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​米国の第二次世界大戦両面戦争
​欧州と太平洋
米国の対日戦略は1941年1~3月に米陸海軍合同参謀委員会と英 
国統帥部との間で作成された「レインボー5号作戦」が基本になる。レインボー作戦は①欧州戦線優先、②太平洋戦線防御、③日本の経済的弱体化、④米国太平洋艦隊の適時攻勢使用― 
が概要で、具体的計画として太平洋海域の海上交通線の封鎖・破壊、日本の南方委託統治諸島(マーシャル諸島等)の占領等が主軸となっていた。開戦9カ月前に米英は既に対日共同戦略の策 定・合意を終えていた。
 
日本政府は米国との間に圧倒的な国力差が有り、開戦しても長期の戦いは不可能であることを知っていた。日本は開戦初期には連戦連勝であったが、その間に米国と停戦することが出来なかった。停戦しようという意思さえ感じられない。

米国はドイツとの戦を優先し、次第に欧州戦線での勝利が見えてきて、さらにかねてから準備中の本格的な軍備、特に海軍力の増強が実現してくると、太平洋の戦線に力を入れてくる。日米、二国間の戦闘能力には大きな差が生じ、日本の敗北につながる。米国は大西洋・欧州での戦いと太平洋での戦いの二面作戦に勝利したわけで、いかに強大な力を持っていたか、日本にとっては想像もできない相手であったとしか思えない。
 
「第二次世界大戦における米国の戦略とリーダーシップ」
ウイリアムソン・マーレ―
米国は戦争が始まる前年においても、その孤立主義を堅持し戦争に参加するつもりがなかった。時の大統領ルーズベルト自身、参戦しないことが選挙公約であった。しかし、欧州特に英国はドイツとの戦いに負け続けどうしても米国の参戦が必要だった。
米国は欧州の戦いと太平洋での日本との戦いを選択する必要があった。実は戦争が始まる前から、いくつかのシナリオが検討されており、ドイツとの戦を優先するという一応の結論も出ていた。それを説明したのがこの小論文である。
 
1939 年の米国の戦略状況には、現在と比較すると際立つ 3 つの側面があ
る。
第一は、1930 年代後半にアジアや欧州で勃発した種々の恐るべき紛争に中立の立場を維持することが米国にとってもっとも利益になるばかりでなく、そうした姿勢こそが道徳的にも求められるものであると固く信じていた。
第二に、米国の軍事力は世界中に広がりつつあった恐ろしい戦争に対して、少しばかりの役割りを果たす準備が明らかに整っていなかった。その戦闘能力から見て米国陸軍は、世界的にはボリビアやウルグアイと同一レベルであり、配備可能な軍事力は最低限のものに留まっていた。確かに米国海軍は相当な再軍備プログラムを開始したが、それは、米国と他の諸国との間の「防壁を維持したいという孤立的願望の表れであった。
第三は、米国経済は大恐慌から徐々に抜け出しつつあったが、米国が 4 年以内に世界最大の海軍力及び空軍力、そして巨大な陸軍力を構築し、同時に、英国とソビエトに戦争を継続させる武器及び原材料を大量に
供給することでこの両国の戦争支援をするだけの力を備えるとはおよそ思えなかった
1930 年の米国の戦略的意思決定手段は、やはり米国が迫り来る世界大戦に主要アクターとして参戦するとは思えない程度のものであった。米国海軍は、日本との戦争の可能性を明らかに重視したが、大西洋で再度ドイツ海軍 U ボートと戦う準備は、思想的にも物質的にも重視されていなかった。他方、陸軍の戦略的見解は統一されていなかった。
ドイツ軍との戦いの可能性を考えた者もいれば、米国の海岸線を防御することに固執する者もいた。陸軍の準備態勢がお粗末なことから極東での米国の権益を放棄することに賛成する論者さえいた。大多数の軍人は、世間の荒波から隔離された生活を送り、米国社会とはかけ離れていた。国務省には、戦略問題について情報を得たり、助言したりする方策がなかった。コーデル・ハル国務長官(この人物は頭から爪先まで完全に 19 世紀型人間であった)は、戦略と米国の軍事力の問題に対処するより道徳的宣言をすることに関心を示したように思える。未だに大体当てはまることを考えると驚かないことであるが、戦略的課題についての調整はほとんどなく、ましてや米国の政策への全体的な戦略的枠組みの議論はなされなかった。
1941 年 12 月に米国が第二次世界大戦に参戦した時、同国は一連の達成目標(簡単に言えば、ナチス・ドイツ、大日本帝国及びファシスト・イタリアを徹底的に打ち負かすこと)を明確にすることができる特異な立場にいた。米国がこのような目標を決定したのは、主として欧州とアジアの現状を打破しようとしたこれら3 ヶ国の行動であった。
こうした目標を達成するために米国は、経済全体を動員し、太平洋と大西洋にわたって膨大な軍事力を展開しなければならなかった。実際、近代史において二正面戦争に勝利した国家は、米国だけであった。これに成功したのは、主として 1939 年から 1944 年の間に展開された戦略のおかげであった。偶然と幸運が米国の成功に大きな役割を果たしたこともあれば、先見の明と優れた軍事力が成功をもたらしたこともあった。
加えて、ルーズベルトとマーシャルが既に米国の参戦前に明確に表明した戦略は、20 世紀末に至るまでも、米国の戦略政策立案に多大な影響を及ぼすことになるのである。
ルーズベルトは 1933 年 3 月に米国大統領に就任したが、当時米国は、史上最大の国内危機に見舞われていた。経済問題を除いてルーズベルトは、可能な範囲内で米国を見舞った政治危機を克服することができた。米国が大恐慌を克服するのは第二次世界大戦の影響を待たなければならなかったが、それは、米国が来るべき大戦に関与することになった理由ではなかった。この経済危機の性質ゆえにルーズベルトは、外交問題に取り組む時間がほとんどなかった。しかし、たとえもっと外交に力を注ぎたいと思っても、米国の一般国民には孤立主義の姿勢が深く根付いていたので国際舞台で活動する余地はなかった。
 
