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15年戦争
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1938年から1941年
1938
1月15日大本営政府連絡会議、トラウトマン和平工作の打ち切りを決定
工作打ち切り 杉山陸軍大臣、米内光政海軍大臣、軍令部、広田外相
工作継続 不拡大派:陸軍参謀次長多田駿中将(工作は石原莞爾発意)
参謀本部は帷幄上奏いあくじょうそう(内閣から独立して天皇に上奏)し、工作継続を図ったが、天皇は「それなら、まず最初に支那なんかとことを構えることをしなければよかったではないか」と帷幄上奏を拒否。陸軍は上海戦に約19万人を投入、戦死戦傷4万人以上。陸軍はこれ以上の負担と犠牲を避けようとした。一方海軍は謀略で日中戦争を全面戦争としたが、陸軍のような兵力の増強より航空兵力の拡充に拡大した軍事費を使えるようになった。12月多田次長は関東軍に転出。不拡大派一掃。
1月16日近衛文麿内閣「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」(第一次近衛声明)と発表
国民政府の壊滅を目指し、新政権を樹立すること閣議決定
戦争終結の方策をみずから放棄した。
2月14日大本営、中支那方面軍の戦闘序列を解き、中支那派遣軍編成(司令官畑俊六)松井岩根大将は解任され帰還。戒告も与えられた。帰還した松井は凱旋将軍として報道され天皇も殊勲の勅語を与えた。
3月上旬日中両軍の台児荘の戦闘において日本軍撤退、中国側「台児荘の大勝利」と宣伝
3月13日ドイツ、オーストリアを併合
3月28日中支那派遣軍の工作による中華民国維新政府(行政院長梁鴻志)南京に成立
4月1日国家総動員法公布(議会承認なしに動員可能)
第一条:国防目的達成のため全力を最も有効に発揮せしむる様人的物的資源を統制運用する
権限を政府に付与。
5月19日日本軍徐州作戦により徐州を占領
(日野葦平「麦と兵隊」「土と兵隊」1939年「花と兵隊」1960年自死、甥 中村哲)
徐州は・華北と華中を南北籍ぶ諜線と蕩に面した連雲誉内陸を猿難線が交差する交通の要衝に位置しているので、第五戦区司令長官李宗仁の総指揮下には約40個師40万の大軍を徐州一帯に集結させていた。
中支那派遣軍は、兵力の一部を長江をこえて北上させ、北支那方面軍と中国軍を南北から挟撃するかたちで徐州作戦を準備。二月一六日の大本営御前会議で裁可された不拡大方針(二六頁参照)は、わずかニカ月で破綻した。日本軍の作戦を知った中国軍は、包囲網の完成に先立って徐州から西南方へ退却してしまった。五月一九日、日本軍は中国軍の去った徐州を占領。
作戦末期、各部隊は無統制に中国軍を追撃したので、戦線は予定以上に拡大し、大本営が作戦制令線(前進統制、進出制限を命令したライン)を設定したにもかかわらず、南京攻略戦とおなじように、第一線部隊はつぎつぎと制令線をこえてしまった。六月上旬、北支那方面軍の一部が京漢線と朧海線が交差する交通の要衝である河南省の鄭州に進もうとしたため、蒋介石は、「水を兵に代える」戦術をとり、鄭州の北の花園口の黄河の南岸堤防を爆破するように命じた。黄土の堆積により天井川となっていた黄河の流れは、この決壊によって准河にむかって流れを変え、河南・安徽・江蘇の三省の広大な土地が水没し、数十万の住民が悲惨な被害をうけた。しかし、日本軍の一部も孤立して、追撃が停滞したために、日本軍の鄭州侵攻は遅延した。さらに、北支那方面軍が広範な氾濫、水害地域をこえて直接武漢に向かうことが困難になったため、武漢攻略作戦においては、北支那方面軍の第二軍(四個師団)を中支那派遣軍に転属させ、長江の両岸沿いを武漢に向かわせることになった。
徐州において、蒋介石はドイツ人軍事顧問の戦術である堅固な要塞づくりに専念した。日本軍は、空から中国軍へ「猛爆」を加えた。海軍航空隊70機による徐州大空襲が勝敗を決定づけた。ドイツ人軍事顧問国は1938年6月、ヒトラーの命令によって帰国していった。蒋介石は、フランスとソ連へ軍事顧問の派遣を要請した。
「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一著より
アメリカの雑誌「ライフ』1938.8.1に、支那事変について見開きの記事が掲載された。
『ライフ』は、その二年前、アメリカのタイム社から大型のグラフ週刊誌として創刊され、世界中の事件や、有名人の生活、政治上の話題を取りあげていた。その際、世界的に有名なカメラマンが撮った写真を用い、テレビが普及する前の、視覚に訴えるというこれまでにない企画だったから話題となった。発行部数は瞬く間に百万を数え、『ライフ』が店頭に並ぶ時間になるとアメリカのいたるところで行列ができた。創刊から二年経っても、発売するたびに部数は伸びていた。
ほとんどがアメリカで読まれていたけれど、海外にも送られ、日本でもわずかながら購読されていた。いわば世界中で読まれていた雑誌といえるから、そこに記述されている内容は世界中で知られていたことになる。その見出しは、
「ドイツ軍事顧問団が中国を去るこれから蒋介石は一人で戦うことになるだろう」とある。
内容は「中国軍を訓練してきたファルケンハウゼン将軍以下二十九人のドイツ軍事顧間団が引き揚げることになった。一年問にわたる日本の引き揚げ要求にドイツは同意し、それが決まってから蒋介石は二か月も実行を引き延ばした。」
『ライフ』によれば、ドイツ軍事顧間団は支那事変から一年にもわたり中国軍を指導し、去った後は蒋介石が一人で戦うと表現されるほど中国軍と深くかかわっていた。さらに『ライフ』は、ファルケンハウゼンが去るにあたり、「最後に中国が勝つと確信している。中国はどこまでも戦い続けられる。中国軍は素晴らしい」と語ったとも伝えている。
そのとき日本軍は、北京、天津、上海、南京、徐州を手中にしていた。まさに破竹の勢いにあったのだが、ファルケンハウゼンは、日本が負けると予告している。昭和十三年八月といえば、日本とドイツが防共協定を結んで二年近くも経っている。昭和十五年に日本はドイツ、イタリアと三国軍事同盟を結ぶ。この間、日本にとってドイツは友邦であり、敵対する立場にはなかったはずだが。
ソ連と満州の国境地帯では日ソ両軍が陣地を構築して相対峙する緊迫した状況がつづくようになった。
6月13日ロシア極東地方担当内務人民委員会局長ゲンリヒ・リュシコフがスターリンの粛清を恐れて、満州亡命、関東軍に捕。
日本が対ソ戦の前進基地として「満州国」の統治を強化し、ソ満国境の軍備と兵力を増強したのにともない、スターリンは沿海州・北樺太の朝鮮人が日本に利用され、あるいは協力することへの猜疑を抱くようになり、ソ連籍朝鮮人の指導者ならびに共産党員を日本のスパイとして逮捕・追及し粛清するにいたった。さらに1937年9月からは、ロシア極東地方の朝鮮人約18万人を根こそぎ追放して、中央アジアのカザフスタンヘ強制移住させ、朝鮮・「満州国」との国境接壌地帯を防禦陣地化した。1938年一月からはロシア極東地方居住の中国人1万1000人が逮捕され、8000人が中国へ強制追放された。
リュシコフは沿海地方の朝鮮人を中央アジアヘ強制移住させ、朝鮮人を「トロッキスト」と宣告して銃殺、何千人という朝鮮人を強制労働収容所へ送った責任者であった。リュシコフは、東京へ移送され、日本側にソ連の国境要塞計画、国境部隊や赤軍部隊の配置計画の地図を提供、さらに極東ソ連軍の各師団の装備を詳しく説明し、日本側に軍用電波暗号を教えた。そしてスターリンの大粛清にたいして、シベリアと極東の赤軍内に強い反発があり、日本が侵攻すれば、極東の軍事組織は崩壊するであろうと述べた。
