発表。この八・一宣言はモスクワでコミンテルンがドイツと日本に対するすべての国家の連合と人民戦線の結成を呼び掛けたのに呼応するものであった。

中国に帰国した宋慶齢は香港に居を構えた。日本との戦争状態にあった中国で共産党との対立を回避・協力して抗日戦を展開すべきという張学良により1936年西安事件が発生すると、宋慶齢も「国共合作」推進を提唱して第二次国共合作が成立した。国共合作成立後は国民党への再加入は見送ったものの、宋家の三姉妹は抗日統一戦線の象徴として戦地での慰問等の活動を行う政治的なプロパガンダ活動を行っている。1937年、エドガー・スノーの「中国の赤い星」は中国共産党の姿を好意的に描き、欧米でベストセラーとなったが、その取材の為に慶齢はさまざまな便宜を図った。

日本軍の上海侵攻に伴って慶齢は上海から香港に移り、独自の抗日組織「保衛中国同盟」を設立した。

1940年3月宋三姉妹はそろって日本軍の爆撃が続く重慶を訪問し、被災地、病院、学校の視察慰問、集会が続いた。40日の間に公式の場で23回行動を共にした。世界のメディアに紹介され、団結して抗日に立ち上がった中国を印象付けたが、慶齢はその後一人香港に帰った。

1941年日本軍は香港攻撃、空港が炎上する6時間前に慶齢は重慶行き飛行機に搭乗した。
最初、慶齢は靄齢の招きに応じてその邸宅に落ち着いたが、長年対立してきた人々の中で生活するのは心地よいはずもなく、まちはずれのこじんまりした洋館に移り保衛中国同盟の活動を再開した。

1948年1月には国民党革命委員会第一次代表大会は宋慶齢を名誉主席に選出している。
 
1949年国共内戦が終結すると、台湾に逃れた蔣介石・宋美齡と行動を別にして中国大陸に残留した。
10月1日天安門広場に集まった30万人の人々の前で毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言。それに先立ち、毛沢東は周恩来と連名で慶齢に北京へ招待の手紙を送った。慶齢は毛沢東と共に天安門に立った。

中華人民共和国成立後は6名の中央人民政府副主席の一人となり、同時に中華全国婦女連合会第2期名誉主席に選出された。1950年代にはインドパキスタンビルマインドネシアを歴訪するなど外交政策に関与するなどしたが、それは中国革命の指導者である国母・孫文夫人としての政治的関与で政治的実権は無く、主に婦女の保健衛生・文化教育活動に尽力し、1951年にはスターリン平和賞を受賞し、この賞金を基礎に上海に婦幼保健院を建設している。1954年9月に全国人民代表大会(全人代)が成立すると、全国人民代表大会常務委員会第一副委員長に選出される。1959年4月に国家副主席に就任した。
文化大革命では江青の指導の下で上海の造反派は宋家を資産階級であると批判した。宋慶齢も蔣介石の義姉であることから「蔣匪」として批判を受けた。父母の墳墓が破壊され自身への攻撃も強まったが、毛沢東による「文革保護対象名簿」の第一位として保護され、直接迫害が及ぶことはなかった。周恩来も「宋家の三人の兄弟・三人の姉妹のなかで慶齢だけが革命の戦士として見事に戦った。慶齢の妹が蒋介石の妻であるというだけの理由で彼女を攻撃してはならない」と擁護の論陣を張った。


1968年10月31日文化大革命によって現職の国家主席であった劉少奇が打倒されると、宋慶齢は董必武とともに国家副主席として国家主席の職務を代行した(1972年2月24日まで)。1975年1月の憲法改正で国家副主席の職が廃止されると、再び全人代常務委員会副委員長に転出。1976年7月6日、全人代常務委員長の朱徳が没すると、常務委員会第一副委員長として、委員長の職権を代行した(1978年3月5日まで)。なお、1975年1月から1983年6月まで全人代常務委員会が国家元首の権能を果たしていたので、宋慶齢は全人代常務委員長代行として在任中、中華人民共和国の国家元首格であった。
1981年5月に慢性リンパ性白血病により危篤状態となった。5月15日中国共産党中央政治局は宋慶齢を共産党の正式党員に承認、翌日、第5期全人代常務委員会は宋慶齢に「中華人民共和国名誉主席」の称号を授与した。この入党は、宋慶齢から家族に親しく便宜を受けた劉少奇未亡人の王光美が、かつて宋慶齢が劉少奇を通じて入党申請を出しながら叶わなかったことを思い出し、「恩返し」として(宋慶齢の意思を確認した上で)胡耀邦に伝えて実現したものだった。1981年5月29日に北京にて88歳で没した。

