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15年戦争
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米国の中国市場に対する野心
「世界史の窓」より
1890年の暮れ、サウス・ダコタのウーンデットニーで、スー・インディアン約350人が軍隊に包囲され、武装解除されている間に争いが起って、300人近くが殺され、雪の中に横たわった。軍隊の側からは「戦闘」とよばれ、インディアンの側からは「虐殺」とよばれている事件だが、この時点で全米のインディアンは組織的抵抗が終わった。殺されずに運よく生き延びたインディアンは、荒野や山岳に指定されたリザヴェイションのなかに住まなければならなくなった。現在286もあるリザヴェイションは、アリゾナやニューメキシコを除くと、あとは細かくひっそりとしている。‥‥市民権を与えられたのは遙か後の1924年のことであり、投票権に至っては第二次世界大戦後の1948年なのである。インディアンの組織的抵抗がすべて終わった1890年、国勢調査の結果、フロンティア・ラインの消滅が報告された。<猿谷要『物語アメリカ史』中公新書 p.122-3>
このフロンティアの消滅の時期は、同時にアメリカ合衆国の資本主義経済における独占の形成が帝国主義の段階に入った時期と重なっており、新たに海外領土・植民地を獲得するというアメリカ帝国主義の時代が開始されることとなる。
米西戦争 1492年1月に成立し、かつて「太陽の沈まない国」と呼ばれ、世界的な強国として君臨していたスペイン帝国の地位は、19世紀後半までの数世紀の間に低下していった。大航海時代にコロンブスが現在のバハマ諸島の東端に位置するサンサルバドル島に上陸し、当初はそれを香料諸島のインドと勘違いしてそこに住む原住民を「インディアン(インドの人々)」と呼んだ。それ以降スペインの軍人であるコルテスの「アステカ文明の発見と征服」を皮切りに、南北アメリカ大陸の大部分にまで及んだ金・銀鉱山の盗掘、そして現地の先住民を奴隷化して彼ら自身に金・銀を掘らせるエンコミエンダ制を実施し、その金・銀を船に積み込んでスペインのセビリャ港に運び出した。本国ではその金・銀で貨幣を大量に鋳造し、それを海軍力の増強や植民地拡大のための戦費に充てた。こうして近代16~17世紀のスペイン帝国は繁栄した。
しかし、ヨーロッパでのオランダ独立戦争においてオランダとイギリスの連合軍にドーバー海峡で敗北し、オランダの独立を許した。これ以来、香料諸島の植民地支配の主導権はオランダに奪われ、ポトシ銀山を始めとする南アメリカ各地の金・銀の産出量は減少し、海軍力は既に世界一の座から落ちるという具合に、明らかに衰退していった。植民地の独立運動時を経て時代は19世紀末から20世紀に入ろうとする頃、既にスペインにかつての大帝国の面影はほとんどなかった。東アジアでは16世紀に当時のスペイン帝国で最大の版図を誇ったフェリペ2世の名前をとって名付けられたフィリピンが残るのみで、太平洋・アフリカ・西インド諸島にはほんの少数の散在した植民地しか残らなかった上に、その多くも独立運動を繰り広げていた。フィリピンではアギナルドにより、キューバではアントニオ・マセオ、マクシモ・ゴメス、ホセ・マルティなどにより既に数十年に渡るゲリラ戦争が展開されていたが、スペイン本国はこれらの脅威に対抗しうる予算あるいは人的資源を十分に持っておらず、全ての面で不足していた。そこでキューバにおいてキャンプを構築し、住民と独立軍を分離させて支援を止めさせる作戦を布告した。スペインはさらに反逆者と疑わしい人々の多くを処刑し、村々に残酷な仕打ちを行った。しかし1898年にはキューバ島の約半分がマクシモ・ゴメス将軍の率いる独立軍に支配され、結局スペインは立場を完全に回復することができなかった(第二次キューバ独立戦争)。
ジャーナリズムの読者数獲得競争と捏造記事
キューバでのこれらの出来事は、アメリカの新聞が読者数を伸ばそうとしていた時期に起きた。1897年の「アメリカ婦人を裸にするスペイン警察」という新聞記者による捏造記事をきっかけに、各紙はスペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激した。そしてキューバへの介入を求める勢力の増大を招いた。開戦への圧力そのため開戦への他の圧力も増大し、アメリカ海軍は開戦の1年以上前にフィリピンでスペイン軍を攻撃する計画を作成していた。
西部への拡張およびインディアンとの大規模交戦の終了はアメリカ陸軍の職務を減少させ、軍の指導陣は新しい職務を望んだ。早期から、アメリカ人の多数はキューバが彼らのものであると考えた。キューバの経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易(その多くは闇市場だった)はアメリカとの間のものであった。何人かの財界人も同様に開戦を要求した。ネブラスカ州のジョン・M・サーストン上院議員は、「スペインとの戦いは、すべてのアメリカの鉄道ビジネス及び所得を増加させるだろう。それは、すべてのアメリカの工場の出力を増加させるだろう。それは、産業と国内通商のすべての流通を刺激するだろう。」と明言した。太平洋を渡ってマニラまで向かうのに2ヶ月はかかる時代であったにも関わらず、マニラ湾海戦は開戦からわずか約2週間後の5月1日に勃発した。
