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15年戦争
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1942年から1945年
日中戦争全史より
「時代別日本の歴史」より
1941年
12月22日、ワシントンで、ルーズベルト大統領とチャーチル首相ならびに陸海空三軍参謀長が戦争指導者会議を開催(アルカディア会議)、同盟国が連合しておこなう作戦の戦略計画を全面的に協議した。会議では米英両国がすでに合意している「ヨーロッパ第一」の原則を確認した。まず力を集中してドイツに打撃を与え、太平洋地域の日本にたいしては暫時守勢をとることが決定された。アジア太平洋戦争の緒戦における日本の電撃的な勝利は、米英のこの戦略の反映でもあった。「ヨーロッパ第一」の戦略はアメリカが従来からとってきた対日戦略であったが、中国からすれば、一定の期間、日本に対する抵抗のため、困難な戦闘を負担しつづけることを意味した。
12月23日、イギリス駐インド軍総司令ウェーベルとアメリカ陸軍航空隊隊長ブレットは重慶へ飛び、中英米連合軍事会議を開催、援蒋ルートを守るため、「ビルマルート共同防衛協定」を結び、日本軍がビルマルート遮断のためにビルマに侵攻した場合、中国は遠征軍を送ることなどを決定した。
中英米連合軍は援蒋ルートを守る協定を結んだことによって、日本軍がこれまで繰りかえし試みた援蒋ルート遮断の作戦は、事実上頓挫したに等しい。
国民政府が奥地の重慶に首都を移転しながらも抗日戦争を継続できたのは、援蒋ルートによる欧米からの石油、兵器類の援助があったためである。近代兵器類の生産は重慶政府側においては困難であった。欧米列強からの医薬品の援助も大きな役割をはたした
12月31日重慶で、蒋介石と英インド軍総司令ウェーベルの間で英中軍事同盟が調印された。
ルーズベルト大統領は蒋介石に電話をして、すでにイギリス・オーストラリア・オランダ・ニュージーランドの同意をえて、アジア太平洋戦争における「中国戦区」を設定して、蒋介石を総司令官に推薦し、中国・タイ・ベトナム各戦区の戦争を指揮し、米・英・蘭・豪連合軍参謀部司令部(ウェーベル英将軍指揮、オランダ領東インドに設置)の指揮下に入ることを提案した。この段階で、日本軍はまだビルマ(現在のミャンマー)に侵攻していなかった。
蒋介石は中国戦区の総司令官を引き受けたのち、ルーズベルトにたいして信頼できる高級将校を派遣し、中国戦区連合軍司令部の参謀長を担当させるように要請した。これにたいし、アメリカ軍部は、中国に10年間滞在し、中国語を話し、中国文を理解できる米軍随一の中国通として知られるスティルウェルを派遣することを決定した。スティルウェルは、中国・ビルマ・インド戦区米軍司令官.連合軍中国戦区参謀長・アメリカ軍駐華軍事代表として中国に正式に派遣されることになった(1942年3月5日重慶に着任)。ルーズベルトのスティルウェル派遣は、アメリカが中国戦場を重視して、空輸による軍事援助を強化し、中国軍を訓練強化して対日抗戦を継続させ、太平洋における日本軍の行動を牽制させようとする意図があった。
一方で蒋は12月30日、アメリカに5億ドル、イギリスに1億ポンドの借款を申し込んだ。ルーズヴェルト大統領は1942年2月2日、議会に対中5億ドル借款案を提出し、承認を得た。イギリスのイーデン外相も2月2日、顧維鈎大使に5000万ポンド借款の決定を通告、中国は連合国の一員としての認識を内外ともに深めたのである。
援蔣ルート
には以下があった。日本の参謀本部では1939年頃の各ルートの月間輸送量を次のように推定していた。
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香港ほか中国沿岸からのルート(香港ルート): 6,000トン 日本の香港占領で中止
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フランス領インドシナのハノイからのルート(仏印ルート):15,000トン 日本の仏印占領で中止
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ビルマのラングーンからのルート(ビルマルート): 10,000トン
援蒋ビルマルートは、新旧2つの陸路と1つの空路があり、当時イギリスが植民地支配していたビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)に陸揚げした物資をラシオ(シャン州北部の町)までイギリスが所有、運営していた鉄道で運び、そこからトラックで雲南省昆明まで運ぶ輸送路(ビルマ公路:Burma Road)が最初の陸路で、日本軍が全ビルマからイギリス軍を放逐し平定した1942年に遮断された後、イギリスとアメリカはインド東部からヒマラヤ山脈を越えての空路(ハンプ:The Hump)に切り替え支援を続けた。いわゆるハンプ越えと呼ばれるものを実施した。
しかし、空輸には限りがある上に、空輸中の事故も多発したため、アメリカが中心となって新しいビルマルートの建設を急ぎ、イギリス領インド帝国のアッサム州レドから昆明まで至る新自動車道路(レド公路:Ledo Road)が北ビルマの日本軍の撤退後の1945年1月に開通する。
日中戦争全史より
アルカディア会議
援蔣ルート
1942年
1月1日米・英・ソ・中の四国を筆頭に連合国二六力国がワシントンで「連合国共同宣言」に調印。各署名国政府は、ルーズベルトとチャーチルの米英首脳が発表した「大西洋憲章」の原則に賛同し、世界を征服しようとしている日独伊枢軸国とその従属国(ハンガリー・ルーマニア・スロバキア・ブルガリアなど)にたいして完全に勝利するために、各国政府間の軍事・経済・資源の運用協力を緊密にし、敵国と単独で停戦協定あるいは講和を締結しないことを確認した。
「大西洋憲章」は、1941年8月12日にルーズベルト大統領とチャーチル首相が大西洋上で会談し、連合国の戦争目的として発表した共同宣言で、領土不拡大・民族自決・貿易の機会均等・労働生活環境改善・軍備縮小・海洋の自由・国際機構の再建など八条からなる。
1月22日日本軍、ビルマに侵攻