7月29日‐8月11日 張鼓峰事件 日本軍、朝鮮・満州とソ連沿海州の国境の張鼓峰でソ連軍国境警備隊と戦闘、国境紛争。日本側は兵力7,000以上、戦死526名、負傷者914名の損害。ソ連側の規模は、将校が1636人、下士官が3442人、兵士が17,872人で合計22,950人、損害は、戦死・行方不明が792人、戦傷・戦病が3279人だった。、第一次世界大戦の激戦をほとんど経験しなかった日本にとって、日露戦争後では初めての欧米列強との本格的な戦闘であった。日本軍は日露戦争とシベリア出兵の経験から、ロシアの軍隊を過小評価していたが、ノモンハン事件と共に高度に機械化された赤軍の実力を痛感する結果となった。しかし、当時支那事変(日中戦争)の真っ只中であった日本陸軍にとっては、中国国民党軍が主敵であったため、あまり積極的に機械化を進めようとしなかった。そのため、後のノモンハン事件、太平洋戦争に於いて、機械化が進んだ欧米列強に苦戦を強いられることとなった。
8月9日張鼓峰の日本軍、ソ連軍の機械化部隊の反撃により壊滅的損害
8月10日日ソ政府、張鼓峰事件の停戦協定調印
9月山東抗日根拠地成立
9月29日英・仏・独・伊の四国首脳によるミュンヘン会談、30日ドイツのチェコのズデーデン地方併合を認めるミュンヘン協定調印
10月21日日本軍、広東占領、広東作戦終了、援蔣ルートの一つ、香港経由を阻止。
10月27日日本軍武漢三鎮(漢口・武昌・漢陽)占領、武漢攻略作戦終了(国民政府は6月、重慶に移転)
大本営と政府は、武漢攻略作戦ならびに広東作戦で、年内に日中戦争の決着をつける方針を立てた。武漢作戦は、古来の要衝の武漢三鎮を占領することによって、蒋介石政権を屈服させ、これと連動した広東作戦は、海外からの蒋介石政権援助物資の大輸入路として、広東を占領して、経済上の活路を奪うことを目的とした。
武漢作戦には総勢40万弱の日本軍が動員された。当時、日本の陸軍総兵力が34個師団で、23個師団を中国戦場に送り、満州と朝鮮に九個師団を配備してソ連にそなえ、内地には2個師団を残すのみであった。
中国は総兵力は210個師あまり、100万人近くで、空軍の飛行機200機、海軍の艦艇30隻余を投入した。ソ連の空軍志願隊も武漢防衛戦に参加、日本軍機と空中戦を展開した。
武漢地域は広域であるうえに北方は山岳地帯、平地は大河と多くの湖沼のある湿地帯が多く、しかも武漢は、中国の「四大火鍋(夏に酷暑となる南京・武漢・成都・重慶)」といわれている一つの武漢の夏の炎熱のなかでの戦闘であった。多数の部隊は、炎熱のなかを、鉄道・船舶による長途の輸送、悪路の行軍、長時間を要する渡河、補給の不十分、コレラ・マラリアの流行などにより、人馬ともにその体力を消耗し、発病者が多数におよんだ。戦わないうちに野戦病院は患者で充満するありさまで、病死者が多くでた。第二軍司令官岡村寧次の報告には「約40万に垂々とする総兵力の中、約15万に達するマラリア患者の治療」のために戦力が低下したと述べている。
日本軍は、1938年10月26日に漢口・武昌を占領、27日に漢陽を占領して武漢三鎮を完全占領して武漢攻略作戦は終了したが、中国軍の主力は作戦にしたがって退却しており、中国軍に大打撃をあたえるという目的は達成できなかった。南京失陥以後武漢に暫定的な首都機能をもたせていた国民政府は、日本軍の武漢侵攻を予期して、すでに六月には各機関をさらに奥地の四川省重慶に移転させていた。
1925年6月ジュネーブにおいて「毒ガス・細菌兵器の使用禁止に関するジュネーブ議定書」が調印され、日米を除く主要国がほとんど批准して加盟国になった。日本は軍縮会議などで毒ガス・細菌兵器の使用禁止について積極的な発言を繰り返したが、アメリカが批准しなかったので、自らの手を縛りたくないと考えて批准しなかった。日本が批准したのは、戦後25年たった1970年、アメリカが批准したのはベトナム戦争後の1975年であった。日本も批准した「ハーグ陸戦条約」(1907年)の条約付属書の「陸戦の法規に関する規則」の第二三条【禁止事項】に「イ毒又は毒を施したる兵器を使用すること」「ホ不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物その他の物資を使用すること」が定められている。
日本軍は武漢戦場で各部隊に毒ガス戦資材を配分し、自主的に毒ガス戦を展開するよう指導実施した。
軍の求めに応じた菊池寛が中心に動いて、当時の人気作家、流行作家たちが集められ、声をかけられた作家たちは進んで応じた。従軍作家たちはペン部隊(文学部隊とも)といわれ、陸軍と海軍の二班に分けられて九月中旬、武漢作戦の現場に派遣された。陸軍ペン部隊のメンバーは、林芙美子・深田久弥・川口松太郎.尾崎士郎.丹羽文雄・岸田國士・久米正夫・瀧井孝作・片岡鉄平・浅野晃・佐藤惣之助・中谷孝雄らで、海軍ペン部隊のメンバーは、菊池寛・吉屋信子・佐藤春夫・吉川英治・小島政三郎・北村小松.浜本浩らであった。さらに軍歌を作詞、作曲した西条八十や古関祐而らで編成された詩曲部隊も同じころ中国戦地へ出発した。
陸軍ペン部隊は九月ごこ日に福岡の飛行場から出発、海軍ペン部隊は一四日に羽田飛行場から上海へ出発したが、当時の日本社会では飛行機に乗ることは特別待遇であった。上海飛行場に着いた陸軍ペン部隊を迎えにきて接待したのは、中支那派遣軍報道部にいた火野葦平であった。
帰国後、従軍作家たちは戦勝祝賀ムード演出のため講演会に連日のように駆り出された。林芙美子の場合は、11月1日に大阪中之島の朝日会館でおこなわれた「武漢陥落戦況報告講演会」で講演、翌二日には東京の日比谷公会堂と九段軍人会館のニカ所の「武漢攻略報告講演会」で講演、さらに3日は再び大阪で講演、12日は九州の小倉勝山劇場、14日は熊本公会堂においてと、精力的に講演活動をおこない、どの会場でも超満員の観客が押し寄せた。
ペン部隊の作家たちは、雑誌につぎつぎと従軍記を寄稿し、新聞紙上や雑誌などに頻繁に対談や座談会を掲載して、過酷な戦場で、「支那膺懲」のために意気軒昂に戦っている日本軍部隊、将兵の奮闘ぶりを銃後の国民に伝え、国民精神総動員運動や総力戦体制強化のための国民世論の形成に貢献した。
1938年末の段階で、日本の動員兵力は陸軍で122万人、海軍で16万人で、合計で219万人になるが、中国に派遣されたのは、関東軍をふくめると96万人に達していた。陸軍の師団でいうと、中国大陸に二四個師団(武漢作戦時より一個師団増)、満州・朝鮮に九個師団を配置し、内地に残されたのは、天皇とその周りを護衛するために皇居と東京の警備を任務とした近衛師団一個のみという状態であった。
陸軍中央も徐州作戦と武漢作戦・広東作戦の挫折をうけて作戦の大きな修正を迫られ、第二次近衛声明をうけて、「十三年秋以降戦争指導方針」策定し、11月30日の大本営御前会議で「日支新関係調整方針」として決定され、海軍も含めた日本の軍中央の方針として確認された。つづいて、陸軍参謀本部と陸軍省は共同で「昭和十三年秋以降対支処理方策」(二月六日)を策定し、中国大陸の陸軍の整理・改編を決定した。その前文には以下のように記されていた。
漢口、広東攻略の余勢を利用して事変解決に努力するも迅速なる成果を必ずしも期し難きを予期し、長期戦に対処する為従来把持し来れる対支処理方策を新情勢に適する如く更に鮮明ならしめ、以て秋季会戦の処理を一途の方針に出でしめんとするものなり。
「処理方策」の内容は、中国における積極的な作戦行動に区切りをつけて、これ以上の占領地域の拡大はおこなわない。地図②「日中戦争における戦線と占領地の拡大」の第一段階と第二段階にしめされた占領地域を治安地域と作戦地域とに分けて、治安地域の治安確保とそれ以外の占領地域を作戦地域として随時抗日勢力を制圧する。在中国の陸軍兵力は逐次整理・改編する、などというものであった。
陸軍中央がこれまでの「中国一撃論」にもとづいた国民政府「潰滅」作戦の挫折を認めたのである。
しかし、日中戦争の停戦を実現し、和平政策へと転換して終結を目指すのではなく、作戦方針を持久戦へと転換。これにより、日中戦争は新たな段階、長期持久戦の段階に移行する。
11月3日近衛文麿内閣、「東亜新秩序建設」を謳った第二次近衛声明発表(国民政府の新秩序への参加を拒否するものではないと和平への期待も盛り込み、「国民政府を相手とせず」という第一次声明を修正、上海事変正当化)日本の新たな主張は、中国におけるイギリスやアメリカなどの権益への侵犯と欧米列強の追放を示唆するものであったから、アメリカやイギリスは日本にたいして強硬に抗議をするとともに、国民政府にたいする経済的援助をさらに強化する結果となった