戦争の始まり1898年2月15日にハバナ湾で、アメリカ海軍の戦艦メイン号(USS Maine, ACR-1)が白人士官の上陸後に爆発・沈没し、266名の乗員を失う事故が発生した(この中には8名の日本人コックとボーイが含まれていた)。爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものが無かったが、『ニューヨーク・ジャーナル』、『ニューヨーク・ワールド』の2紙を始めとした当時のアメリカのメディアはスペイン人による卑劣なサボタージュ(破壊活動)が原因であると主張した。「Remember the Maine, to Hell with Spain!(メインを思い出せ!くたばれスペイン!)」という好戦的で感情的なスローガンを伴ったこの報道は、一層アメリカ国民を刺激することとなった。この愛国的で好戦的な風潮はスプレッド・イーグリズムあるいは主戦論として知られている。爆発原因に関する専門家の見解は現在も定まっていないが燃料の石炭の偶然の爆発によるものとするのが一般的であり、コンピューター・シミュレーションによって確認もされている。なおアメリカ海軍は、調査により原因をボイラーの欠陥と結論付けている。一方で石炭自体にその原因を求めるものやアメリカを戦争に引き込もうとするキューバ人革命家によるサボタージュによるものとする異論も存在するが、スペインが戦争に消極的であったという点では一致している。アメリカのウィリアム・マッキンリー大統領は開戦に同意せず、世論に対して長い間持ちこたえた。しかしメイン号の爆発は、戦争への世論を非常に強力に形成した。スペインのサガスタ首相はキューバから職員を撤退させてキューバ人に自治を与えるなど、戦争を防ぐ為の多くの努力をした。しかしながらこれはキューバの完全独立には不十分なもので有り、大きく現状を変更するには足りなかった。4月11日にマッキンリー大統領は内戦の終了を目的としてキューバへアメリカ軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出した。4月19日に議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認し、大統領はスペインの撤退を要求する為に軍事力を行使することを承認した。これを受けてスペインはアメリカとの外交関係を停止し、4月25日に連邦議会はアメリカとスペインの間の戦争状態が4月21日以来存在することを宣言した。なお議会はその後、4月20日に戦争の宣言を遡らせる議決を承認した。
フィリピンにおける最初の戦闘は、5月1日のマニラ湾海戦である。香港を出港したジョージ・デューイ提督率いるアメリカ太平洋艦隊が、マニラ湾でパトリシオ・モントーホ提督率いる7隻のスペイン艦隊を攻撃した。6時間ほどでスペイン艦隊は旗艦を含む3隻が沈没し、4隻が炎上するなど壊滅状態に陥った一方、アメリカ艦隊の被害は負傷者7名のみとほぼ無傷であった。マニラ湾海戦の結果フィリピンのスペイン海軍は壊滅したが、マニラでは1万人以上のスペイン陸軍が駐留していた。海戦後にデューイと会談し、勝利の暁に独立させると約束されたフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの民族主義者は、アメリカ軍の支援と相互連携してスペイン軍を攻撃した。独立軍は1万人を超え、1898年6月にはルソン島中部を制圧し、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言して暫定政府を組織した。アメリカ本国のマッキンリー政権はマニラ市を占領するためウェズリー・E・メリット少将の指揮で大規模な派遣軍(正規軍5千人を含む2万人規模)を派遣した。6月30日に派遣軍の先発部隊、7月半ばにはメリット少将も現地に到着し、8月にはスペイン軍に降伏勧告を行い、14日に休戦協定が決定した。
米西戦争
米新聞
米比戦争
米比戦争
1896年8月以来カティプナンのフィリピン人たちは、スペインからの独立(フィリピン独立革命)のために戦ってきた。1898年5月1日に米西戦争の戦闘の1つであるマニラ湾海戦でスペイン軍が敗北した。アメリカはフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルドに、勝利の暁に独立させると約束して背後からスペイン軍を襲わせた。しかし、スペインの降伏後にアメリカは、フィリピン独立の約束を反故にして植民地にし、アギナルド率いる独立軍1万8千人の掃討を始めた。上院に報告された数字では、アメリカ軍は1902年までの4年間で20万人を殺害した。