ルーズベルトは、ドイツの新たなナチス政権に深い疑念を抱いていた。幼年時代を両親とともにドイツで過ごしたことからドイツ語に堪能なルーズベルトは、大統領就任最初の年にアドルフ・ヒトラーの演説の原本を要求した。ルーズベルトは、国務省が作成した翻訳を信用していなかったのである。翻訳者の手によって罵倒や悪意に満ちた表現が削除されていない原本を読んで、ルーズベルトはドイツの目的に深い疑念
を抱いた。
1861 年春のリンカーン大統領のようにルーズベルトは、米国の政策を統一する手段を提供するため自らの将来の敵に頼らなければならなかった。そして、ついに米国の将来の敵は、南北戦争において南部諸州が 1861 年 4 月にサムター基地を砲撃したように、米国の「十字軍」を正当化する口実を提供したのである。その時までルーズベルトは、米国内の亀裂が調整不可能なまでに拡大するのを防ぐため、帆を調節し、曖昧な
水路を海図に記さなければならなかった。
 したがって、1930 年代後半のルーズベルトは前進しては、世論が尻込みすると引き返す、という行動を繰り返した。彼にとって、また大多数の米国人にとって英国軍とフランス軍は、ドイツ軍を撃退できるほど強力な軍隊であるように思われた。ドイツ軍がその弱い軍事及び経済基盤から抜け出せる可能性はないように見えた。ルーズベルトとその顧問たちは、地球の反対側で日本軍が完全に中国での苦戦に巻き込まれているため、アジアにおける米国の重要な権益は少なくとも当面、相対的にはそれほど危険でないと確信していた。そこで米国政府は、とりわけ大統領が 3 期目を目指して大統領選に立候補すると決めた後、比較的慎重な政策を採択したのである。

 しかしながら、1940 年 4 月から 6 月の間に国際環境は一変した。ルーズベルトは、政治的危険がいかなるものであれ、米国の戦略的前提条件を抜本的に再検討しなければならなかった。ナチス・ドイツがフランスと欧州の大半を征服したことは、米国自身にとっても明らかに真の危機であった。ここでルーズベルトは、米国の政治的背景が許す範囲で断固とした行動に出た。一方で米国は、既に米国各地の造船所で行われている大規模な艦隊建造計画を補強することに加えて、効果的な陸軍と空軍の設立という事業に着手しなければならなかった。
 米国の戦略変更の第二の側面は、試練を迎えている英国を有効に支援するという問題と関係があった。この戦略変更は当初、海軍と陸軍の双方から激しく反対された。最初、ルーズベルト自身は英国軍がドイツ軍の猛攻撃に耐えることができるかに関して強く疑問を抱いていた。したがって 1940 年 6 月から 7 月の間、ドイツ軍が英国本土の征服に成功した場合、英国艦隊をカナダに退避させることを保証するようチャーチル英首相に求めた。チャーチルとしては、米国に圧力をかけて相当な支援を提供させる手段として、ドイツが英国海軍の艦艇を手にする可能性を示唆した。結局、1940 年夏の英国の軍事行動、すなわちアルジェリアでのフランス艦隊に対する攻撃、そして「バトル・オブ・ブリテン」(ドイツによるイギリス本土上陸作戦の前哨戦としてイギリスの制空権の獲得のために行われた一連の航空戦を指す。1940年7月10日から10月31日までイギリス上空とドーバー海峡でドイツ空軍とイギリス空軍の間で戦われた航空戦であり、史上最大の航空戦と呼ばれる。戦略目標を達することなく独ソ戦を前にしてヒトラーによって中止された)での勝利が、ルーズベルトに英国が最後までドイツに抵抗することを納得させたのである。
これは、米国の再軍備を支える上で喉から手が出るほど必要な「余剰兵器」を英国軍に提供することに対する米国軍人の反対を和らげるものではなかった。「基地・駆逐艦交換協定」や 1940 年秋に始まる英国への銃及び弾薬の移送を好意的に見る者は陸軍省にも海軍省にもほとんどいなかった。それどころか、ジョージ・C・マーシャル大将を含んだ軍関係者の見解は、英国軍は敗北するであろうし、英国に出荷したものはすべて失うことは避けられないというものであった。
 また、欧州の戦争は太平洋の戦略環境況に多大な影響を及ぼした。ここでルーズベルトは、明らかに戦争を回避したいと願ったが、同時に軍事面において米国の権益だけでなく連合国軍の権益も守ることを考慮していた。問題は、米国政府内に日本軍を抑止するために米国がとるべき手段を明確に理解している者がいないことであった。1940 年夏に日本軍が北部インドシナを占領し、英国にビルマルートを閉鎖するよう圧力をかけた時、対日戦争開始に気乗りのしない米国はそれを傍観した。しかしながら、米国では日本の軍事力を過小評価する意見が優勢であったこともあり、真珠湾がどれほど無防備かを理解していた米国の戦略家はほとんどいなかったし、実際、主力戦艦をその無防備な真珠湾に展開させる措置を講じたのである。
1940 年の最後の数ヶ月の段階では、(英国は例外と考えられるが)事実上すべての諸国は、戦略的にいくつかの選択肢を持っていた。だが 1941 年の末までは、米軍にとっては将来への道が明確に現れる一方で、ドイツ軍と日本軍は完全な敗北と破壊への道を選択していた。ルーズベルトからすれば、当時命運をかけた戦略的問題はナチス・ドイツの問題であり、ナチス・ドイツは 1941 年夏の大半は、今にもソビエト連邦を敗北さ
せ、欧州の覇権を確立しそうに思えた。ルーズベルトの 2 番目の戦略的問題は、太平洋や欧州で米国の前に立ちはだかっている戦略的現実を認識することを、多くの米国人が忌諱していることであった。
1941 年 7 月の米国議会での採決ほど、これら 2 つの戦略的・政治的課題が絡み合っているかを如実に現したものはない。ドイツ軍の先頭が既にモスクワとレニングラードへの道程の 3 分の 2 まで進み、ウクライナ地方に深く進入している時、大西洋で米国海軍艦艇がドイツ海軍Uボート相手にまさに本格的な戦争に突入しようとしている時、そして、太平洋では戦争か平和かの瀬戸際であった時に、米国議会はたった 1 票差で徴兵制の継続を可決した。世論は、「米国民の 68%が参戦しないことより英国を支援するこ との方が重要であると考えているが、79%は参戦を望まないこと、また、70%が[ルー ズベルトは]やりすぎた、または、英国のために既に十分やったと感じている」と表明 していた。有権者の気持ちがこのように混乱していては、ルーズベルトの態度が煮え 切らないように見えたのも不思議でない。
日本の一部の戦略家たちが、日露戦争(1904 年~1905 年)時の帝政ロシアのように、数発の強烈な打撃を与えれば政治的に分裂した米国の戦意を失わせることができると確 信したのも無理はない。米国の権益に対する脅威が姿を現しつつあるにもかかわらず、国内の分裂に直面したルーズベルトの気持ちは動揺しているように見えた。つまり、ルーズベルトは米国軍を戦争に駆り立てることなく枢軸国側に挑戦するという曖昧なコースをとった。とはいえ、大西洋における米国の行動は特筆に価する。すなわち、米国戦 艦はアイスランドまで巡航し、駆逐艦は西大西洋で輸送船団の護衛を引き継いだのである。1941 年 7 月初旬、海兵隊の一旅団がアイスランドの防衛を引き受けた。
皮肉にも、米国の対日政策はナチス・ドイツに対する政策ほど明確に対立的なものではなかったが、枢軸国側の運命を封じた 1941 年 12 月の出来事を早めるうえでより多くの成功を収めたことが判明した。日本軍の南部インドシナ占領に対する米国の反応は、日本を窮地に追い込むことなく日本に立ち向かうことを意図した。事実、ルーズベルトとその顧問は、禁輸措置の対象とすべき原材料のリストから石油を削除していた。しかしながら、このリストが発表された時、石油はリストに残っており、戦争への道は広く開かれた。それは、1940 年の秋から冬にかけて、軍人にせよ民間人にせよ、すべての日本人が余りに軽率に走行した道であった。
1941 年 12 月 7 日よりはるか前に米国の政治及び軍事指導者は既に、米国がこの戦争でたどる戦略シナリオを作成していた。このシナリオが最初に記されている 1940 年 11 月 12 日付の文書は今日、その作成者が米国の明確な戦略的方向性に賛成したパラグラフ、すなわち、「パラグラフD」または「ドッグ計画」として知られている。米国の「グリーン・ブック」シリーズの主要な戦争史研究者の一人であるルイス・モートンは、「[米 国の]第二次世界大戦における戦略策定でおそらく最も重要な文書」としてこれに言及 した。この戦略的覚書の作成者、ハロルド・スターク海軍大将は当時、海軍作戦部長 (CNO)の要職にあり、彼の主張は直ちに米国政府のトップに伝わった。
 