12月16日内閣に興亜院設置
12月26日陸軍航空兵団による最初の重慶爆撃
国家総動員法
第一次近衛声明
ファルケンハウゼン将軍
張鼓峰事件
広東・武漢三鎮
毒ガス
ペン部隊
第二次近衛声明
1939
1月4日 - 第1次近衛内閣総辞職- 平沼騏一郎内閣成立、第1次近衛内閣の後継内閣
2月13日海軍、海南島を占領、軍港基地・航空基地の設営開始
台湾、香港、を結ぶフィリピンを含む制空権確保目的
1941年7月三亜港から約50隻の海軍艦隊が南部仏印進駐に出航
1941年12月4日三亜港から12月8日マレー半島奇襲上陸のために先遣隊出航
1941年12月南機関ビルマ独立義勇団(アウンサン将軍)軍事訓練
太平洋戦争で制空権確保のため建設された多くの島々の航空基地の嚆矢
4月17日華北交通株式会社成立
4月30日華中交通株式会社成立
5月3日・4日海軍航空隊による重慶への「五三・五四大空襲」
5月28日関東軍の一支隊、ノモンハンのソ連軍を攻撃して潰滅的敗退(第一次ノモンハン戦争)
モンゴル人民共和国は、アジアで最初の社会主義国として、1924年に建国された。モンゴル革命は、上巻第-章で述べた、ロシア革命にたいする日本のシベリア干渉戦争において、日本軍が援助した反革命軍のセミョーノフ配下のウンゲル軍が、1920年10月にモンゴルに侵入し、反革命政権を樹立しようとしたことにたいし、ソビエト赤軍がモンゴルに進駐して、ウンゲル軍を撃破して、翌21年6月にモンゴル人民党の指導する革命政権であるモンゴル人民政府の樹立を援助した。その後1924年、モンゴル人民政府は国号をモンゴル人民共和国と改め、封建主義社会から資本主義社会を経ることなく、ソ連の援助と指導のもとに社会主義国への道を歩んだのである。モンゴル人民共和国(1992年にモンゴル国と改称)を日本では外蒙古、外モンゴルといういいかたがなされる。現在中華人民共和国に属する内蒙古自治区については内モンゴルともいう。
「満州国」の西北部はモンゴルと国境を接し、1931年の満州事変と「満州国」の建国は、モンゴルおよびソ連に日本の侵略にたいする危機意識を生んだ。日本軍は満州占領の後、引きつづきモンゴル人民共和国の南東部をつつむ位置にある察喰爾省と緩遠省に侵攻し、二つの省でただちに戦略鉄道の建設をはじめた。張鼓峰事件で沿海州方面のソ連軍の防備が堅固なのを思い知らされた参謀本部は、内蒙古からモンゴル東部を経由して、ソ連のバイカル方面へ侵攻する作戦計画を作成し、関東軍参謀部へ研究を促した。
スターリンは、ソ連が援助しなければ、モンゴルの領土は容易に日本の支配下に入るのではないかと恐れ、1936年3月モンゴルにソビエト・モンゴル相互援助条約を締結要求。スターリンは、1932年からモンゴル政府の首相をつとめたゲンデンに、ラマ僧と富裕層を一掃して、牧畜の集団化を進め、さらに図モンゴル人民共和国が日本帝国主義と戦う断固たる体制をかためるために条約締結、批准することを要求した。ゲンデンは、心の底から仏教に帰依していたので、ラマ僧を階級の敵として弾圧、一掃することには同意できなかった。このため、スターリンはモンゴル政府に圧力をかけて、ゲンデンを首相と外相の職から排除させ、相互援助条約の締結を強制したのである。
ゲンデンはその後モスクワに呼ばれ、激しい拷問を加えられた末、自分が日本にやとわれてスパイになったと"自白"させられ、その組織に加わった人物として、あらかじめ準備された115人の名をあげたリストに同意させられた。この調書は、チョイバルサンに渡され、「反ソ反革命日本組織参加者」の一斉検挙が開始された。チョイバルサンは、スターリンの大粛清に加担し、1921年のモンゴル革命の指導者のなかでただ一人粛清から生き残ることになった。
ゲンデンは、日本のスパイと手を組んで、モンゴル人民共和国をくつがえそうとしたとする最大級の国家反逆者とされ、1937年11月にモスクワで処刑された。これに前後して、1937年10月から39年5月にかけて、モンゴルで大粛清がおこなわれた。罪のない多数の党(モンゴル人民革命党)・国家・軍・ラマ教僧侶の指導者が、反ソ連・反革命・日本の手先という罪状で逮捕され、実に2万5824人が有罪とされ、うち2万474人が銃殺された。当時のモンゴルの人口が約70万人と見積もられる。
こうしてモンゴルで吹き荒れた大粛清を逃れて、高官やかなりの責任ある地位の軍人が国境を越えて「満州国」へ脱出してきて、モンゴル政府と軍ならびにソ連軍に関する詳細な情報を関東軍に提供した。それらの情報から、関東軍司令部は、モンゴル人民革命軍の高級・中級の軍幹部の大半が粛清で殺害され、軍は崩壊状態となっている国内情勢を把握した関東軍司令部は、内モンゴルの軍事拠点を強化するとともに、情報特務機関を通じてモンゴルの破壊活動を進めた。
スターリンは、モンゴルの大粛清と並行してモンゴル領内のソ連軍の軍備を強化した。
1937年10月には、兵員約3万、装甲車280台、戦車265輌からなる第57特別軍団が編成され、本部がウランバートルにおかれた。モンゴルの飛行場には数百機のソ連機が配備された。
1939年5月2日、モンゴル軍の小部隊がハルハ河を越えて、「満州国」に侵入したとして「満州国」軍警備隊がこれを攻撃して撃退した。この報告をうけたハイラル駐屯の第二三師団は、辻政信参謀の関東軍示達の趣旨にしたがって、「越境」したモンゴル軍を撃滅しようとして東支隊を出動させた。この時はモンゴル軍がハルハ河西岸に撤退したので、東支隊はハイラルヘ引き揚げた。しかしその後、ソ連・モンゴル軍が再びハルハ河を越え、ノモンハン付近に出現したので、こんどは、山県支隊が出動し、5月28日ホルステン河とハルハ河の合流点付近のソ連軍への攻撃を開始した。しかし、この戦闘ではソ連軍の反撃にあい、東支隊はほとんど全滅、山県支隊はノモンハンを撤退し、ハイラルヘ引き揚げた。
6月 帝国陸軍の北支那方面軍が華北の天津条約港にある英仏共同租界を封鎖した
7月2日関東軍第23師団、ノモンハンのソ連軍攻撃、第二次ノモンハン戦争開始(第23師団は全滅に近い犠牲者を出す)
山県支隊が引き揚げた後、ソ連軍は兵力をさらに増強し、ノモンハンを境界とするソ連・モンゴル側の主張する国境線の西側を占領して陣地を構築した。ソ連指導部はゲオルギ・ジューコフをモンゴルに派遣、第五七特別軍団の司令官に任命した。ジューコフは、1937年から39年におよぶスターリンの赤軍幹部の大粛清を生き残り、第二次世界大戦における独ソ戦争では、赤軍の総参謀長としてドイツ軍を撃退した。ジューコフはソ連・モンゴル軍の最高指揮官となり、前述のチョイバルサンが元帥としてモンゴル軍の指揮をした。
スターリンは日本との戦争に発展することを恐れて、ソ連軍がソ連の主張する満州国境線を越えることは厳しく禁止した。したがって、ソ連・モンゴル軍の戦闘行動地域は幅七四キロ、奥行き二〇キロの範囲であった。
6月27日、関東軍の第二飛行集団100機は、ソ連機が関東軍の前線爆撃に襲来した報復として、モンゴルの後方基地のタムスクとマタット、サンペース付近の飛行場を爆撃して大きな損害をあたえた。国境を越える奥地への航空侵攻作戦は、関東軍の「満州国」防衛任務をこえるものであり、本来なら当然、天皇の裁可をうけた大命によるものでなければならなかった。
この空襲を大戦果とする電話報告をうけた参謀本部では関東軍の独断による爆撃におどろき、27日午後参謀次長から関東軍参謀長宛の電報で「外蒙内部に対する爆撃の件、本日初めて承知し、従来当部の諒解しある貴軍の処理方針と根本に於いて其の主旨を異にし、事前に連絡なかりしを甚だ遺憾としあり」と述べ、本問題の影響は極めて重大なので、関東軍参謀部で決定すべきことではない、参謀本部は依然断固として従来の戦闘不拡大主義の方針を厳守しているので、「右企図の中止方至急考慮ありたし」と爆撃中止を命じた。