1898年6月12日にカティプナンのフィリピン人たちは、エミリオ・アギナルドの下で独立を宣言した。6月23日から9月10日にかけて、フィリピン全土で選挙が実施され、軍民入り交じる不安定な地域それぞれの代表者を選出した。アメリカ合衆国はアギナルド将軍に協力したら独立させると約束し、マニラの戦い (1898年)(7月25日 - 8月13日)でフィリピンの独立を援助する名目でスペインを破ったにも関わらず、12月10日のパリ条約において、アメリカ合衆国は2,000万ドルでフィリピンを購入した。
マーク・トウェインやアンドリュー・カーネギー、さらにはグロバー・クリーブランド元大統領に代表されるアメリカ反帝国主義連盟は、マッキンリー政権によるフィリピンの併合に強く反対した。戦争に対する反対意見の主な理由は、単にスペインからアメリカ合衆国にフィリピンの支配国が移り変わっただけであり、米西戦争の目的に反しているというものであった。
また、反帝国主義をとるアメリカ人の中には人種差別的な考え方で反対する者もいた。ベンジャミン・ティルマン上院議員は、フィリピン併合はフィリピン人移民の国内流入を招くことを恐れていた
1899年1月1日にアギナルドが初代大統領に就任した。1899年1月21日、フィリピン第一共和国が建国される。
植民地化を開始したアメリカ軍では、1898年から1902年の間にフィリピンで戦闘を指揮した将軍30人のうち26人は、インディアン戦争においてジェノサイドに手を染めた者であった。反乱を鎮圧するために行われた虐殺や虐待が報じられるようになると、戦争への賛成意見は減少した。
1899年2月4日、サン・フアン・デル・モンテの橋でアメリカ支配側に立ち入ったとされるフィリピン兵が射殺された。近年フィリピンが行った調査では、事件の現場は、現在のマニラ市内のソシエゴ通りであったとしている。当時のアメリカ合衆国大統領、ウィリアム・マッキンリーは、この事件はフィリピン側によるマニラ市内への攻撃であったと新聞に語り、責任をフィリピン側に求めた。
マッキンリー政権は、アギナルド率いる政府を犯罪者集団と呼んだため、議会を通じた正式な開戦通告は行われなかった。主な理由として2つ挙げられる。
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1つ目は、フィリピン側を国と認知しないことで、国家間の戦争ではなく、政府に対する反乱であるとするためであった。しかし、この時点でアメリカ側が支配していたのはマニラのみであった。
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もう1つは、米西戦争により逼迫していた財政を念頭に、アメリカ兵の戦争手当てを最小限にするため、戦争ではなく警察活動であると宣言したのであった。
1899年2月末までにアメリカ軍はなんとかマニラを手中に収め、フィリピン軍は北部へ退去せざるを得なかった。フィリピンの通常軍は弱体化した。アメリカ軍の勝利はその後もザポテ橋の戦(1899年6月13日)で続いた。
アメリカ合衆国からは8月14日に1万1000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。この時、フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニアである。(彼の三男がダグラス・マッカーサーである)
1902年7月2日、陸軍長官が電報を打電。同年7月4日、セオドア・ルーズベルトが公式声明を発表。アメリカはフィリピン人による傀儡政権をつくり、日本の脅威に対処するためにクラークフィールドに極東最大の空軍基地を置き、フィリピン人12万人に軍事訓練を施した。さらに次の10年では、アメリカ軍はフィリピン軍に対抗するため、126,000人にも及ぶ大規模な軍事力を必要とした。アメリカ軍はさらに、パンパンガ州マカベベのフィリピン人を雇い入れることも行った。
フィリピン側の民間人の犠牲者数は20万人から150万人といわれる。
1946年7月にマニラ条約が締結され、当初アメリカにより保証されていたフィリピンの独立も漸く果たされることとなる。フィリピン人は一般的にアメリカに友好的であるが、こうした経緯からアメリカに否定的な感情もまたある。
共和党のマッキンリー大統領の時、1898年の米西戦争は、アメリカの帝国主義戦争の最初のものであり、それによってアメリカはプエルトリコ・フィリピン・グァムを領有し、キューバ独立を認めさせた。キューバにたいしてはその独立を支援しながら、プラット条項という実質的な保護国化する憲法修正条項を押しつけた。また同じ時期にハワイを併合した。1899年にはフィリピン=アメリカ戦争でフィリピンを領有したのもアジア市場への進出をねらってのことであり、おりから東アジアで台頭した日本、およびアジアへの進出をめざすロシアとの競合がはじまり、中国市場での出遅れを解消すべく、国務長官ジョン=ヘイの名で門戸開放等を要求することとなった。これは中国の“領土保全”を言いながら、市場へのアクセスを”機会均等”にせよ、という主張であり、アメリカ資本主義が太平洋を越えて中国という巨大な市場に目を向け始めたことを意味する。そしてその利害はイギリス、日本と鋭く対立することとなり、その2国は間もなく日英同盟(1902年)締結する。