Plan Dog Memo

The memorandum built upon the conditions described in the Rainbow Five war plan. It described four possible scenarios for American participation in World War II, lettered A through E:

A - War with Japan in which [the United States] would have no allies

B - War with Japan in which [the United States] would have the British Empire... as [an] ally.

C - War with Japan in which she is aided by Germany and Italy, and in which [the United States] is or is not aided by allies.

D - War with Germany and Italy in which Japan would not initially be involved, and in which [the United States] would be allied with the British.

E - [...] consider the alternative of now remaining out of the war, and devoting [...] to exclusively building up [...] defense of the Western Hemisphere.

The memorandum, which was submitted to Roosevelt on November 12, 1940, recommended option D, the origin of its name ("Dog" was D in the Joint Army/Navy Phonetic Alphabet):

I believe that the continued existence of the British Empire, combined with building up a strong protection in our home areas, will do most to ensure the status quo in the Western Hemisphere, and to promote our principal national interests. As I have previously stated, I also believe that Great Britain requires from us very great help in the Atlantic, and possibly even on the continents of Europe or Africa, if she is to be enabled to survive. In my opinion Alternatives (A), (B), and (C) will most probably not provide the necessary degree of assistance, and, therefore, if we undertake war, that Alternative (D) is likely to be the most fruitful for the United States, particularly if we enter the war at an early date. Initially, the offensive measures adopted would, necessarily, be purely naval. Even should we intervene, final victory in Europe is not certain. I believe that the chances for success are in our favor, particularly if we insist upon full equality in the political and military direction of the war.

The memo also suggested that until hostilities broke out, the US should adopt policy A:

Until such time as the United States should decide to engage its full forces in war, I recommend that we pursue a course that will most rapidly increase the military strength of both the Army and the Navy, that is to say, adopt Alternative (A) without hostilities.

"The strategy of Plan Dog gained the support of the army and implicitly of President Roosevelt, though he never formally endorsed it. Thus at the end of 1940 a powerful consensus for strategic focus on Germany developed at the highest levels of the American government. At a meeting on January 17, 1941, Roosevelt concluded that the primary objective must be maintenance of the supply lines to Britain and ordered the navy to prepare for the escort of convoys."

A few weeks after the Attack on Pearl Harbor(1941年12月22日から1942年1月14日まで), at the Arcadia Conference(ルーズベルトとチャーチルの会談), the United States adopted the recommendations of the memo in the form of the "Europe first" policy. Although the United States did not go entirely on the defensive in the Pacific, as the memo recommended, the European Theatre was given higher priority in resource allocation throughout the war. 中国にとっては当面自力でのみの戦闘継続となる。 

The memorandum was declassified in February, 1956.