しかし、翌28日、植田関東軍司令官の命令で参謀長が送信した形になっている関東軍の返電は、以下の通りであった。
国境事件処理の根本方針として当軍の堅持しある処は、彼の姦動を未然に封殺し、又はその不法行為を初動に於いて痛撃破擢し、彼を悟伏せしめ、北辺の備えを強化しつつ、今次支那事変の根本解決に貢献せんとするにあり。唯現状の認識と手段に於いては、貴部と聯かその見解を異にしあるが如きも、北辺の些事は当軍を信頼して安心せられたく。
右の電報は辻政信参謀が関東軍司令官の代印をおして独断で発信させたものだった
参謀本部の命令に反した関東軍や、電報の発信権のない辻参謀が司令官の代印をつかって電報を送信させるなど、統帥秩序棄乱の無軌道ぶりは深刻であったが、陸軍中央は断固たる処分もせずにうやむやにし、現地軍の専断作戦を統制できなかった。
第二三師団の地上攻撃は、7月2日日本軍が得意とする夜襲攻撃から開始された。第二三師団は、ハルハ河を越えてモンゴル領内に進出してソ連軍を攻撃した。しかし、ソ連軍の優勢な砲兵と戦車による反撃をうけて攻撃は失敗した。以後、ハルハ河東岸に撤退した日本軍とハルハ河を越えて日本軍の攻撃に転じたソ連軍と、ハルハ河右岸三キロ付近で陣地戦を展開した。日本軍の戦車は、装甲の厚さや戦車砲の能力、走行スピードなどにおいてソ連軍の戦車に劣っていた。そのため、ソ連軍の戦車の備砲や対戦車砲によって、大きな損害をうけた。
平沼騏一郎首相は7月18日に五相会議(首相・外相・蔵相・陸相・海相)を開き、板垣征四郎陸相の主張で、ノモンハン戦争の日ソ戦争への発展は極力防止すること、駐ソ大使に訓令して事件を外交交渉で解決することを決めた。参謀本部では、関東軍参謀長磯谷廉介中将を東京市ヶ谷の本部に召致し、「ノモンハン事件処理要綱」を示した。それは、事件を局地的に限定し、航空作戦による国境を越える爆撃はおこなわない、冬季までにソ連の主張する国境外に撤退し、外交交渉により冬季までに終結させる、というもので、五相会議の決定に沿うものであった。
ところが、関東軍は中央の消極的方針にしたがわず、7月23日からふたたび、ハルハ河右岸のソ連軍陣地の攻撃を開始した。しかし、優勢なソ連軍の兵力に圧倒されて、またも失敗した。
関東軍内では、植田司令官や磯谷参謀長は陸軍中央の方針にしたがおうとしたが、参謀(作戦主任)の服部卓四郎中佐や辻政信少佐が強硬な積極論を主張して突き上げ、参謀本部との対立をつよめた。
8月4日、「満州国」の西方正面防衛を担当する第六軍(司令官荻洲立兵中将)が関東軍にあらたに編成された。第6軍は、ノモンハンで苦戦中の第23師団にくわえ、関東軍内から増強された第7師団と、中国戦線から抽出された第5師団をあわせて、ソ連軍にたいする大攻撃を準備した。
しかし、ソ連軍は日本軍の増強兵力の大部分がまだ到着しないうちに、8月20日から航空機約500機による爆撃をともなった総攻撃を開始した。このため、第23師団は壊滅状態となり、各連隊は個々に退却した。戦況の悪化に逆上した関東軍司令部は、第一・第二・第四師団など、関東軍のほとんどの兵力をノモンハン方面に集中してソ連軍に決戦をいどもうとした。
ここにいたり、ソ連との全面戦争化を恐れた大本営は、参謀次長中島鉄蔵中将を関東軍司令部に派遣し、「関東軍司令官は『ノモンハン』方面において勉めて小なる兵力を以て持久を策すべく」という大本営陸軍部の命令を下達させた。しかし、命令は娩曲に関東軍の善処を要求したもので、あいまいであったため、関東軍は新たな師団も増強し、総兵力を集中して反撃する作戦準備を進めた。
この間、ソ連と独ソ不可侵条約を締結(8月23日)したドイツが、9月1日にポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が勃発したため、大本営は9月3日、「情勢に鑑み、大本営は爾今『ノモンハン』方面国境事件の自主的終結を企図す。関東軍司令官は『ノモンハン』方面における攻勢作戦を中止すべし」という厳しい命令を下達した。これにたいして、関東軍からは敵中に遺棄されている軍旗や数千の死体を収容するための攻勢作戦を要求し、もしもこれが認可されないなら司令官を罷免せよ、と意見を具申して抵抗した。軍旗(連隊旗)は大元帥の天皇に代わる旗であるとされ、将兵の命よりも大切なものとされていた。
ヨーロッパ情勢の急変から事件の終結をいそいだ大本営は、9月7日植田関東軍司令官以下、磯谷参謀長や服部作戦参謀、辻作戦参謀らを更迭し、梅津美治郎中将を植田司令官の後任に任命した。
日本政府はモスクワにおける交渉の妥結をいそぎ、9月15日モロトフ外相と東郷茂徳駐ソ大使との間で停戦協定が成立した。ソ連軍もその主張した国境線を回復したのちは、攻勢に出ず、局地戦争は終結した。欧州も雲行きあやしく、ソ連東部で戦争することはできなかった。
8月23日 - 独ソ不可侵条約締結
9月1日 - ナチス・ドイツとスロバキアのポーランド侵攻。アドルフ・ヒトラーがT4作戦を発令
9月3日イギリス・フランス・オーストラリアがドイツに宣戦布告(まやかし戦争)
9月4日日本、第二次世界大戦への不介入を表明
9月17日 - ソ連赤軍がポーランド東部に侵攻
9月27日 - ワルシャワがドイツの空爆で陥落
9月28日 - 独ソ友好条約調印(ポーランド分割占領を決定)
ノモンハン戦争の責任によって植田関東軍司令官や磯谷参謀長など関東軍の幹部は予備役に編入されたが、強硬論によって関東軍を苦戦にひきずりこんだ作戦参謀の服部や辻は、いったん他の職に転じただけで、まもなく服部は参謀本部の作戦課長、辻は作戦班長に就任し、アジア太平洋戦争開戦の推進者となった。
ノモンハン戦争による日本軍の被害は、出動兵員5万8925人中、戦死者7306人、戦傷者8332人、戦病者2350人、行方不明者122人で、戦死傷病者の合計は1万8925人にたっした。第23師団はほぼ全滅にちかい犠牲者を出した。関東軍司令部が、独断退却や捕虜になることを絶対にゆるさないという非合理でかたくなな厳しい対応をしたので、敗退や独断退却の責任をとって自決する連隊長があいつぎ、停戦協定が結ばれたあとになっても、さらには停戦協定の成立にともなって、捕虜交換がおこなわれ、負傷し捕虜になって引き渡された将校にたいしても自決が強要された。自決あるいは自決させられた連隊長・部隊長は八人におよぶ。
辻政信
ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。 軍事作戦指導では「作戦の神様」「軍の神様」と讃えられた。その一方で、非人道的残虐事件を巻き起こした指揮系統を無視した現場での独善的な指導、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある。敗戦とともに戦犯として逮捕されるのを逃れるため地下に潜行、タイ・仏印・中国を経て、東京裁判の審判が終了するのを待って1948年に密かに帰国、東京裁判が閉廷したのち、1949年8月に正式に復員の手続きをとり、1950年1月に戦犯指定解除になった。逃走中の記録『潜行三千里』(毎日新聞社、1950年6月)がベストセラーとなり、つづいて『ノモンハン』(亜東書房、1950年8月)を出版、勇猛果敢な参謀ぶりを誇示して人気をはくし、52年には衆議院議員選挙の全国区の五位で当選、衆議院議員四回、参議院議員一回、計五回連続当選を果たした。参議院議員在任中の1961年(昭和36年)4月に視察先のラオスのジャール平原で行方不明となり、1968年(昭和43年)7月20日に死亡宣告がなされた。
服部卓四郎
1942年(昭和17年)12月からは陸相秘書官を東條英機の元で務めたが、翌年10月には再び作戦課長に復帰し、大陸打通作戦の立案を主導した。終戦後は、参謀本部時代の経験と知識を買われ、第一復員庁史実調査部長(後に資料整理部長)となった。(その後公職追放 )
GHQ参謀第2部 (G2) 部長チャールズ・ウィロビーの下で太平洋戦争の戦史編纂を行った。評論家の保阪正康は「責任ある立場にあって最も無責任」だったとして、辻と共に「昭和の愚将の筆頭」として挙げているが、G2のウィロビーは服部の作戦立案能力を高く評価していたという。