1901年9月6日、マッキンリー大統領がアナーキストに暗殺され、副大統領のおなじく共和党のセオドア=ローズヴェルト大統領が就任した。セオドア=ローズヴェルトは帝国主義政策を継承し、特にカリブ海政策を積極化し、棍棒外交といわれる強圧的な進出を図った。実質的に保護国化したキューバへの資本投下を進め、軍事基地を建設した。またパナマ共和国をコロンビアから強引に独立させ、パナマ運河の権利を獲得した。
T.ローズヴェルトは1905年に日露戦争の仲裁を行い、桂=タフト協定で日本の朝鮮半島支配とアメリカのフィリピンの領有を相互に承認させた。
しかし、日本の満州進出が明確になると、アメリカは次第に日本を警戒するようになり、翌年には日本人移民排斥運動が西海岸で激しくなった。1908年の高平・ルート協定で沈静化を図った(協定は、1908年(明治41年)11月時点における領土の現状を公式に認識し、清の独立及び領土保全、自由貿易及び商業上の機会均等(すなわちジョン・ヘイによって提案されたような「門戸開放政策」)、アメリカによるハワイ王国併合とフィリピンに対する管理権の承認、満州における日本の地位の承認から成っている。また暗黙のうちに、アメリカは日本の韓国併合と満州南部の支配を承認し、そして日本はカリフォルニアへの移民の制限を黙諾した。)
次の共和党タフト大統領(在任1909~1913)は、軍事力よりも経済面での覇権を強め「ドル外交」といわれた。それは「弾丸に代えてドルで」という、経済力によってラテンアメリカ地域の支配と東アジアに門戸開放を図ろうとしたものだった。中国に対しては四国借款団が結成された。清朝政府は財政難の解決のため、鉄道を国有化し、それを担保に外国から借款を得ることを図った。1910年、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスの4ヵ国の銀行による四国借款団が結成され、11年にまず幣制改革のための借款が成立、同年に湖広鉄道借款も成立した。しかし外国資本による鉄道国有化政策に反発する中国の民族資本家の反対運動が起こり、辛亥革命の勃発となったため、借款は実施されなかった。
中国への進出は、満州への進出を図っていた日本との対立をさらに強め、アメリカ外交は新たな局面を迎えることとなった。このように、1905年の日露戦争後に、アジアをめぐる日米の対立という新たな対立軸が生まれた。
1913年に就任した民主党ウィルソン大統領はラテンアメリカに対しては民主主義を育成するという姿勢に転じ、メキシコ革命に介入したが、その宣教師外交といわれるアメリカの理念を他国に押しつける外交は失敗した。
宣教師外交は第28代ウィルソン大統領(在職1916-1921)が、特に対ラテンアメリカ地域に向けて採用した外交政策。民主主義を至上の価値と考えるウィルソンは、かつてスペインの宣教師たちがキリスト教を伝道する際に、時には武力を用いることも辞さなかったのと同じように、武力を行使してでもラテンアメリカ地域に民主主義を教え込もうとした。
例えばメキシコ革命に介入して、独裁者ウェルタ政権の不承認と遠征隊の派遣によるベラクルスの占領などである。この政策はラテンアメリカ地域の住民に反米感情だけをもたらし、失敗に終わった。また、独立後政情が不安定であったハイチに対しては、1915年に海兵隊を派遣し、軍政を布いた。
(引用)ウィルソンのメキシコ政策からは、今日まで続くアメリカ外交の行動パターンを窺い知ることが出来よう。ウィルソンの介入は、隣国の人々が自分たちの希望するするような政府を選び、自由に生きることが出来るようにしたいという願望に基づくものであった。そして抑圧者ウェルタを排除し、公正な選挙を経て選ばれた指導者が現れれば、その理想はおのずと実現するはずであった。なぜなら、人々は、適切な指導と教育がありさえすれば、すべて民主主義と自由を選ぶはずであるからである。これは、まさに20世紀アメリカ外交の基軸に据えられた考え方であった。また、ウィルソンにとっての不本意な結末も、以後、アメリカがくり返す失敗を予見させたと言える。他国の政府を自分のイメージに沿って造り変えようとする試みは、20世紀を通じて、ラテンアメリカやアジアを中心にさまざまな地域で推められた。しかし、その多くは失敗に終わっている。その原因の一つは、ナショナリズムの壁を指摘できよう。民主化を目標に掲げて強行されるアメリカの介入は、受容する側の国にとっては自分たちの主権と自律性を脅かす侵略行為でしかなかった。ウィルソン大統領に対するメキシコの抵抗は、そういったナショナリズムの典型的な例であった。」<西崎文子『アメリカ外交とは何か -歴史の中の自画像』2004 岩波新書 p.82-83>
いわば、アメリカの「おせっかい外交」と言うことか。1970年代後半のカーター大統領の「人道外交」とその失敗などもこの例にはいるだろう。また、現在も続いているアフガニスタンやイラクの問題もアメリカの「おせっかい」といえる。ただ、アメリカの「おせっかい」を受け入れて成功した例がある。それが敗戦によってアメリカの占領を受け入れ、民主化を実現させた日本と言えるのではないだろうか。