2月15日日本軍、シンガポール占領
3月8日日本軍、ラングーン占領
3月30日北支那方面軍、華北で「第四次治安強化運動」展開(6月中旬まで)
4月18日米軍機部隊ドゥーリトル隊、東京・川崎・横浜・名古屋・神戸など日本の大都市を初空襲
4月30日大本営、支那派遣軍に浙贛作戦を命令
ドゥーリトル空襲に衝撃を受けた大本営陸軍部は、B25が着陸を予定していた浙江省の飛行場を破壊するための浙贛せっかん(贛は江西省の別名)作戦を実施した。たまたま江西省の南昌(日本軍が1939年占領)付近に不時着したドゥーリトル隊の一機の搭乗員(五人)を捕虜にして飛行機で東京へ護送、尋問・調査した結果、太平洋上の空母から発進して、日本の主要都市を爆撃後、漸江省などの中国軍の飛行場に着陸を計画したことが判明した。大本営は、以後このような米空軍の日本本土空襲の企図を封殺するために、主として浙江省方面の中国軍主要飛行場の破壊を目指した浙贛作戦(せ号作戦と称した)を支那派遣軍に命じた。日中戦争が二つの戦場において国民政府軍と共産党軍の覆滅をはかる戦争であったのが、中国大陸の航空基地から米軍機が日本本土を空襲するのを防禦するための戦争へと180度転換したことを意味している。
大本営の浙贛作戦に参加を命じられた第一一軍司令官阿南惟幾中将は、率直な参謀本部批判を次のように従軍日誌に書いている。
「総軍が米の小空襲にて、浙贛作戦をなし、今秋対重慶作戦のため大規模の攻勢をなし得ざるは遺憾なり」(四月二七日)。「米空襲に驚きて、飛行場を地上より追い回すがごとき〈せ〉号作戦の拙劣なるを笑わざるを得ず。四、五箇所の飛行場は奪い得べし。しかれども東沿岸全部を占領せずば、何処にても新設可能なるに非ずや。政略特に対内政策のため戦略を左右するは最も戒むべき所なり。参謀総長、大臣の上御一人(天皇)に対する恐催は勿論何人と雖も同様なるも、この戦時下東京空襲は予期せしところにあらずや。総軍も何故全般任務を考え、重慶圧迫に邁進せざるや」(五月一日)。「日中戦争全史」
同作戦は5月13日開始、浙江省お中国軍主要飛行場を徹底的に破壊。9月末終了。1942における中国での最大規模の作戦。兵站補給開かれず、現地調達=略奪となった。戦死戦病死1284人、戦傷者2767人。戦病者(栄養失調かそれからくる病気が主)11,812人。日本軍が飛行場を破壊しても、中国側は人海戦術ですぐに修復、もしくは米国のブルドーザーなど機械化で新飛行場を造成した。
5月上旬日本軍、雲南省に侵攻
太平洋戦争における第一の目標はオランダ領インドネシア(蘭印)の石油を確保することであり、仏印(ベトナム)から始まった南方作戦は米軍の欧州戦線優先もあり予想以上に早く進んだ。そのため南方作戦が一段落した後に計画することになっていたビルマ攻略が早まられ、1月22日大5軍はタイ・ビルマ国境からビルマに侵攻した。
日本軍のビルマ侵攻にたいして、中国とイギリスの「ビルマルート共同防衛協定」に基づき、国民政府は第五軍と第六六軍とからなる中国遠征軍をビルマに派遣した。中国軍の総兵力は約10万人、イギリス軍インド軍の総兵力は約四万五千人と推定。
ビルマ進駐部隊の指揮を統一するため中国遠征軍第一路司令長官部が設立され、司令長官に衛立煙(着任せず、羅卓英が代わる)、副司令官に杜章明が就任した。羅卓英・杜皐明とも第二次上海事変と南京戦において司令官・軍長として日本軍との戦闘を指揮したのを皮切りに、日本軍と戦ってきた歴戦の軍人であった。三月に入ると、連合国軍の中国戦区参謀長スティルウェルがビルマに赴き、駐ビルマのイギリス軍と連携しながら中国遠征軍の作戦を指揮した。
当時の駐ビルマのイギリス軍は、インドやマカオのイギリス植民地軍も合わせておよそ六万人の兵力で、イギリス駐ビルマ軍総司令ハットン(後にアレキサンダーに代わる)が指揮した。中国軍とイギリス軍は、ラングーンからマンダレーヘとビルマを縦断する鉄道を境に、東側は中国軍、西側はイギリス軍が作戦を担当した。
日本軍はシンガポールの占領(二月一五日)にともない、南方軍の第二五軍および第三飛行集団の兵力の大部分をビルマに転用して攻勢をかけ、三月八日にラングーンを占領、四月二九日にラシオを占領して中国軍の退路を遮断して追撃戦に入り、五月初めには国境を越えて中国の雲南省に侵入した。
日本軍は雲南省西部の都市を空爆するとともに、陸上からも国境の街、芒市・龍陵などを占領し、ビルマルートの遮断と破壊をおこなった。
これにたいして中国第11集団総司令宋希濾は雲南省西部と昆明から部隊を派遣して、怒江前線に進出して、恵通橋一帯で日本軍と激戦を交わした。中国軍の工兵隊は恵通橋を破壊して日本軍の怒江東岸への進撃をくいとめた。これにより、東進して昆明まで進撃しようとした日本軍は侵攻できなくなった。
以後、日本軍は怒江西岸を占領下におき、東岸の中国軍と怒江をはさんで対峙することになった。日本軍はこの怒江西岸地区にビルマルート遮断のため陣地を構築し、1300人の守備隊を配置した(拉孟守備隊は1944/9/7反攻に会って玉砕する)。
日本軍は四二年五月一日、ビルマ領内のマンダレーを占領、スティルウェルと羅卓英は中国遠征軍のインド国内への撤退を決定した。こうして五月一八日ビルマ攻略戦は終結した。ビルマ攻略戦における日本軍の死者は二四三一人、連合軍の遺棄死体二万七四五四人、捕虜四九一八人であった。
この時、中国遠征軍第一路司令長官部(羅卓英司令長官)の部隊と新編第三八師はマンダレーから北上し、ホマリンを経て、チンドウィン河を渡り、インドのインパールヘと撤退していったが、二年後には同じ地域がインパール作戦の戦場となった。
“ピーナッツ”(蒋介石のこと)は偏屈で恩知らずの小さなガラガラヘビだ…。(中国政府は)自分たちだけのことしか考えないならず者の集団だ。指導者たちの興味は、ただ金、権力、そして地位だけだ。手に入るものには何でも頭を下げ、自分は戦わないように心がける。インテリと金持ちは子どもを米国に送り、農民の子どもが戦争にかりだされる。しかも注意も訓練も指示も与えられずに死んでいる。われわれは、この腐敗した政府を支持し、その偉大なる愛国者兼戦士“ピーナッツ”に栄光を与えるために、戦おうとしているのだ—おお神よ!— スティルウェル日誌