戦史編纂業務が一段落した1948年末、ウィロビーは戦史調査部を中心に裏の業務として日本再軍備の研究を託し、再軍備研究のための「服部機関」が発足した。
服部機関は服部を中心に主に参謀本部や陸軍省の要職についた経験のある大佐級、中佐級の人材で構成されていた。後に創設される警察予備隊の幕僚長には服部か旧内務官僚のどちらを任命するのかで、GHQや日本政府の意見が別れた。ウィロビーらG2が服部を推したのに対して、民政局(GS)長のコートニー・ホイットニー准将や首相吉田茂、吉田に進言した辰巳栄一元中将などが反対し、服部の幕僚長就任は実現しなかった。
関東軍は、ノモンハン戦争において初めて細菌兵器を使用した。8月20日のソ連軍の大攻勢によって第二三師団は壊滅寸前に陥った。この時に、ソ連軍の大規模攻勢を妨害することを目的に細菌攻撃が実施された。碇常重軍医少佐を隊長とする二、三〇人からなる決死隊が、ハルハ河の支流であるホルステン河の上流に、チフス菌の培養液を入れた二、三〇個の石油缶をトラックで運び、その中身を河に流したのである。この時、培養液をあびた軍曹がのちに腸チフスで死亡した。ソ連軍の被害は不明。
四〇年八月一日、関東軍防疫給水部。日本陸軍における細菌戦の研究と実験、細菌兵器の製造、そして細菌兵器の実戦使用の指導機関になったのが関東軍防疫給水部すなわち七三一部隊であり、その生みの親、育ての親が軍医の石井四郎軍医。七三一部隊の人数は、1940年7月には3240人(将校264人、下士官・准士官251人、兵720人、軍属2005人)と、前年の39年6月時点にくらべ、約三倍に増大。
七三一部隊の記録研究は多々ある。
ソ連の対日参戦によりソ連軍の満州侵攻が開始された1945年8月9日、陸軍中央より、証拠隠滅のため七三一部隊の建物の徹底破壊が命令された。特殊監獄に収容されていた「マルタ」400余人は毒ガスで殺害された後、石油をかけて焼却された。部隊員とその家族は、8月14日には満鉄の特別列車で優先的に撤退完了した。七一三部隊の解散に際して石井四郎は隊員たちに「秘密は墓場まで持って行け」「戦後公職についてはいけない」「隊員同士互いに接触をとってはいけない」と厳命した。
七三一部隊の膨大な人体実験データを持ち帰った石井四郎と部隊幹部にたいして、連合国軍総司令部(GHQ)は、調査研究データを全てアメリカに提供することを代償にして、極東国際軍事裁判(東京裁判)において面積することを決定。そのため、石井四郎ら七三一部隊の幹部、隊員らは戦争責任を迫及されることはなかった。
7月15日国民徴用令(国家総動員法に基づく勅令)
7月26日アメリカ、「日米通商航海条約廃棄通告」を日本政府に提出、同条約が6か月無効となると通告。対日経済制裁の第一段階。
8月23日独ソ不可侵条約締結 三国同盟の推進者であった平沼騏一郎首相1月5日~8月30日(司法官僚)は「欧州情勢は不可解」として総辞職。
8月30日に阿部信行首相(陸軍)内閣総理大臣(1941年1月16日まで、弱体な外交、物価騰貴・食糧難などに対する政治力弱体)
9月1日ドイツ軍、ポーランドに侵攻、第二次世界大戦勃発
9月15日日ソ政府、ノモンハン戦争停戦協定締結
10月20日価格統制令
11月中旬日本軍、南寧攻略作戦強行(12月上旬まで)
ノモンハン戦争の責任をとって陸軍参謀本部の首脳が更迭された後の第一(作戦)部長となった富永恭次は、ノモンハン戦争の惨敗で頓挫した陸軍の北進論を南進論に転換させた。富永は自らハノイに乗りこみ、参謀本部の制止を無視して南支那方面軍をハイフォンから上陸させ、1940年9月26日北部仏印武力進駐を強行した。これに対抗してアメリカ政府は同日対日屑鉄輸出の全面禁止の断行に踏み切ったので、日本は日米開戦への決定的第一歩を踏みこんだ。さらに近衛内閣は松岡洋右外相が積極的に動いて、9月27日日独伊三国軍事同盟を締結、いわゆる枢軸国陣営を形成して、アメリカやイギリスに敵対する立場を明確にした。「日中戦争全史 上」より
ノモンハン事件
海南島占領
1940年
1月安倍内閣→米内光政(海軍)→7月近衛文麿(枢密院議長)
1月26日 日米通商航海条約破棄(1939通告1940破棄)
11月23日 大日本産業報国会(全日本労働総同盟解散)
2月2日 - 斎藤隆夫の反軍演説
図説日中戦争より
1940年も前年の秋同様、参謀本部作戦課により中国からの撤退案が出された。作戦課が作成した「建議書」では、1941年初夏に武漢地区(配置兵力20数万)から撤退して態勢を収縮させ、その後も数万ずつ減らし、最終的には中国駐屯の日本軍を三〇万程度(五年後)にしようというのだ。
その理由は、驚くべし日本の戦争目的が不明であり、一方、中国からの停戦和平申し入れはあり得ないとしている。
「事変は武力戦より政治経済戦に移行しており、国家の財政経済を度外視した統帥は存在しない。ここで最も重要な問題は、国民に戦争目的を具体的に明示することであって、現状のように事変の目的が不明なままでは多額の負担(国債既発行100億円、民間消費9.2%)を国民に甘受させられるものではない」
「事変の終了しない最大の癌は、重慶政府の態度と英米ソの援蒋行為であり、かれらを相手の事変終了は当分期待すべくもないから、自主解決に徹する要がある」
「第三国の援蒋行為は絶対に中絶することはない」(戦史叢書『支那裏変陸軍作戦3』から
肝心要の参謀本部作戦課がすでに戦争の目的そのものがわからなくなっていたのだ。
この年(1940年)2月、衆議院で斎藤隆夫議員が、「この事変の目的は何処にあるかと云うことすら普く国民の間に徹底して居らないようである」「此の戦争の目的である所の東亜新秩序建設が、事変以来一年半の後に於いて初めて現れ、更に一年の後に於いて特に委員会まで設けて其の原理、原則、精神的基盤を研究しなくてはならぬと云うことは、私共に於いてはどうも受け取れないのであります」と述べたが(2月2日)、畏れ多くも聖戦にケチをつけるとはなにごとかと、衆議院を除名されている(三月七目)。いわゆる"反軍演説"として知られているものだ。
http://web.tohoku.ac.jp/modern-japan/wp-content/uploads/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%9A%86%E5%A4%AB%E3%81%AE%E6%BC%94%E8%AA%AC-1940%E5%B9%B4%EF%BC%92%E6%9C%88.pdf
参謀本部の建議書は斎藤が除名されて一カ月後の四月初頭である。
軍隊撤収の建議書を作成したのは主任クラス(階級は中佐)だったが、提案は陸軍省の課長クラス(大佐)あたりで簡単に拒否された。理由は「東亜新秩序建設こそ日本の使命であり、そのために戦っているのだ。それを忘れたのか」というような"立派な"ものではなかった。
提案側の参謀本部第三課長(編制)那須義雄大佐の、次のような回想が残っている。
「この提案に対して、岩畔(豪雄、陸軍省)軍事課長から後刻もたらされた回答は『皇軍(天皇の軍隊)将兵の血を流した土地を手離せるか』の一言であって、次いで岩畔大佐から『シンガポール(当時はイギリス領)を攻略すべし』と大いにどなられて我々はあっけにとられたのであった」(引用は戦史叢書『支那事変陸軍作戦3』による)
そんな、次元のまったく違う反対にあったとき、撤退の建議書を書き、支持した人たちは、それとこれとは話が違うと筋道をたてて説得する論理や情熱を持ち合わせていなかったわけである。
しかし、軍を信じてついて来いと言ったのはだれか。経済・財界、新聞、放送、学校、町内会、婦人会、在郷軍人会(予備・後備・退役軍人の組織)などを通じて、"聖戦"の正当性を鼓吹し、少しでも批判したり疑問を出す者を切り捨て、脅し、逮捕してきたのだ。国家総動員法は、戦争に疑問を出したり、批