キャノングローバル研究所
https://cigs.canon/article/20200609_6476.html
米国の独立(1776年)以後、中国(当時の清)は米国の最大の貿易相手国であった。独立当時の英国は世界の覇権を制していた国であり、大西洋を支配する英国を避けて、米国の海外発展は太平洋のかなたにある清に目を向けることになった。ボストン郊外の港町セーラムを中心に、ニューヨーク、ボルティモア、フィラデルフィアなどの米国東海岸の港町は清との交易により隆盛を築いていた。清は外国貿易を広東に限定して行っていたので、この貿易は広東貿易と呼ばれていた。清は米国の最大の貿易相手国であり、1777年から1840年までは米国の輸入物資の2割は清から来ていた。貿易支払いに銀を要求した清に対し、銀を産出していた米国は、産業革命による銀の不足から支払いに窮した英国と異なり、清に対する支払いに困らなかった。この状況が変わったのが1840年からのアヘン戦争だった。
英国は18世紀末から植民地であるインドのアヘンを清へ密輸し始めた。当時の対清貿易収支は中国からの茶、陶磁器、絹の大量の輸入に対し英国から清へ輸出できるものが銀を含め殆どなく、放置すれば貿易赤字から英国経済が破綻しかねない状況だった。
中国の綿製品が英国からの綿製品の輸入を阻害したことに英国が不満を持っていたこと、アヘン戦争後に強くなった外国人排斥運動が火付け役となり、アロー戦争(1856~1860)が起こった。英仏連合軍は広州を占領した後に天津に進撃し、フランス軍は円明園を焼き払った。そしてアロー戦争の勝利後、米国は次第に中国貿易から締め出され、日本に目を向けることになった。ペリー来航にはこのような背景があった。
1842年の南京条約まで、清は貿易港を広州、アモイ、寧波の3港に限定していたが、南京条約で上海と福州も自由港になった。しかしアヘン戦争の主戦場は広東などの中国南部に限定されていたため、清王朝は衝撃を受けず、中華思想が抜けないままだった。魏源が著した「海国図誌」は初めて西欧諸国の知見や技術の重要性に目を向けたが、清では全く注目されず、むしろ、我が国の幕末の改革の機運を盛り上げることになった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Illustrated_Treatise_on_the_Maritime_Kingdoms
すでに1914年にパナマ運河が開通し、アメリカの世界戦略の視野に太平洋、中国大陸が入ってきていた。第一次世界大戦後は中国を潜在的市場と考えるようになり、そこでは日本との利害対立が明確になっていった。また、大戦前の海軍大国イギリスに替わって、アメリカと日本が急速に海軍力を拡大し、両国の新たな建艦競争は戦争の再発の不安増大と経済圧迫の要因となっていった。
1917年(大正6年)11月2日日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官ロバート・ランシングとの間で協定が締結された
日米両国が中国の領土的・行政的統一を尊重して中国大陸における門戸開放政策を支持することを誓った上で、日本の中国大陸に於ける特殊権益(於満州・東部内蒙古)を認めるものだった。すなわちアメリカの中国政策の一般原則と日本が主張する特殊利益との間の妥協点を決定するものであった。
さらに付属の秘密協定では、両国は第一次世界大戦に乗じて中国で新たな特権を求めることはしないことに合意している。
協定発表時に中国政府(中華民国・北京政府のこと。記事中華民国の歴史を参照)は協定に対する抗議を表明している。
1922年(大正11年)にワシントン会議で調印された九カ国条約の発効(1923年(大正12年)4月14日)により廃棄された。
日米の建艦競争による緊張と経済圧迫の解消を図るためにアメリカは1920年代には国際協調という理念の下で海軍軍縮と中国・太平洋問題の解決を図り1921年からのワシントン会議を主催、巧みな外交で日本を押さえ込むことに成功した。九カ国条約では山東半島の利権を返還させ、四カ国条約では日英同盟を破棄させることに成功した。ここで創り出されたアメリカの優位なアジアの国際秩序はワシントン体制と言われる。
しかし、1929年に世界恐慌が起こると、フーヴァー大統領はアメリカ経済の破綻から始まった問題であったにもかかわらず対応に後れをとり、フーヴァー=モラトリアムでの賠償金の1年間支払い停止も効果なく、世界は急速にブロック経済化へと突き進んでいった。
こうして資本主義経済の矛盾は、帝国主義の第二段階とも言うべき領土拡張、植民地拡大へと突入させていった。とくに、ヴェルサイユ体制・ワシントン体制に不満を強めていた後発帝国主義諸国であるドイツ・イタリア・日本にはファシズムが台頭した。1930年代に入るとドイツではヒトラーのナチスが権力を奪い、ナチス=ドイツはヴェルサイユ条約を否認して再軍備を強行、イタリアのムッソリーニはエチオピア侵攻を行い、アジアでは日本が満州事変から満州国建国に向かい、その動きは国際連盟を中心とする国際協調をつき崩していった。
ニューディールと善隣外交