ジョーゼフ・ウォーレン・スティルウェル(Joseph Warren Stilwell, 1883年3月19日 - 1946年10月12日)は、アメリカ陸軍の軍人、1926年8月、天津歩兵第十五連隊大隊長、1935年1月、在中華民国大使館附陸軍武官、1942年2月、中国・ビルマ・インド戦域米陸軍司令官、中国雲南、北ビルマ戦線でルイス・マウントバッテンの下、対日作戦の指揮を執り援蔣ルートの確保に当たった。スティルウェルの指揮下にある再建した20万の米国式中国軍は拉孟・騰越の戦いやミイトキーナの戦いで日本軍を壊滅。蔣介石にひどく嫌われて最後は解任される。
6月5日~7日ミッドウェー海戦、日本連合艦隊の全面的敗退
9月北支那方面軍、「北支那資源要覧」作成
10月8日北支那方面軍、華北で「第五次治安強化運動」展開(12月10日まで)
北支那方面軍は華北をアジア太平洋戦争のための総兵姑基地化するためには、どうしても治安地区を拡大する必要があった。北支那方面軍の年度計画の大綱にあった「方面軍粛正建設三力年計画」とは、1941年月に作成された次のような到達目標計画である。
治安地区 准治安地区 未治安地区
1941年7月 10% 60% 30%
1941年 20% 50% 30%
1942年 40% 40% 20%
共産党側は、それぞれ、淪陥りんかん区(敵地区)、「蚕食地区」(蚕が桑を食べるように日本軍に侵食された地区)、解放区(抗日根拠地)と呼んだ。
治安地区
日本軍による統治が安定している地域。軍事的には対日協力の政権である華北政務委員会の保安隊・警備隊・治安軍などの警備力による治安維持が可能な地域で、日本軍は分隊以下でも自由に行動できた。
准治安地区
軍事的には一応治安は安定しているが、日本軍による中隊単位(210~200人)の兵力の常駐が必要で、日本軍の常駐がなければ、親日偲偲政権の施策をおこなうことはできない。
未治安地区
共産党・八路軍の抗日根拠地、中国側は解放区といった。
毛沢東も共産党軍の根拠地にとって、1941年と42年は極めて困難な状況に立たされたことを、「学習と時局」(1944年4月12日)のなかでこう記している。
(抗日の時期におけるわが党の発展の)第二段階は1941年と1942年である。日本帝国主義者は、反英反米戦争を準備し、遂行するために、かれらが武漢陥落ののちにすでにあらためた方針、つまり国民党攻撃を主としたものから共産党攻撃を主としたものにあらためたその方針を、より強化し、その主力を共産党の指導するすべての根拠地の周囲に集中し、連続的な「掃蕩」戦争、残忍な「三光」政策をおこない、わが党に打撃をくわえることに重きをおいた。そのため、わが党は1941年と1942年の2カ年のあいだ、きわめて困難な地位にたたされた。この段階では、わが党の根拠地はちぢまり、人口は5000万以下となり、八路軍も30余万まで縮小し、幹部の損失はきわめて大きく、財政経済は極度の困難におちいった。
また、胡華主編・中国人民大学中共党史系中共党史教研室編『中国革命史講義』において、その被害状況が数字で記されている。
1941年と1942年、敵は華北の抗日根拠地にたいして頻繁に"掃蕩"を実施した。毎回一千以上の兵力を動員し、合計174回におよび、一、二年前の三分の二増となり、総動員兵力は83万3900人に達し、一、二年前の二倍となった。……日本軍・偲偲軍.国民党反共軍による抗日根拠地にたいする侵攻と挟撃のために、八路軍は1940年の40万人から1941年には30万3000人に減少し、根拠地の面積も縮小し、根拠地の人口は一億から5000万に下降した。1941年と1942年において、抗日根拠地は極めて困難な立場に追い詰められ、軍民は厳しい局面に立たされた。
11月1日大東亜省設置(拓務省・興亜院・対満事務局・外務省東亜局・南洋局を吸収)
12月31日大本営、ガダルカナル島撤退を決定
ドゥーリトル空襲
1943年
1月9日汪精衛政権、対米英に宣戦布告、「日華共同宣言」
2月1日日本軍ガダルカナル島の撤退開始(2月7日撤退完了)、太平洋における戦局の主導権が米軍に移行
ガタルカナル作戦立案:田中新一作戦部長・服部卓四郎作戦課長・辻政信作戦班長
服部・辻はノモンハン事件以来
4月18日山本五十六連合艦隊司令長官、ソロモン諸島上空で米軍機に撃墜され戦死
9月8日イタリア、連合国に無条件降伏ドイツ軍ローマを占領
11月5日大東亜会議、東京で開催(日本・満州・タイ・フィリピン・ビルマ・中国江精衛政権の代表参加)
11月22日ルーズベルト・チャーチル・蒋介石、カイロ会談開催、12月-日カイロ宣言発表
12月25日中国江西省の飛行場を発進したアメリカ空軍機が台湾の新竹の飛行場と市街を爆撃
玉砕
玉砕 日本軍戦死 米軍戦死 米軍戦力
①43/5/29 アリューシャン列島アッツ島 2,371 600 11,000
②43/11/22 ギルバート諸島のマキン 588 818 6,470
③43/11/23 ギルバート諸島のタラワ 4,713 1,009 35,000
④44/2/3 マーシャル諸島のルオット島 2,540 195 20,104
⑤44/2/5 マーシャル諸島のクェゼリン環礁 4,130 177 21,342
⑥44/2/18 マーシャル諸島のエニウェトク環礁 3,335 262 10,367
⑦44/8/20 ニューギニア島西部ビアク島 10,000 471 30,000
⑧44/7/7 マリアナ諸島サイパン島 30,000 3,551 127,000
⑨44/8/3 マリアナ諸島テニアン島 8,500 328 54,000
⑩44/8/11 マリアナ諸島グアム島 18,500 2,124 55,000
⑪44/9/7 拉孟(ビルマ戦線)対中国軍 1,300 4,000 20,000
⑫44/9/13 騰越(ビルマ戦線)対中国軍 2,800 9,168 49,600
⑬44/9/19 パラオ諸島アンガウル島 1,191 260 21,000
⑭44/11/24 ペリリュー島 10,022 2,336 54,000
⑮45/3/26 硫黄島 19,000 6,821 111,308
戦陣訓
1944年(昭和19年)6月24日、大本営陸軍部戦争指導班は機密戦争日誌に以下の記載をした。