判したり、大本営発表に批評を加えたりする自由を一切封じる法律でもあり、"思想と良心の総動員"でもあったのだ。ここに批判の自由を少しでも残しておけば、参謀本部の作戦課が感じたような「ちょっとおかしくなってきた」という疑問は、当然、いろいろな方面から起こっていただろう。
あまりにも戦争賛美の思想・言論しか許さなかったから、戦争が拡大しきって収縮させる必要がある段階になっても、支持者がいないことに初めて気づいたのである。完全な世論のミスリードだった。
陸軍は、すでに戦争のために戦争を戦っているにすぎなかった。
しかし、財源不足という事態に直面し精鋭二個師団(内地から近衛師団、満州から第四師団。兵力約.一万超か)を補充する代わりに、中国の日本軍支那派遣軍を十数万削減した。85万の兵力は72万8000名と軍馬約14万頭、それと航空部隊二〇個中隊になった。
しかし、全体としての兵力増強がストップしたわけではない。1939年末から40年にかけて、年配者ばかりの特設師団四個を廃止する一方で、1940年には九個の師団を新しく編成した。一個は中国へ(もともと中国に行っていた部隊を少し増強して作ったが)、二個は満州へ、残りはすっかり手薄になった内地へ配置した。これだけ師団を増やしたのだから、日本陸軍の総兵力は前年より11万増えて135万となった。おかげで関東軍(植民地・満州国の日本軍)は三個師団増強され、さらに国境守備隊という独特の部隊も増やしたから、前年より13万増の約40万近くとなった。
2月12日 - 津田左右吉の『神代史の研究』など発禁
1873年10月3日 - 1961年12月4日。日本の歴史学者・思想史家。記紀を史料批判の観点から研究、日本における実証史学の発展に大きく貢献した。記紀の文献学的考証を行い、記紀神話や『日本書紀』における聖徳太子関連記述についてその実在性を含めて批判的に考察した。帝紀の系譜は全て史実ではなく、少なくとも15代応神天皇より以前(14代仲哀天皇や13代成務天皇以前)の天皇は創作された非実在の人物であると指摘した。結果、著書が発禁処分、文部省の要求で早稲田大学教授を辞職させられた。1949年文化勲章受章。
3月7日 - 戦争政策批判により衆議院が民政党斎藤隆夫を除名処分
3月28日 - 敵性語追放:内務省が芸能人の外国名・ふざけた芸名禁止を通達(ミスワカナ、ディック・ミネ、バッキー白片、藤原釜足ら16名)
3月30日江精衛(汪兆銘の中華圏の呼称)を首班とする中華民国国民政府、南京に設立
汪兆銘(精衛)「世界史の窓」より
1904年の科挙に合格,秀士。1904年、21歳で日本に留学、法政大学などで学ぶ。日露戦争での日本の勝利に歓喜した。1905年、孫文が結成した中国同盟会に参加、機関紙民報の編集に加わった。翌年から孫文に従って東南アジア各地を巡り、華僑の組織化を図り、革命家として積極的に活動。1910年には清朝の摂政王の暗殺を企てるも失敗に終わり、逮捕された。獄中で辛亥革命となり、釈放後フランスに留学、法律を学んだ。帰国後、1924年、中国国民党の執行委員、宣伝部長となり、孫文を助けて共産党との第1次国共合作に努めた。
汪兆銘は古くからの中国国民党員で、孫文の側近の一人として、三民主義及び、連ソ・容共・扶助工農という国共合作の理念を忠実に守り、その後継者として自認していた。1925年3月に孫文が死去、その遺言の署名者の一人となっている。5月の五・三〇運動での反帝国主義、民族主義の運動の高まりを受け、1925年7月に広州で広州国民政府が成立すると、汪兆銘は実質的な党主席として国民革命の中枢となった。しかしそのころから、国民政府の軍事面を握った蔣介石と党の主導権をめぐって対立するようになった。共産党との合作の継承を主張する汪兆銘は国民党左派、蔣介石は右派と言われるようになった。
国民革命軍を率いた蔣介石が北伐を進め、武漢を攻略すると、国民政府も広東から北上させて武漢に移り、武漢政府とし、汪兆銘は主席として国共合作の路線を継続しようとした。その頃から共産党の台頭に危機感を持つ右派は、資本家層の要望もあって共産党排除に動くようになり、ついにその動きは蔣介石による1927年4月12日の上海クーデタ(四・一二事件)として実行され、共産党勢力に対する大弾圧を決行した。
しかし、武漢政府を握る汪兆銘らは国共合作の維持を掲げて蔣介石に反対、両者の対立は決定的となり、蔣介石は別に南京国民政府を樹立した。汪兆銘はなおも国共合作を維持しようとしたが、政府内部の右派勢力も増大し、コミンテルンの共産党への指示も強硬なものであったことから、汪兆銘は一転して反共の立場に立ち、ついに共産党排除に踏みきり、1927年7月15日に第一次国共合作の破棄を宣言した。
その後、武漢政府は消滅し、南京国民政府に合流したが、汪兆銘は政治の中枢から離れて広東で活動、1931年5月には広東に新たに国民政府を樹立して南京の蔣介石に対抗した。
しかし、同年、満州事変が起こり、国民政府も一体化を迫られたため、1932年1月、蔣介石と和解し、南京国民政府に参加、行政院長兼外交部長としてナンバー2の地位についた。中国ではナショナリズムが高揚したが、日本の侵略が満州に次いで華北に伸びてくると言う現実を前に、汪兆銘はそれに抵抗する国力が不十分であると考え、「一面抵抗、一面交渉」の方針を打ち出し、日本軍と講和もはかるべきだと提唱した。しかし対日交渉は譲歩であり、売国であるという反対派の非難が激しくなり、1935年11月には白昼、反対派から狙撃され重傷を負った。
1937年、日中戦争が勃発、日本軍が南京に迫ると、蔣介石以下、国民政府は重慶に移り、汪兆銘も従った。日本の近衛文麿内閣(第一次)は1938年1月に「国民政府を相手にせず」と表明、軍事攻勢を強めて屈服させようとした。
日本軍は広州・武漢を攻略したが、戦線は伸びきったまま長期化の様相を呈してきたため、本格的な講和を模索せざるを得なくなってきた。そこで、軍部は秘密裏に工作を進めて国民政府内の反蔣介石派と接触し、その分裂をはかった。その対象となったのが、孫文の後継者を自負しながら、蔣介石と対立していた汪兆銘であった。軍が秘密工作を進める上での効果をねらい、近衛文麿内閣は、それまでの「国民政府を相手とせず」という方針を捨て1938年11月3日に東亜新秩序を表明し、親日的な政府の出現を促した。
汪兆銘は1938年12月、日本陸軍の軍人によって密かに進められた工作により、重慶から脱出に成功、ハノイに迎えられた。近衛内閣は講和の三原則「善隣友好、共同防共、経済提携」を示し、汪兆銘もそれに応えて停戦を表明した。日本政府は汪兆銘を南京に迎え、1940年3月、親日政権として南京国民政府を樹立させた。
汪兆銘の南京国民政府(一般に南京国民政府とは1927年の上海クーデタ後に蔣介石が南京に建てた政権を言うが、それとは別)は、「反共和平」「純正三民主義」を掲げ、日本と停戦して中国社会の再建をめざした。その間、日本は汪兆銘政権を中国の正統な政府と認めるため、大東亜会議への招聘、1940年11月には日華基本条約の締結を行って汪兆銘の南京政府を中国正統の政権と認め、さらに1943年1月9日米英に宣戦布告。日華新協定を締結して治外法権の撤廃、上海・漢口・天津・杭州・蘇州などの租界の返還など不平等条約の撤廃を認めた。
北支那方面軍は華北の「第二の満州国」化工作を推進してきたので、傀儡政権をつうじた日本軍の占領統治支配には蓄積があった。いっぽう、華中は国民政府の強力な統治基盤であったので、支那派遣軍が代わって華中の広大な農村地域を占領統治することはほとんど不可能であった。
ところが、太平洋戦争開始後は、農産物が豊富な華中、そのなかでも豊かな長江下流域の江南地方は、日本政府と軍部にとって、総兵姑基地の役割を担わせるべき重要な地域になった。
日本軍の侵攻と蒋介石国民政府の重慶遷都によって、ある種の権力の空白ができた華中の農村地域に台頭・浸透してきたのが共産党軍の新四軍であった。日本軍は、長江下流域における汪精衛政権の行政権の拡大・浸透をめざして1941年7月から「清郷工作」を実施させた。