スタークは、英国を最大限に支援すべきと主張した。こうした支援には、海軍による 支援ばかりでなく陸軍及び空軍も加わる必要があった。スタークは、現在の米国の軍事 力を考えると、米国は日本と戦いながら同時に英国に大量の軍事支援を行うことは不可 能であると主張した。実際、戦争になれば米国は、「太平洋では防御態勢を固持するのが精一杯」の立場に追い込まれるであろうと指摘したのである。海軍が第一次世界大戦 後、対日戦争の準備に多大な努力を払ってきたことを考えると、この主張は米国海軍の上級将校の戦略的見解としては驚くべきものであった。しかし現在ここでは、スターク海軍作戦部長はドイツを優先する戦略に賛成していた。それは、来るべき米国政府上層 部での戦略議論で、事実上すべての政策立案者、戦略家そして大統領自身が同意した選 択肢であった。問題は、米国がドイツと、そして日本とも交戦中ではないことであった。
 
米国の国家的コンセンサスの欠如という政治問題を解決するには、真珠湾での日本海 軍航空部隊の驚くべき戦術的・作戦的成功が必要であった。皮肉なことにまさにこの真 珠湾の戦術的・作戦的成功が、日本にとって政治的及び戦略的災いであることが判明した。真珠湾は、日本の他の軍事行動では不可能であった程度に米国民を一致団結させた。 
そして、それから 4 日以内にアドルフ・ヒトラーが米国に宣戦布告した。そして、6 月 のドイツのソ連侵攻よりさらにひどい過ちであることが判明するのである。ヒトラーが 宣戦布告した理由は、およそ推測することはできない。ただ、1941 年 12 月の東部戦線 で敗北が明らかになってきたことによる挫折感と、米国の力と軍事力に対する極度の無知が、ヒトラーを残っていた唯一の目標に向かって突進させるに至ったと推測できるだ けである。
ドイツが米国について、さらに欧州以外の戦略環境についていかに無知であったかは、1941 年 12 月 8 日、ヒトラーがラステンブルグに集まった軍関係者に真珠湾の位置を尋ねた時、だれ一人として答えられる者がいなかったという事実が示している。ドイツ軍事史研究所を退官したドイツの戦争史 家ホルスト・ブーグは、1980 年、この事実を著者に教示してくれた。ドイツ海軍が熱狂的にヒトラーの決断を支持したのに対し、陸軍及び空軍が一言の反対も述べなかったことは特筆に価する
このドイツの過ちによってルーズベルトは、動揺する米国民にドイツ軍がこの災い全 体で重要な役割を演じてきたと主張することができた。人種差別的衝動に駆られた米国 民が喜んで受け入れた主張であったはずだ。しかしながら、米国が戦争に引きずり込まれた方法、つまり真珠湾攻撃は、大統領に新たな戦略的問題をもたらした。真珠湾攻撃から生じた日本人への途方もなく、燃えたぎるような憎悪は、「ドイツ優先戦略」を推し 進めたい米国政府や陸軍顧問にとって多大な政治的圧力となった。こうして、米国の戦 略家がどれほど欧州に米国の軍事作戦の的を絞りたいと願ったとしても、常に、太平洋 での米軍支援や対日戦争賛成の対抗圧力が存在することになった。
新任の陸軍副参謀長マーシャルは1939 年 9 月 1 日にこの要職に就いたが、この日はドイツ軍がポーランドに侵攻した日であった。
マーシャルの同世代にはウエストポイント陸軍士官学校出身者が多かったが、彼はウ エストポイント出身ではなく、バージニア陸軍士官学校(Virginia Military Academy)という、西バージニア州の高台にある小さな士官学校の卒業であった。彼は、この士官 学校で受けた教育では不十分だと感じていたので、自身が大きな弱点とみなすものを補 うために、卒業後、生涯を通じて余人の及ばない熱心さで戦争史と軍人としての職業について読書及び研究に励んだ。彼が深く歴史を理解していた事実については、次のことを記せば十分である。マーシャルは 1947 年のプリンストン大学での講演で「少なくと もペロポネソス戦争とアテネの衰退の時代について心の中で熟考しない人者が、今日特定の基本的な国際問題について十分な知恵と強い信念を持って考えることができるかどうか」極めて疑わしいと思うと述べたのである。陸軍に入隊して間もない頃から、同僚はもとより上官までもマーシャルに畏敬の念をもって接していた27(唯一の例外は、ダグラス・マッカーサー将軍であったようである。マッカーサーは、陸軍参謀長で あった 1930 年代初頭、マーシャルの出世を阻止するためにあらゆる手段を尽くした。)
ほとんど全ての点でアーネスト・J・キング海軍大将は、マーシャルとは対照的な人 物であった。米国の戦争史家アラン・R・ミレットは、著者との共著である第二次世界大戦の研究書の中で次のように記している。
[キングの]影響力は、ひとえに彼の専門知識と精神力から来るのであって、性格によるものではなかった。彼の崇拝者にして最も親しい同僚の一人、チャールズ・M・「サヴィ」クック・ジュニア海軍少将ですら、他の親友が単にキングを「彼ほど卑し い人物はいない」と表現するのに対して、キングは「行動する人者」であると擁護するのが精一杯であった。
キングは平時に 2 度にわたり海軍作戦本部長候補から外された後、大西洋艦隊司令を 経てワシントンに戻り、海軍作戦本部長に就いた。海軍大将に昇進してもキングの行動は少しも良くならなかった。彼は、公然と部下を 罵倒し自分の部隊を恐怖で支配、また、不適任者及び彼が魅力があり過ぎると考えた将校を厳しく批判した。彼は多量の酒とタバコ、そして目に余る浮気で妻と 7 人の子供を含め、自身の周囲の全ての人々の生活を惨めなものにしたのである。少なくとも 1941 年に、この戦争を戦略的にもっと巧みに認識 していたかもしれないスタークとは異なり、キングは海軍を立直す冷酷さと迫力を備え ていた。
 