もはや希望ある戦争政策は遂行し得ない。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄を待つのみ— 半藤一利「聖断 ―昭和天皇と鈴木貫太郎―」PHP研究所 p269
戦陣訓
1941年1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した訓令(陸訓一号)を指す。軍人としてとるべき行動規範を示した文書で、このなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が有名であり、玉砕や自決など軍人・民間人が最後に引用することがしばしばあった。また、兵隊は捕虜になった時の教育がされなかったために、尋問されると容易に機密を漏洩することがあった。
戦陣訓には他に次のような記載もある。
「本訓 其の三 第一」「戦陣の戒」には次のように記されている 。
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六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
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七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
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八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
虜囚の辱
1943年11月25日、中国江西省逐川飛行場を発進したアメリカ陸軍航空機(以下アメリカ空軍機)B25、P38計一五機が台湾の新竹飛行場ならびに市街を爆撃した。米軍機の台湾空襲は、日本本土空襲もやがては実行の段階にあることを示唆した。予告された新型超重爆機B29が出現すれば、これまで日本軍が侵攻していない中国南西部からでも日本本土を空襲できると予想された。そうなれば、中国大陸を基地とする米空軍機の本土爆撃によって、国内生産施設が破壊されることになり、戦争全体に危局をもたらすことになると、強く大本営を刺激した。これが口火となって、一九四四年、中国大陸を南北に縦断して、米空軍基地の覆滅をはかる一大作戦が展開されることになった。
一月二四日、杉山参謀総長は、一号作戦の実施について、天皇へ上奏し裁可を仰いだ。
総長は天皇にたいして、中国西南の要域にある敵飛行場群を覆滅して、本土および東シナ海の防護安全を期するのが第一の目的である。副目的として中国大陸を打通して今後もし海上において南方との交通が遮断されても、大陸経由で、南方物資を輸送し戦力強化することを期待している。これにより大戦争の今後が好転する目算があるとし、裁可された。すでに南方に多数の師団を抽出していたが、さらに抽出した。
一号作戦(大陸打通作戦)は1944年4月中旬から45年2月上旬まで大きく三期にわたって展開された。支那派遣軍総兵力の約八割にあたる約51万人(延べ20個師団)を投入、大陸を縦貫打通することまさに1500キロ(日本の本州をほぼ縦断するに等しい距離)、国民政府軍約100万を撃破しながら南下した、日中戦争における最大規模の作戦であった。
第一期は京漢作戦(作戦名コ号作戦)で、1944年4月18日~5月25日まで、北支那方面軍の第一二軍と第一軍の一部が協力して、京漢線南部の中国軍を撃破しながら武漢地区にいたる陸路連絡線を打開した。京漢線に沿って河南省が戦場となった。
第二期は湘桂作戦(作戦名卜号作戦)で、大陸打通作戦の主要目的が中国大陸の西南部を走る粤線(漢ロー広州)と湘桂線(衡陽ー桂林・柳州)の沿線を制圧し、さらに南寧から仏印の鎮南関にいたる陸路連絡線を大目的とした。湘は湖南省の別名で桂は広西壮族自治区の別名である。
これらの中国西南部は、それまで日本軍は侵攻できなかった地域である。日本軍の侵攻がなかったので、湘桂線や粤漢線の沿線に中国空軍の飛行場がいくつか建設され、それが米空軍の基地として使用された。
湘桂作戦は、粤漢線にそって湖南省が戦場であった第一期(前段)と湘桂線と南部粤漢線にそって広西壮族自治区(以下広西省と称する)が戦場となった第二期(後段)とに分けられる。
第一期湘桂作戦は、1944年5月27日から9月中旬まで、第11軍が中心となって、卑漢線を挟んで東西を平行して岳陽・長沙・衡陽と南下、湖南省を戦場にして展開された。第11軍はさらに南下をつづけ、9月22日に広西省との省界の零陵を占領して終了した。第二期湘桂作戦は、四四年九月中旬から四五年二月中旬まで、広西省と貴州省の一部を戦場にして展開された。衡陽から湘桂線沿線を南下して2月10日に桂林・柳州を攻略、一部はさらに貴州の独山を占領した。広東から南部歯写漢線にそって西進した第壬二軍は第一一軍と同日に桂林・柳州を攻略したのち、一二月二四日南寧を攻略、さらに北部仏印から鎮南関の国境を越えて北進してきた第二一師団と合流し、ここに中国大陸から仏印を通り、南方圏に通ずる陸上交通路が開通し、大陸打通の目的は一応達成されたのである。
しかし、大陸打通作戦の期間に、アジア太平洋戦争の戦局は大きく変わり、1944年6月16日には、「超空の要塞」といわれた米大型長距離爆撃機B29が四川省の成都基地から発進して九州北部(現在の北九州市)の八幡製鉄所などを爆撃。さらに南太平洋のマリアナ諸島の要塞サイパンが7月7日に陥落、日本軍守備隊三万人が玉砕をとげ、日本人住民約一万人も犠牲になった。そして日本の国内においても、マリアナ沖海戦の敗北(1944年6月)やサイパン島陥落を契機に東条英機独裁体制への不満が表面化し、重臣・皇族らの内閣打倒工作により、7月18日東条内閣は総辞職に追いこまれた。代わって朝鮮総督であった小磯国昭大将が内閣を組織した。
マリアナ諸島を攻略したアメリカ軍は、サイパン・テニアン・グアムにB29戦略爆撃機の基地を建設、11月24日には、サイパン北のマリアナ基地から飛び立ったB29七〇機が東京を初空襲、以後、日本本土各地への空襲を本格化させた。
こうした戦局の変化によって、米空軍機の本土空襲を阻止するために、中国南西部の米中連合軍の飛行場を歩兵部隊が襲撃し、破壊してきた大陸打通作戦の主目的の意味がなくなったのである.