最初に、該当地区を管轄する日本の第二二軍が主体となって、国民政府残存部隊や国民党系ゲリラ、新四軍遊撃隊などの抗日勢力や土匪・雑軍などの武力勢力を掃蕩し、その後は汪精衛政権の軍隊・警察隊・清郷工作隊などによって清郷地区(統治安定地区)を拡大し、県政府を中心として地方行政機関を組織し、農村における保甲制度の確立を促進、注政権の経済・文化・教育などの諸政策を浸透させようとした。
汪精衛政権は最高国防会議において、物資統制に関する専門機関として全国商業統制会を成立させた。同会の下に米糧統制委員会・棉業統制委員会・粉麦統制委員会・油糧統制委員会・日用品統制委員会が組織され、各物資の統制管理をおこなった。たとえば、米糧統制委員会は、米の売買・価格設定・移動・保管などの業務を担当した。表向きは汪精衛政権が主導する委員会であったが、実際はすべての委員会に日本人が参加して主導権は日本側にあった。日本政府と軍部は汪江精衛政権の全国商業統制会をとおして、米・綿・麦・食用油・桐油などの農産物資を「同盟国」日本へ供出させたのである。
南京国民政府は政府としての形態をとったが、実態は傀儡政権と見なされ、中国民衆の支持はほとんどなく、重慶政府、共産党軍の抵抗は依然として活発であったため、戦争終結には結局、役立たなかった。日中戦争が激化し和平が遠のくに従い汪兆銘は「売国奴」「漢奸」と非難されるようになり、1944年、病気治療のため日本に渡り、11月に名古屋の病院で病死した。日本占領下の南京で一時存在した南京国民政府は日本敗北とともに消滅し、現在の中国では「日本の傀儡政権」、「偽政府」とされている。
汪兆銘の墓は南京の孫文の墓「中山廟」近くの梅花山に造られた。中山廟に似たデザインの立派な墓の造営が始まったが、途中で日中戦争が終わり、規模を小さくして完成させた。ところが南京に入った重慶政府の軍司令何応欽は、蔣介石が南京入りする前に汪兆銘の墓を爆破し、遺体を焼却、遺骨は近くの野原に捨てたという。こうして汪兆銘は墓も遺体も抹消されてしまった。<劉傑『同上書』p.168-176
汪兆銘は1943年、南京の陸軍病院で昔の凶弾の摘出手術を受けたが経過が思わしくなく、44年3月、名古屋帝国大学病院に転院した。しかし多発性骨髄腫を発症しており、治療の甲斐無く11月に病院で死去、その事実は公表されなかったという。<名古屋大学 「ちょっと名大史」>
漢奸裁判
汪兆銘の死後、南京国民政府の主席には陳公博が就いたが、1945年8月、日本軍の敗北が確定すると、8月16日、国民政府解散宣言が発表され、消滅した。9月8日、重慶政府の陸軍総司令何応欽が飛行機で南京に乗りこみ、南京政府関係者の逮捕が始まった。中国を裏切り、日本に協力した者を中国では「漢奸」と言い、彼らに対する「漢奸裁判」が行われることとなった。その結果、陳公博、周仏海などの政府幹部は次々と死刑の判決を受け、処刑された。
5月15日オランダ、ドイツに降伏
5月17日海軍航空隊を主力とする重慶爆撃の百号作戦開始(9月5日まで)
1938年12月26日、陸軍航空兵団(漢口に航空基地)、最初の重慶爆撃を行った。
39年になると、海軍航空隊が参加して本格的な重慶爆撃を開始した
1940年5月17日から9月5日まで、3か月にわたり、海軍の連合空襲部隊(指揮官・山口多聞少将)と陸軍重爆隊の一時協同によって重慶などへの爆撃 作戦、101号作戦が行われた。
翌1941年7月から8月にかけて、日本陸海軍の共同作戦であった102号作戦が実行された
1940年8月遠藤三郎少将、陸軍第3飛行団長に、翌1941年夏になると、遠藤は上級指揮官から命令を受け、102号作戦の一環として、第3飛行団を率いて直接重慶爆撃を指導 した。彼の手記 ……全機が出動しても、わずか二十七機にしか過ぎなかった。また、武昌飛行場から重慶までは直距離にして約八百キロ、これを往復するには、九七式重爆の燃料搭載量ぎりぎりまで積まねばならず、したがっ
てそれだけ爆薬量は少なくなり、戦隊全機を合わせても一回十五トンに過ぎなかったのである。重慶軍の致命的な部位がはっきりしていればともかくも、ただまん然と都市を爆撃したのでは、過去数千年の間に何度も天災や、戦禍の洗礼を受け、苦難に慣れてきた中国民族に対しては、わずか十五トンの爆弾など二階から目薬のようなものであろう。かれらに手を上げさせることなど、思いもよらないことであった。……蒋介石政府のとどめをさせる地域も、重要軍事施設もどこにあるかまったくわ
からない。まん然と市街地を爆撃することは無意義であり、また非戦闘員にまで危害を加えることは、いくら戦争といっても好ましいことではない。国際法でも、非武装都市の爆撃は禁じてある」と。その結果、彼は1941年9月3日に、重慶戦略爆撃の中止(即ち「重慶 爆撃無用論」)という意見書を陸軍の上司に提出。
5月ドイツ、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクに勝利
6月3日 「聖戦貫徹議員連盟」、近衛を党首とする一大強力新党結成を決議
6月10日イタリア、イギリス・フランスに宣戦布告
6月14日ドイツ軍、パリに無血入城
6月24日近衛文麿、新体制運動推進の決意表明
7月4日 - 陸軍首脳部が米内内閣打倒のため陸相畑俊六に辞職を勧告、16日辞職
7月10日ドイツ空軍、イギリス本土空襲を開始バトル・オブ・ブリテン
「バスに乗り遅れるな」
フランス領仏印(ベトナム)、オランダ領蘭印(インドネシア)への侵攻の好機と見た。
7月22日第二次近衛文麿内閣発足、松岡洋右外相、東条英機陸軍大臣
7月26日近衛内閣、大東亜新秩序形成を謳った「基本国策要綱」決定
ドイツの「ヨーロッパ新秩序」に呼応。武藤章軍務局長は国策研究会を活用して、陸海軍、企画院官僚、「革新」派官僚の参加のもと1940年1月から半年かけて国策案を策定した。この国策案が「綜合国策基本要綱」であると考えられている。幕僚だった牧達夫によると、近衛が軽井沢から荻窪の荻外荘に戻ってきた後、武藤が夜遅くに密かに近衛を訪ねた際、陸軍の要望案として近衛に示して同意するように求めたのが「綜合国策基本要綱」だったという。近衛はその内容に完全に同意した。「基本国策要綱」は、このようにして「綜合国策基本要綱」が陸軍から第2次近衛内閣に持ち込まれ、それが原案になったと言われている。
一 根本方針 皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り(後略)
三、国内態勢の刷新
1.国体の本義に透徹する教学の刷新と相侯ち自我功利の思想を排し国家奉仕の観念を第一義とする国民道徳を確立す(後略)
2.1.官民協力一致各々其の職域に応じ国家に奉公することを基調とする新国民組織の確立
(後略)
7月27日大本営政府連絡会議、「世界情勢推移に伴う時局処理要綱」決定、
「速やかに支那事變の解決を促進するとともに好機を捕捉し對南方問題を解決」「佛印(広州湾を含む)に対しては援蒋行為遮断の徹底を期するとともに速やかにわが軍の補給擔(担)任、軍隊通過および飛行場使用等を容認せしめかつ帝國の必要なる資源の獲得に勉。情況により武力を行使することあり」
8月1日国民精神総動員本部が「贅沢は敵だ!」
8月15日 - 立憲民政党の解散により議会制民主主義が実質上停止
8月19日零式艦上戦闘機(零戦)、重慶爆撃に始めて登場
8月20日八路軍による百団大戦始まる(10月上旬まで)- 12月5日)
第二次国共合作によって華北の共産党軍は国民革命軍第八路軍(八路軍)、華中の共産党軍は国民革命軍新編第四軍(新四軍)に編入替えされた。共産党軍は日本軍の占領支配地域に抗日根拠地を築いて拡大させ、日本軍の侵略・占領・支配から土地と民衆を解放した。中国では「解放区」と呼んだ。
共産党が統治した地方政権は公式には「中華民国特区政府」と称されたが、一般的には辺区政府といわれた。辺区政府=抗日根拠地政権は共産党が国民政府から独立した地方政治権力を築き、民衆を抗日勢力に組織していった。日本軍が国民政府軍の潰滅をめざしてつぎつぎと大作戦を繰りひろげ、占領地を拡大していったのに比例して、共産党・八路軍は占領地内部に解放区すなわち抗日根拠地を拡大した。