ルーズベルトは、海軍にはキングの他に活用可能な冷徹かつ精力的な指導者がいなかったため、彼を選んだのである。さらに、この新任の海 
軍作戦本部長はマーシャルと同様、素質を見抜く稀有な判断力を備えていた。陸軍のカウンター・パートとなるマーシャルのようにキングは、海軍指導者層に在って無能な人物を容赦なく排除し、自身の基準に達しない者を解雇、そして、実戦やキングの「ワシントン帝国」という厳しい世界で有能であることが判明した人物を昇級させた。 
キングは決して「ドイツ優先戦略」の支持者ではなかった
間違いなくキングは、海軍は陸軍航空部隊はもとより陸軍の支援なくして太平洋で大規模な戦いを遂行できないことを理解していた。また、両者の間には共通の利害があった。これは大統領とも通じる利害である。すなわち、ダグラス・マッカーサー将軍を可能な限り米国政府から、そして米国の戦略策定から遠ざけることである。
1942 年初頭、マーシャルと彼の陸軍参謀(陸軍航空部隊の作戦立案者から熱烈な支持を受けていた)は、1943 年の初めまでに米軍に欧州大陸への進攻を準備させることを目標とした。
しかしながら、直ちに同盟政策の現実、内部の政治的圧力及び戦場の現実が邪魔した 結果、戦略の優先順位を変更した。真珠湾攻撃は、人種的優越性に関する米国の考え方にかなりの打撃を与えた。さらに悪い事態がこの真珠湾攻撃に引き続いて生じた。米軍のフィリピン諸島防衛が修羅場へと化している間、日本軍がウェーク島とグアム島を占領した。それは、マッカーサーの浮き沈みの激しい軍歴の中で最悪の時期であった。その間、日本海軍及び上陸作戦部隊は、東南アジア各地で快進撃を行い、香港、マラヤ、オランダ領インドネシアおよびビルマは機の熟した一列のドミノのように陥落した。 
1942 年 5 月までに日本軍は、ニューギニア、ソロモン諸島、そしてサンゴ海に迫っていた。もはや、「ドッグ計画」に示された太平洋での単純な防衛態勢の維持は不可能であった。
米国とその軍隊は、日本軍のこうした成功に対応せざるを得なかった。日本の連戦連 勝に対する米国内の怒りと不満は危険な域に達しつつあった。世論の圧力が「ドイツ優先戦略」を覆すおそれがあった。その結果が、1942 年 4 月の東京を初めとする日本各都市に対するドゥーリトルの空爆であった。今度は、この空爆により日本の最高司令部が動かざるを得なくなったため、これがミッドウェイでの米海軍の大勝利に直接貢献した。こうした日本の戦略上の混乱により、キングは第一海兵師団をガダルカナル島に投入できた。このように、1942 年秋から 1943 年初めにかけて、日本の軍事力を大きく消耗させることを目的としたソロモン諸島及びニューギニアでの軍事作戦が開始された。米国の戦略家は、米国が「ドイツ優先戦略」を実施するまでに日本軍を食い止めなければならないという現実に直面したのとほぼ時を同じくして、英国問題に直面した。単純化して言えば、英国はフランス及び北アフリカでドイツ軍と戦った経験から、「第 2 戦線」である 1943 年の北ヨーロッパへの進攻を回避したかった。まして 1942 年ではな おさらであった。英国にとって、北ヨーロッパ進攻を成功させるためには、地中海及び 東部戦線における戦闘の圧力によってドイツ軍を疲弊させる必要があった。今日振り返ってみると、この判断は正しかった。つまり、北ヨーロッパ進攻は近い将来、西側の連 合国軍が政治的・軍事的に実行できる可能性はなかったのである。しかしながら、米国 の戦略家はそう考えてはいなかった
一方、キングは彼自身の問題を抱えていた。驚くべきことではないが、この海軍作戦部長は太平洋での戦線崩壊を阻止することにほぼ全神経を集中していた。キングは、米国東海岸及びカリブ海におけるドイツ軍Uボートの脅威にほとんど関心を払っていなかった。1942 年初頭にはこうした領海で、デーニッツと彼の指揮下の潜水艦は、「ドラムビート作戦(Operation Drumbeat)」で英国及びソ連への重要な物資供給ラインに大損害を与えた。1942 年晩春から初夏にかけてようやく、また英国、ルーズベルト、マーシャルから強い圧力を受けて初めて、キングと米海軍はこの状況を完全に把握するようになった。連合国軍にとって幸運だったことは、ドイツのUボート作戦は想像力に欠けるもので、技術的に杜撰、そしてデーニッツに権力が集中しすぎていた事実である36。それにもかかわらず、米海軍が米国東海岸沖の領海を保護することについて英国から学ぼうとしなかったことは許し難い事実であり、これは直接、キングの太平洋偏重方針の影響であったのである。
米国の戦略家にとって最も重要な戦略的決定は、1942 年夏に到来した。米国の軍事力をフランス領北アフリカへの進攻に投入する確約、すなわち「トーチ作戦」である。キングとマーシャルは、理由は異なるとはいえ両者ともこの作戦に真っ向から反対した。
 
​トーチ作戦1942年11月8日より1943年5月13日まで
1941年独ソ戦開始以来、イギリスアメリカソ連へ援助をし続けていた。しかし、スターリンからは、ヨーロッパで第二戦線を展開することを要求されていた。第二戦線が形成されれば、ドイツ軍がそちらへ兵力を回し、その結果として、ソ連への圧力が減るからである。連合軍上陸部隊はイギリスやアメリカから直接北アフリカに向かい、西方任務部隊・中央任務部隊・東方任務部隊の3つに分かれ、それぞれカサブランカオランアルジェの港湾を目標とした。北アフリカ全域では11日までに戦闘は終結した。北アフリカの陥落によって地中海のほぼ全域が連合軍の制空権下となり、イタリア南部が連合軍の進出対象の圏内に入った。
 