第二期湘桂作戦を開始する段階で、陸軍中央においても、反対論ないし延期論が高まったが、陸軍中央では参謀本部の第一部を除けば、補給困難のためインパール作戦と同様な犠牲を出す恐れがあるので反対ではあるが、大本営としていったん正式命令を出した以上、大陸打通作戦中止の命令を出すのは体面上不都合なので、支那派遣軍の命令によって中止してもらいたい、としたが、大本営はフィリピン方面に来攻する米軍を撃破することを目的に「捷一号作戦」計画をたて、1944年10月に発動させたが、真田作戦部長と服部作戦課長らは、中国の西南・東南の航空基地を米軍機の使用にまかせては、フィリピンにおける航空作戦の制空権が奪われてしまうことを恐れて、米軍航空基地の破壊、撲滅を企図した第二期湘桂作戦を遂行させた。しかし、日本軍の歩兵部隊が徒歩でいくつかの米空軍飛行場を襲撃して破壊しても、米中連合軍はすぐ別の地域に飛行場を建設した。このため、アメリカ空軍機は、フィリピン戦に策応して中国大陸から発進し、台湾や沖縄をさかんに爆撃したのであった。こうして、第二期湘桂作戦の戦略的な意味はほとんどなくなったにもかかわらず、参謀本部作戦部の主導によって、以下のような米軍・中国軍の飛行場を覆滅するための作戦を継続。多くの犠牲を日本軍、中国国民に出した。
第六方面軍の第二〇軍が四月一五日から開始した正江作戦(1945年4月中旬~5月下旬)湘桂線西側の正江飛行場の覆滅を図った作戦。
中国戦線での最後の作戦となった。中国軍の抵抗は頑強で、優勢な米空軍の協力の下に中国軍は続々と地上兵団を空輸により戦場に増援してきたので、支那派遣軍は五月九日に攻撃中止を命令、負傷者を護送しつつ撤退した
1号作戦 大陸打通作戦
1944年
1月24日大本営、一号作戦(大陸打通作戦)を命令44年4月中旬から45年2月上旬まで、三期にわたり支那派遣軍約五一万人を動員
2月21日東条英機首相(陸相兼任)、参謀総長を兼任、軍政両面で独裁体制確立。
嶋田繁太郎海相も軍令部総長兼任
3月8日インパール作戦開始(7月4日大本営作戦中止命令)6月15日アメリカ軍、マリアナ諸島のサイパン島上陸(7月7日日本軍守備隊玉砕)
6月16日四川省成都を発進したB29長距離重爆撃が八幡製鉄所などを爆撃
7月18日東条英機内閣総辞職
7月22日小磯国昭(陸軍大将)内閣成立
7月29日満州の鞍山製鉄所、米軍機B29の爆撃を受け、大きな被害、8月4日から9月26日まで5回空襲。
8月5日大本営政府連絡会議、最高戦争指導会議と改称
9月7日雲南省西部の拉孟守備隊玉砕 (太平洋諸島以外の玉砕1/2)
9月13日雲南省西部の謄越守備隊玉砕 (太平洋諸島以外の玉砕2/2)
11月10日汪精衛、名古屋帝国大学病院にて死去
11月24日サイパン北のマリアナ基地から発進したB29約七〇機、東京を初空襲
1945年
1月上旬~2月上旬日本軍、南部粤漢打通作戦
2月11日ルーズベルト・チャーチル・スターリンの米英ソ首脳により「ヤルタ密約協定」署名
3月10日334機のB29による東京大空襲
4月1日アメリカ軍沖縄本島上陸、沖縄戦始まる
4月5日小磯国昭内閣総辞職
4月7日鈴木貫太郎(海軍大将)内閣成立
4月毘日アメリカ大統領ルーズベルト急逝、トルーマン大統領に就任
4月中旬~5月下旬日本軍、芷江作戦
4月18日大本営陸軍部「対米情勢の推移を考慮し中北支の要域に兵力の集結」を命令
5月7日ドイツ、連合国に無条件降伏
5月30日大本営陸軍部、関東軍総司令官に対し「北朝鮮に於ける対蘇戦準備を実施すべし」と命令
6月大本営陸軍部「支那派遣軍対米作戦計画大綱」策定
6月8日御前会議、「今後採るべき戦争指導の基本要綱」決定、本土決戦方針を採択
6月23日沖縄戦、日本軍の全滅により終結
7月5日関東軍、最終の「対露作戦計画」決定、関東軍総司令部を朝鮮国境近くの通化に移動、「満州国」首脳や政府機関を臨江地帯に移転
7月17日トルーマン・チャーチル・スターリンによるポツダム会談始まる(8月2日まで)
7月26日ポツダム宣言発表(日本に無条件降伏を要求)
7月28日鈴木貫太郎首相、ポツダム宣言を黙殺し、戦争継続を表明
8月5日米中軍、北ビルマのミイトキーナ攻略
8月6日広島に原子爆弾投下される
8月8日ソ連、対日宣戦布告、満州への進撃開始
8月9日長崎に原子爆弾投下される
毛沢東、「日本侵略者に対する最後の一戦」の声明発表
中国共産党中央・八路軍延安総司令部の指令のもと、日本軍に対する大反攻開始
8月14日御前会議、ポツダム宣言受諾を決定日本、連合国に無条件降伏
8月15日昭和天皇の「玉音放送」(戦争終結の詔書)
8月28日連合国総司令部(GHQ)、横浜に設置、9月15日東京日比谷の第一生命ビルに移転
8月30日連合国最高司令官マッカーサi、厚木飛行場に到着9月2日東京湾に停泊するミズーリー号艦上で日本の連合国に対する降伏文書調印
9月9日南京の中央軍官学校講堂で支那派遣軍の国民政府軍に対する降伏文書調印
10月25日台北にて安東利吉台湾総督、陳儀台湾行政長官に対して降伏文書署名
日本が最終的な宣言受諾を連合国側に通告したのが八月十四日である。この日モスクワの宋子文から中ソ友好同盟条約を今晩調印するとの電報が蒋介石に届いた。
翌十五日正午、天皇はラジオ放送で戦争の敗北、終焉を国民に告げた。その一時間前、蒋介石はラジオで「抗戦勝利にあたり全国軍民、全世界の人々に告げる」の演説を放送した。そのなかでとくに「不念旧悪」(旧悪を念ぜず)、「与人為善」(人と善をなす)はわが民族のもっとも尊ぶべき伝統であると前提したうえで次のように述べた。
「我々は一貫して敵は日本の好戦軍閥であって人民ではないとしてきたが、今や敵軍閥を友邦とともに打倒した。我々は日本がすべての降伏条件を忠実に履行するよう要求するが、しかし決して報復を加えんとするものではない、ましてや無享の人民に汚辱を加えるようなことがあってはならない。……もし暴行をもって敵のこれまでの暴行に応え、彼等のこれまでの優越感に侮厚をもって対するならば恨みを報い合うもので終ることがない。これは決して我々仁義の師の目的ではない。このことを我が軍民同胞の一人一人がとくに注意しなけれぽならない」