1940年8月下旬から10月上旬にかけて二次にわたり、八路軍は日本軍が占領する華北の主要鉄道・通信線・日本軍の拠点にたいして、全勢力をあげて奇襲攻撃をくわえ、大きな損害を与えた。作戦に参加した八路軍の総兵力は115団40万人といわれ、百余団が参加したことから「百団大戦」とよばれる。
皇軍の「威信失墜」という屈辱をあじわった北支那方面軍は、共産党.八路軍の抗日根拠地にたいする「燼滅掃蕩じんめつそうとう作戦」を治安掃蕩作戦として実施した。「燼滅」とは「焼き尽くし、あとかたもなく滅び尽くす」すなわち徹底的に殺戮・破壊・放火・略奪して生存不可能な状態にするというものだった。中国では「三光政策」といった。「三光」とは中国語で「焼光(焼き尽くし)、殺光(殺し尽くし)、槍光(奪い尽くす)」を意味する。
1940年には八路軍・新四軍は60万人以上、民兵(ゲリラ兵)200万人の大勢力に成長、日本軍占領地内の解放区の人口は約4000万人にたっしていた。百団大戦は北支那方面軍の共産党、八路軍にたいする認識を一変させ、「剿共そうきょうなくして治安維持は達成せられない」と主敵が国民政府軍から共産党軍に移り、抗日民衆も相手にする戦闘に転換した。
こうして日中戦争には中国のいう「正面戦場」と「後方戦場」の二つの戦場が登場したのである。正面戦場とは国民政府軍と日本軍との戦場、後方戦場は「敵(日本軍)後方戦場」の意味で、共産党軍の抗日根拠地・抗日ゲリラ地区すなわち解放区の戦場のことである。
日本は、1941年夏の段階で、「満州国」の関東軍を除いて約85万人にものぼる日本軍を中国大陸に投入していたが、中国における後方戦場の拡大強化により、正面戦場における戦果も減殺された。国民党と共産党とは中国革命をめぐっては敵対する勢力であったが、第二次国共合作により相互補完的に抗日戦争を戦った。そして中国大陸における「正面戦場」と「後方戦場」という二つの戦場の形成により、日本軍が日中戦争に勝利する展望は消滅した。
「日中戦争全史」より
8月30日北支那方面軍、山西省の抗日根拠地掃蕩の晋中作戦開始(12月3日まで)
9月26日日本軍(南支那方面軍)、北部仏印武力進駐終了
アメリカ政府、対抗処置として対日屑鉄輸出全面禁止
9月27日日独伊三国軍事同盟締結
10月1日 - 第5回国勢調査(内地人口7311万4308人、外地人口3211万1793人)
10月12日近衛内閣の新体制運動に呼応して全政党解党、大政翼賛会結成
10月31日バトル・オブ・ブリテン終了
ドイツによるイギリス本土上陸作戦の前哨戦としてイギリスの制空権の獲得のために行われた一連の航空戦を指す。戦略目標を達することなく独ソ戦を前にしてヒトラーによって中止
東京のダンスホール閉鎖 敵性語追放:タバコ改名(バットが金鵄、チェリーが桜)
11月15日海軍、「出師準備第一着作業」発動、対米英戦の準備・訓練開始
百団大戦
三光政策
反軍演説
南部仏印進駐
汪兆銘(精衛)
重慶爆撃
1941年
1月16日大本営陸軍部会議「対支長期作戦指導計画」を策定
一 1941年秋まで、おおむね現在における対支圧力をゆるめることなく、この間諸般の手段を尽くし、ことに国際情勢の変化を利用して支那事変の一決を図る。(第一期)
一 1941年秋以降長期持久戦態勢に転移し、数年後において在支50万体制を確立する。(第二期)
1940年度平均77万 (年度初頭85万予定十一月下旬72.8万)
1941年度平均65万 (予定北支25万、中支30万、南支10万)
1942年度平均55万 (予定北支25万、中支15万、南支15万)
3月10日治安維持法再改定、第三次法公布
3月30日北支那方面軍、「第一次治安強化運動」展開(4月3日まで)
4月13日日ソ中立条約締結(有効期間5年間)松岡洋介 ソ連は独ソ戦、日本は南進のため
4月16日野村大使、ハル国務長官会談始まる「大本営戦争機密日誌」
6月22日ドイツ、独ソ不可侵条約を破りソ連に侵攻、独ソ戦開始
6月25日大本営政府連絡会議「南方施策促進に関する件」(南部仏印進駐の方針、対米英戦辞せず)決定
7月7日北支那方面軍、華北で「第二次治安強化運動」展開(9月8日まで)
7月13日日本陸軍、ソ連と中立条約を結んだので「関東軍特種演習(関特演)」の秘匿名のもとに対ソ作戦に備えて大動員開始。日本陸軍創設以来、空前の85万人が満州北部のソ連との国境付近に集中輸送された。しかし、8月初旬をすぎても日本軍が期待したそれがドイツ軍によって崩壊する好機は到来しなかった。8月9日対ソ戦断念。海軍主導で南方戦準備へ。
7月18日第三次近衛内閣発足(松岡外相排除)
7月25日陸海軍協同の大舞台が海南島の三亜港を出港、8月4日に南部仏印進駐完了。
海軍はベトナム南部に航空基地8か所、基地2か所の使用、陸軍は部隊の訓練と行動の
自由をドイツ占領下のフランス・ビシー政権に認めさせた
アメリカ政府、在米日本資産凍結令を公布
7月27日海軍航空隊、重慶爆撃の一〇二号作戦開始(8月31日まで)
7月28日日本軍の南部仏印進駐開始(8月4日終了)オランダ領東インド(蘭印)、日蘭石油協定廃棄7月30日重慶爆撃の海軍航空部隊機が米砲艦ツツイラ号の至近に爆弾投下(ツツイラ号事件)
8月晋翼魯豫辺区成立
8月1日アメリカ、対日石油全面禁輸発動
8月9日大本営陸軍部「帝国陸軍作戦要綱」決定、年内の対ソ戦断念を決定
8月15日及川古志郎海相、「出師準備第二着作業」の実施を発令、アジア太平洋戦争開戦の戦闘準備を始動させる
9月1日大本営海軍部開戦準備の完成を目指し「昭和十六年度帝国海軍戦時編制」の実施
9月6日御前会議、10月下旬を目途に対米(英蘭)開戦準備完成するという「帝国国策遂行要領」決定
田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦課兵站班長=惨敗したノモンハン事件の
当事者で、反動で積極的な対米英開戦論者となった。
9月25日日本案米大使グルーに 10月2付米国回答
10月2日 - 1942年1月7日 モスクワの戦い
11月末、早い冬の到来でドイツ軍の攻撃は止まったにも関わらず、ドイツの諜報機関はソ連軍がこれ以上予備兵力を持っておらず、反攻する事はできないと想定していた。この推定が間違っている事は、スターリンが開戦前にシベリアと極東から移送した18個師団、戦車1700両、飛行機1500機以上の予備兵力を投入する事で証明された。ジューコフとヴァシレフスキーの提案した攻勢が最終的にスターリンに許可される12月の初めまでの間に、赤軍は58個師団を蓄え反撃に移った。
10月16日第二次近衛内閣総辞職
10月18日東条英機内閣成立
11月1日北支那方面軍、華北で「第三次治安強化運動」展開(12月25日まで)
11月5日御前会議において「帝国国策遂行要領」決定、対米英蘭戦争開戦を12月初頭と定める
11月7日野村大使、ハル国務長官に甲案提示、米国は暗号解読マジックで事前に知っていた。
11月15日来栖大使、米国着
11月20日乙案提示
11月26日アメリカからの対日回答「ハル・ノート」により日米交渉事実上終止符
12月8日海軍機動部隊、航空部隊、陸軍部隊、マレー半島上陸、真珠湾攻撃、フィリピン攻撃を敢行、 アジア太平洋戦争に突入
日本政府、アメリカ・イギリス・カナダ・オーストラリアに宣戦布告
アメリカ・イギリス政府、対日宣戦布告
12月9日中国国民政府、日本およびドイツ・イタリアに対して宣戦布告
12月10日日本海軍航空隊、マレー沖海戦でイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、リパルスを撃沈、英極東艦隊に勝利
日本軍グアム島占領
12月11日ドイツ・イタリア、アメリカに宣戦布告
12月12日東条内閣決定「(このたびの戦争は)大東亜新秩序建設を目的とする戦争であり」「支那事変を含めて大東亜戦争と呼称する」
12月22日「満州国」政府、「戦時緊急経済方策要綱」発表
対日石油禁輸
関東軍特殊演習
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