ファシズム国家の軍事的膨張が明確な脅威となる中で、民主党F.ローズヴェルト大統領は1933年からニューディール政策による経済立て直しに着手し、外交面ではラテンアメリカ地域に対する従来の強圧的な外交から善隣外交に転換した。これは、ドイツ・日本との戦争に備えてラテンアメリカを自陣に引き留めておく必要から出されたと言える。1934年には議会でフィリピン独立法が成立し、10年後のフィリピンの独立を認めた。
中立法
F.ローズヴェルトはソ連を承認するなど協調的な姿勢も示したが、ヨーロッパでの英仏と独伊の対立、アジアでの日本の中国侵略、その背後にあるソ連の脅威など戦争の危機がますます強まった。しかしこの段階でもアメリカの世論は戦争には加わらないという孤立主義の立場を支持する声が強かった。それは、1935年8月に議会が中立法を可決したことにも表れている。中立法は交戦中の国に対しては武器輸出を行わないことなどを定めたもので、孤立主義の伝統を受け継ぐ外交姿勢であった。F.ローズヴェルトはファシズム国家との戦争は不可避と考えていたようだが、この段階では中立法に従っていた。
ローズヴェルトの隔離演説
しかしファシズム国家の攻勢は止まず、1936年にはいるとドイツはラインラント進駐を強行、イタリアはエチオピア併合を完成させ、スペイン戦争でもファシズム陣営が勝利した。そして翌1937年には日本が盧溝橋事件・第2次上海事変で中国本土への侵攻を開始し日中戦争が始まった。この危機の進行を受けて、F.ローズヴェルト大統領は1937年10月にシカゴで演説し、ドイツ・イタリア・日本を名指しを避けつつ、他国を侵略するという危険な感染症にかかった患者になぞらえ、世界から隔離すべきであると主張した。これは「隔離演説」(または防疫演説)として知られる演説で国際的にも反響が大きかったが、アメリカ国内の世論は批判的であり支持は広がらなかった。この時点でもアメリカ人の多くは参戦に反対するという孤立主義を支持していたのであり、それは第一次世界大戦への参戦に対する悔恨の気持ちがまだ強かったからであった。
第二次世界大戦 孤立主義の放棄
1939年、第二次世界大戦が勃発してもアメリカは参戦しなかったが、次第にファシズムの脅威が明らかになり、またアジア・太平洋方面では日本の進出がアメリカの利権を脅かすようになってくると、国内でも参戦の声が強まった。F.ローズヴェルトは1941年1月3期目の大統領就任演説で「言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由」の「四つの自由」を護る戦いが必要であると訴え、同1941年3月、武器貸与法を制定してイギリス支援に踏み切った。さらに独ソ戦の開始を受けて8月にチャーチル英首相との間で大西洋憲章を発表し、ファシズムに対する自由と民主主義の戦いという戦争目的を明らかにし、さらに戦後の国際平和維持機構の設立などで合意したが、ローズヴェルトは参戦には踏み切らなかった。第一次世界大戦の記憶が残る国内の世論では依然として孤立主義、というより、ふたたびヨーロッパの戦場でアメリカの青年の血を流すな、という声も根強かったからである。
第二次世界大戦への参戦
1941年年12月の日本軍の真珠湾攻撃を受けて第二次世界大戦への参戦に踏み切った。国内世論の動向を見て、参戦の機会を探っていたローズヴェルトにとって、格好の口実を与えることになった。こうしてアメリカは孤立主義を放棄し、国際協調主義に転換した。
門戸開放政策
門戸開放通牒(Open Door Notes)とは、19世紀末から第二次世界大戦までアメリカ合衆国がとった対中政策である門戸開放政策(Open Door Policy)の一環として示された二度の通牒。アメリカは伝統的にモンロー宣言による孤立主義の立場を取っていたが、1890年代のフロンティアの消滅に伴い、中南米、カリブ諸島、太平洋上の島々への急速な侵略を行っていた。しかし中国はすでに列強によって分割されつつあったため、アメリカが提唱したのが門戸開放である。実質的には中国に対する帝国主義的収奪へのアメリカの参加宣言を意味した。
19世紀半ばに自由貿易体制を整えて「世界の工場」としての地位を固めていたイギリスと、リンカーン政権以来の高関税政策による国内産業の保護によって、19世紀末には重工業においてイギリスを凌駕するにいたったアメリカは、どちらも中国における機会均等、自由貿易を望んでいた。そのため、日清戦争の清敗北を契機に起こった列強の中国分割は、経済的観点からすると望ましいものではなかった。
そうはいってもイギリスは、自らが香港、長江流域などに広大な独占的権益を確保しており、機会均等を主張できる立場にはなかった。アメリカは1898年の米西戦争でフィリピンを獲得、中国進出に足がかりを築き、市場進出への機運が高まっていたこともあり、迅速に自国に有利な国際状況を形成しようとした。アメリカは保護貿易主義によって国内産業を保護する一方、ダンピング輸出をしており、ヨーロッパ諸国から反発されていた。そこで南アメリカや中国などに海外市場を求めた。