十二時に行なわれた天皇の玉音放送は途切れ途切れではあるが、中国でも聞くことができた。
南京で天皇の放送を聞いた岡村総司令官は当初徹底戦闘継続を主張していたが、ただちに全派遣軍将兵に対し「ことすでにここにいたる。本職は承詔必謹もつて震襟を安んじ奉らんことを期す」と承詔必謹を訓示した。
天皇のラジオ放送の終了を待っていたかのように、中国放送は蒋介石の岡村総司令官への命令すなわち「岡村日本軍最高指揮官はいっさいの軍事行動中止を命令し代理を中国何応欽のもとに派遣し命令を受領すべし。現装備を維持し、所在の秩序維持に任ずべし」を伝達した。岡村は極力中国を支援するよう停戦業務にあたり、また、中国在留の日本人帰還に努め、何は敬意を払って応対した。南京軍事法廷で中国は岡村を無罪とした。(国民党、共産党によってそれぞれ各地で戦争裁判が開かれた)日本帰国後、台湾に移った蒋介石の要請により、1950年19名の元陸軍参謀を軍事顧問団として台湾にひそかに派遣した。この軍団は「白団バイダン」と呼ばれ、以後15年にわたり、延べ83名となった。
何応欽
東京振武学校第11期、日本陸軍士官学校28期卒業。滞日1909年から11年で、岡村 寧次は1907年から10年には陸軍中尉・陸軍士官学校生徒隊付。岡村は士官学校在学中には中国研究をし、この時の生徒隊では中国からの留学生の教育を担当した。何応欽は貴州陸軍出身で、後に孫文(孫中山)配下となり、国民革命軍創設に貢献した。孫死後はかねてから親しかった蔣介石を支え、その片腕と評される。軍政部長を長期にわたり務め、日中戦争末期に連合国中国戦区陸軍総司令に就任、日本の降伏受諾任務にも携わる。しかし戦後は蔣介石との関係が悪化して一時冷遇され、国共内戦後半に復権して国防部長や行政院長も務めたが中国人民解放軍に敗北し、台湾に逃れた。
蒋介石は一方で同十五日、軍事委員長名義で論陥区(日本軍占領地)に向け、地下軍と各地偽軍は現駐地点で地方の治安維持の責任をもち、人民を保護するよう命じ、とくに偽軍には機を見て罪を償うよう努力することを指示した。
汪政府主席陳公博は36万の偽軍を南京、上海、杭州の三角地帯に集め、国民政府軍による武装解除を待つと蒋に報告した。
16日午後5時、陳主席は政府解散のための会議を南京で招集した。汪国民政府は1940年3月30日成立し1945年8月16日解散を宣言、5年4ヵ月17日をもって終焉した。
支那派遣軍は八月十八日、新たな事態への処理方針を決定し、二十日各部隊に通達した。その基本的な態度は、中国の戦後の復興、建設に協力し、国民政府の民族統一を容易ならしめようというのであったが、同時にもし共産側が抗日侮日の挙に出るならば断固膚懲するという方針も明示された。
国民政府の南京進駐部隊は、九月五日からぞくぞくと空輸されてきた。何応欽総司令も八日・数十機の戦闘機に、護衛きれて飛来し、首都南京にほとんど八年ぶりで入城したのである。支那派遣軍総司令部の降伏調印式は、九月九日十時、南京中央軍官学校講堂で行なわれた。武装をはずした総司令官岡村寧次大将は、中国陸軍総司令何応欽上将の前で降伏文書に調印、支那派遣軍は正式に降伏した。
1937年7月7日より8年2ヵ月にわたった中国大陸における日本の戦い」はここにようやく終止符を打つにいたったのである。
日中戦争犠牲者
終戦時
満州開拓移民 10万6000戸 31万8000人 日本に引き揚げるまでに約7万8500人が戦死・自決・病死・餓死・凍死などで死亡
日本軍の犠牲者数 1964年3月1日厚生省援護局
1937年7月7日から1945年8月14日まで総計404,600人(陸軍385,200人、海軍19,400人)
1945年8月15日以降(陸軍50,400人, 海軍700人)
戦病死者数92万人余。
経済安定本部推計による太平洋戦争における人命被害では陸軍146.6万人海軍46.6万人合計193.2万人とある。これによれば日中戦争の陸軍被害は
太平洋戦争全体の30%、海軍は4%となる。
(同じ資料で日本人の太平洋戦争における民間死亡者は全部で79万人)
中国側犠牲者 「日中戦争」臼井勝美より
このほかに種々、説があるが、日本側と比較出来ないほど多い。
軍関係 民間犠牲者(広い国土が戦場になった)
日本や満州へ労働者が移送された。日本全土への強制連行は1943年から1945年5月まで約4万人。満州地域に連行された華北労働者677万人(1936-45)の内200余万人が過酷な環境で死亡した(日本在華北経済統制略奪史)
戦後賠償
サンフランシスコ講和会議が開かれた当時、中華民国、中華人民共和国いずれを中国とす るのか国際的に定まっていなかった中国(アメリカは中華人民共和国を承認せず中華民国を 中国としていたが、イギリスは中華人民共和国を承認していた)は同会議に招請されなかっ た。したがって上記放棄条項を中国は批准していない。 中華民国との間ではサンフランシスコ平和条約締結の直前に日華平和条約を結び、戦後保 障請求権に関してサンフランシスコ平和条約の枠組みに随い放棄すると決められた。 しかし後の中華人民共和国との日中共同声明の中では個人の請求権の扱いについては触れ ておらず、放棄されていないとみることができる。
参照条文 この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の 遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権な らびに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する(サンフランシスコ平和条約第 14 条(b))