姉と妹はニューヨークに墓がある。
政府要職にあっても北京での執務以外では故郷の上海に滞在することが多く、墓所は宋慶齢陵園として整備されている。

「宋靄齢は金を愛し、宋美齢は権力を愛し、宋慶齢は国を愛した」

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孔祥熙
宋子文

孔 祥熙 
宋三姉妹長女 宋靄齢 ソン・アイリンの夫
1905年、孔祥熙はオハイオ州オベリン大学を卒業し、さらにイェール大学鉱物学を学び1907年修士号を取得
長期にわたって国民政府の財政部門を担当したが、宋家と結託していわゆる孔宋集団を形成し、腐敗政権や民衆の財産を集め私腹を肥やす者たちの象徴と言われた。
国共内戦の末期には、中国国民党や孔宋家の一族に対して「刮民党」(刮は、略奪する、巻き上げるの意味)と呼ぶことが流行した。
日中戦争初期こそ孔祥熙の財政政策に対して各界から大きな不満は見られなかったが、後期になると孔祥熙や家族が官でも民でもその権力を利用して投機を行ったり、私財を肥やしているとして大きな不満の対象となった。アメリカ人もこの正常ではない私腹の肥やし方に着目していた。1944年傅斯年国民参政会で米ドル公債の発行における孔祥熙の不正行為を糾弾し、ほどなくして孔祥熙は財政部長の職を免職された。さらに1945年には行政院副院長と中央銀行総裁も辞し、1947年には宋靄齢の病気を理由にアメリカに住まいを移した。1948年には最後の中国銀行董事長の職を辞している。1962年以降、台湾にしばらく滞在することもあったが、最終的には1967年にアメリカニューヨークで病没した。

三姉妹の弟 宋子文
上海聖ヨハネ大学に学んだ。その後1912年に渡米し、ハーバード大学に入学して経済学を専攻し、1915年に経済学修士。同年にコロンビア大学に入学し、経済学博士を取得した。コロンビア大学時代にはニューヨークにて銀行員として勤務していた。1923年に孫文により広東に招かれた。広東の国民政府では両広塩務稽核所経理や広州中央銀行行長として、財政改良を担当した。孫文の死後は国民政府財政部長に就任し、また広東省財政庁長を兼任して政府の財政統一を進めた。この間、国民政府の収入は1924年の約798万元から1927年には約1億876万元へと急増している。国民党の北伐成功後は、国民政府委員や財政部長、中央銀行総裁といった職を歴任する南京国民政府の重鎮となる。
日中戦争中国の勝利で終わった後、宋子文は中国各地に残された敵産接収を担当した。しかし接収の際は権力者による略奪を防ぐことはできず、宋を含む四大家族が管理する企業に資産が集中したとも言われる。1947年10月からは広東省政府主席となったが、ここでも経済混乱は収束させられず、逆に官僚資本を通じて暴利を貪ったとの批判もある。1949年長江を越えて広東に人民解放軍が迫る中、宋子文は香港へ、さらに6月アメリカニューヨークへと逃れた。以降は台湾中華民国政府側からの台湾「復帰」要請にも応えず、1963年に僅かの間、台湾を訪れたのみであった。1971年サンフランシスコを訪問中に客死した。


参考文献 宋姉妹  NHK取材班 平成7 ウィキペディア

張学良  西安事件
張学良

Chang Hsueh-liang 1901年、張学良は当時満州地方(現地名:遼寧省台安県)の馬賊であった張作霖の長男。1920年3月、19歳で東三省講武学堂を卒業し、同年6月、混成第3旅旅長に任ぜられた。年末には陸軍少将に昇格。西安事変の時には陸軍一級上将になっていた。これは蔣介石に次ぐ中国の最高軍事指導者の地位である。満州奉天軍閥、父・作霖と共に大日本帝国に協力的であった。1928年6月4日、父・作霖が関東軍河本大作による張作霖爆殺事件により死亡すると、張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、亡父の支配地域・満州を継承した。 当時、蔣介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満州への軍事・政治への不干渉を認めさせ、独立状態を保つことに成功する。
満州事変が勃発した時、彼は北平(北京)にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。日本と積極的に戦わず退いたこと自体は国民政府の方針通りであった。この時期蔣介石は下野していたが、蔣の意向も同じであった。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満州全域を占領したため、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、張は「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。
 