 
もちろんキングは、「トーチ作戦」を、南太平洋で難局にある自身の部隊から最も重要な海軍力の一部を引き上げるものと考えていた。1942 年秋、南太平洋では日本軍がガダルカナルの第一海兵師団を今にも制圧しそうに思えることがあった(そして実際、制圧された。最新鋭戦艦マサチューセッツは、ソロモン諸島で生死を賭けた海戦が行 われていた時、モロッコ沖の上陸地点を支援していた。)。マーシャルが反対したのは、1943 年に北ヨーロッパに上陸することで「第 2 戦線」を構築すことを考えていたからであった。1942 年に米軍を地中海に投入すれば、1943 年のフランス海岸への上陸作戦のために米英が十分な軍隊を構築することができなくなるとマーシャルは恐れていたが、ルーズベルトは全く異なる方針をとった。米国は 2 つの理由により 1942年にナチス・ドイツに対して陸軍力を投入しなければならないと主張した。第一に、このような兵力投入は、ソ連を、とりわけその陸軍が 1942 年夏に再びドイツ機甲部隊の猛攻撃を受けている時、戦争に踏み止まらせるために必要であった。だがさらに重要なことには、ルーズベルトは対ヒトラー戦争の根底にある米国世論を維持するためには、米軍が欧州のどこかでドイツ軍と実際に交戦しなければならないと確信していた。
歴史家はしばしば、チャーチル首相とその軍事顧問の間で激しい議論が戦わされたことを書き記しているが、チャーチルは一度たりとも彼らの意見を却下しなかった。一 方、ルーズベルトと彼の軍事顧問との関係は、表面的には穏やかに見えた。しかしながら、北アフリカ上陸作戦についてはルーズベルトは介入し、マーシャルとキングに対して、彼らの戦略的信念はどうであれフランス領モロッコ及びアルジェリアの海岸に上陸する「トーチ作戦」を実施するよう命令した。今日振り返ってみるとこの決断は、米国の作戦上の指導者がこの戦争で下した最も重要な決断であることが判明する。1942 年から 1943 年を振り返ると、米国陸軍部隊は欧州でナチス・ドイツ国防軍と対決するどころではなかった。米軍は、1944 年 6 月 6 日以降に実施されることになる恐ろしく生死を賭けた戦いの準備のために、チュニジア、シシリー島及びイタリアでの戦闘に熟達するのに 1 年を必要としたのである。
1943 年は、ルーズベルト、マーシャルそしてキングがアメリカでの戦略指針についてより強固な見解の統一ができた年となった。今回は、英国との論争が起きた。1943 年 1月にルーズベルト、チャーチル、そして各々の軍事顧問のトップがカサブランカで会談し、この年の共同の世界戦略を調整した。米英両国とも、ドイツ国民及び産業設備に対する戦略爆撃作戦を導入することに快く同意した。ドイツ国民への攻撃は英国空軍の爆撃司令部が担当し、産業設備に対する攻撃は米第 8 空軍が行う予定となった。しかしながら、担当空域以外に米英間で深刻な論争が起こった。英軍は、地中海にその最大限の軍事活動を集中させたかった。彼らはこの方針を直接主張しなかったが、おそらく1945 年まで英仏海峡を横断する進攻を延期して、引き続き 1944 年まで英米の戦略の焦点を地中海に置くことを望んでいたことを示す証拠がある。
米軍はこれを認めなかった。1944 年のフランス海岸への上陸が連合国軍の戦略目標でなければならないと彼らは確信していた。そうでなければ、対日戦争だけに集中する計画であった。1943 年 1 月、英軍の地中海重視政策が相当な意味を持っていた。北アフリカ進攻とシシリー島占領の結果、地中海が連合国側の商船輸送に利用できるようになり、400 万トンから 600 万トンの輸送ルートを確保することになった。さらに、南イタリアを占領した結果、米軍爆撃機がバルカン半島及び東欧各地の目標を攻撃できる基地ができた。こうして、戦略爆撃の対象範囲がかなり拡大した。北西ヨーロッパへの進攻は 1943 年の最終手段に入っておらず、また、連合国軍がとりわけ必要とした軍事力が既にこうした作戦地域に配備されているため、そのような目標を達成することこそ理に適っていたのである。