中華民国は、日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、サン・フランシスコ条約第十四 条(a)1に基き日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する。(日華平和条約第1 条(b))
中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を 放棄することを宣言する(日中共同声明第 5 項)
中間賠償
中間賠償とは、軍需工場の機械など日本国内の資本設備を撤去して、かつて日本が支配した国に移転、譲渡することによる戦争賠償である。1945年11月に来日したアメリカ占領軍E. W. ポーレー率いる米賠償調査団によって行われた最初期の対日賠償政策である。工場設備による賠償は後の平和条約による最終的な賠償ではないという観点から「中間賠償」と呼ばれた。また、中間賠償にはまた日本の産業的武装解除も兼ねて行われたという側面もある。大蔵省によると、1950年5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する43,919台の工場機械などが梱包撤去された。受け取り国の内訳は中国54.1%、オランダ(東インド)11.5%、フィリピン19%、イギリス(ビルマ、マライ)15.4%である。
在外資産による賠償
在外資産による賠償とは、日本政府や企業、個人が海外に持っていた公私の在外資産を提供することによる賠償である。サンフランシスコ平和条約14条a項2に基づく:
各連合国は、次に掲げるもののすべての財産、権利及び利益でこの条約の最初の効力発生のときにその管轄の下にあるものを差し押さえ、留置し、清算し、その他何らかの方法で処分する権利を有する。(a)日本国及び日本国民、(b)日本国又は日本国民の代理者又は代行者、並びに(c)日本国又は日本国民が所有し、又は支配した団体。
| 中間賠償と同様に、ヴェルサイユ条約でドイツに課せられた膨大な賠償金がドイツを再び戦争へと向かわせたことへの反省から、できる限り在外資産を没収する形での賠償をさせようという方針がとられた(第二次世界大戦後のドイツにも同様の措置がとられている)。例えば中国(中華民国)は賠償金請求権を放棄しているが、在外資産による賠償は受けている:
日本国代表:私は、中華民国は本条約の議定書第一項(b)において述べられているように、役務賠償を自発的に放棄したので、サン・フランシスコ条約第14条(a)に基き同国に及ぼされるべき唯一の残りの利益は、同条約第十四条(a)2に規定された日本国の在外資産であると了解する。その通りであるか。
中華民国代表:然り、その通りである。(日華平和条約に関する合意された 議事録)。
なお、中国(中華民国及び中華人民共和国)はサンフランシスコ平和条約の締約国ではないが、同条約第21条の規定により、第14条a項2および第10条の利益を受けるとされた:
第十条 日本国は、千九百一年九月七日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての議定書、書簡及び文書の規定から生ずるすべての利益及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し、且つ、前記の議定書、附属書、書簡及び文書を日本国に関して廃棄することに同意する。
これにより中華人民共和国は旧大日本帝国政府と日本国民が中国大陸(東部内モンゴルおよび満州含む)に有していた財産、鉱業権、鉄道権益などを得たとされる。
賠償請求放棄
戦後賠償
終戦
日中戦争犠牲者
動員兵力
1944年度に入ってからの満州の関東軍からの兵力の抽出が加速度的に増加した。四四年度の夏までに、在満師団一七個(うち二個は戦車師団)のうち一〇個師団と第二七師団の計一一個師団が抽出され、さらに別に独立旅団.海上機動旅団の各一団、派遣隊一〇隊が造設のうえ送出された。転出先は、中部太平洋.フィリピン・ビルマ・マレー・南西諸島などの激戦地であった。
航空部隊の抽出も激しく、第三飛行師団(1942年4月、飛行集団を飛行師団に改編)と第五航空軍が中国戦場へ転出。このころ、中国大陸の各地に飛行基地をもつアメリカ.中国の連合空軍部隊による、日本軍の各部隊の施設や作戦地への爆撃がエスカレートしていた。第二飛行師団司令部と摩下の飛行団・第二二飛行団・第四飛行師団司令部と魔下の飛行団がフィリピン戦場へ転出したのをはじめ、南方・南西諸島などに転出、さらに関東軍から本土防衛にそなえた本土の東部軍の航空総軍・第一航空軍・第一〇飛行団へ多くの飛行兵団が抽出された。こうして在来または新編の多くの軍直轄・兵姑諸部隊が関東軍から消え去ることになった。
こうして関東軍は対ソ作戦の根幹をなす精鋭兵団をはじめ多数の軍直属部隊を抽出させられ、戦力は「空洞化」してしまった。このため、大本営陸軍部は、関東軍がこれまで堅持してきた対ソ攻勢作戦をおこなうことは不可能と判断し、対ソ持久作戦へと180度転換した。それは、「満州国」の大部分の領域の確保を断念して、満州南部と朝鮮北部の国境地帯の険しい山岳地帯の地形を利用して防衛陣地を構築し、ソ連軍の朝鮮への侵攻を阻止し、全面的な持久戦をはかるというものであった。それはすなわち、関東軍が「満州国」の約四分の三にあたる地域の防衛任務を放棄することを意味した。
「日中戦争全史」
世界人口
国民革命軍
動員兵力
日本
1930当時の世界の陸軍兵力を比べると、210万の中国が第一、160万のソ連が第二、この二国が飛び抜けていて、それに欧米と日本が続くが、25万の日本は第八位である。中国に対して武力を行使するとなれば、八倍以上の敵と戦うことになり、ソ連が加われば十九倍となる。「日中戦争はドイツが仕組んだ」
陸軍