その後蒋介石の勧めもありアヘン中毒の治療もかねて1933年ヨーロッパを歴訪し、イタリアムッソリーニドイツゲーリングに面会。1934年、張学良はヨーロッパから帰国すると豫鄂皖三省剿匪副司令に任命された。蒋介石が、張学良に東北軍を率いて、陳西省北部に「長征」してきた紅軍と革命根拠地への包囲攻撃(囲剰)を命じたのである。蒋介石は、策略家で冷徹な軍人で、非直系の地方軍を「囲剰戦」に投入して消耗させ、紅軍の撲滅と非直系の軍隊の削減との「一石二鳥」を狙ったのである。張学良は河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党を呼び寄せて軍を整えた。約22万人。1935年西安に駐留して9月から11月にかけて共産党の根拠地を攻撃したが、戦力では勝っていたものの士気の高い紅軍に連敗し多くの将兵を失った。共産党は捕虜になった東北軍の数千人の将兵にたいして、内戦を停止して、一致して日本と戦うことの必要を説いたうえで、旅費を渡して送り返したため、東北軍の将兵の間に、共産党との内戦にたいする厭戦ムードが広まった。翌1936年1月1日、紅軍の捕虜となっていた107師619団団長の高福源上校が洛川の第67軍本部に引き渡された。高福源は第67軍軍長の王以哲とともに張学良の元に行き、共産党が抗日民族統一戦線を提案している事を伝えた。これに同調した張学良は、2月21日と3月3日に中共中央連絡局局長李克農と、1936年4月8日、自ら飛行機を操縦して密かに延安に飛び、翌9日に延安のカトリック教会で、周恩来と会談した。五月上旬には二回目の会談がおこなわれ、張学良は東北軍による共産党軍への「囲剰戦」の停止を密かに約東するとともに、周恩来との間で、国民党と共産党が内戦を停止し、一致して抗日にあたるように努力することで合意した。周恩来との会談の後の6月22日の講演で、張学良は「抗戦こそ中華民族の唯一の活路であり、抗日は東北軍最大の使命である」と断言した。
9月下旬、両軍は「抗日救国協定」を結び停戦することになった。この時、既に対蔣介石クーデターの構想などが練られていたと言われる。

10月22日、蔣介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。蔣介石は、「東北軍頼むに足らず」と知り、東北軍を福建に移し、代りに30万人の軍隊と100機の軍用機を集める計画を開始した。このことは、共産党鎮圧政策の強化にとどまらず、東北軍への懲罰、張学良への警告であった。12月4日、蔣介石は再び西安に赴き、共産党・紅軍絶滅の最終決戦態勢をととのえ、東北軍・西北軍を督戦するために、陳誠・衛立煌など多くの軍首脳を招集した。
張学良は蒋介石が宿舎をとった西安郊外の華清池(唐の時代、玄宗皇帝と楊貴妃が愛の生活を過ごした温泉地)に赴き、蒋介石に内戦停止と一致抗日を涙を浮かべて訴えたが、蒋介石は頑として受け付けず、張学良と蒋介石の対立は決定的なものとなった。
12月9日、前年の北京でおこった一二・九運動の一周年を記念して、西安の学生約一万人が、内戦の停止と一致抗日を求めて請願デモをおこなった。学生運動の中核になったのは、満州事変で故郷を追われた東北大学の学生たちであった。学生デモは、華清池まで行って蒋介石に直接請願しようということになり、西安市内を出発、灞橋という橋にくると、国民党の憲兵隊が機関銃を据え付けて、デモ隊を阻止した。蒋介石は憲兵隊にたいして発砲許可を与えていた。憲兵隊と学生との間に衝突がおころうとしたところへ張学良が車で駆けつけ、学生たちにたいして、蒋介石に学生の要求を伝えること、一週間以内に事実をもって学生の要求に答えるからと約束し、学生たちを説得して西安に戻した。

12月10日、蔣介石主導の会議で、張学良の現職を解任し、東北軍とともに福建に移動させることを決定。これによって、中央軍が主力となる。11日夜の蔣張会談の際も、蔣は張の提言を拒否する。12月12日、張学良は東北軍の精鋭部隊に華清池の蒋介石の宿舎を急襲させ、蒋介石を拘束して西安市内に連行させ、新城大楼に監禁した。その日のうちに、張学良と楊虎城の連名で以下の八項目の主張を全国に打電した。