1898年3月6日、ドイツは「膠州湾租借に関する独清条約」により、山東省全体にわたる広範な利権を獲得し、同年3月27日、ロシアは「旅順口及大連湾貸借に関する露清特別条約」により、大連、旅順の租借権を獲得した。ヨーロッパや日本に比べてあまりにも脆弱な陸軍しか持たないアメリカは、フィリピン独立派の制圧に手一杯で、なすすべがなかった。この状況に危機感を募らせたイギリスは1898年7月1日、山東半島北岸にある威海衛を租借した。
こうした経緯で、イギリスの働きかけもあってアメリカの国務長官のジョン・ヘイが、1899年9月6日にイギリス、ドイツ、ロシア、日本、イタリア、フランスの6国へ通牒を送った。これが第一次の門戸開放通牒である。第一次の通牒は、列強による中国分割自体を否定したものではなく、経済的な機会均等を訴えたものであり、主にドイツとロシアを牽制したものであった。
門戸開放通牒を受けたヨーロッパ勢力は、高関税政策によって自国市場を完全に閉ざしておきながら、中国市場だけは解放しろというアメリカのご都合主義に対して冷淡だった。アメリカはドイツが山東省市場を囲い込むことを恐れていた。
しかし、翌1900年に中国で民衆による排外運動である義和団の乱が勃発する。列強がこれを鎮圧するために派兵を図る中、同年7月3日、アメリカは第二次の通牒を発した。ここでは経済的な機会均等に加え、列強が政治的に中国を分割することに対しての反対(領土保全)が強調されている。中国へ市場進出を果たすためには、中国においてなんらかの一国が強い勢力を有することは望ましくない。そのため、この通牒を通じて中国大陸における勢力均衡を図る狙いもあった。しかしロシアは、チチハル(8月26日)、長春(9月21日)、吉林(9月23日)、遼陽(9月26日)、瀋陽(10月1日)を占領し、満州全体を支配下に置いた。
2年後の1902年に、アメリカは満州におけるロシアの侵略は門戸開放政策に反すると主張した。1904年から1905年にかけての日露戦争の結果、ロシアに代わって満州南部における利権を獲得した日本は、アメリカに対し満州では門戸開放政策を維持すると伝えた。1909年にアメリカは、門戸開放の維持の為に、日本では新4国借款団と呼ばれる、中国が鉄道を敷設するのに必要な借款を工面する為の日本・アメリカ・イギリス・フランス四カ国からなる銀行集合の形成を誘導した。この目的は中国進出を日本に独占させないことであったが、アメリカは1913年に、これが中国の国内統治の完全性を欠くことになると主張して、これを脱退した。
次に門戸開放方針が妨げられたのは1915年で、日本が対華21ヶ条要求を突きつけたときである。この結果、1917年に日米間で、中国における門戸開放は尊重されるが、アメリカは日本の中国における特殊権益を認めるという石井・ランシング協定が結ばれた。門戸開放の原則は同年の日本と連合国間の、山東半島ドイツ権益に関する秘密協定によってさらに弱まった。
崩壊しつつあった門戸開放政策は、1921年から1922年にかけてのワシントン会議 (1922年)の九カ国条約において再確認され、これにアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガル、中国、ベルギーが署名することで一時的に回復した。これに伴い石井・ランシング協定は破棄された。
日本は、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消し、機会均等を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。
九カ国には中国に強大な影響力を及ぼし得るソビエト連邦(ソ連)が含まれておらず、ソ連は、1924年(大正13年)には、外蒙古を中国から独立させてその支配下におき、また国民党に多大の援助を与えるなど、条約に縛られず自由に活動し得た。
九か国条約
この条約は第1次世界大戦後の中国をめぐる国際関係について,アメリカの年来の主張であった門戸開放政策をその準則として樹立し,大戦中の日本の政策に見られたような特殊権益獲得・勢力範囲設定をめざすいわゆる〈旧外交〉を否定したものであった。
ワシントン体制とはワシントン会議で締結された九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を基礎とする、アジア・太平洋地域の国際秩序を維持する体制のことを言う。日本では、この体制を基盤とする外交姿勢を「協調外交」と呼び、代々立憲民政党内閣の外相幣原喜重郎らによって遵守されてきた。
しかし、1926年(大正15/昭和元年)に蔣介石の北伐が開始され、同年に万県事件、1927年(昭和2年)に南京事件や漢口事件が発生すると、日本国内では協調外交に対する不満が大きくなり、とりわけ軍部は「協調外交」による外交政策を「弱腰外交」として強く批判した。そして、1931年(昭和6年)の満州事変は九カ国条約で定められた中国の領土保全の原則に違反しているとして、各国から非難を受けた。それ以後もたびたび日本の行動は同条約違反と非難されたが、日本側は非難を受けるたびに本条約を遵守する声明を公表し続けた(しかし1860年の北京条約ではウスリー川以西が清国の領土と規定されたが、中華民国はこの条約を無効と主張していた)。