戦後まもなく参謀本部課員が作成した「支那事変大東亜戦争間動員慨史」(『十五年戦争極秘資料集・第九集』収録)を基に研究者の大江志乃夫氏は、敗戦時の陸軍兵力の動員総数は、547万2000人としている。また、一九六三年に厚生省援護局が発行した『続続・引揚援護の記録』(311ページ)では、「総兵力は約569万」としている
海軍
防衛庁防衛研究所戦史室が著わした「戦史叢書・海軍軍戦備(二)」(一九七五年発行)によれば、1945年8月15日現在の海軍の軍人数は、169万3223人であり、1941年から1945年までの海軍軍人死亡数は、319,077人となっている。
第170回国会(臨時会)質問主意書より
『近代日本戦争史事典』(古賀牧人/編 光陽出版社 2006)によると
第二次大戦敗戦時の兵力は内地で陸軍240万、海軍130万、外地で陸軍300万、海軍40万となっている。
・『日本の戦争 図解とデータ』(桑田悦・前原透/編著 原書房 1982)第2部 p.21には「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数」の表があり、より細かい敗戦時の兵数と死没者数がわかる。
終戦時における日本軍(旧厚生省援護局調べ)
中国 陸軍106万人 海軍7万人
満州 陸軍 66万人 海軍2千人
その他 陸軍124万人 海軍31万人
合計 陸軍296万人 海軍38万人
中國
共産軍
八路軍 新四軍 合計
1937 80,000 12,000 92,000
1940 400,000 100,000 500,000
1944 320,800 153,676 474,476
「日中戦争」より
八路軍の兵力は1937年7月時点で3万人、1938年に15万6千人、1940年に40万人に増員された。1941-1944年間の戦闘により、約30万人にまで減少するが、1945年段階で計60万人程度の規模に達していた。ウィキペディア
新四軍(しんしぐん)は、中国工農紅軍が第二次国共合作により華南地区で再編された軍隊
兵力は約1万であったが、皖南事変後は、陳毅が代理軍長、劉少奇が政治委員として配置され、華南に展開していた一部八路軍部隊を組み込んで7部隊一旅団に再編され、9万あまりの兵力。ウィキペディア
1945年7月には八路軍と新四軍は正規軍91万人、民兵(ゲリラ兵)220万余 (日中戦争全史より)
国民革命軍
1928年4月には南昌蜂起の残兵を率いて湖南地方を転戦していた朱徳の率いる共産党軍が井崗山に合流、「中国工農紅軍」の成立を宣言した。総兵力1万の紅軍は軍長は朱徳、政治委員が毛沢東で、「第四軍」(北伐期の国民革命軍の中で勇名の高かった部隊名を踏襲した)とも言われた。共産党の各地の武装組織は次第に紅軍に統一され、1930年3月には15の根拠地に6万の紅軍を数えるまでになった。
中国共産党軍(紅軍)は各地で都市を攻撃するようになり、1930年7月末には長沙を占領し、世界を驚かせた。蔣介石は本格的な中国共産党の殲滅が必要と考え、全面的な攻勢を開始した。
1931年に満州事変が勃発、関東軍が満州を占領し、さらに満州国の分離独立、日本軍の華北進出という事態が続いたが、蔣介石は共産党討伐を最優先(安内攘外)して日本軍との戦いを回避し、共産党攻撃を続けた。共産党は、1931年11月7日、瑞金 に 中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立、支配地は分散していたが、一つの国家権力をつくっ対抗する態勢をとった。
蔣介石の国民政府軍による共産党根拠地に対する包囲攻撃はさらに強まり、32年7月~33年3月には60万の大軍を投入して紅軍を圧迫した。日本軍の熱河侵攻で一時中断された国民政府軍の攻撃は33年10月に再開され、瑞金を大軍で包囲し、経済封鎖を行った。長期にわたる攻撃によってついに紅軍は敗北、1934年10月、瑞金を放棄し、新たな根拠地を目指す大西遷(長征)を開始した。1935年10月に陝西省の呉起鎮に到着して長征を終え、さらに1937年からは陝西省延安を新たな根拠地として国民政府軍およびそれに従った満州の張学良の率いる東北軍と激しく戦った。1936年12月にコミンテルンが首謀した西安事件が発生し、張学良らに監禁された蒋介石は、共産党との即時停戦と抗日統一戦線の結成を承諾した
1937年8月22日に中国工農紅軍は、国民党政府の国民革命軍に編入されて第八路軍と呼称された
1928年1月、毛沢東が井崗山根拠地で紅軍兵士に与えた軍の規則は、三大規律・六項注意として知られている。
三大規律(紀律)とは、
-
行動は必ず指揮に従うこと
-
土豪から取り上げた金は公のものにすること
-
農民からはサツマイモ一本(後に針一本、糸一筋となる)取らないこと。
六項注意とは、
-
話しは穏やかに
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売買は公平に
-
借りたものは返し壊したものは弁償する
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寝るとき使った戸板は必ず元に戻し、敷きわらは束ねておくこと
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やたらなところで大小便をしない
-
捕虜の財布に手をつけない
をいう。
これはさらに整理され、八項注意としてまとめられ、中国共産党軍の軍規となった。このような規律を持つ軍隊は、従来の軍閥の軍隊、あるいは国民革命軍と全く違って農民から徴発して苦しめるようなことはなかったので、その支持を受け、勢力を拡大することができた。
この日中戦争で協力してた戦った国民政府軍(国民革命軍)と中国共産党軍(紅軍)両軍であったが、日本軍に勝利した後、国共内戦で再び戦うこととなった。その段階で紅軍は人民解放軍となった。
何応欽 岡村寧次
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