①南京政府の改組、②内戦の停止、③救国会指導者(抗日七君子)の即時釈放、④全国のすべての政治犯の釈放、⑤民衆の愛国運動の解放、⑥人民の集会、結社、すべての政治的自由の保証、⑦孫文総理の遺嘱の切実なる遵守、⑧救国会議の即時召集

このニュースは新聞聯合社(後の同盟通信社)上海支局長、松元重治によってスクープされ

、全世界を驚かせた。日本では『読売新聞』(1936年12月13日号外)が「全支大動乱の危機に直面」「蒋介石氏の生死に拘わらず張学良を即時討伐総司令何応欽洛陽に飛ばん」「抗日は戦略張の野心爆発」などと報じたように、西安事件は張学良の個人的野心によっておこされ、中国は大動乱となるであろうと、センセーショナルに書きたてた。

しかし、西安事件は、大動乱とはならなかった。

事件の翌朝、張学良から共産党へ周恩来を招聘する電報が届き、共産党はこの要請を受け、調停のために周恩来を西安に派遣した。12月22日には蒋介石夫人の宋美齢と兄であり、財政部長、行政院院長代理をつとめたことのある宋子文が西安に到着した。張学良と周恩来と宋美齢・宋子文の四者の会談がもたれ、24日には張学良の仲介のもと、蒋介石と周恩来が直接会談をして、内戦停止と一致抗日について、基本的合意ができた。これによって、蒋介石も監禁を解かれ、二六日に飛行機で南京に到着し、宋美齢とともに南京政府の要人に迎えられた。


12月14日、西北剿匪総司令部を解消し、自ら「抗日聯軍西北軍事委員会」主任を名乗る。共産党員は、これまで非常に長い間、蔣に追われ、皆殺しの対象(周恩来の首は高額の賞金がかけられていた)になっていたが、西安事件の時は蔣介石の生殺与奪を握った。蒋介石は美麗に会うまでは死を覚悟していた。しかし張学良は西安事件で蔣介石の日記を読み、彼が対日戦略のために臥薪嘗胆の計を取っていることを知り驚愕する。

張学良は飛行機で蒋介石らの2時間後に南京に到着。
宋子文公館に幽閉された。西安事件は蔣介石暗殺の危険性があった重大事件であり、国民党は張を軍法会議にかける事に異議はなく、傅斯年などは張を極刑に処すべしと主張していた。しかし張は極刑もしくは国民党から永久除名にされず、12月31日、軍事委員会高等軍法会議(裁判長:李烈鈞、判事:鹿鍾麟朱培徳)により上官暴行脅迫罪で懲役10年の刑を受けた。このように極刑にされなかったのは蔣介石の寛大さと張は述べている。1937年1月4日に特赦を受けたが、各地を転々と軟禁状態に置かれた。1945年第二次世界大戦に日本が敗北した後の国共内戦において、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、1949年台湾に逃れたが、この際に張も共に移送され、清泉温泉などの場所で50年以上も軟禁され続けた。1955年には、蔣介石の妻・宋美齢の勧めにより、キリスト教洗礼を受けている。
 
1980年代後半には、李登輝によって戒厳令が解かれた中華民国の民主化を象徴する形で対外メディアとの接触が許され、事実上軟禁状態が解かれた。中華人民共和国から余生を送るよう丁重に招請されるが、これを拒絶している。その後、1991年アメリカハワイ州ホノルル市へ移住した。そのままホノルル市に隠棲し、2001年に死去。100歳没。

1990年8月、NHKの独占インタビューに答えた張学良は、自分が満州事変・「満州国」にたいして不抵抗主義をとったことに関連してこう述べた。

 私は後になって日本軍の行動を理解したのです。当時の日本軍がいかに狂っていたかということを理解したのです。日本軍は中国に対してひどいことをしただけでなく、日本国内でも同様なことをしていたのですから。言うことを聞かなければ殺してしまう。後でやっと、これが日本という国の現実だと分かったのです。このまま続けていけば、日本という国家は滅んでしまうと思いました。私の判断ではこのような国が、このような狂った軍人のいる国がとても生き残れるとは思えませんでした。(NHK取材班・臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』角川書店)

 

張学良はインタビューの最後に「日本の若者に言いたいこと」としてつぎのように述べた。

 

私は、一生を日本によって台なしにされました。私は日本に父親を殺され、家庭を破壊され、財産も奪われたのです。このうえなく不合理なことです。(中略)私は日本の若者にぜひとも言いたいことがあります。日本の過去の過ちをまずよく知ってください。そして過去のように武力に訴えることを考えてはいけません。(前掲書)

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