カサブランカ会議が終了するまでに米英の戦略家は、一連の妥協案を打ち出した。米軍は、太平洋での軍事作戦を継続し、年末までに日本の占領地域の中核に 2 つの大規模攻撃を開始する。こうした作戦は一見、「ドイツ優先戦略」を損なうように思えるが、2 つの要因の表れであった。第一は、米海軍の大建艦計画がまもなく完全稼働に達するのであるが、その建造の大部分を占める航空母艦と戦艦は、欧州での戦争とは無関係で あった。第二に、米国世論の関心は、今でも日本に真珠湾の報復をすることに集中していた。この問題の必然的結果として想起されるべきは、マッカーサーを自身の戦域で完全に手一杯にしておくことで、米国政治の「危険水域」から可能な限り遠ざけておきたいという願望である。当然、カサブランカ会議で新たに太平洋作戦が承認されたことを 
考えると、キングは満足して同地を後にすることができた。
カサブランカ会議
1943年1月 14~23日アメリカの F.ルーズベルト大統領とイギリスの W.チャーチル首相が,モロッコのカサブランカで開いた第3回連合国戦争指導会議。米英軍のアフリカ作戦成功後の作戦について,シチリア島とイタリア本土への上陸を敢行することを決めた。太平洋戦線での作戦も協議し,同戦線を地中海戦線同様に重視することになった。さらに,原子爆弾開発状況についても話合い,またドイツ,イタリアおよび日本に対して無条件降伏を要求する方針を決定した。
米海軍の大建艦計画 (スタークスプラン・両洋艦隊法)
第二次世界大戦勃発、さらに1940年6月のドイツ軍のパリ入城を受け、 アメリカ海軍作戦部長ハロルド・スタークが提案したアメリカ海軍の第四次拡張計画(Stark's planスタークスプラン)の実現のため、1940年7月に成立し、予算措置がとられた法律である。大西洋、太平洋の両方で、ドイツや日本に対抗する海軍建設が決定された。 モンタナ級戦艦5隻 (航空母艦建造に集中するため、のち建造中止), アイオワ級戦艦2隻(航空母艦建造に集中するため、のち建造中止)、航空母艦18隻、アラスカ級大型巡洋艦 6隻, 巡洋艦 27隻, 駆逐艦115隻、潜水艦43隻など合計133万トン(7割増)の艦艇建造、15,000機の航空機製造などが決定された。この数字は、大日本帝国海軍の当時の連合艦隊の総戦力147万トンに匹敵する数字であり、圧倒的な計画であった。米国史上最大の海軍調達法案であり、アメリカの戦闘艦隊の規模を70%増やし、257隻を追加して1,325,000トンにするよう議会に40億ドルを要求した。6月18日、1時間足らずの討論の後、衆議院は316-0票で、航空機に重点を置いた海軍拡張プログラムに85億5000万ドルを承認しました。拡張プログラムは5年から6年かかる予定だった。ロンドン海軍軍縮条約によって決められた対米7割という戦力比に不満を持ち、条約脱退を主張した大日本帝国海軍の対米強硬派(いわゆる艦隊派)の思惑とは裏腹に、この計画通りに艦艇が完成した場合、帝国海軍の戦力は対米5割に落ち込むこととなる。 この事実が、戦力比が不利になる前に短期決戦で何とかしようと対米開戦を決意した一因ともなった。
カサブランカでの合意により米軍は、北アフリカを奪回するだけでなくシシリー島、そしておそらくイタリアへも進攻することになった。英軍は北西ヨーロッパに進攻することに合意したが、この作戦のための特別な目標期限は設定されていなかった。米軍の立案者は、作戦における英国側のいい加減な表現について一層の不満を抱いた。「ドイツ優先戦略」は崩壊したように思えた。1943 年に米軍は、地中海戦域より太平洋にはるかに多くの軍隊を派遣した。
1943 年末にかけて米国のフランス北西海岸への上陸重視政策が米英間の議論を圧倒した。ここで、米軍支援のためだけでなくソ連及び英国軍も支えるための米国の大規模な増産体制は、ルーズベルトとマーシャルの同盟国の戦略決定における発言権を決定的なものにした。トライデントとクワドラントでの会議でマーシャル、キング、そして両者の顧問は、英国に最終的に「オーバーロード作戦」と呼ばれることになる上陸作戦の日程を決定することに同意させた。ウィンストン・チャーチルと彼の軍事顧問のトップであるアラン・ブルック将軍(帝国総参謀長)の疑念がいかなるものであれ、1944 年春には「ヨーロッパ要塞」の海岸に上陸することになるであろう。最も経験豊富な米英の司令官が、1943 年から 1944 年の冬、地中海から英国に移動させられるということは、米国のドイツ優先という考え方が今では連合国軍の戦略で優位を占めていることを最も的確に表していた。
この時点でキングは、あまり強く「太平洋優先戦略」を支持できなくなった。米海軍の大量建艦の大部分が欧州での戦争に不向きであっただけでなく、欧州大陸でのナチス・ドイツとの対決の場合に比べて太平洋での島々を飛び越える作戦という性質上、日本を撃滅させるためにより少ない陸軍力が必要であった。最後の大きな戦略上の論争は1944 年初頭に起きた。この時、アイゼンハワーとモントゴメリーは、提案された 3 つ 
の個師団での北フランス上陸では不十分だということを明確にした。「D ディ」に必要な作戦部隊数を 5 個師団をはるかに上回るまで増強した結果、それに付随する上陸用舟艇が必要となったが、その建造分は主として太平洋に向けられることになっていた。ここで、英国が介入し、英国内の造船所で必要な総トン数の大半を建造することになった。
残された一つの論争は、海軍による艦砲射撃に関するものであった。太平洋作戦からの教訓では、こうした支援が上陸作戦部隊の上陸を成功させるために必要不可欠であるということであった。この第二次世界大戦を通じて最も重要な作戦において、米英連合国軍は可能な限り最大限の艦砲射撃を予定したであろうと考える読者もいようが、実際はそうではなかった。
しかし、上陸部隊の司令官であるオマール・ブラッドレー将軍は、太平洋戦域での経 験を完全に無視していることが明らかになった。ブラッドレー及び彼の海軍顧問の助言によると、太平洋は「二流の」戦争ということであった。
次第に明らかになってきたその他の大きな戦略上の問題は、戦争終結に関する問題であった。ドイツの場合、連合国軍の陸軍及び空軍が、1944 年から 1945 年冬が終わるまでにはナチス・ドイツ国防軍の継戦能力を破壊した。戦争は、地上での敗北と戦略爆撃によるドイツ産業の壊滅的破壊が組み合わさり、ドイツの全体的・体系的な崩壊に終わったため、ドイツ本土での「神々の黄昏」はなかった。1945 年 5 月初旬、ドイツは降 
伏し、欧州での戦争は終結した。