1931年からの満州事変及び満州国の建国によって、門戸開放政策は崩壊した。
1932年(昭和7年)に成立した満州国は中華民国の義務を継承するとし、また満州国承認国に対しても門戸開放・機会均等政策を行っていた。しかし、1934年(昭和9年)11月に満州国において石油専売法が公布されると、イギリス・アメリカ・オランダの三ヶ国は、未承認の満州国ではなく、日本に抗議した。
しかし、1937年(昭和12年)7月7日に起きた盧溝橋事件に始まる日中戦争(支那事変)でも不拡大方針を発表しているにもかかわらず、戦線が徐々に拡大していったので、日中和平を仲介すべく、1937年(昭和12年)11月にブリュッセルで九カ国条約会議(ブリュッセル国際会議)の開催が急遽決定された。これを受けて、休戦を主張する石原莞爾らの協力もあり、第1次近衛内閣外務大臣の広田弘毅はトラウトマン工作を開始した。
しかし、日本側はこの会議への出席を拒否。これにより本条約は事実上無効となり、ワシントン体制は名実ともに崩壊した。
その後も、日本やその他加盟国も和平の道を探るも、1938年(昭和13年)1月16日には「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とする第一次近衛声明が発表され、和平への道は閉ざされた。
更に、近衛文麿内閣総理大臣は汪兆銘政権を樹立し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。こうして、日中戦争は泥沼化し、日本の国際的孤立が加速することとなる。
1894-1895日清戦争での清国の敗北は、大国として恐れられていた清朝が弱体であることをさらけだした。これをみた欧米諸国や日本は、租借地の拡大や鉱山採掘・鉄道敷設の権利など、中国に対する野心を露あらわにし、きそって自己の勢力圏の拡張に乗りだしていった。こうして1890年代後半から、列強の中国侵略はいちだんと激しさを増し、列強による「中国分割」という情勢のなかで、中国の半植民地は、新たな段階に入っていった。
1891年より、ロシアはシベリア平原を横断してウラジヴォストークにいたるシベリア鉄道の建設に着手し、極東での南進の機をうかがっていた。下関条約で、日本が遼東半島を獲得すると、ロシアはフランスとドイツを誘ってこの地方を清に返還させた。これが三国干渉(1895)である。ロシアはこの代償として、シベリア鉄道に接続して東北地方(満州)経由でウラジヴォストークにいたる東清鉄道の敷設権を獲得した 。
このとき(1896)露清密約が締結されたが、これは日本に対する軍事同盟としての性格をもつものであった。
また1898年、ドイツが宣教師殺害事件を口実に、清朝から膠州湾(山東半島)の租借権を獲得すると、ロシアも遼東半島の旅順に艦隊を派遣して、旅順・大連の租借を認めさせ、念願の不凍港を手に入れた。こうしてロシアは、清朝の東北地方を勢力圏とし、さらに朝鮮半島に対する圧力をも強めることになった。これは朝鮮半島の利権独占を意図する日本や、北京・奉天(南満州の中心都市)間を結ぶ京奉鉄道の敷設を進めていたイギリスに大きな警戒感を呼びおこし、極東情勢の緊張を高めることとなった。
ドイツとロシアの強引な租借の成功をみたイギリスは、これに対抗して、1998年に香港島対岸の九竜半島 と山東半島東端の軍港威海衛を租借し、フランスは1899年に広州湾を租借した。また租借地のほかにも、列強は鉄道敷設権や鉱山採掘権を独占的に保持するそれぞれの勢力圏を設定していった。こうして1899年ころまでに、ロシアは東北地方、ドイツは山東半島、イギリスは長江流域、フランスは華南の両広(広東カントン・広西こうせい)地方、日本は台湾の対岸にあたる福建地方というように、列強の勢力範囲がほぼ定まっていった。
(九竜半島と付属の235島を新界と呼び、99年間の期限で租借された。期限の切れた1997年に、南京条約で英領となった香港島と北京条約で英領となった九竜市とともに、一括して中国に返還された)
同じころ、アメリカでは共和党のマッキンリー大統領による帝国主義的膨張政策が本格的に開始され、アメリカ=スペイン戦争(米西戦争 1898)でフィリピンとグアム島を獲得し、太平洋から中国への進出の気運が高まっていた。このためアメリカは、1899年に国務長官ジョン=ヘイ John Hay (1838〜1905)の名で門戸開放宣言を発表して、中国市場の門戸開放と列国の機会均等(中国市場の門戸は諸外国に平等に開かれるべきであり、特定国による特殊権益の独占は不公正であること)の原則を提唱し、翌年には中国の領土保全を唱えた。これは、中国進出に遅れをとったアメリカが、先行する列強を牽制しながら、中国市場への割りこみを意図したものであった。この宣言は、アメリカが列強に対して希望を表明したものにすぎなかったが、列強もこれに一応賛意を表したため、中国分割の動きはいったん緩和され、アメリカ資本は中国市場への進出を果たすことができた。
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