日本は別問題であった。硫黄島と沖縄での凄惨な死闘と、それに伴う「神風攻撃」は、日本本土への進攻は欧州東部戦線での戦闘に匹敵する流血の戦いになる可能性を示唆していた。1945 年初夏までに「オリンピック作戦」の立案はかなり進んでいた。最初の攻 撃地点は九州の予定であったが、米国の立案者は、7 月下旬までには兵士 50 万名に迫りそうな勢いで膨張する日本軍の守備隊の存在を知り不安を募らせていた。
実際、このような状況において軍事的・戦略的観点から、原子爆弾を使用すべきか否 かについての質問は一切なされなかった。原子爆弾そのものは、ナチス・ドイツに対して使用する目的で開発されたのであるが、ドイツ軍はそれが使用される前に降伏した。米国新大統領ハリー・S・トルーマンは、第一次世界大戦に出征した経験があり、日本 に進攻すれば米国兵の死傷者数の予想が何を意味するのかを完全に理解していた。ル ーズベルトの死後、新大統領の主要な顧問になっていたマーシャルとキングも同様であった。「マンハッタン計画」に関与した科学者の中には、日本に対してこのような兵器を 使用することの道義を問う声があった。一方、デモンストレーションしてみてはとの意見もあったが、意思決定の過程を経て、結局、原爆を投下する以外に選択肢はないと決定された。
今日振り返ってみると、原子爆弾は、広島及び長崎の住民たちが受けた恐るべき死傷者数を考慮しても、米国民と日本国民の双方にメッセージを伝える役割を果たしたのかもしれない。あの 2 発の原爆は、米軍が 1945 年 11 月 1 日に九州に上陸していたら、同地で起こっていたと思われる恐ろしい大惨事を確実に防止したのである。しかしながら、たとえ日本政府が帝国陸海軍にどうにか状況が絶望的であることを認めさせたとしても、B-29 爆撃機が設定している次の攻撃目標は、日本の輸送網であった。このような軍事作戦が実行されていたら、その結果として日本全土に夥しい餓死者が出ていたであろう。 
なぜなら、日本の降伏後、占領軍には日本の港湾に送られてくる救援物資を輸送する手段がなかったであろうからである。結局、広島と長崎は核戦争に付き纏う残酷な記憶として冷戦時代を通じて米ソ両国の政治家に抑止力として役立ったのかもしれないということも記しておく必要がある。
ローズベルトは、2 つの戦線の戦いとして第二次世界大戦を戦うことが極めて重 要であることを認識しており、彼の「トーチ作戦」を支援するという決定は、同大戦に米国が行った重要な戦略決定であった。マーシャルの関心と陸軍戦略家の努力は、同大戦を通じて常に欧州に注がれていた。キングにとっては、「ドイツ優先戦略」は海軍の伝統的な日本重視からの敗北を意味した。それにもかかわらず、米国がこの戦争を戦わな ければならない政治状況により米国の戦略家は、太平洋に重要資源を配分せざるを得ず、 今度はこうした現実が、ほぼ同時に両戦線での戦争終結という完全に有益な効果をもたらしたのである。
皮肉なことに、第二次世界大戦における米国の勝利の教訓、すなわち世界規模で戦略 を考えるのが必要であることは、戦後の時代において次第に薄れていった。「ドイツ優先主義」の支持者は戦後の米軍を支配し、彼らの見解こそが 1945 年以降、米軍の配備と態勢を決定してきたのである。もちろん、ここにある皮肉は、冷戦時代に米国がアジア地域において 2 つの大きな戦争を戦わなければならなかった点にある。仮に米国の政治家が、米国にとってのアジアの重要性をより明確に認識できるグローバルな見方を重視していれば、朝鮮戦争およびベトナム戦争は阻止することができ、また、犠牲者数も軽減していたかもしれない。
​ドイツ海軍
1940年6月以降、大西洋含む海洋で戦争の流れが大きく変わった。ドイツ軍はノルウェーの占領後、1940年5月から低地地方(ベネルクス)とフランスへの電撃的な侵攻(フランス侵攻)を始めた。1940年の時点でフランスは世界4位の海軍国であり、フランスの降伏(休戦)によってイギリスは最大の同盟国を失うこととなった。フランス海軍の艦隊は任務から離れたが、少数の艦船は自由フランス軍に加わってドイツとの戦いを続けた。後に自由フランス軍には、少数のイギリス製コルベットが加わり、規模こそ小さかったが大西洋の戦いでは重要な役割を担った。
フランスの降伏に伴い、Uボートは大西洋からわざわざドイツの基地まで戻る必要がなくなった。
緒戦の大成功にも関わらず、Uボートは通商破壊戦の主力と評価されるには至らなかった。
新型の短波 (SW) レーダーを使って浮上したUボートを見つけることが出来るようになり駆逐艦の後部から爆雷を投下する方法に代わり、駆逐艦の両脇から投下する新型爆雷の開発であった。これはアズディクの探知は艦船の真下で失われ、ドイツのUボートが離脱する際に逆に利用されることがあったためであった。さらに、爆雷は目標を囲むようボックス状に投下し、爆発の衝撃波でUボートを押しつぶすように破壊した
無線方位探知機(RDF) の開発やイギリス側がオシロスコープを元に計測機を開発しメッセージの長短に関わらず発信源が特定できるようになると、測量する必要もなくなり多くのUボートが攻撃を阻止された。護衛艦は提供された正確な位置情報から挟み撃ちした。最終的な位置特定にレーダーを使うこともでき、反撃に遭ったUボートは沈められた
第二次大戦では1,131隻が建造され、終戦までに商船約3,000隻、空母2隻、戦艦2隻を撃沈する戦果をあげた。しかし、大戦中に連合国が有効な対策を編み出した事から849隻もの損失を出し、全ドイツ軍の他のあらゆる部隊よりも高い死亡率であった。
ドイツは大胆な襲撃を計画し、5月に新型の戦艦ビスマルクと巡洋艦プリンツ・オイゲンの2隻を投入するライン演習作戦が開始された。イギリス海軍は情報部から予め報告を受けていたため、アイスランド沖で要撃した。イギリスはデンマーク海峡で生起した海戦で巡洋戦艦フッドを失ったが、H部隊の空母から発進した雷撃機の魚雷が舵に命中したおかげで本国艦隊が追いつき、戦闘の末ビスマルクは自沈した。この作戦を最後に大西洋における戦艦の襲撃は終わりを遂げた。アドルフ・ヒトラーはビスマルクの損失とノルウェーへの反攻の脅威により撤退を促され、1942年2月にシャルンホルスト、グナイゼナウ、プリンツ・オイゲンがドイツ本国へ帰還するツェルベルス作戦 (Unternehmen Cerberus) が行われ、大西洋からは強力な艦艇がいなくなった。
あまりに早い開戦で、ドイツ海軍の拡張計画(Z計画)は未完成のまま中止された。
1941年12月8日真珠湾攻撃で英米に宣戦した日本は、米国が欧州の戦線を優先したこともあり、当初、南方に向けて快進撃を続けたが、その後、米国はかねてより準備していた海軍力の大拡張を遂行し、やがて反撃に移る。すでに大西洋の海の戦いは実質、終わっており、太平洋に集中して大艦隊を振り向けてきた。
アルカイダ会議
Plan Dog
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トーチ作戦
カサブランカ会議
スタークスプラン両洋艦隊法
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ドイツ海軍
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